在るべき姿
◯
そのまま、まっすぐ神社に向かってもよかったのだけれど。
最後にどうしても両親の顔が見たくなった僕は、一度カミサマと別れて家に帰ることにした。
「社! どこに行ってたの!」
玄関のドアを開けるなり、その音を聞きつけた母が家の奥から飛び出してきた。
泣いていたのか、その目元は真っ赤に腫れ、手には電話が握りしめてられている。
「心配したのよ! いま友達のお母さんたちにも電話してっ……、お父さんも外を捜しに行ってるわ!」
半ばパニックを起こしたかのように、わなわなと震えながら母は言う。
その間にも、母の目尻からは新しい涙がぽろぽろと溢れてくる。
そういえば、今の自分は幼稚園児だったんだっけ――なんて軽く考えていたけれど、母の剣幕はそんな生易しいものではなかった。
怒りなんてものは通り越して、もはや泣いている。
「本当に……心配したんだから……っ」
言いながら母は、その震える両腕で僕の身体を包み込んだ。
ぎゅっと強く抱きしめられて、少しだけ息苦しくなる。
(僕のために、母さんが泣いている?)
母の体温を感じながら、僕は何だか不思議な気持ちになった。
(どうして……泣いてくれるんだろう?)
僕のために。
こんな、誰にも必要とされていない僕がいなくなったところで、誰も悲しむことはないと思っていたのに。
どうしてこの人は、こんなにも僕のことを思ってくれるのだろう?
「……ごめんね、おかあさん」
僕のために、母が泣く必要なんてない。
悲しむ必要なんてない。
(父さんにも、後で謝らなくちゃ)
父はもともと、姉のことを溺愛していたのだ。
なのに僕のせいで、姉は消えてしまった。
(ごめんね……)
もうこれ以上、家族に迷惑はかけられない。
誰にもつらい思いをしてほしくない。
だから僕は、
(神様に、お願いするよ)
在るべき姿に、世界を戻す。
きっと、神様なら助けてくれる。
僕の家族を救ってくれる。
あの神社へお参りをすれば、きっと――。
◯
真夜中を過ぎて、家の中が静かになった頃。
僕は子ども部屋をひとり抜け出して、勝手口の方へと向かった。
極力物音を立てないよう、細心の注意を払って廊下を進む。
親に見つかったら、今度こそただでは済まないだろう。
部屋に連れ戻されて、しばらくは外出禁止になるかもしれない。
けれど、今この瞬間を乗り切れば、僕は目的を達成することができる。
すなわち、僕の存在をこの世から抹消して、姉を取り戻すことが――
「社」
「! ……」
背後から、母の声がした。
不意を突かれた僕は、息をするのも忘れてその場に硬直した。
「社、どこに行くの……?」
か細い声で、母が問う。
けれど、恐る恐る僕が振り返った先には、暗い廊下が続いているだけで誰もいなかった。
幻聴か? と首を傾げていると、ふと、リビングに続く扉がわずかに開いているのが目に入った。
もしやと思ってその扉を開けてみると、明かりの消えた部屋の奥で、食卓に腰かけている母の背中が見えた。
「おかあさん……?」
母は卓上に突っ伏したまま動かない。
僕は恐る恐る近づいて、うつ伏せになったその横顔を覗き込んだ。
すると、静かに瞳を閉じた母の口元からは、安らかな寝息が聞こえてきた。
(寝てる……?)
