紅の王国編
どうでもよかった、何もかも。どうでもよかったはずなのに、何もかも。どうでもいいと思えば思うほどに、どうでも良くないって思いが大きくなる。どうでもいいと思っていた曖昧なものは、約束としてはっきりと形になった。形として触れられるようになったら、どうでもいいことは大事なものになってしまった。どうなってもいいことなんて、初めから無かったんだ。
「待った!おれの敗けだ!」
「ノア兄はやっぱり強いなー!」
「僕が一番年が上なだけだよ。お前らも大きくなればこれくらいできるよ」
宮殿の庭で、赤土に塗れながらも稽古に励む王子の兄弟がいた。兄弟の一番上からノア、次にサン、その下のカイ。ノアはサンらとは少し歳が離れていることもあって、いつも稽古の相手をして過ごしていた。
「ノア様、皇帝がお呼びです」
「わかった。すぐ向かうよ」
立ち上がり向かおうとするノアに、後ろからサンが飛び付いた。
「今日はもう行っちゃうのかよ!まだおれはへばってないぞ!」
「許してくれサン。また明日だ」
そう言ってノアはサンを投げ飛ばして、皇帝の元へ向かっていった。
「お待たせ、じい様。珍しいね、僕だけを呼び出すなんて」
紅色の装飾が施された広々とした広間に、圧倒的な存在感を示しながら、深々と座して皇帝と謳われる先代国王のアルカサが彼を待っていた。
「まあ、座れ。少し話しておきたいことがあっての」
大皿に酒を注ぎながら、ノアの様子をじっくりと見ているようだった。甘い菓子に手を伸ばしながらノアが座ると、アルカサは酒を呑みながら話を始めた。
「お主、親父をどう見ている」
「どうって、普通に好きだよ」
甘い菓子を頬張りながら答えたノアに、アルカサは大皿の酒を呑み干したあと、さらに問うた。
「他人を殺めることに躊躇いはないのか?」
「父さんの命令だもの。嫌だとか関係ないでしょ」
「それだけか?そこにお主の意思はないのだな」
「ないよ。楽しいとも嫌だとも思わない」
ため息混じりに息を吐いたアルカサでしたが、まだあどけなさを見せるノアを見て、話を終らせた。
「や、やめてくれ!私たちが何をしたっていうんだ!」
「知らないよ。命令で来ただけだから」
その夜、紅の国と碧の国の国境付近にある町で、ノアは一等戦陣の一員として夜襲に加わっていた。命を乞う相手の胸を貫き、戦況の確認に行った。
「今のうちに逃げろ」
ノアが通り掛かった路地で、戦陣の一人が敵を逃がそうとしているところへ遭遇した。
「何してるの?」
「…!ノアか。こいつは見逃してくれ」
「できないよ」
言葉と同時に、ノアは背を向け逃げようとした男を、背中から腕を貫かせた。そんなノアに、戦陣の男が襲い掛かった。しかし、それを容易く受け流して地面に叩きつけたノアは、呟いた。
「裏切り者も殺せ。父さんの命令なんだ。ごめんね」
そしてノアは、あっさりとその男の首を掻っ切った。夜襲を仕掛けられた町は、一夜にして壊滅してしまい多数の動かなくなった人とその中には数人、獣人の骸も混じっていた。そしてこの襲撃を切っ掛けに、ノアは一等戦陣を率いることになる。数日後父親であり、紅の国現国王であるヴェルグのところへ、ノアは呼ばれた。
「よくやった、ノア」
「たいしたことないよ」
「それよりこの前じいさんに、呼ばれたみたいだな。何を話した?」
それまで彼を見ることなく話していたヴェルグが、前のめりに鋭い眼差しで睨み付けるように聞いた。
「何って。父さんのことを好きか?って」
「ん?それだけか」
「あとは忘れちゃった」
ノアがそう答えると、彼は「そうか」とまた目を反らして次の襲撃の話を始めた。しばらくして、先日の襲撃を良しとしない碧の国から、騎士達が紅の国国境まで来ていた。それを率いていたのは、碧の国で零法の騎士と謳われるヴンドであった。それに対して紅の国からは二等、三等戦陣が出迎えた。
「おい、おれたちは話しに来たんだ。ちゃんと話せるやつを連れてこい!」
「人間の分際で、偉そうに言うじゃねえか」
「頼む。話をしたいんだ」
「文句を言いに来たんだろう?」
「ああ、言いたいことはたくさんある。だから話せるやつを連れてこい」
「残念。おれたちは文句のあるやつを、殺せと命令されてきた」
「おい、よせ!」
ヴンドの制止も空しく、獣人達が騎士達に飛びかかる。そして騎士達の三倍以上いる彼等は、瞬く間に騎士達を取り囲んだ。
「こんなガキを寄越すなど、碧の国は馬鹿なのか?所詮は人間だな」
「お前らも人間だろ。それに、おれが誓いを立てたものを馬鹿にするんじゃねえよ」
「ヴンド落ち着け!一旦退こう」
怒りを堪えるヴンドを促し、退路を確保しようと騎士達は動いた。しかしそれを彼等は許さなかった。
「おれたちがお前らと同じだと!」
「ふざけるな!絶対に逃がさん。殺してやる」
獣人達は帰ろうとする騎士達に、殴り掛かった。騎士達はそれを必死に防いでいたが、堪らず武器を取り応戦した。
「お前らいい加減にしろよ。先輩達、戦いは任せますよ。おれからは離れてください」
それを聞いた騎士達は、獣人達を押し退けながら距離を取り始めた。それを不思議に思いながらも、獣人達はヴンドを取り囲む。
「おれは何度も止めろと言ったのに。帰れたら、反省しろよ?」
