第9話 苦悩、そして決断
ベルクトの告白から数日が経った。天気はどんよりとした曇り空が続き、時折、テッラローサの赤いレンガを濡らす冷たい霧雨が降っていた。
カイはベルクトとほとんど口を利かず、彼の存在自体を無視するかのように、頑なに視線も合わせようとしなかった。プリルに対しても、どう接すればいいか分からず、近づいてくると無意識に身を強張らせた。そのたびに、プリルは悲しげな暗い色をして小さく震えた。
食事はほとんど喉を通らず、水だけをかろうじて口にする日々が続いた。夜も悪夢にうなされ、ほとんど眠れていない。数日間で目に見えてやつれ、顔色も土気色に沈んでいた。
テッラローザの街は相変わらず活気に満ちている。時折窓の外から聞こえる人々の笑い声が、カイの孤独感を一層際立たせた。
ベルクトは相変わらず書物を読んだり、窓の外を眺めて思索に耽ったりしている。その平静さが、カイにとってはますます不気味で、彼の人間性を疑わせるものだった。
(どうすればいい? ここから逃げ出す? でも、どこへ行けばいいんだ?)
時折、カーラから貰った金貨の袋を握りしめた。その冷たい感触が、自分が置かれた現実を思い出させる。視線は自然と、行商で使っていたボロボロの地図や、売れ残りの商品へと向かった。それは行き場のない絶望感と、過去には戻りたくないという小さな欲望、そして自身の無力を痛感させた。
ふと、荷物の隅から、以前テッラローサの商人にクズ石同然と見限られたあの宝石が転がり出た。青みがかった奇妙な輝きを放つその石を、カイは無気力に拾い上げた。
この石ころは、無力な自分の象徴そのものに思えた。こんなものを持っていても仕方がない。指先から力を抜き、捨ててしまおうかと考えた、その時だった。
そばでカイの様子をじっと見つめていたプリルが、おずおずと近づいてきた。その宝石の微かな輝きに気づき、いつもの底抜けの明るさとは違う、純粋な興味を滲ませた小さな声で呟く。
「わー、カイ…それ、キラキラ…きれい…」
その声が、カイの心に突き刺さった。プリルの壮絶な過去が脳裏をよぎる。こいつだって、好きでこんな体になったわけじゃない。凍てついていた胸の奥が、鋭く痛んだ。
プリルの純粋な眼差しが、カイの中の何かを動かした。一瞬のためらいの後、かすれた声で、彼は言った。
「……プリル、気になるならこれ持ってなよ」
その言葉はぶっきらぼうだったが、彼の精一杯の優しさが込められていた。
プリルは一瞬、驚いたようにきょとんとして動きを止めるが、パッと花が咲くようにその半透明の体を、優しいパステルカラーに輝かせた。
「え! 本当に!? カイ、これ、プリルにくれるの!? わーい!わーい! カイ、大好きー!ありがとー!」
久しぶりに聞くような、心の底からの無邪気な喜びの声を上げ、その宝石を震える手つきで受け取ると、自分のぷるぷるした体の中へ大事そうにしまい込んだ。そして、嬉しそうにカイの身体へ自分の体をすり寄せた。
プリルのひんやりとした優しい感触に、カイの口元にはかすかな笑みが浮かぶ。強張っていた心がほんの少しだけ解きほぐされるのを感じた。
ベルクトはそのやり取りを部屋の隅から黙って見ていた。その表情からは何を考えているのか読み取れなかったが、彼の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ何かが揺らいだような気がした。
※※※※※※
プリルに宝石を渡した日の夜。カイは一人、テッラローサの街の片隅にある、人気のない古い教会の裏手に来ていた。苔むした石段に腰掛け、膝を抱えて小さくうずくまるように座り込む。
月明かりが雲の切れ間から差し込み、遠くの街灯の頼りない光だけが彼を照らしている。空気は冷たく澄んでいて、吐く息が白く濁った。
結局、自分は何一つ変われていない。行商人としても失敗し、カーラにはいいように翻弄された。ベルクトにとっては、いつ壊れてもいい玩具か、あるいは興味深い実験材料でしかないのかもしれない。足元が崩れ、無力だった過去の沼に引きずり込まれそうになる。
だが、そのぬかるみの底から、どうしても這い上がりたいと願う自分がいた。あの頃の自分には、戻りたくない。
深いため息をつく。プリルが体内に宝石をしまい込み、嬉しそうにしていた姿を思い出す。その時感じた胸の温かさを反芻し、微かに口元が緩んだ。
ベルクトは狂っている。彼の行いは決して許されない。それでも、あの男が持つ知識と力は、紛れもなく本物だ。
カーラの言葉が脳内で響く。『どうせ命をかけるなら、リターンの大きい大物を狙った方がマシ』。
歪んだ理屈かもしれない。しかし彼女が本心から言っていることは、肌を重ねたことでひしひしと感じた。このまま何も知らず、何もできず、誰かに利用されるだけで終わるのは、死ぬことよりも恐ろしかった。
自分の可能性を知りたい。そして、試したい。誰にも利用されず、自分の足で、自分の意志で立てるように、もっと強くならなければ。
プリルは、どうなのだろう。俺が何かしてやれる存在なのか? それとも、ただのベルクトの研究成果なのだろうか。
カイはそれを強く否定したかった。あいつは自らの意志で『プリルはプリルだ』と言っていた。その言葉を信じたいが、ベルクトはどこかプリルを道具のように扱うところがある。あのお喋りで心優しい相棒をベルクトと2人にするのは、カイにはもう考えられなかった。
逃げても何も変わらない。見捨てることもできない。ならば、答えは一つしかなかった。
カイは、まるで誓いを立てるように、夜空の冷たい輝きを見上げた。星々は何も語らない。答えは、初めから自分の中にあった。彼はゆっくりと立ち上がり、宿への道を、もう迷いのない足取りで歩き始めた。
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