後編 伯父の日記
前回、伯父の日記を見つけた私。ついつい読んでしまいます。その中に記されていたのは…
しばらく過ごすうちに、これはどうも妙なところへ来たと思った。僕には他にごく正当な選択肢がいくつもあった。だのになぜわざわざこのような道を選んでしまったのかと、自らの目利きの悪さを呪った。他にいくらも就職できた。進学もできた。思いきって雇われない道に飛び込むこともできた。恋を徹底的に追うこともできたろう。選ばなかった他の道にはどれも神仏の恩寵が漂っていて、自分の迷いこんだこの学校の勤め人という選択だけが、御籤箱にたった一枚入った大凶の札のように思うのも、もはや後の祭りだった。
数日前まで暇な学生だった僕は、ある日突然に先生になって、先生らしく振る舞わねばならなくなった。生徒たちは初めから、僕を他の教員と何ら変わらぬように取り扱った。しかし何の研修を受けたわけでもなく、来たばかりの僕には、この世界の事情が何一つわからなかった。偉くなったのは嬉しいが、その偉さは与えられただけの、所詮は張りぼてなのであって、このまま一年間も上手く誤魔化し続けられるとは到底思えなかった。僕には一向要領が掴めないままに新学期が始まって、やがて授業もある、分掌もある、次々に先生としての仕事が降って湧いた。周りの教員は皆涼しい顔で正しく職務をこなし、僕は何もわからぬのに同僚からまで先生と呼ばれ、気が急くばかりであった。
なぜこの連中はもっと丁寧に新人を取り扱わないのだろうか。本来、職務に関してもう少し真っ当に説明なりすべきでないか。やはり教員など、人の困難を慮るほどの大した想像力も能も無いのだと、僕は失望した。僕はあまり受容的な人間ではない。それが神経を張り詰めさせ、僕はますます非難がましい人物になった。何の経験があるわけでもない一番の新人が、本心から周囲を見くびったわけだから傲慢なことだ。しかしこれは生育上の問題か、はたまた生まれついてか、僕は自分の目に見える範囲で白黒判じて、その人物や事柄が今の状態に落ち着くに至る長い過程を全く無視するらしい。歳を取るまで雇われて、「だんご」程度で人生を終えようという人物など、所詮大したものではなかろうと、よく知る前から決めてしまった。
僕は煮え切らない日々を過ごした。生徒はうじゃうじゃ居て、皆同じ制服と同じ髪型をして、区別もつかない。名前も覚えない。授業は授業で、さっぱり要領を掴めない。周りを悪く思う内心のその反面で、自分には手に余る仕事かもしれないとも思ったのだということを、僕は今さら隠そうとは思わない。そのうちに一つ二つ、自分の関わる騒動も起きて、いよいよ辞めようかと思った。やっぱり自分のようなぽっと出の若造が、通用するはずも無かったかと、気落ちした。自分には社会人は務まりそうにないと思った。しばらく塞いで、しかし辞める踏ん切りもつかないから、半ば投げ槍に通った。毎日が憂鬱であった。酷く神経を張り詰めさせた。
そうするうちに夏が近づいた。一人、二人、はじめから妙に僕を好いてくれた生徒がいた。それがこの頃では随分気心も知れて、どういう家庭で、どういう趣味でと、自然覚えるようになった。すると今度は、その生徒の周辺がじわりじわりと寄ってきて、生徒たちの判別がつくようになった。そのうち、はじめ折り合わなかった生徒も喋るようになった。互いに悪意の無いことがわかったのだった。僕には教員の親戚が多くあったが、そのうちの一人が、職場は三月もすれば突然全てうまくいくようになると言ったことがある。何でもラポールとかいって、関わるうち急に互いの人となりが判る時がくるが、それにちょうど三月ほどかかるらしい。なるほどそろそろ七夕だと納得した。
いつの間にか生活がしやすくなった。わざわざ僕を頼りに相談に来る生徒も出てきた。僕の振る舞いは相変わらず先生らしくなかったが、気にしないことにした。五歳しか変わらないのだから、五年分しか偉くない。無理に立派に見せても無駄だと思った。生徒と互いに心を開いて関われるなら、それが僕の自然だと思った。生徒のような顔をして生徒の中に紛れていると、生徒たちが本心で語り合う様子を見られたし、他の先生では気がつかないような生徒の事情もよくわかった。格好まで生徒にそっくりなので、英語の先生が間違えて僕まで生徒の隊列に並ばせたのには閉口した。だがそれも面白かった。