大槍を操りながら、ヴンドは獣人達を次々に薙ぎ倒して行く。しかし、圧倒的な数の差で騎士達は次々に倒れていった。それに見兼ねたヴンドは、騎士達を氷で覆った。氷で覆われた中では、優勢になった騎士達が獣人達を取り押さえ、負傷者の手当てを急いだ。
「さあ、こっからだな」
彼が大槍を振り翳すと辺り一面が凍りついた。圧倒的に数で勝っている戦陣達も不馴れな足場に苦戦を強いられ、ヴンドは大槍と氷を武器に次々と獣人達を倒していった。その姿に後ずさる獣人が出る頃、そこへ一人の獣人が現れた。
「帰りが遅いと思ったら、何してるの」
それは新たに命令を受けて駆けつけたノアだった。その姿を見た二等戦陣を率いる男が慌てて駆け寄った。ノアが来たことで、戦陣達は攻撃を止めてノアの元に集まり膝を付いた。
「ノア、何故此処へ来た?」
「帰りが遅いから父さんが片付けて来いって」
一息つきながら、その様子を見ていたヴンドが声を掛けた。
「おれは碧の国一等騎士副長、ヴンドだ!君は国王からの使いか?」
「違うよ。僕は紅の国の王子、ノアだ。一応一等戦陣長だよ。今は一人で来てるけどね」
大きな声で話すヴンドに、少し目を向けて面倒そうにノアは答えた。そしてすぐに二等戦陣長の方を向き、話を続けた。
「せっかくサン達と遊んでたのに。何で早く命令に従わないの?」
それに答えようとした獣人は、ノアに手の甲で弾き飛ばされた。飛ばされた獣人は他の獣人を巻き込みながら、氷へ叩き付けられて気を失ってしまった。
「今のは、父さんからね」
「すげーな!おれより幼く見えるのにあんな巨体を一殴りで」
笑いながら話すヴンドに、話の終わりを待たずにノアはとてつもない速さでヴンドに突出して、胸元に攻撃を仕掛けた。鋭い爪が触れるか否かのところで、彼は間一髪でそれを防いだ。
「へえ、驚いたな。今のを防がれるなんて。貫くつもりだったのに」
「それはおれが言いてえよ!強さが他と違うじゃねえか」
「ヴンドさん強いんだね。僕とそんなに年は離れていないようなのに」
そう言ってすぐにまた、ノアは彼に飛びかかる。それを受け流し、ヴンドは直ぐに空に向かって氷を放った。
「アド、氷が立ち上った。先に行くわ!」
「お前らはほんとに二人で一人前だなー」
国境から少し離れた街で待機していたアン達は、ヴンドの合図を見て街を出た。
「ほんの少し、真面目にやらないと殺られそうだね」
ノアはそう言ってヴンドから少し距離を取って、構えを整えた。その時、ヴンドが氷で覆っていたところを突き破り、中にいた騎士達が出てきた。
「ヴンド!獣人の体術を甘く見るな!離れていても…」
叫んでいる騎士に向かって、ノアが攻撃の動作をすると急にそれは話している途中で吹き飛ばされた。そして、それだけではなく他の騎士達も次々に吹き飛ばされていく。ヴンドはそれを氷を盾に防いだが、その氷が砕けてしまうほどのものだった。
「…大気か。でも離れていても安心できないのはあいつも同じだ!」
ヴンドは騎士達の前に分厚い氷の氷柱で壁を造り、ノアに向かっては氷柱を飛ばして向かって行く。彼はそれを素早く避けて、今度は距離を詰めて攻撃をした。ヴンドは氷と大槍で応戦していたが、徐々に彼の様子は変わっていった。ノアを見据える目は鋭くなり、槍捌きや氷柱もより鋭く急所ばかりを突くものへなっていた。
「ヴンド!アンが来るまで技を使いすぎるな!」
倒れた騎士が彼に向かって叫んだが、その声はもう届いていなかった。彼の中ではもう目の前に居る敵を殺すことしかなく、少しずつノアを追い詰めていったが、その頃にはもうヴンドの足の先は凍り始めていた。その一方でノアは焦りを感じていた。こんなに追い詰められたのは初めてのことで、我を忘れそうになっていた。そしてついに、ノアの首筋にヴンドの槍が掠めて血が流れた。それに一瞬気をとられたノアを、ヴンドが氷で弾き飛ばした。しかし彼の手足の先は凍り始め、自然と槍が手から落ちた。
「倒した…のか?」
氷柱の隙間から見ていた騎士達がそう思った瞬間、雄叫びと共に氷煙から獣が飛び出した。それは我を忘れて姿が獣になってしまったノアだった。そしてそれは一直線に、立っているのがやっとのヴンドに突進していく。それを防ぐことが出来なかった彼は思い切り飛ばされて、氷柱の壁に叩き付けられた。氷煙の立ち込める中、怒り狂うノアの雄叫びが響いているところへ、眩い光と共にアンが二人の間に割って現れた。
「無理しすぎよ」
アンはゆっくりとヴンドに近づいて彼の身体を起こし、やわらかい光を放ちながら、そっと抱きしめた。彼の身体は凍りつき始めていたが、アンの光がそれを溶かしていく。
「あったけえな。アンか」
「うん、もう大丈夫」
彼女の光は、凍りついた身体を溶かすだけでなく、ゆっくりと傷の治癒も始めた。しかし我を忘れているとはいえ、それをノアがいつまでも許すわけもなく、二人に向かって飛び掛かっていった。それに対して彼女は振り返ると同時に、鞘に納めたままの剣で殴り飛ばした。
「やめてよ。私達は争いに来たんじゃないわ」
しかしノアは怒り狂いながら、再び彼女に突っ込んで行く。それまで周りで観ていた獣人達も続いて動き出した。彼女はそれに溜め息をつきながら、ノアを再び殴り飛ばして眩い光を放った。そして光の剣を作り出しその光が照った獣人達を一人、また一人と瞬く間に殴り飛ばしていった。
