猫が消えた日
暗い。
真っ暗で、何の音も聞こえない。
これって、死後の世界とかいうやつだろうか。
「まったく、阿呆な奴じゃの」
「!」
暗闇の奥から、どこからともなく声が届く。
姿は見えないが、そのしわがれた声はまぎれもなくカミサマのものだった。
「カミサマ、どこ? 近くにいるの?」
「吾輩はどこにでもいる、と何度も言うておるじゃろう」
依然として視界は暗いまま、カミサマの声以外には何も聞こえない。
「まったく……貴様は本当に残念な奴じゃ。まさか本当に己の存在を消してしまうとはの。願い事次第ではもっと幸せな未来が待っていたかもしれぬのに……。さすがにここまで阿呆だとは思わなんだ」
呆れたように、溜息を吐きながらカミサマは言う。
「な、なんだよ。さっきはそんなこと一言も言わなかったじゃないか」
「無論。吾輩は神であるからな。神は人の願いを聞き入れ、それを叶える。貴様が自分の存在を消したいと願ったなら、吾輩はそれを叶えるだけじゃ。結果、貴様はこれで良かったと思っておるのじゃろう?」
「そりゃ、そうだよ。姉さんが幸せでいられるのなら、僕は自分がどうなったって……」
「なら、これを見て貴様はどう思う?」
と、それまで真っ暗闇でしかなかった視界が、薄っすらと光を取り戻した。
目の前に、見覚えのある風景が広がっている。
鬱蒼と生い茂る木々に囲まれた、雑草だらけの狭い土地。
端の方には赤い鳥居がぽつんと建っている。
「ここは……」
いつもの、あの神社だった。
辺りは暗く、すでに日が落ちている。
そして、月明りすらほとんど届かないそこに、一人の少女が佇んでいるのが見える。
(あれは……)
僕と同じ、中学生くらいの女の子。
肩まで伸びる髪は片方だけサイドテールにしている。
「鏡宮……?」
夜の境内の真ん中で、鏡宮が立っていた。
さらに、その隣にもう一人、少年が並ぶようにして立っている。
「あれは、僕……?」
間違いなかった。
僕と、鏡宮が境内に立っている。
夜の帳が下りたこの暗闇の中で、僕らは肩を並べて、社殿の前に立っていた。
「貴様は覚えているか? この日のことを」
「そりゃあ……もちろん。丑の刻参りの日、だよね?」
彼女と二人で、丑の刻参りをした。
夜中の二時に、こっそりと家を抜け出して、二人だけの秘密として、ここで神に祈りを捧げたのだ。
「このとき、貴様の隣で、この娘っ子が何を願っていたか貴様にはわかるか?」
「え……?」
カミサマはまるで詰問するかのように問う。
「貴様が姉のことを願っている間に、この娘っ子は、貴様とは別の願い事をしていたのじゃ。その内容が何だかわかるか?」
「別の……?」
あのとき。
鏡宮は確かに、僕の隣で何か祈りを捧げていた。
けれどそれは、僕と同じように、姉に帰ってきてほしいと願っていたわけではないのか?
