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第13話 古都の誘惑

 修行の合間、カイたちは商業都市の喧騒の中にいた。目的は、旅の消耗品を補充すること。それだけのはずだった。


 懐には、ベルクトのガラクタが化けた金貨と、カーラからの『投資』がある。数日前まで、今日の食事の心配をしていたのが嘘のようだ。金貨の重みが、カイの心まで軽くしていた。


 少なくとも、この時はまだ。


 宿から日用品の出店が立ち並ぶ中心地の市場に向かう途中、ベルクトの視線は日陰になった路地の一角で、北向きに店を構える古書店に注がれた。


「ベルクト、こっちの道じゃないよ。この先にもっと大きな市場が……」


 カイが言いかけた言葉は、ベルクトの背中に吸い込まれて消えた。老賢者は既に、まるで甘い蜜を見つけた蟻のように、一軒の古書店へと吸い寄せられていた。カイは深いため息を一つ吐き、プリルと共にその後を追うしかなかった。


 店内は、天井まで届きそうな書架にぎっしりと詰め込まれた古書で薄暗く、インクと羊皮紙の乾いた匂いが鼻をついた。老店主がカウンターの奥から、値踏みするような鋭い視線をベルクトに向ける。


「ほう、これは稀有な…『第二期アウレリア王朝における宮廷魔術の変遷』。しかも初版か」


  ベルクトは、書架から引き抜いた分厚い革装の本を、まるで恋人に触れるかのように優しく撫でながら呟く。その横顔は、カイが普段見慣れた飄々としたものではなく、純粋な探求者のそれだった。


  「お客さん、お目が高い。それはウチでも一番の年代物でしてな。お値段は張りますが、それだけの価値は……」


 老店主の口上が始まる。カイは、その言葉の端々に滲む商人のしたたかさを感じ取り、ベルクトの袖をそっと引いた。


「ベルクト、それ、本当に必要なのか?見たところ、ただの古い本みたいだけど……」


「カイ、君にはまだこの深淵なる知の価値が理解できんかもしれんな」


 ベルクトは、カイの懸念など意にも介さず、こともなげに金貨を数枚、カウンターに置いた。チャリン、という乾いた音が、カイの胸に小さく突き刺さる。


 そんな調子が、その後も延々と続いた。アンティークショップの埃っぽいショーケースの奥で見つけた、錆びついた金属片を「これは古代の魔道具の残骸に違いない。この微かな律動の残滓、実に興味深い!」と言って金貨三枚。


 道端の露天商が胡散臭い口上で売りつけてきた、何の変哲もない黒い石ころを「この石の内部構造には、特異なエネルギーの凝縮が見られる。あるいは、未知の触媒としての可能性があるやもしれん」と真顔で語り、金貨二枚。


 プリルだけが、この奇妙な買い物ツアーを楽しんでいるようだった。ベルクトが手に入れたガラクタの一つを、ぷるぷるとした体で器用に抱え上げ、「カイ、見て見て!この石、なんだかあったかいよー!」と無邪気にはしゃいでいる。


 金貨がカウンターに置かれる乾いた音が響くたび、カイの胃の腑がじりじりと焼けるような感覚に襲われる。ああ、そうか。なぜこの大魔術師が、あの田舎町で無一文だったのか。その答えが、今、目の前にあった。


 この老人は、世界の真理を探究するという大義名分のもとであれば、世界の終わりまで散財を続けるだろう。そして自分は、その隣で空っぽの財布を抱えて途方に暮れるのだ。そんな未来が、ありありと目に浮かぶようだった。


「ベルクト、お願いだからもうやめてくれよ!さっきから何枚の金貨を使ったんだ!俺が一年かかっても稼げないような額だぞ!」


「ふむ、有意義な金の使い方であったが、散財していることは確かだ。このくらいにしておこう」


 カイの悲痛な叫びにベルクトは全く反省などしていない様子で、平然と返した。



 ※※※※※※



 その日の夕暮れ時、市場でやっとの思いで日用品を買い終え、帰路に進んでいた時であった。カイの足は鉛のように重く、プリルでさえ、遊び疲れたのかカイの肩の上で小さな寝息を立てている。


 端的に言って、カイは油断していた。ふと気がつくと、隣にいたはずのベルクトがいなかった。慌てて来た道を戻ると、ベルクトはまるで時が止まったかのような一軒の骨董品店の前に立っていた。扉は固く閉ざされ、看板すら出ていない。一見すれば、打ち捨てられた廃屋だ。