「アン交代!」
その声に、アンは光を薄めながら氷柱壁の上に立ってヴンドや騎士達に光を当てて、傷の治癒を続けた。彼女の力に響動めいている獣人達の前に、ヴンドは再び出て来ると大槍を拾い上げた。
「今回はここまでだ。王子様もそんな調子なんだ、お前達に勝ち目はない。次は、話が出来ることを願っておく」
そう言い残して、ヴンドは背を向けて帰ろうとした。しかし、何人もの獣人達に押さえつけられていたノアは、それを払いのけてまた彼に向かって行った。
「懲りないな」
ヴンドは向かって来るノアとの間に広範囲の分厚い氷壁を発生させて、また背を向けた。その壁に、ノアは思いきり体当たりをした。しかし、氷壁には小さな罅が入るものの、壊れる様子はなくノアは何度も距離を取りぶつかり続けた。そして彼が気を失い倒れるまで、大きな鈍い音と怒り狂う雄叫びは止むことはなかった。
「なんだよ終わったのか。せっかく来てやったのに」
「教え子のこの姿を見て、何でそれが一言目なんだよ!」
ヴンド達がよろけながら街へ向かっている道中で、面倒そうに向かってくるアドと騎士達に出合った。
「そんなボロボロにされちゃうのの先生なんておれはなんて不幸なんだー」
「ちょっと!私は一撃も受けてない!」
「お前ら…。アン、光で傷を治してくれよ」
「嫌よ、疲れるもん」
「はあ…」
「罰として、暑いから氷で涼しくしろ」
「…ふざけんな!」
三日後の夜、気を失って寝たきりになっていたノアは、静かに目を覚ました。身体中が包帯で巻かれていたのと、激痛で動くことは出来ずただ天井を見ながら、残っている記憶を辿り続けた。
「命令、守れなかったな」
そんなことを呟きながら、明るくなってサンとカイが来るまでずっと天井を見つめてた。
「ノア兄ー!良かった、目を覚まして」
「兄さん、誰だよ。誰にやられたんだよ!おれがそいつをやってやる」
痛々しいノアの姿を見て、サンは怒りカイは泣いた。あまり話すことの出来ないノアは、片手を少し上げて応えた。そしてその日から毎日、サンとカイは病室に訪れた。
「兄さん早く治して稽古を一緒にやろう!カイじゃ物足りない」
「えー、もっと頑張る!ノア兄にも早く手合わせしてもらいたいな!」
「おれたちだって強くなってるんだ!早く兄さんに見せたいぜ」
ノアが床に伏している間はそんな日々が続き、そしてその間にもう一度、碧の国から使いとしてアドが訪れていた。国王との面会を許されお互いに思惑は違えど、結果は和解に達して事なきを得た。それから数ヶ月後動けるようになったノアは、自分が倒れた時に居た獣人達に広場に集まってもらっていた。
「みんな、あの時はごめん。連れて帰ってくれてありがとう」
ノアが頭を深く下げると、集まった皆はそれぞれの顔を窺いながら静まった。そんな雰囲気の中、彼に殴り飛ばされた獣人がノアの目の前で立ち止まり、そしてゆっくりと片膝を地面につき、彼よりも低い位置で頭を下げた。ノアの表情は伺えなかったが、その光景を見た獣人達は次々に膝をついて頭を下げていき、その場の全員がノアの前で膝をついた。それを偶然に見たヴェルグは、何も言わずにその場を去っていく。それからまた数日後、傷が癒えたノアは総戦陣長であるフューリーの下を訪れた。
「王の命令で来たのか?」
ノアを少し見たあと、目を伏せながらフューリーは話した。
「違うよ。それに今の僕じゃあなたを殺せないもの」
「へえ。じゃあどうしたんだ?」
ノアの言葉にフューリーは笑いながら座りこんだ。そんな彼を他所に、ノアは少し頭を下げた。
「僕に、稽古をつけてほしいんだ」
「君に私が稽古を!?こんな日が来るものなんだな」
先程よりも深く頭を下げるノアを笑い飛ばしながら、フューリーは果実水を飲み干した。
「しかし、どうして私なんだ?他にも強い者はいるだろう。それに、私が王にとって一番邪魔な存在だと知っているのか」
「あなたの場所がほしいから。それにあなたが一番わからないから。あなたを獲れば、邪魔な存在もたくさん減るもの」
「まあ、判断は正しいと思うが。それなりにキツいと思うぞ?」
「大丈夫。獲ってみせる」
「はぁ。君は理解していない。私を獲るということが、どういうことなのかを。それを含め、稽古をつける。私は君に懸けるとしよう」
そして次の日から時間が合う度に、ノアは稽古をつけてもらった。弟たちと遊ぶこともせず、ただ直向きに稽古に打ち込んだ。
「この距離で焔羅を届かせるのは見事。ここまで出来る獣人はそういないだろう」
「それじゃダメなんだ。僕が倒したいのは他にいるから」
「…そうか」
そんな日々の中で、総隊長の座を奪おうとするものがフューリーに挑むこともあった。総隊長になる方法は、手合わせという形式をとり、たくさんの見物人を立会人として、現総隊長を倒すこと。過去には、相手を殺めて総隊長の座を奪った者もいた。しかしフューリーが倒れることはなく、六羅と云われる攻撃を、誰もが防げずに倒されていた。
「これは、六羅だな」
「ああ。この六つの傷、全く見えなかった」
