第12話 魔法の真髄
1ヶ月が経ち、街路樹の葉はすっかり地面を覆っていた。基礎的な体力向上と魔力回避の訓練を経て、訓練は次の段階へと進んだ。ベルクトはカイを連れて、遺跡の中でも特に開けた、かつては信仰の中心だったであろう石畳の広場へと場所を移した。
周囲は崩れた壁や、天を突くように折れた石柱が点在し、広場の一角には、かろうじてその原型を留める祭壇のような石台が鎮座している。昼過ぎの木漏れ日が、苔むした石畳の上に複雑な光と影の模様を描き、時折聞こえる小動物の立てる微かな物音が、深い静寂を一層際立たせていた。土の湿った匂いと、腐葉土の甘酸っぱい香りが混じり合った空気が、広場を支配している。
カイは遺跡の広場の中央に立った。
ベルクトはゆったりとした足取りで広場を歩き、カイに静かに語りかけた。
「さて、カイよ。魔法とは何か、君はどう考える?」
ベルクトが問いかける。その声は、遺跡の静けさに吸い込まれるように響いた。カイはしばらく考え込んだ後、自信なさげに答えた。
「えっと…炎を出したり、風を起こしたり…そういう、不思議な力…?」
「ふむ」
ベルクトは頷いた。
「多くの者は魔法を、派手な現象や万能の力だと誤解している。だが本質はもっと地味で、そして奥深い。それは、君自身の内なる『魔力』と、この世界を満たす無数の『律動』との対話であり、調和なのだ。呪文や儀式といったものは、あくまで律動に働きかけるための補助的な『方法』の一つに過ぎん」
老人は遺跡の石柱に軽く触れた。
「…最初の関門は、君自身の内に眠る『魔力』を感じ、それを意識的に制御することだ。多くの者は、生涯その存在に気づくことすらない。だが、君の『共鳴感知』ならば、あるいは常人より容易に、深淵の一端を垣間見ることも可能かもしれない」
カイはベルクトの言葉を受け、石畳の上に胡坐をかいた。太陽が少し高くなり、日差しが強まり始めている。目を閉じ、深くゆっくりとした呼吸を繰り返す。一般的な瞑想とは異なり、彼は意識的に「共鳴感知」のスイッチを入れるような感覚で、自身の内側に意識を向けた。
最初は、うまくいかなかった。外部の様々な律動――風が遺跡を吹き抜ける音、石の持つ微かな気配、遠くで鳴く鳥の声――が、「共鳴感知」を通じて洪水のように流れ込んできてしまい、集中が難しい。
焦りが募るカイに、ベルクトが静かに声をかけた。
「君の感覚は、世界に対してあまりにも開かれすぎている。今はその窓を少しだけ絞り、君自身の魂の奥底、その最も静かな場所に意識の錨を下ろすのだ。そこにこそ、君自身の力の源泉が眠っている」
カイはベルクトの言葉に従い、嵐の中で灯台の光を探すように、自身の意識の深奥へと潜っていった。すると、不思議なことに、あれほど騒がしかった外部の喧騒が徐々に遠のき、自身の心臓が刻む鼓動の音、血液が血管を流れる微かな摩擦音、呼吸と共に肺が伸縮する音といった、生命活動の微細な「律動」が、「共鳴感知」によって増幅され彼の内に響き始めた。
さらに意識を深めていくと、それらとは異なる、より根源的で、温かく、そして力強い、独特の「律動の奔流」を自身の内に発見した。それは彼にとって、まるで体内に小さな「歌う星」を抱いているかのような、鮮烈な感覚だった。
その「歌う星」の律動に意識を合わせると、それが自分の意志でわずかに輝きを増したり、流れの方向を変えたりできることに気づいた。驚きと興奮が、カイの全身を駆け巡る。
次に、ベルクトの指示で、その「歌う星」から流れ出すエネルギー(魔力)を、まるで光の糸を紡ぐように、ゆっくりと右腕へ、そして手のひらへと導こうと試みた。彼の「共鳴感知」が、そのエネルギーの流れをリアルタイムで「可視化」しているため、通常の術者が手探りで行うよりも遥かに正確に、そして迅速にその操作を行うことができた。
やがて、カイの手のひらが、内側から淡い光を放ち始めた。明確な熱と、ピリピリとしたエネルギーの集中を感じる。
カイはその衝撃を隠せず目を開け、光る自分の手のひらとベルクトの顔を交互に見つめた。
「ベルクト……!感じる……いや、見えるんだ!俺の中に……まるで小さな星みたいな……それが歌ってる……!そして、手のひらが……光ってる!」