「ベルクト、もう帰ろうよ。ここ、絶対何も売ってないって…」


  カイのかすれた声は、しかしベルクトには届いていなかった。彼は、まるで何かに導かれるように、その店の朽ちかけた扉をゆっくりと押し開けた。ギィィ、と不気味な蝶番の音が響き、カビと埃の混じった濃密な空気が流れ出してくる。


 店内は、窓もほとんどないのか、ランプの薄明かりが頼りだった。壁という壁、床という床に、正体不明の品々が無造作に、しかしある種の法則性をもって積み上げられている。


 動物の頭蓋骨、ひび割れた壺、錆びた武具の破片、そして、見たこともないような奇妙な機械の部品。


 店の奥のカウンターには、蠟燭のように痩せた老人が一人、微動だにせず座っていた。その瞳だけが、闇の中で不気味な光を宿しているように見えた。


「……何か、お探しかな」


 老人の声は、乾いた木の葉が擦れるように低く、乾いていた。 ベルクトは、カイの存在など忘れたかのように、店内の品々を鋭い眼光で検分し始めた。そして、ふと、店の隅の、特に埃を被った木箱の上に、ビロードの布が無造作にかけられているのに気づいた。


「…あれを、見せていただけないか」


  ベルクトの声には、珍しく緊張の色が滲んでいた。


 老店主は何も言わず、ゆっくりと立ち上がり、その布を静かに取り払った。


 手のひらほどの大きさの、黒曜石を思わせる鈍い光沢を放つ、不規則な五角形に近い板状の物体だった。未知の合金で作られているのか、金属特有の冷たさとずっしりとした重みが、見た目からでも伝わってくる。表面には、肉眼ではほとんど判別できないほど微細な線刻模様と、いくつかの小さな窪みが、まるで夜空の星々のように配置されていた。 カイの目には、それがただの汚れた鉄の板か、あるいは何かの鍋敷きにでも使うような代物にしか見えなかった。


 しかし、ベルクトの反応は違った。彼はその物体に近づき、長年探し求めた宝物に触れるかのように、震える指先でそっと表面をなぞった。鍛錬の成果か、カイにはベルクトの指先からわずかに魔力が漏れるのが感じられた。


 すると店主のもつ板が眩く光り、薄暗い店内の壁に、ほんの一瞬、複雑怪奇な幾何学模様を幻のように映し出したのだ。それはまるで、遠い宇宙の星図か、あるいは古代の呪文のようにも見えた。


「……ッ!!」


 ベルクトが息を呑む音が、静かな店内にやけに大きく響いた。彼はその物体を両手で慎重に持ち上げ、食い入るように見つめている。その瞳は、もはや狂気と呼んでも差し支えないほどの強烈な光で爛々と輝いていた。


「間違いない…!これこそ、古代ラスナの民が星々の運行を読み解き、大地の律動と魂の共鳴を繋いだとされる、伝説の『星図盤』…その失われた一片だ!この線刻のパターン、彼らが用いたとされる記述法の特徴を色濃く残している…!」


  ベルクトは、傍らに立ち尽くすカイの方を振り返り、熱に浮かされたように早口で語り始めた。その声は興奮で上ずり、目は少年のように輝いている。カイは、ベルクトのその常軌を逸した興奮ぶりに、もはや恐怖すら感じ始めていた。そして、その恐怖は、老店主が静かに告げた一言によって、絶望へと変わった。


「……金貨、二十枚」


 金貨二十枚。それは奇妙な金属の板に決して払ってはいけない法外な金額であった。カイの顔から血の気が引く。


「ベルクト、だ、ダメだ!そんなの払ったら、今後の旅はどうするんだ」


 懇願するカイに、しかしベルクトは冷徹なまでの決意を込めた眼差しを向けた。


「カイ、君にはまだ、この歴史的発見の重要性が理解できんだろう。だが、これは、我々人類の未来を左右するかもしれんのだ。金など、後でいくらでも稼げる」


 そう言い放つと、ベルクトは、まるでそれが道端の石ころでも払うかのように、躊躇なく残りの金貨のほとんどを、老店主の乾いた手のひらに乗せた。


 カイにはもう反応する気力すら残っていなかった。


(もう……知らない……)


 怒りを通り越して、ただ虚脱感だけが残った。


 ベルクトは恍惚とした表情で『ラスナの星図盤の欠片』を懐にしまい込み、満足げに店の外へ出た。


 カイの最近感じていた、師としてのベルクトへの畏敬の念が霧散していく。むしろ好奇心を満たすためであれば喜々として砂漠で水筒を売り捌くようなこの男を、自分が導かなければいけない。


 まるで手のかかる祖父だ。カイは空になった財布の感触を確かめながら、固くこぶしを握りしめた。


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