倒れた獣人を見てそう囁かれる中、ノアは技の正体に気付いていた。それを知った彼は、自分との力の差を改めて認識して、稽古に打ち込みむことにした。
「君は王をどう見てる?」
「どうして?じい様にも聞かれた」
「まさかありえない。あの皇帝が」
「内緒のつもりだったのに。疲労ってすごいね」
夕焼けの広がる空を見上げるように、二人は地面に倒れ込みながら話していた。
「率直に言う。ノア、もう殺すな」
フューリーは起き上がり、大の字に倒れ込む彼に向かって願うようにそう言った。それを聞いたノアは「どうして」と、倒れ込んだまま目を閉じて聞き返した。
「取り返しのつかない恨みや哀しみを生むからだ」
「でも、国の領土は広がっているよ?それで助かってる人もいる」
「それで生かされて生きたいと思えるか?目に見えて解りやすい方法で陥りやすいが、もうそれでは駄目な時なんだ」
「…難しいよ」
「自分のために生き、他を思え」
彼のその言葉にノアは目を開け、ただ空を見つめた。それを見て、フューリーはまた寝転がり、また同じ様に空を見つめることにした。
「意外と早かったな。気を使ってくれたのか?」
「総陣長が元気な内に獲らないとね。病だからって手は抜かないよ」
数年後、ノアは総陣長の座をかけた手合わせを申し入れた。それを見に集まった獣人の数は、その手合わせが注目されていることを表すには、充分過ぎるほどのものだった。王を指示している者たち、フューリーにつくものたちのそれぞれの思惑が交差する、そんな雰囲気に広場はざわめいていた。そして皇帝アルカサや国王ヴェルグも様子を見ようと、足を運んだ。
「国王、あなたのやり方は間違っている。もう一度願う。やり直すことはできないか?」
「フューリー、我が友よ。相容れぬな。ノア、殺れ」
皆が見ている前で彼がヴェルグに向かって言った言葉に広場は静まり返り、ノアに注目が集まったがヴェルグの命令にも微動だにせずに、その場でフューリーと対峙していた。それに苛立ち、ヴェルグは自らフューリーに向かおうとしたが、それに向かってノアが片手を向けて合図を出した。
「父さん、僕の獲物だよ」
そう言ったノアに、彼は怒りに任せて焔羅を飛ばした。それはノアの頬をかすめ、地面を抉った。
「総陣長、病で死ぬ前に僕に獲らせてよ」
「こんな身体でも、まだ君よりは強いさ」
ヴェルグは不服そうに座り込み、アルカサが静かに成り行きを見守る中対峙する二人は構えを調え、ついにその手合わせが始まった。拳の交わる音や身体に蹴りがめり込む音が響き渡り、互いの焔羅で地面は抉れ雄叫びが交差する中、病を患っているとはいえ次第にフューリーが優勢になっていく。そして地面に這いつくばったノアが見上げると、彼が六羅の構えをとり突進した。見ている獣人達が息を飲むなか、ノアはよろけながら立ち上がりフューリーの突きを受けとめた。そしてその瞬間、ノアの周りで立て続けに大気の衝突する激しい音が鳴り響いた。
「…まだだよ」
フューリーは信じられないでいた。まだ絶対に見破られないと思っていた六羅を止められたこと。ノアがここまでの力をつけていたことに、驚きを隠せないでいた。ノアの声のあと、大気の衝突による力でフューリーは吹き飛ばされた。そしてその方から飛んできた焔羅に叩き戻され、さらにそこへ正面からノアの放った焔羅とで挟まれると、宙に浮いたまま身動きのとれない彼は、目の前に突進してくるノアをただ見続けるしかなかった。爪を尖らせ胸元に貫こうとしたノアだったが、彼へ向けたのは爪を潜めたただの突き。そして突き飛ばされたフューリーは広場の分厚い壁に叩きつけられ、めり込んだまま動けなくなった。
「僕の、…勝ちだね」
「参ったな。本当に強くなったな、ノア」
途切れそうな意識のままフューリーは、口を震わせながらノアを讃えた。そこへ、二人の間を割るようにヴェルグが飛び降りた。そして首がへし折れそうな勢いで、ノアを殴った。
「何故だ。何故殺さん!」
「これは、手合わせだから」
怒りを露にしながらノアに背を向けた彼は、壁にめり込みながら二人を見ているフューリーを、睨み付けた。
「皆よ、今日から紅の国総陣長は、我が息子ノアだ」
静まっていた獣人達も、これには歓声で応えた。それにノアが頬を拭い深く頭を下げて応えると、ヴェルグはフューリーを睨み付けながら近付いていき、壁から無理矢理引っ張り出した。
「そして、こいつはただの反逆者になった。我が友フューリーよ。私とて、友を殺すのは流石に心が痛む。残念だ」
「…」
「父さん、僕が獲っ…!」
フューリーが消え入るような声で何かを呟くと、ノアの言葉も空しく、その声も空しくフューリーの喉元を切り裂いた。それを後ろから見ていたノアは、自分の中で何かが崩れそうになったのを感じ、フューリーに付いていた数百人の獣人達は、一斉にヴェルグに攻め掛かろうとした。しかしそこへ、両者の間に静かに見守っていたアルカサが飛び込んで来た。
「止めんか馬鹿供が!お主らは同じ獣人同士じゃろうが。ヴェルグ、この者等を殺すのはわしが許さぬ。お主らも、堪えよ。この者は一国を治める王じゃ。弁えよ」
アルカサを前に、両者ともお互いにこの場は何事もなく収まった。フューリーという王にとって最大の邪魔であり友で、王を止めることのできた数少ない者が亡くなってしまったこと以外は。
