第10話 薄光の契約
夜明けの薄光が、テッラローザの安宿の一室に音もなく差し込んでいた。窓辺に佇んでいたカイは、確かな決意を胸に振り返った。
部屋の隅の粗末なベッドでは、ベルクトが眠っているのか、あるいはただ目を閉じているだけなのか、静かに横たわっていた。傍らには、プリルが、穏やかな呼吸に合わせて微かに揺れている。
カイは乾いた喉をごくりと鳴らし、震える足を叱咤してベルクトのベッド脇へ進んだ。深呼吸を一つ。まだ夜の名残を帯びた冷たい空気が肺を満たし、わずかに思考をクリアにする。それでも、これから口にしようとしている言葉の重みに、心臓は早鐘のように鳴っていた。
「ベルクト……」
呼びかけた声は、自分でも驚くほど掠れていた。もう一度、今度はもう少し強く。
「ベルクト……起きてるんだろ?話がある」
ベルクトの瞼が、ゆっくりと持ち上がった。その涼しげな瞳が、カイを捉える。表情は読み取りにくい。カイの言葉を待っているかのように、ただ静かに彼を見つめている。
カイは言葉を続けた。一度堰を切れば、あとは流れ出るままだった。
「ベルクト、あんた、別に一人でも旅はできるだろ。テッラローザまでの道中だって、俺がいなくても、どうとでもなったはずだ。なんで俺を待ってるんだ?」
ベルクトはすぐには答えなかった。部屋には、カイの荒い息遣いと、プリルの寝息だけが聞こえる。
しばしの沈黙の後、ベルクトは重々しく口を開いた。その声は、古井戸の底から響いてくるように低く、落ち着いていた。
「……ほう。随分と率直な物言いをするようになったじゃないか、カイ。以前の君なら、ただ怯えて逃げ出すのが関の山だったろうに」
その言葉には、皮肉も嘲りも感じられなかった。ただ、淡々とした事実を述べているかのような響き。カイは、その真意を測りかねて眉をひそめる。
「カイ、お前のおかげで少し日程に余裕が出来ているからな。それにお前との旅は悪くなかった」
ベルクトは続けた。その口調は淡々としていたが、カイにはそれが本心からの言葉ではないような気がした。
「あんたのやったことは……」
カイの声が震え、言葉が詰まる。騎士団を眠るように殺した光景。プリルの、あの絶叫にも似た告白。
「……絶対に許せるものじゃない。プリルのことも……どう考えたって異常だ。人殺しで、狂ってる」
ベルクトは黙ってその言葉を受け止めている。否定も肯定もしない。ただ、興味深そうにカイの次の言葉を待っていた。
「でも……」
カイは唇を噛み締める。
「でも……俺は強くなりたい。あんたが持ってる知識、あんたの魔法、そしてこの『共鳴感知』を極める方法……それを知っているのは、今はあんただけだ」
緊張と恐怖、そして怒りが渦巻く中で、それでも消えない渇望。ベルクトへの不信感と、彼の知識への飢えが、カイの中で矛盾しながらも同居していた。
カイは一歩踏み出し、ベルクトの顔を真正面から見据えた。その瞳には、恐怖も怒りもまだ残っていたが、それらを凌駕するほどの強い渇望と決意の光が宿っていた。
「だから……俺を弟子にしてくれ。俺が一人前になるまで、あんたの持っている全てを、俺に教えてほしい。その代わり…」
カイは一瞬、ぐっと喉を詰まらせた。。弟子入りを乞いながら、同時に交換条件を提示する。その歪さを自覚しながらも、他に術を知らなかった。
「……あんたの身の回りの世話くらいはしてやる。それに、あんたのその訳の分からない研究も、俺が出来ることは手伝ってやるよ。ただし…」
カイは言葉に力を込めた。
「あんたがまた誰かを傷つけたり、おかしなことをしでかそうとしたりしたら……その時は、俺が全力であんたを止める」
最後の言葉は、ほとんど意地だった。弟子入りというよりは、歪な師弟契約の申し出。言い終えると、カイは荒い息をついた。全身がこわばり、心臓が張り裂けそうだった。
「私を人殺しで狂人だと断じる。……その上で、私に弟子入りを乞うか。矛盾しているとは思わんかね?」
カイは一瞬言葉に窮するが、すぐに顔を上げて言い返した。
「矛盾してるさ!頭がおかしくなりそうだ!でも、それでも俺は強くなりたいんだ!あんたがどんな狂人だろうと、今はそれしかない!」
ベルクトは、カイが話し終えるのを見届けると、しばしの沈黙の後、ふっと息を漏らした。それは嘲笑でも、呆れでもない。まるで面白いものを見るかのような、あるいは遠い昔を懐かしむかのような、不思議な響きを持っていた。
「歳を取ると、若さというのは眩しいものだ。その矛盾こそが人間というものかもしれん……。いいだろう、カイ。君がそこまで望むのなら、私の知る限りのことを教えよう。」
その言葉に、カイは息を飲んだ。緊張が解け、どっと疲労感が押し寄せる。
ベルクトは笑みを収め、真剣な眼差しでカイを見据えた。
「だが、覚悟しておくがいい。私は魔法について容赦はしない。君が望む力を手に入れられるか……それは君次第だ。」
いつからかカイの隣にいたプリルが、安堵したように「ぷるる……」と小さな声を漏らした。
窓の外が、紫から白へと、刻一刻と色を変えていく。テッラローザの街が、新たな一日を迎えようとしていた。