ベルクトはカイの報告を聞き、微かに眉を動かしたが、それを否定せず、むしろ彼の感覚を尊重するような言葉をかけた。
「ほう……『歌う星』か。面白い表現だ。魔力の感知は術者によって異なる感覚で捉えられる。君の『共鳴感知』は、それを極めて鮮明な形で示しているのだろう。その『星』こそが君の魔力の源核だ」
ベルクトは静かに続けた。
「通常の人間ならば、この感覚を掴むだけで数ヶ月、いや数年を要することもある。君の祝福は、こと魔術に関しては存外に優秀やもしれんな」
カイが集中している間、心配そうにベルクトの足元にいたプリルは、カイの手のひらが光り始めたのを見て、「わー!カイの手、光ってるー!ピカピカー!」と楽しそうな声を上げた。
感心したようなベルクトだったが、その表情はすぐに厳しいものへと変わった。
「だが、魔力を感じ、集めるだけでは赤子のお遊びに過ぎん。次はその力を、君の意志で、世界の律動へと働きかけるのだ。ここからが本当の魔法の始まりだ」
カイは自分の鼓動が否応なく高まるのを感じた。
魔力感知と集束の訓練の後、ベルクトは石畳の上に散らばっていた乾いた小枝や枯れ葉の一つを指差した。
「あの枯れ葉に火を灯せ。だが、ただ闇雲に魔力をぶつけるのではない。君の『共鳴感知』で、まずあの枯れ葉が内包する『燃えるという可能性の律動』――あるいは周囲の空間に存在する微弱な『火の源流となる律動』を正確に捉えるのだ。」
カイは枯れ葉に意識を集中した。「共鳴感知」を最大限に活用すると、彼の感覚には、枯れ葉そのものから放たれる、太陽光を吸収して温まったことによる微かな「熱の揺らぎの律動」と、さらにその奥に、まるで種火のようにチロチロと瞬く、極めて微弱だが純粋な「火のポテンシャルを示す律動」が光点として見えた。
(…見える…!あの枯れ葉の中に、小さな赤い光が…点滅してる…!これが…ベルクトの言う『火の律動』の源…?)
「その『赤い光点』の律動に、君の『星』から流れ出す魔力の律動を、寸分違わず重ね合わせるのだ。手の形や僅かな身振りは、その補助に過ぎない」
カイは右の手のひらに自身の魔力を集束させた。それを枯れ葉の「赤い光点」に向けて、まるで針に糸を通すがごとく、慎重に重ね合わせようとする。
それは、想像を絶するほど繊細な作業だった。最初は、魔力の糸が赤い光点から逸れてしまったり、あるいは強すぎて光点が不安定に揺らぐだけで、何も起こらなかったりした。
(くっ…難しい…!少しでもズレると…ダメだ!)
焦りが募り、額に汗が滲む。だが、「共鳴感知」が、二つの律動がどれだけズレているか、あるいはどれだけ近づいているかを、カイにリアルタイムでフィードバックする。それはまるで、調律が狂った楽器の不協和音と、完璧に調和した美しい倍音の違いを聞き分けるように、脳内へ直接訴えかけてきた。
そして、何度目かの試行で——
パチッ!
乾いた音と共に、枯れ葉の先端から鮮やかなオレンジ色の炎が、まるで小さな蝶が羽ばたくように軽やかに立ち昇った。炎はまたたく間に消えたが、石畳の上には小さな焦げ跡が残り、微かな煙の匂いが鼻をついた。
カイは、息をするのも忘れ、その光景を見つめていた。指先にはまだ魔力の流れた微かな熱が残っている。
「パチパチしたー! きれーい!」
プリルがカイの顔に勢いよく抱きついて喜びを爆発させた。
その喜びを全身で受け止めながら、カイはベルクトを見上げた。
彼はカイが「共鳴感知」をどのように使って律動を捉え、魔力を同調させようとしているかを、高い関心を持って観察していた。カイが炎を生み出した瞬間、その瞳には一瞬、純粋な驚嘆と、ある種の学術的な興奮が閃いた。
「…見事という他ないな、カイ」
ベルクトは満足げに、しかし抑えた口調で言った。
「君は初歩とはいえ、多くの魔法使いが生涯かけて追い求める『律動との調和』、その一端をこの短時間でいとも容易く掴み取った。その小さな炎は、君がこの世界の深奥に触れた証しだ」
初めて自分の力で、世界の法則に干渉した。その熱い感動が、カイの胸を焦がしていく。
その日の訓練は夕暮れまで続いた。カイは疲労困憊だったが、その表情はこれまでにないほど生き生きとしていた。枯れ葉の先についた刹那の火花は、カイの心に確かな自信の炎をも燃やしたのだった。