「ノア、案ずることはない。大丈夫じゃ。お主の思うままで良い」
アルカサは、同じく両者の間にうつ向きながら立つノアの肩を抱き寄せた。それからというもの、ヴェルグは度々国から出ることが多くなった。これまでフューリーが事あるごとに、口を出し手を出し、何かと彼を止めに入ることがあったが今はもう、それが在ることはない。ノアはというと、フューリーとの手合わせで受けた傷が、身に染みていた。彼の居た位置、総陣長というものがちっぽけに思える程のものが彼へのし掛かり、彼の言葉がノアの中で消えることはなかった。そんな日が続いたある日、ノアはヴェルグに呼び出された。
「常夜の民と組み、白の国を叩く。その最中、総陣長として指揮をとり碧の国を叩け」
「珍しいね。人と組むなんて」
「勘違いするな。組むように見せて全ての罪を奴等にきせる。その為に、常闇の民は抹殺する。ただ、一人を除いてな」
「…考えさせて」
ノアの中では、フューリーの言葉が響いた。もう殺すなと、別の方法があるのではないかと。ノアの反応に、彼は呆れながら部屋を出ていった。その夜、ノアはアルカサに会いに行った。そして天井の吹き抜けから覗く星を眺めながら二人は話し始めた。
「何を悩む。お主が疑問に思うなら従うことはない」
「父さんは、どうして殺して進む方法を選ぶのかな」
それに対してアルカサは、少し言葉を詰まらせながらも答えていく。いつもの大らかな雰囲気は消え去り、空気は自然と重苦しくなり始めた。
「あやつはワシを見て育った。ワシがやっていたことをあやつはやっているに過ぎない。言い訳にならぬが、ワシが王の時は時代も悪かった。ワシはたくさん殺したしたくさん傷付け、奪った。それが正しいと信じていた。躊躇なく、ワシはそれをあやつにも強いた。大国の一つに数えられるほどにもなった。しかし今になって思う。他にもやり方があったのではないかと」
「・・・」
「今や無二の友も亡くしあやつを止められる者は数少ない。
ワシにはあやつの全てを否定することはできん。だがお主は違う。お主の思うように選ぶが良い」
彼の言葉に、もう少し考えを巡らせようとノアは空を見上げた。その様子に思い詰めるように、アルカサは深く目を閉じて仰向けになった。
「おれが、甘ったれているのかな」
数日後、白の国城の屋上でそう呟くアドは、そばに着たアンをからかってその場を後にした。そして碧の国のその向こうにある、樹の世界といわれるところへ向かって。雪を踏み締め、茂みを歩き、清々しい風を浴びて、大樹の根に向かえ入れられるように、草木の声が響き渡る静けさを消さぬよう、そこへ辿り着いた。
「よう、久しいな!」
本を片手にアドに声をかけた男は、樹の世界の主。碧の国では代々この樹の世界を護ることを役目としてあり、大きな力を持っているものは、この主に会いに来ることになっている。
「これがおれに与えられた代償か」
「まあ、そうだな!だが、正確に言えばまだ与えられてない。これからだなっ」
「どうにもできないのか」
「あいつは怒ってる。お前が与えられた運命を拒んだからな。それに加えてお前の弟子の何だっけ女の子の名前。そう、アンだ。彼女も自分の運命を受け入れられない。まあ簡単に受け入れられるものではないがね。そのせいで、あの二人の少年には後がない」
真剣な眼差しで話すアドに、男は枝を拾って遊びながら話した。そして枝を投げ棄てると、アドを見つめ言葉を与えた。
「手伝ってくれよ」
「残念だが、もう手は出しててね。おかげであいつとはケンカ中。これ以上はできないよ」
そう言われたアドは主に別れを告げて、碧の国へ向かっていった。その夜紅の国では、ノアがヴェルグに呼び出されていた。
「何故だ。何故従わん!これは命令だ!常闇にも碧にも行かず、お前はただ寝ていたいのか!」
「違うよ。殺す以外にも方法はあるはずだ。僕は、そう思うから」
それを言ったノアに、ヴェルグは殴りかかる。しかし、いつもは抵抗もしないノアが自分の腕で、初めてそれを弾き返した。それに一層腹をたてたヴェルグは、何度もノアを殴り始めた。そこへ騒ぎを聞き付けて、アルカサが彼を止めに入ってきた。
「息子よ、ワシにはお前を否定することはできん。だが、この子はワシともお前とも違う。思うままにさせよ」
「腑抜けが。いつからただの老いぼれたじじいになった!」
その瞬間、アルカサはヴェルグを殴り飛ばした。机や本棚を粉々にするほどヴェルグは叩きつけられたが、すっと立ち上がり二人に背を向けた。
「邪魔な者は殺す。皇帝、それはお前でも容赦はせん」
「ガキが。やってみろ」
そしてヴェルグが広間を出ていこうとしたところへ、サンとカイがやって来ました。
「父様、兄さんが行かないならおれが行くぜ」
「お前が行って何が出来る。あそこで倒れている甘ったれより弱いお前が行って何が出来るというのだ!」
そう言い放って、ヴェルグは出ていった。サンはしばらくうつむいた後、壁を殴りつけて出て行きそれを追うように、カイもその場を後にした。アルカサは、ノアを抱き上げ部屋へ連れ帰り寝かせた。その日の夜と朝が交わり始める頃、碧の国から少し離れた森で一人の青年が、剣を前に膝をついていた。優れた剣の使い手であることから、騎士になることを強いられ三級騎士に位置したジュキア。