こうして夏が過ぎ、秋も深まり、四度目の試験も作り終えて、雪が降った。もう生徒たちが僕を珍しがって重宝することはなかった。若い先生だと囃し立てられないのは、ようやく自分も手慣れてきたかと自負するものの、少し惜しい気もした。やっぱり早く一年過ぎて暇になるといいが、過ぎなくても別段問題はない予覚がした。
一方、大人たちからは相変わらず物の数に入れられていなかった。僕の方でも望まなかった。むしろ極力役に立つまいとさえした。この辺は僕のひねくれた性分だから、生活に慣れて、かえってより酷く顕現したことかもしれない。だから、本当はまるで手慣れてなどいないのだ。ひとえに簡単な仕事しか与えられないだけである。それがこのまま先生を続ければ、雇用の麻縄に身をしばられ、ますますがんじがらめに、結び目も固く、年寄って向こうからほどくのを待つよりなくなることは明白だった。真っ平だと思った。しかし、中には知的の、僕の子ども染みた失敗を上手く補う先生もいた。そういう先生も、不満足ながら満足し、諦めながらも心底楽しむことがあるようだった。無下にできない温かみがあった。僕とて、「だんご」での生活に、幸福がないわけではないと、気付いていた。悪いことがあると、やっぱり、早く一年過ぎればいいと思い、しかし良いことがあれば、何かしら後ろ髪引かれる気がした。
春の気配が漂い始めた。僕は四月からの身の振り方を決定せねばならなくなった。関わりの多い生徒たちが、たびたび誉めてくれた。来年こそお前がクラスを持てだの、クラブの顧問を持てだの言われた。お前の授業以外受けたくないと言う生徒さえいた。最も勘のいい生徒には虫が知らせたのか、来年いなくならないでくれと不安げに言った。しかし僕は決めなければならなかった。
僕の机は散らかっていることで有名だった。去年ここへやってきて、日を追うごとに汚くなった。前にやった授業の印刷物、会議の資料、自分で作った試験用紙、業者にもらった問題集の試供品、赤と青のインキのペン。そして生徒の感想文。それらガラクタを、少しずつ片付けて、僕はある日、去った。
ごはんだと母が呼んだ。私は一階へ降りて、食卓についた。
伯父に教師をやった過去があるとは知らなかった。野田高校は昨日私が久方振りに訪ねていった学校だった。つまり私の母校である。昼を食べる間、私は一頻り感慨に浸った。
食べ終わって、私は祖母に、伯父の帳面を見つけた話をした。話し出すのに、なぜだか少し勇気が要った。中身を読んだとは言わなかった。
祖母は、伯父が日記をつけていたとは知らなかった。あの人にそんな根性があるとは思えんねとぶつくさ言った。兼ねてから祖母は、日記を書けば頭も整理できて、将来小説にするのにも役に立つと言っていた。自分は学生のうちから日記を書いて、新潮新人賞の最終選考まで残ったことがあるとも言っていた。つまり伯父は、祖母の意見に耳を傾け、長く従ったらしかった。
あれは本当にダメな男だった。服とか、娯楽に逃げるばかりで、一向に性根が座らない。人並み外れて臆病者で、新しい世界に入るのを何より怖がった。悪いところばかり予め仮想しておいて、ああ来たらこう返そう、こう来たらどうやっつけよう、過剰に自分を守ろうとする。自分の側に、もう少しでも受容する間口を広げないとどうにもならない。恐れるばかりで何にも挑戦しないから、結局何になればいいかも最後までわからなかった。いいかね、あんたはああいう風になるんじゃあないよ。何でもいいから、学生のうちに色々やってみて、自分が何を面白いと思うか、何であれば多少は我慢して楽しめそうか、見つかるようにしなさいよ。
祖母はそんなことを言った。祖母は伯父の帳面を読むだろうか。祖母は恥ずかしがりだから、読んでも読んだと言わないだろう。ただ、読めば息子について新しく発見があるようにも思うし、また一方で、もはや読む必要などないようにも私には思われた。
帳面の最後に、伯父はこう書いていた。
「腹を立てず、思いきって身を投じれば、面白いこともあったかもしれない。もう少し長くいて、せっかく情の芽生えた生徒たちの、その行く末を見届けたかった。今さらになって思うのだが、仕方がない」
と。
先生という仕事にも、やはりいい面も悪い面もあるのでしょうね。
読んでいただいた皆さん、評価をつけてくださった方も、ありがとうございます。たくさんの人に読んでもらえてうれしいです。