前編 私の帰省
皆さんも日記を書きますか?
私と伯父との間に、さしたる交流があったというわけではない。伯父は偏屈な男で、決して親戚付き合いの豊かな類でもなく、私はほとんど会ったこともない。何をして生きているかも聞いたことがない。たしか結婚もしていなかったし、住所もいまいちはっきりしない。ただ時たま、生家にふらりと帰ってきては、子どもの頃から占拠している二階の一室に何かガラクタを押し込めたり、逆に引っ張り出したりして去っていく。いい加減あの荷物も邪魔なのだと、事あるごとに祖母が愚痴を漏らしている。
不真面目な暮らし方が祟ったか、伯父は去年、木枯らしが吹く頃に死んでしまった。祖母は気の強い人だが、それでも息子の死んだのを一頻り悲しがって、しばらく塞いだ。あとから母に聞いたところでは、祖母は伯父をうだつの上がらない駄目な男だと貶しては、それでもむしろ母よりも伯父の方をより深く可愛がっていた節があったという。祖母の落ち込みように私も心痛したが、春頃にもなると、祖母はもう気が済んだのか、畑を耕し、猫や金魚を世話し、そしてアトリエに入って作業するその様子に、普段と違いが見られなくなった。祖母は五十の時分から、趣味でビスクドールを作っていた。だから家の中には昔から、祖母が作った異様に人間らしい人形が何体も立ったり座ったりしている。
大学も夏休みになって、私は幾月ぶりに実家に戻った。実家は山裾の崖と崖の間を開作した段に立っていて、すぐ裏まで竹林が迫り、自然の懐に抱きかかえられたような住まいであった。筍が採れるのはいいが、そう家族が多いわけでもなく、胃にも堪えるから一、二本で充分だ、それなのに際限なく生えてきて、放ればすぐに青く固くなる、早く折らねば鋸が要る、家も山に取り込まれる、あとがたいへんだと、祖母がしょっちゅうこぼしている。あんた竹ぐらい伐れるだろうと言われて、私も山に入ったことは幾度もある。
そんな家だが、帰ってみると、今年は例年以上に荒れて見えた。裏山だけでなくて、なんだか表の斜面まで草が伸びている。柿や蜜柑が草に負けるといって、大抵毎年、夏前から何度か刈っていたのだが、もともと男手もなく、今年は祖母も気力が無かったのだろう。こうなると、今に祖母が草刈り機を出してきて、一回ぐらいこれで刈ってみてくれんかなどと言い出すかもしれない。そう思って居はしたものの、荷物を降ろすが早いか、出迎えた祖母がちょっと来てくれと言うにはさすがに閉口した。
ところが、私に与えられた仕事は草刈りでも鋸曳きでもなかった。祖母は私を二階まで伴って、一番隅の古い部屋の扉を開けた。私もこの家で育ったが、この部屋の中はあまり見たことがない。母も祖母もこの部屋に係ってはいいことを言わないから、さほど近づきたいとも思わなかった部屋だ。そこは件の伯父の部屋であった。
部屋の中にはところ狭しと大きさの違うボール箱が積まれていた。その上にあちこち底の浅い籠が置いてあって、幼児らしい肉感のあらわれた腕や足が転がっている。無論、石膏の、祖母が作った人形の手足である。いつからか、祖母はこの部屋を、人形作りの道具のうち使い勝手のよくなかったものや、出来のいまいちな人形の部品をうっちゃっておくのに使っていたらしい。祖母はその籠を持ち上げてみて、これはまだ要るねえとか呟いたが、おもむろに振り返って、捨てたら惜しそうなものと、もう捨ててよさそうなものを仕分けしようと私に言った。私が見てもわかりそうにないと思ったが、息子の遺品に手をつけることは、さすがの祖母にも思いきりを要することだろうと思うと、一人でやってくれとも言えなかった。
伯父のガラクタは、大概は用のないものだった。小さな段ボールの中は、大昔、伯父が子どもの頃に使った学用品や教科書、書き取ったノート、配られた印刷の束で、それこそ刈った草と一緒に燃していいような類である。それから、祖母が最低の俗物と断じて目に触れることすら厭うような探偵ものや軽小説の文庫本もそれなりに見つかった。一人暮らしのための茶碗や流し用具もあった。古い洗剤もあった。靴べらもあった。それから驚いたのは、大きな段ボールざっと二十箱も使って、百着を越えようかという衣類が出てきたことである。開けても開けても服が出るので、さすがの祖母も、おおっと狼狽え、これ皆要らんねとぶつくさした。こんなことだから、服なんか買っても無駄だと云うたのに、生きとる時さえ体は一つ、着られやせんだったのにとも言った。どうやら伯父という人は洋服を好んだらしい。どれも酷い年代物で、中には見るからに汚ならしい黄ばんだシャツなど混じっていたのだが、しかし几帳面に畳んであって、古い割りにまだ着られそうなものもある。私も服が好きだから、以外な掘り出し物に少し喜んで、一着ずつ製造元を見ていった。すると案外モノがいい。当時買うのに高かったろうと思う。面白がって選りすぐっているうち、祖母はしびれを切らして出ていった。