「嫌だ。いらない!おれはただ彼女を愛してあいつと遊べればそれでいい」
何度も剣を取り、そして何度もそれを投げ棄て膝をつき、頭を抱えた。そして次第に、彼の身体は光を纏い始め、電気が迸り始めた。それを抑え込もうともがき続ける彼へ、獣のように一人の男が飛び掛かってきた。それに空かさず剣を取り、ジュキアはその男を弾き飛ばした。
「誰だ!?今は止めてくれ!殺したくない!」
起き上がりジュキアに狙いを定めている男は、獣人のようだった。その男だけではなく、後ろの茂みには複数の獣人の影が見えた。それらは束になり、次々にジュキアに襲いかかり始めた。必死に防ぐジュキアだったが、手数の多さに仕方なくそれらを斬りつけた。そしてまた、ジュキアの身体は発光し始める。幾等かの獣人が動けなくなる中、初めに飛び掛かってきた男だけがジュキアとの攻防に食らいついていた。ジュキアの顔はひきつりながら笑みを浮かべ、獣人の男には深い傷が増えていった。
「サン!ダメだ!一度引き返そう!」
「ふざけるな。おれは弱くない、弱くない。弱くない!」
血だらけになり、足元がふらつきながらそう叫び、一層光を増す彼へサンは突っ込んでいった。ジュキアはそれに対し、笑みを浮かべ胸元の急所のみを狙い剣を突き出した。そこへ雄叫びと笑みの衝突ぎりぎりのその間に、アドが現れた。サンを鞘に納めた剣で受け止め、ジュキアの剣を左腕を犠牲に受け止めた。
「もう、帰れ」
そう言われてサンは殴り飛ばされたあと、そのまま気を失ってしまった。気を失った彼を背負い、獣人達はその場を去って行く。左腕を折り畳むように串刺しにされている彼は、ゆっくりと震える剣を抜き取り、溜め息をついた。
「アンのやつは何やってんだか。良かった、間に合って」
「・・・アド、さん。どうして」
「だっておれのクソ弟子が、お前を放って置くから」
左腕から溢れ出る血を止めるように、腕を押さえながら呆れた口調でアドは話した。ジュキアは彼をことを知ってはいたものの、話すことは初めてだった。しかし彼は、すがるようにアドに願いを言った。
「おれを、殺して下さい。お願いします。あなたならできるでしょ」
「お前なあ、おれの腕をこんなにしてよくそんなこと言えるな。まあ一捻りだけどな。でも、やだよ。それにお前、まだ主に会いに行ってないだろ。まあ、行かなくても何となく自分の運命、わかってるだろうけど」
地面に這いつくばるようにして、うつ向き泣くジュキアは何度も喚くようにそれを知らぬふりを続けた。
「そんなに自分から目を反らして。お前がお前を認めてやらない限り、失わなくていいはずのものを失うよ。お前には、力があるだろ。お前は、生きなきゃいけない。ちゃんと主に、会いに行け」
そう言い残してアドはその場を後にして、彼はうつ向いたまま泣き続けた。それから長い時間ジュキアは喚き呻き、泣き叫ぼうともどうにもならないまま、時間だけが過ぎていた。
「…いらない。いらない…いらないいらない!おれには。そんなの嫌だ!」
彼がもがき苦しみ泣き叫びながら剣を取り、握り締めたその剣を空へ向けて振り抜くと、剣を通り切っ先から空へ向けて雷が昇った。そして彼はそのまましばらく、目を覚まさなかった。雷が昇るより少し時を遡る頃、紅の国ではヴェルグが戻ってきていた。そしてすぐに入れ替わるように、複数の獣人が命令を受けて出ていく。真夜中を駆け抜け朝を迎えようかという頃、また出ていこうとする彼の前に、アルカサが立ち塞がった。
「何処へ行く」
「碧の国だ。皇帝よ、これは機だ。今よりもこの国をでかく出来る。あなたが望んでいたことだ」
「息子よ。もう、よいのだ。十分に、生活ができる。お主らにはもっと他にやることがある」
「勝手なことを。あなたがおれに強いたこと。思い知らせる。奴等がどれほど劣っているかと」
宮殿を出ようと進もうとする彼の前に、アルカサは尚も立ち塞がる。それを睨み付け怒りを露にするヴェルグに、称賛な気持ちに哀れみを拭えない表情をしながら、アルカサは見下していた。
「させぬ」
「どいてくれ、父さん」
そう言って軽く押し退けるように進んでいく息子を、一瞬通してしまいそうになった父だったが、痛む胸に我に返ると進んでいくヴェルグを後ろから鬣を鷲掴みして、宮殿の方へ投げ飛ばした。
「…ならぬ」
「わかった」
砂埃にまみれながらも立ち上がり、彼はアルカサに狙いを定めるように体勢を整える。距離がありながらもそれを感じたアルカサは、地面を思いきり踏み込んだ。その衝撃に地面はひび割れ、宮殿の門は崩れ落ちてしまった。両腕を上げ迎え撃つ格好のアルカサに、ヴェルグは最短距離を途轍もない速さで突撃していった。それを受け止めた衝撃音が響き渡ると、それに気付いた獣人達が集まって来た。荒々しくも素早く隙の無い動きで迫るヴェルグを、その巨体を活かし防ぐと共に外見からは想像できない速さで追い詰めるアルカサ。獣人達の中には、アルカサの闘いを見ることが初めての者も少なくはないことから、ただ見いる獣人も多くいた。
「これ、止めなくていいのか?」
