第12話 向日葵の熱情
草原にぽつんと立つ、ひょろりとした樹木の下。リーザはその些か頼りない幹に身体を預けるように膝を抱いて座っていた。
少し離れた横隣に、誰かが腰を下ろす気配を感じる。リーザは立てた膝に埋めていた顔を僅かに上げて、ぽつりと声を漏らす。
「ごめんなさい。いきなり、変なことしゃべって、泣いて……。嫌な思い、させた」
「別に。何も思っちゃいねぇ。というか」
横から聞こえてくるシムルグの低い声は、やはり淡々としていた。
「俺が気に障ることを言ったなら、言え。人心には疎いから、わからねぇんだよ」
リーザは完全に頭を上げて隣を振り返る。そこには、草原の上で胡坐をかき、後ろに手を着きながら風にそよぐ枝葉を見上げている、シムルグの姿があった。
何度も小さく頭を横に振って、リーザはシムルグへと、途切れ途切れに拙い北大陸語を紡ぐ。
「違う。違うの。わたし、心の臓が痛くなるくらい……びっくりした。シムグルの言葉が、全部、初めてで……。わたし、生まれてきてはいけなかった悪いものだから。シムグルに、悪くないって言ってもらえて、すごくびっくりした。醜いわたしが、向日葵に似てるって。そんなこと、言ってもらえるなんて……思いもしなかった。びっくりして、何だか、苦しくて、熱くて……でも、嫌な気持ちじゃ、絶対なかったよ」
リーザのたどたどしい言葉に、シムルグは流し目で一瞥だけをくれてやる。
「おー。よく喋れるようになったな」
「あ……ご、ごめんなさい。何だか、この気持ち。上手く言葉にならなくて……こんなに、強くて激しい感情は本当に初めてだから。北大陸語で、何て言うんだろう……」
「さぁな。まあ、言葉にし難い感情もこの世にはごまんとある」
シムルグの声色は、どこか今までより柔らかい気がした。
「俺がさっき言ったことは、ただの事実だ。お前は悪いものじゃねぇ。少なくとも、俺にとっては」
リーザの心の臓が、また一つ激しく跳ねる。どうしてシムルグの言葉はこうも、リーザを乱すのだろう。
「お前がここに来たおかげで俺も今、生まれて初めて〝春〟の季節をまともに生きてる。スメイアは夏以外、年中冷えることが多いからな。霜蟲もいるし」
シムルグは見上げた先にある、そよぐ枝葉のその先。遠い春の宙をどこか楽しげな眼差しで一心に見つめている。
「春の空模様とか、風の質感とか、新芽の色とか。……悪くねぇ。三百年生きてきて、まだ新しい世界を見れるとは俺も思わなんだ。だから、お前には感謝している。ありがとう」
「……う、ん」
リーザは何故だかまた全身が熱くなるのを感じて、それに耐えながら小さくシムルグに応えた。
シムルグはそんなリーザの様子を気にした風もなく、蛇の眼を気持ち良さそうに伏せて、深く呼吸をする。
「……春ってのは、こんなにも。土と雪と若草の匂いが強いんだな」
木漏れ日の淡い光の中で、揺蕩うように。分厚い胸を上下させて、美味しそうに春の大気を食むシムルグの横顔。リーザはしばらく、その横顔に釘付けになって。心から強く、こう思うのだった。
(この人に、もっと色んな季節を──色んな世界を、知って欲しい)
◇◇◇
「お。戻って来たな、ベルーガ」
シムルグの視線の先をリーザも辿ると、遠くからこちらに向かって歩いてくるベルーガの姿が確かに見えた。リーザはすぐさまその場に立ち上がる。
「あ! ベルーガさんにも、迷惑かけちゃったから……謝らないと」
「あいつも気にしてねぇと思うが」
「でも、すごく良くしてもらったし……」
「なら、謝るんじゃなくて、礼にしとけ。そっちの方が後味がいい」
「! ……うん、わかった。そうする。ありがとう、シムルグ」
リーザの「ありがとう」に、シムルグは軽く手を振って見せて応える。リーザは小さく微笑むと、ベルーガのもとへと向かおうとした、が──不意に。リーザの身体をすっぽりと〝大きな影〟が覆いつくす。太陽が雲で隠れたのだろうか。それにしても、何だか不思議な気配を感じる。
リーザは何となくそんなことを思いながらも、反射的に背後を振り返った。
「え……」
小さく声が漏れる。