衣類の、ボロかビンテージ品かの選定には次の日の夜までかかった。というのも、私が高校生の時最も好ましく思っていた竹中先生が今年定年なので、次の日は朝から母校に出掛けていって、その人に面会しようという予定だったのである。学生みたく電車に揺られて行ってみると、竹中先生は相変わらず元気らしかった。話すうちに見たことのない中年の先生が横入りしてきて、竹中さんも大概だが僕の高校生のときも変な先生がいた、新人で、教師というより生徒に近かった、すぐ辞めてしまったがと捲し立てた。変とは何事だ、僕は変ではないと竹中先生が親しげに文句を言うので面白かった。
帰ってくると、祖母にせっつかれてまた伯父の衣類を漁った。目ぼしいものだけ明くる朝洗濯して、干して、伯父の部屋へ上がると祖母ははや作業していた。大概はもう粗ごみに出すらしく、ビニール袋に詰め込んで、口を縛っていた。それを祖母の指示通り庭のごみ置きまで幾度も往復して帰ると、部屋は随分広くなった。祖母は、もうあとは大概要らん紙だ、いっそこのまま下へ持っていこうと言った。だからその箱を開けたのは、本当に偶然のことだった。
一応の念を入れて一箱だけ開けてみた小さな段ボールには、書き取り帳が何十冊と入っていた。表には掠れたインクの妙にくねついた下手な字で、西暦と日付けがあった。一番上の一冊が一番古い日付で、そこから三十年ばかり続き、途中順番がバラけたところもあったが、最後は今から数年前のものだった。表紙の字も段々上手くなっていた。それはどうやら伯父の日記帳らしかった。計算してみると、伯父は高等学校の時分から日記を書き始めたようである。
覗くと悪いだろうかと思った。しかし、日記とは、一人の人物の精神とその変調を写し取ったものである。これだけ長い期間の日記となると、もはや歴とした文学の作品のようでもある。読んでみたい。伯父のことはさほど知らない。葬るべきか、読んでから判断しても構うまい。祖母が荷運びするのを尻目に、私は一番上の一冊を取り、皺の入った紙をめくった。
最初の数冊は、伯父を知らない私でさえ、赤面を伴わずには目を通せないような代物だった。若い男というのが皆こうなのかは知らない。ただ、自意識と性欲と社会への偏見とにまみれた、思春期少年のおぞましい噴出物のようであったので、私はほとんど飛ばしてしまった。それがやがて大学生になり、成人しとするうちに、徐々に読めるものになってきた。将来何になればいいか未だにわからないこと、母親たちのような情緒的才の自分に無いこと、そして気が狂うほどに恋した女性がいること…。書き手の人格に、相変わらず偏向な、料簡の狭い様子があるのは見て取れたが、しかし幾分成熟した、人間らしい心の機微も見え始めた。さらに暦は進んで、大学も卒業間近にもなると、伯父の帳面には、日記でない、ある程度まとまった私小説のような性格の部分も現れた。そしてついに、帳面の中の伯父は今の私より年長になった。
「だんご」という言葉を最初に耳にしたとき、その響きの中に、何かひどく間抜けなものを感じた。それは、濁音と撥音とまた濁音という、至って汚い音声の組み合わせであることの不格好の他に、また違う何らかの滑稽、低俗を見たということなのである。
「だんご」が明確に何を指した言葉なのか、一年が経った今もって僕にはわからない。野田高校に通う生徒たちを示すこともあれば、野田高校そのものの別称として用いられるようでもあり、また野田高校らしい気風精神を見出だすことのできる人物や事柄を、模範として見て肯定的に使う言葉のようでもあった。
あれは僕が野田高校にやってきて、本当にすぐ、そう、ひょっとすると最初の日だったかもしれない。誰か、もうそれなりに長くいる先生が、「これぞだんごだよね」というようなことを言うのが聞こえた。それがさも楽しそうに大声で言うものだから、僕はどうにも滑稽に感じたのだ。「だんごらしい」などと言われ、こんな平凡そうな学校に似つかわしいなどと思われるのは、むしろ悲しむべきことではないか。いや、この先生はむしろ、凡庸で悲劇的な人生を歩む自分を鼓舞するために「だんご」らしいなどと敢えて口にするのだろうか。いずれにせよ、僕は職場の雰囲気に同調するような人を軽蔑していたのだから、早くもこの時には、あらゆる意味において「だんご」を否定してかかる気を起こしていた。
大学を卒業した伯父さんは、どうやら高校の先生になったようですが…