「わからぬなら聞かせてやろう。この娘の心に、とくと耳を澄ませるがよい」
そうカミサマが言い終えると、今度は僕の耳に、どこからともなく少女の声が届いた。
――……神様。
鏡宮の声だった。
穏やかな、けれどどこか憂いを帯びた声。
――神様、お願いします……。たとえ、刀坂くんのお姉さんがここへ帰ってきたとしても……これからもずっと――、
その先に続けられた言葉を、僕は一生忘れることはないだろう。
――……これからもずっと、私も刀坂くんと一緒にいられますように。
「…………」
声が聞こえなくなり、鏡宮が顔を上げると、それと同時に目の前の風景は消えてしまった。
「これでわかったか?」
再びカミサマの声が聞こえた。
僕は何も言えないまま、真っ暗闇の虚空を見つめていた。
「人間の願い、すなわちその者の幸せというものは、本人以外には到底計り知れぬものじゃ。貴様がいくら阿呆な人間だったとしても、そんな貴様を好いている酔狂な人間もいる」
「……こんなの、デタラメだよ。だって僕は……誰にも必要とされていない人間なのに……」
耳の奥でまだ反響しているかのように、鏡宮の声が頭から離れない。
「貴様や周りの人間がどう感じようと、この娘っ子の心はこれが真実なのじゃ」
「嘘だ。だって僕は、大部分の人間から嫌われる『はみだし者』で……」
「あの娘っ子ひとりの意見だけでは物足りぬか? たとえたったひとりだけだったとしても、貴様を受け入れてくれる人間がいるというのに?」
「…………」
鏡宮が受け入れていれてくれる。
こんな僕のことを。
こんな、誰にも必要とされなかった僕のことを。
「わかったら早くいけ。あの娘の幸せのためには、貴様の存在が必要なのじゃ」
◯
「刀坂くん……」
その声で、僕は目を覚ました。
ゆるゆると瞼を開けると、いつのまにか日は昇っている。
そしてすぐ目の前に、今にも泣きそうな顔をした鏡宮が僕を見下ろしているのに気がついた。
(あれ……?)
いつのまにか、眠っていたらしい。
「僕……どうしてここに?」
さっきまで、僕は暗闇の中にいた。
いや、むしろ存在ごとなくなったはずだったのに。
辺りを見回してみると、そこはいつもの神社だった。
狭い境内を囲む高い木々。
その枝葉の隙間から、あたたかな陽の光が降ってくる。
その真ん中で、僕は鏡宮の腕に肩を抱かれていた。
「その、私も……よく覚えてないの。夕べは確か、刀坂くんと一緒に丑の刻参りをしたはずなんだけど」
その言葉を聞いて、僕はああそうか、と思った。
鏡宮と二人で、丑の刻参りをしたのだ。
そして彼女は僕の隣で、あの願いを神に捧げてくれたのだ。
「……そうか。鏡宮。君はやっぱり、神様に愛された子だったんだ」
「え……?」
僕は鏡宮の手を借りて身体を起こすと、改めて彼女へ向き直り、その華奢な手をそっと握る。
「鏡宮。君が望めば、神様は何だって叶えてくれる。君が望めば、世界は変えられる……。君が望んでくれたから、だから僕はここにいられるんだ。君が、僕に居場所をくれたから」
「どういうこと?」
ぽかん、とする彼女の顔に毒気を抜かれて、僕は思わず苦笑した。
「カミサマが、ぜんぶ教えてくれたよ。あの猫は……僕らのことを何でもお見通しだったんだ」
「猫?」
脳裏には、あのボサボサの白猫の姿が蘇る。
煮干しが大好きで、マイペースで。
かなりの歳を取ったヨボヨボの猫。
「カミサマって……。あの猫ちゃんに会ったの? 無事だったの? 今どこにいるの?」
「カミサマは……もういないよ。僕たちを残して、どこかにいっちゃった」
僕は鏡宮から視線を外すと、その後ろに佇むボロボロの社殿を見上げた。
つられて鏡宮も同じようにそれを見る。
老朽化した古い社殿。
格子戸のガラスは割れ放題で、まるで神様を祀っている場所だとは到底思えない。
けれど、神社にはいつも神様がいて、僕らを見守ってくれている。
あの白い猫のカミサマもきっと、どこかで。
「鏡宮」
その名を呼ぶと、鏡宮はもう一度僕の方を見た。
淀みのない眼差しが、僕の瞳をまっすぐに射貫く。
「鏡宮。ぜんぶ話すよ。僕のことも、姉さんのことも、君のことも、ぜんぶ。……こんな話、きっと誰にも信じてもらえないだろうけどね」
少しだけ照れくさくなって僕が頭をかくと、鏡宮はにんまりと笑みを浮かべて言った。
「私は信じるよ、刀坂くんの話」
カミサマに教えてもらった真実の話。
僕の口から鏡宮へ送る、僕の知っているすべて。
その声に紛れて、どこか遠くで。
間伸びした猫の声が、かすかに聞こえたような気がした。
僕だけを残して(終)