ということは、さっきのは寝言か、寝ぼけていただけなのだろうか。
こんな所で、疲れて寝てしまったのか。
思えば母は、毎日パートの仕事をしながら僕の面倒も見てくれて。
加えて今日はまた、僕のことで心配をかけてしまった。
一体どれだけの負担をかけてしまったのか、僕には見当もつかない。
「おかあさん……。こんなところで寝てたら風邪ひくよ」
僕は近くにあった上着をそっと母の肩に掛けた。
すると、それまで無反応だった母がわずかに身じろぎをして、薄っすらと目を開けた。
(! しまった……)
どうやら起こしてしまったらしい。
慌てて身を隠そうにも、すでに母の目は僕の姿を捉えていた。
「ああ、社……おかえり。幼稚園は楽しかった?」
「……?」
母の発したその言葉に、僕は違和感を覚えた。
このフレーズは、いつも母が幼稚園に僕を迎えに来たときに口にするものだった。
「いつも仕事が遅くなってごめんね……。お腹すいたでしょう。すぐにご飯の支度をするからね」
穏やかな声で言いながら、母は僕の頭を優しく撫でてくれる。
その目はどこか虚ろで、まるで焦点が定まっていなかった。
「おかあさん……?」
やはり寝ぼけているのだろう。
母は僕の片頰に手を添えながら、そのままゆっくりと瞳を閉じて、再び寝息を立て始めた。
その寝顔は明らかな疲労の色を滲ませていた。
にもかかわらず、どこか満足げに笑っているようにも見えた。
「母さん……」
僕の頰をすっぽりと包み込む、母の大きな手。
そのぬくもりに、僕もまた自らの手を添えて、改めて母の寝顔を覗き込む。
「母さん……今までありがとう」
僕や姉さんを養うために、家事をしながら仕事もして。
家を空けがちだったのは、それだけ必死になって働いてくれていたからだ。
両親が仕事に出ている間、僕はひとりでいる時間が多かったけれど。
それを『寂しい』だなんて思うのは、贅沢なワガママだった。
「ありがとう、こんな僕の面倒を見てくれて」
僕に優しくしてくれて。
こんな僕を、姉と同じように愛してくれて。
「ありがとう……」
そうだ。
僕は幸せだった。
そのことに、今の今まで気づかなかったなんて。
「さよなら、母さん……どうか元気で」
母の手をそっと放して、僕は今度こそ勝手口の方へ向かった。
「姉さんのこと、よろしくね」
◯
月明かりに照らされた、田舎道の途中。
私鉄の沿線に見える小高い山の入口に、色褪せた赤い鳥居がぽつんと立っている。
そこを潜ると、奥にはこぢんまりとした境内が広がっている。
いつもの、あの神社だった。
「やっと来たか、小僧」
鬱蒼と生い茂る木々に囲まれた、暗闇の奥に鎮座するボロボロの社殿。
その手前で、一匹の猫が僕を待っていた。
「お待たせ、カミサマ。今日は何だか、月が明るいね」
僕はカミサマの前にしゃがみ込むと、顔だけを上に向けて、頭上に広がる星空を仰いだ。
以前、鏡宮と二人で夜中にここへ来たときは、辺りはもっと暗かったはずだ。
あのときは懐中電灯の光がなければ、一寸先にある鏡宮の顔も見えなかったのだから。
けれど今日は、月の光に照らされたカミサマの、そのボサボサの毛並みがはっきりと確認できる。
「今宵は満月じゃ。こうして月の光が満ちる夜は、古来から神への祈りも通じやすいと聞く。……貴様も、やはり心を決めたのじゃな」
「うん、決めた。僕はやっぱり、ここにいるべきじゃないと思う。だから……」
「『刀坂 社』という人間の存在を、この世から抹消する……――それでいいのじゃな?」
最後の確認、とばかりにカミサマが聞く。
相変わらず眠っているようなその細い目を見下ろしながら、僕は頷いた。
「……あいわかった。では吾輩も、これにて御役御免じゃな」
「? 御役御免……って、どういう意味?」
カミサマの言葉に、僕は首を傾げた。
「ふむ……まあ、『用済み』といったところかの。貴様の存在が消えるとなれば、吾輩の存在理由も消える。そうなれば、吾輩も貴様と同じように存在自体がこの世から抹消されることじゃろう」
「え……?」
予想外の返答に、僕は困惑した。
「君も、消える……? どうして。消えるのは僕だけでいいんじゃないの?」