「お前、止めれるのかよ」
そんな風に呟く獣人も居るなか、向かってくるヴェルグをアルカサが地面に叩き付け抑え込む。力で劣るヴェルグは抵抗するものの、押さえつけられている手を外せないでいた。しかし急に静まり、アルカサが不思議に思った瞬間に手を跳ね除けられた。そして彼の姿を見ると、ノアが我を忘れて獣になった時と同じ様子で、怒り狂い突進を繰り返すヴェルグを、アルカサはまた少しずつ弾き返しながら追いつめて行った。
「二人とも、もうやめてよ」
半壊する宮殿から、ふらつきながらノアが出てきた。そしてアルカサの元へ近付こうとするノアの横を、獣と化したヴェルグが飛ばされていった。そこでやっとアルカサはノアに気付き、駆け寄って行く。
「ノア!今は来てはならぬ。主ら、ノアを守らんか!」
その言葉も束の間、さらに壊滅している宮殿から聞いたこともない咆哮が響く。そこには、獣人よりも獣人らしい姿をしたヴェルグが仁王立ちしていた。
「何じゃ、その姿は」
驚くアルカサ達に向かって咆哮すると、焔羅のようにヴェルグの分身が飛び、攻撃を仕掛けてきた。ノアを自分の後ろへ引きずり投げ、アルカサは何とかそれを防いだが、再びヴェルグへ視線をやると爪羅と云われる彼特有の焔羅の構えをしていた。それは躊躇なくアルカサに向けて放たれた。それに対して彼は渾身の焔羅を放ったが、爪羅はそれを突き抜けて無防備なアルカサへ直撃した。そしてノアの目の前に血しぶきを上げながら、アルカサは大の字に倒れた。
「じ、じい…」
言葉も出ないノアは駆け寄り、どうにか傷口を防ごうと押さえたが、どの傷口からも彼の手の下から血は溢れ出るばかりだった。ノアがどう足掻こうとも、流れ出る血は止められない。そしてヴェルグは無表情に、前のめりに倒れ込んだ。その瞬間、周りで見ていた獣人達が動き出す。王を支持しない者達が王を殺そうと攻めかかったが、それを支持する者達が阻止しようと争いが始まった。血が溢れ出る傷口を押さえながらノアが助けを求めて辺りを見渡すと、そこは小さな戦場と化していた。
「…痛うない。そんな顔をするでない。ノア、逃げよ」
アルカサはそう伝えるとそのまま息絶えた。雄叫びや怒号か飛び交い、宮殿や敷地内がさらに崩れ行くなか、ノアだけが悲鳴を上げていた。そのまま争いは双方が疲れはてるまで続き、ノアは息絶えたアルカサに触れたまま夕暮れな空を見上げていた。そして落ち着きを取り戻した獣人達に促されるままにノアは宮殿の隅に腰を下ろし、運ばれていくアルカサをただ見ていた。自分の腕の中で消え行く命の感触と無力過ぎた自分に苛まれ、慌ただしく動く周りに同調できずに、ただその場に座っていることしか出来なかった。
「ノア兄、来て」
そこへ、所々血の滲ませたカイが現れた。連れられるまま着いていくと、血まみれで傷だらけのサンが運ばれて来た。
「どこで、だれに」
「おれは止めたんだけどサン兄は碧の国へ行った。止められてたんだけど、様子を見に行ったらこんなことに。雷の騎士にやられたって。サン兄、死んじゃうのかな」
それを聞いたノアは不意に歩き出し、そして宮殿を出た所で立ち止まる。星の陰る夜空に雄叫びを上げて呟いた。
「僕が、甘かったね」
そして彼はまた、歩き出した。向かう先は碧の国。ヴェルグのことにフューリーのこと。アルカサのこと、サンにカイ。碧の国へ辿り着くまで、延々とそれらが駆け巡っていた。国境付近に騎士は居らず、朝日に照らされる頃ノアは城下町まで辿り着いた。大きな門の前まで来ると、警備に着いている騎士が近寄ろうとしたがそれを無視するように、彼は門に向かって焔羅を放った。騎士達は吹き飛び、大きな音を出して門はへこんだ。しかし何度も焔羅を放つも、大きな音が出るだけで門は開かずに騒ぎを聞き付けた騎士達が集まってきていた。
「やめろ。この門は、そんなんじゃ開かない」
騎士達が騒ぐ中、憔悴して見えるヴンドがゆっくりと中から出てきて、ノアに近付いて行く。騎士達に待つような指示を出しながら、ノアの前まで来たヴンドは、自分の目を疑った。疲労からなる幻覚か何かだと。
「雷の騎士は」
「そんなやつはいない」
「嘘だ。僕の弟がそいつにやられた」
「死んだのか?」
その言葉にノアは思いきり殴り飛ばし、上から押さえ付けて拳を振り上げたまま涙を流した。ヴンドの腫れた頬に涙が落ちたが、状況は変わらなかった。
「雷の騎士はどこ」
「聞こえなかったのか。そんなやつはいない」
ノアはヴンドを引きずりあげ、また思いきり殴った。周りで見ている騎士達は、剣を納めることに必死で中には涙を流すものまで見えた。腹部を押さえふらつきながらも、ヴンドは立ち上がり騎士達に待つように指示を出した。
「どうして、何もしてこないの。居ないんならあなたが僕に殺されてよ」
「殺すつもりなら、疾うにそうしているだろ」
ノアはまた彼の言葉に殴りかかった。胸元にめり込む拳に、鈍い音が響き渡る。ヴンドはめり込む腕を掴み、ノアを離さなかった。
「どうして何もしてこないの。僕の相手をしてよ!」