リーザが振り返った先には、霜蟲がいた。しかしそれは、リーザの知る霜蟲ではない。
リーザの身体より二回りほどは大きい、巨大な霜蟲——それが、今にもリーザを吞み込もうと、白い翅を大きく広げていた。
「退け」
今までにないほど低い声が、鼓膜を打った。 瞬きをするほんの一瞬。リーザの身体は強い力で背後へと引っ張られ、草原に尻もちをつく。瞬きを終えて目を開いた先には、巨大な霜蟲を片腕で抑えるシムルグの背中があった。
「ベルーガ!」
シムルグが半ば怒号の如き声を上げると、ついさっきまで遠くにいたはずのベルーガがいつの間にかリーザの目の前まで駆けてきて、リーザを抱えて更に後ろへ飛び退る。
すると、あっという間も無く、たった今リーザが尻もちをついていた場所へ別の巨大な霜蟲が飛びついてきた。他にも、通常の大きさの霜蟲が大量にこちらへと群がってきており、ベルーガは舌打ちしながら〝血鉄〟の剣を抜いて、普通の霜蟲たちを剣を振るって追い払う。
リーザはベルーガの腕の中で、微かに震える声を振り絞った。
「ベルーガさん。あの、大きな霜蟲は……なに?」
「あれは、〝王霜蟲〟——霜蟲たちを率いる、いわば〝女王蜂〟みたいな親玉だ。ヤツら、これまたクソみてぇに厄介で。王霜蟲に取り憑かれれば、普通の人間はほぼ即死。しかも霜蟲たちと違って、王霜蟲は血鉄を恐れないんだ、最悪なことに。ヤツらのたった一つの弱点は、大量の霜を一気に溶かすことができる〝高熱〟しかない……にしても何で、真冬にしか出ねぇ王霜蟲どもがこんな春先に……!」
ベルーガは、血鉄の剣を霜蟲たちに振るいながら苦々しげにそう語った。リーザは呆然としながらそれを聞き終えると、すぐに自分を庇って王霜蟲を抑えていたシムルグを思い出して、ベルーガの腕の中から身を乗り出す。
「シムルグ!」
リーザは思いがけず、引き攣れた声でシムルグの名を叫ぶ。
二匹の王霜蟲に挟まれ、無数に飛び交う霜蟲群の中。シムルグはリーザの呼び声に振り返ることすらなく、よく通る声を上げた。
「流石に数が多い。奴らの相手は俺がする。王霜蟲が飛び去る〝夏〟になるまで、駆蛇ノ原への立ち入りを一切禁じる」
リーザは大きく頭を振って、シムルグのもとへと駆け出そうとするが、ベルーガの腕によって止められる。
「だめ! それじゃシムルグが、ひとりに……!」
「大丈夫だ、リーザちゃん! シムルグ殿下は常人とは違う! 王霜蟲に取り憑かれても眠るだけで、死ぬことはねぇんだよ、あの人は!」
「でも……!」
ふと、シムルグが首だけで一瞬リーザを振り返った。
その顔には、どこか寂しそうな。脆く、小さな笑みが浮かんでいた。
シムグルはまたすぐに正面を向くと、冷気の毒によって革手袋が溶け落ち、露わとなった素肌の手を軽く掲げて見せる。
「次、俺が目覚める時まで。後を頼んだ、ベルーガ」
ベルーガは大きく舌打ちを鳴らして、苦虫を噛み潰したように顔をしかめる。
「……かっこつけやがって」
リーザの腕を強く引いて、ベルーガは急いでその場を後にしようとする。
しかし、リーザの足はその場に根を張ったかの如く動けないでいた。
(また、シムルグを凍える霜の中で。たった独り眠らせるの? 寒くて、寒くて。心も肉も引き裂かれそうなくらい痛くて冷たい霜の中で、眠らせるの? ──〝ひとり〟は、辛い。わたしなら二度と、ひとりになんてなりたくない)
リーザはシムルグと初めて出逢った時のことを思い出す。
東塔の中でたったひとり。凍えて震える寝息を立て、永い間たったひとりで眠り、常冬を過ごすシムルグ。
(私は、〝悪いもの〟じゃないと。向日葵のようだと──『ありがとう』と。たくさん、初めての言葉を言ってくれた人をたったひとり、常冬の中に置き去りにしていくの?)
リーザの大きく見開かれた栗色の瞳の中で、烈しい夏の稲妻が走った。
「──そんなこと、絶対にしたくない! わたしは、シムルグをひとりにしない!」
リーザはベルーガの手も、制止も振り払い。 無数の霜蟲と、巨大な王霜蟲に覆われてゆくシムルグ目掛けて、夏の疾風の如く駆け出した。