傷跡
その日は朝から雨が降っていた。
四月の下旬。
鏡宮が転校してきた次の週。
ゴールデンウィーク前にしては少し肌寒い日だった。
こうして雨の降る日はいつも、昔姉が言っていたことを思い出す。
――雨ってね、神様の涙なんだよ。誰かが悲しい思いをしているときに、神様が一緒に泣いてくれるんだって。
まるで子どもだましのような話だけれど、僕はそれが嫌いではなかった。
誰かのために、神様が泣いてくれている。
それを信じていれば、どれだけ激しい雨に見舞われても、不思議と煩わしさは薄れていく。
たとえ服が濡れて、足元が泥だらけになっても。
そのおかげで、僕らの心は救われているのかもしれないと思える。
だから今日も、僕は雨の中を歩いて学校へ向かうことができる。
姉の言葉はいつだって、僕の中で生きているのだ。
◯
いつものように始業ギリギリで教室に入った僕は、その場の異様な空気にすぐ気がついた。
クラスメイトのグループのそれぞれが、やけに声を潜めて話し合っているのである。
(なんだ……?)
彼らがチラチラと視線を送っている先には、自分の席の前に突っ立ったままの鏡宮の姿があった。
「鏡宮?」
僕がその名を呼ぶと、途端に教室中のほぼ全ての視線が僕の方へと集まった。
その中でたった一人、鏡宮だけが微動だにせず、無言で自分の席を見下ろしている。
なんだか様子がおかしい。
僕は周りの視線には構わず、ひとり教室の中を進み、鏡宮の隣に立った。
そこでやっと、鏡宮はハッと顔を上げた。
「刀坂くん……」
どうやら今この瞬間まで、彼女は僕の気配にすら気づかなかったらしい。
驚いたようにこちらを見上げるその顔は、ひどく青ざめていた。
「どうしたんだ、鏡宮。何かあった――」
そこまで言いかけたとき、視界の端に、あるものが映り込んだ。
そこに見えたモノに、僕の目は釘付けになる。
鏡宮の席。
その机の表面に、何枚もの紙が貼り付けられていた。
紙に印刷されていたのは、ネット上にあるニュース記事のようだった。
大きな画像とともに、それについての解説と、でかでかとした見出しが付いている。
見出しの中で特に、真っ先に僕の目に飛び込んできたのは『猫の首』の三文字だった。
(これは……)
本文を読まずとも、想像はついた。
このニュース記事は、例の事件――鏡宮が転校する原因となった、あの猫の首の事件だ。
誰かのイタズラか。
机に貼られた全ての紙が、その事件に関するものだった。
目の前に突きつけられた、何者かの悪意。
それを認識した途端、僕の胸は沸々と湧いてきた黒い感情に支配される。
「……誰がやったの?」
低い声で言いながら、僕は辺りを見渡した。
クラスメイトたちは僕と視線が合いそうになる度、どこか気まずそうに目を泳がせる。
誰も口を割らない。
さすがに全員がグルになっているようなことはないだろうけれど、鏡宮以外のここにいる全員の、我関せずといった態度が僕は気に食わなかった。
「なあ、誰がやったんだよ」
無意識のうちに、僕の声も荒くなる。
「や、やめて刀坂くん。私、気にしてないから」
その場の空気に耐えかねたのか、鏡宮は震えた声で言った。
振り返って見ると、彼女は今にも泣きそうな顔で、胸元に添えた両手をぎゅっと握りしめていた。
わずかに視線を落としたその大きな瞳は、何かに耐えるように揺れている。
そんな痛々しい姿を目の当たりにして、僕はさらに血が上った。
こんなにも辛そうな顔をしているのに、気にしていないだなんて嘘だ。
彼女をこれ以上、この場に居させることはできない。
僕は机に向き直ると、その表面に貼り付けられた紙に手をかけた。
そして力任せに、乱暴な手つきでそれら全てをビリビリに引き裂く。
「! 刀坂くん……っ」
突然の僕の行動に目を丸くする鏡宮。
その華奢な手を僕は強く握りしめると、有無を言わせず自分の方へと引き寄せる。
そうして勢いのまま、僕らは二人、手を繋いで教室を飛び出した。
◯
外では雨が降り続いていた。
行くアテもないまま学校を飛び出してきた僕たちは結局、気がつけばいつもの神社に辿り着いていた。
相変わらずひと気のない境内はいつにも増して暗く、まだ朝だというのにまるで夕暮れ時のような不気味さを漂わせている。
ひとまず雨宿りをしようと、僕らは奥に見える社殿の方へ向かった。
屋根のある場所といえば、賽銭箱のあるスペースぐらいしかない。
「ごめん、鏡宮。無理やり連れて来ちゃって……」
狭い空間で鏡宮と身を寄せ合いながら、僕は謝った。
「ううん。私の方こそ巻き込んじゃってごめんね。……授業、もう間に合わないね」
そう言った鏡宮の声は、いくらか落ち着きを取り戻したようだった。
未だ僕と繋がったままの手も、今は震えが止まっている。
彼女は頭上に広がる雨雲を遠く見つめながら、
「……過去って、簡単には消せないんだね」
と、呟くように言った。
その言葉に、僕は先ほどの教室での光景を思い出し「そうだね」とだけ返す。
鏡宮の過去。
猫の首の事件で濡れ衣を着せられ、居場所を失った彼女。
その過去がまた、この地で繰り返されようとしている。
「……仕方ないよね。噂ってすぐに広まっちゃうし。ネットで検索すれば、事件のこともすぐにわかっちゃうしさ。ちょっと引っ越したぐらいじゃ、隠せるわけないよね」
言いながら彼女は、僕と繋いだ手をきゅっと握る。
僕も同じように、その手を握り返す。
「気にしなければいい。……って、僕は思うけど。鏡宮は無理だよね」
「えへへ。私、メンタル弱いからね。でも――」
鏡宮はそこで一度切ると、身体ごとこちらを向き直り、僕の手を両手で包み込む。
そして、
「今は……ひとりじゃないから」
そう伏し目がちに言ったかと思うと、わずかに耳を赤くさせた。
「刀坂くんが一緒にいてくれるから……。平気、って言ったら嘘になるけど。でも、前の学校にいたときよりも私、ずっと気持ちが楽なの。これって、刀坂くんに甘えすぎてるのかな……?」
もじもじと身体を揺らしながら、戸惑うように、上目遣いに僕を見上げる鏡宮。
自分で口にした内容に照れがあるのか、その頬はどんどん紅潮していく。
そんな彼女の緊張が伝染したのか、知らずと僕の鼓動も早くなってくる。
この僕が、柄にもなく緊張している?
胸の奥がザワザワとする。
何だろう、この気持ちは。