「勝負ならお互い万全のときにいつだって相手をしてやる。だが今はダメだ。おれの、多分おれたちにとって大事にしなきゃいけない人が死んだ。お前もおれも、ボロボロだ。お前、自分の姿見てないだろう。そんなに血まみれなのに、お前に外傷がほとんどない。それなのに死にそうな表情に血まみれに涙まで流して。今は帰れ。お前にも、大事なものがあるんだろ」
ノアはしばらくうつ向いたままヴンドの手を振り払い、ふらつきながらその場を後にした。そして騎士達は急いでヴンドを担いで、城の中に戻って行った。
「どうして闘わせてくれないんです」
「闘いにならないからだ。それにあんな姿になりながら、たった一人で武器も持たずに。敵じゃなければ、今すぐおれの家に招いてやりたいよ」
宮殿へ帰ろうとしたノアだったが、そんな気にはなれずにアルカサの言葉を思い出していた。何処かへ逃げようと、誰も来ない場所へ行こうと、古い洞窟から星の溝と呼ばれるところへ、降りていった。獣人達の祖先が生まれたと言われるそこは、昼は見上げると細長い光が現れ、夜は見上げても見下ろしても星が見えるような、光る苔や石が散らばり、星空にいるように思える場所。ノアは何も考えず、星たちに囲まれながら眠った。しばらくして、人の気配を感じて彼は目を覚ました。目を凝らすと、星空の中を誰かが歩いてくる。満天の星空が映るほどの黒い鎧を着けた者と、それに担がれるように肩を借りながら歩く者が、奥の方から歩いてきた。
「我を、助けよ」
ノアを睨み付けながらそう言う男の横で、鎧の者が少し頭を下げた。何も考えず、ノアはもう片方の肩を担ぎ星の溝を登って行った。その者達と出逢ったその日から、ノアは何も考えずに行動を共にする。その者達は、各地の悪とされている者達を集めて黒の軍勢を作り始めた。そして、碧の国の王も黒の勢いに殺され、ノアもまたその軍勢の一角を担う一人として、ただ何も考えず目の前の与えられた役目を果たしていく中で、運命は交差していくことになる。
誰か、教えてよ。どうすればいいの。
暖かい光が差し込む部屋で囁くように聴こえてくる歌声に、男は目を覚ました。身体の痛みを感じつつ辺りを見渡すと、側に居た黒い鎧を身につけた者がそれに気付き部屋から出て行った。そして程なくして、温かい雰囲気に悲しげな表情がうかがえる女性を連れて戻ってきた。
「具合はどう?」
女性は男の額を少し撫でながら話しかけた。痛みに動けない男は諦めるように目を閉じ、鎧の男はそんな様子に腕を組ながら安堵したように見ている。
「安心して。ここは私たち妖精の住むところ。詳しい場所は言えないけれども安全だから」
男の汗を拭いながら、そう話すと女性は部屋から出ていこうとしたそこへ、入れ替わるように獣人の男が入ってきた。
「大丈夫みたいだね。良かった」
獣人の男も様子を見て安堵し、鎧を身につけた者に少し頭を下げて部屋を出た。その後会話は無く、片方は床に腰を下ろし、もう片方はまた目を閉じた。数日経ち、動け動けるようになった男は、部屋の窓から歌声の方を見た。外では妖精らしき者たちが、暖かい日の光りの中で歌を唱い、とても穏やかだった。
「お前は、歌わないのか」
「私は歌えないの。下手だから」
心地好い歌声が聴こえてくる中で、毎日男の看病をしていた妖精は、諦めるようにそう言って部屋から出て行った。また別の日、男は鎧の男を連れて外へ出た。いたるところから歌声が聴こえてくる中、一瞬悲鳴のような声が聞こえた。
「妖精なのに歌が下手なんて、あなた本当に妖精なの?」
悲鳴の方へ行くと男たちのよく知る妖精が地面にへたりこみ、妖精たちに罵声を浴びせられ嘲笑われていた。それに対して地面見たままの妖精は、何も言わずに祈るように時が過ぎるのを待っているように見える。それを見ていた男は嘲笑う妖精に歩み寄り殴り飛ばした。頬に手をあてながら妖精たちはそれに驚き、その場を去っていった。
「どこの世界にも、同じようなことがあるものだな。お前、名は」
「・・・フラン」
「フラン。我と共に来い」
涙を拭い妖精は立ち上がり、男たちと共に宿へ戻った。そうすると宿の前で、たくさんの妖精たちと獣人の男が話していた。妖精たちは男たちを見つけると、睨み付けながら攻め立てた。
「いくらノア様の願いと言えども妖精に手を上げる者など、これ以上置いてはおけません」
「あいつよ。あいつが殴ったのよ」
「私たちは何もしていないのに、いきなり殴ったのよ!」
「見ているか。理解したか。お前の言っていることがどれほど馬鹿げているのかを」
男は声を荒げて言う妖精たちを見て、少し後ろにいる鎧の者を見て鼻で笑うように言った。それに微動だにせず、鎧の者は妖精たちを見つめていた。
「ちょっとフラン、あなたこっちへ来なさいよ!」
躊躇するフランを見て、男は妖精たちへ向けて手をかざし、いきなり業火を放った。そして立て続けに辺り一面に業火を広め、妖精の住む町は炎に包まれた。業火を放ち続ける男の腕を、身体を無理矢理動かすように鎧の者が掴み上げ、それを止めさせた。
「我はリシア、もう一度言う。フラン、我と来い。お前が居なければいけない場所は無くなった。そしてノアとやら、お前も我と共に来い」
リシアに飛び付くようにフランは腕に付き、焼き尽くされる妖精たちの悲鳴が飛び交う中、四人はその場を後にした。
「心地好い場所だったがな。我には必要ない」
紅の王国編 終
 