「吾輩はもともと、貴様が寂しくないようにと……貴様の姉が心配したからこそ、ここに現れたのじゃ。いわば、貴様の寂しさを埋めるための存在。しかし貴様がこの世からいなくなるというのなら、吾輩の存在理由もなくなる」
「そんな。君は神様なんでしょ? 消えるなんてそんなの……」
「吾輩は神じゃが、あくまでも『神の化身』。神はこの世のどこにでもいる。吾輩はただ、猫の姿を借りて、貴様に寄り添っていただけなのじゃ」
僕がいなくなることで、世界は変わる。
過去も、未来も。
カミサマも、この世から消えることになる。
「それって、カミサマ……君のことを、僕が殺すってこと……?」
僕のせいで。
カミサマに迷惑をかけてしまう。
けれど、震えそうになる僕に向かって、カミサマは、
「何を言う」
と、どこか諭すような、優しげな声で言った。
「何度も言わせるでない。神はこの世のどこにでもいるのじゃ。吾輩はその仮の姿として、この世に存在しているに過ぎん。たとえこの世からいなくなったとしても、吾輩はただ、あるべき姿に戻るだけなのじゃ」
在るべき姿に戻るだけ。
その言葉に僕は、以前、鏡宮が言っていたことを思い出した。
――白い猫はね、昔から『神の使い』って言われてるんだって。
僕の隣で、にんまりと含み笑いをしていた鏡宮の顔を、僕は今でもはっきりと覚えている。
――すごいでしょ? 神の使い。つまり、神様の化身なんだよ。神様が猫の姿になって、私たちを助けに来てくれるんだって。
神社には神様がいて、僕らを見守ってくれている。
寂しい思いをしている人の心に、そっと寄り添ってくれるのだと、彼女は言っていた。
――刀坂くんが寂しくて泣いていたとき、神様はきっと、猫の姿になって会いに来てくれたんだよ。でも今はもう、刀坂くんは独りじゃない。だから神様は安心して、猫としての身体を捨てたのかもしれない。
猫の身体を捨てて、あるべき姿に戻っていった。
(……なんだ。鏡宮は、何でもお見通しだったんじゃないか)
あるべき姿に戻るだけ。
あるべき姿に、世界を戻すだけ。
「そっか……。そうだね。神様はいつだって、ここにいるんだから」
何も寂しいことはない。
カミサマはずっと昔から、ここにいたんだから。
「わかったら、さっさと元の世界へ戻るがよい。そして、本物の神へと祈りを捧げよ」
言いながら、カミサマはその小さな肉球を僕の鼻先へと押し当てた。
途端、辺りは眩い光に包まれて。
次に目を開けたときには、僕は暗い境内の真ん中で、たったひとりで蹲っていた。
「カミサマ……?」
猫の姿はどこにもない。
それにいつのまにか、僕の身体は本来の――中学三年生の制服姿に戻っている。
(そういえば、さっきまでの世界は本物じゃなかったんだっけ)
僕に真実を見せるために、カミサマが一時的に用意した世界。
そして今、僕がいるこの世界こそが現実。
姉がいじめられて、自殺して、鏡宮が生まれてこなかった世界。
僕だけを残して、二人とも消えてしまった世界だ。
そして、
「神様……」
僕はその場に立ち上がり、目の前に佇むボロボロの社殿を見上げた。
神様はここにいる。
いつだって、僕たちのことを見守っている。
だから、
「神様……お願いします」
僕は胸の前で両手を合わせ、静かに瞳を閉じ、ゆっくりと頭を下げた。
「僕の存在を……――『刀坂 社』の存在を、最初から、なかったことにしてください」
僕さえいなければ、姉はいじめられずに済んだ。
なのに、僕だけがここに残ってしまったなんて。
こんな世界はいらない。
僕だけが残ってしまった、こんな寂しい世界なんて。
「どうか、神様。この世界を、あるべき姿に戻してください。姉さんが幸せになれる世界に……。そして、もしも姉さんが寂しい思いをしていたら、そのときは……一匹の猫を与えてください」
言いながら、僕は脳裏でカミサマの姿を思い浮かべる。
目つきが悪くて、毛もボサボサで、見るからに年老いたヨボヨボの猫。
無愛想なくせに、煮干しを欲しがるときだけは僕の足に擦り寄ってくる。
まったくもって可愛げのない。
けれどそんなカミサマのことを、僕は嫌いではなかった。
あんな猫でも、そばにいてくれるだけで、僕の寂しさも少しは和らいでいた。
たとえ姉が寂しい思いをしていても、あいつがそばにいてくれるならきっと、少しは元気になれると思う。
(……なんだ。あいつも、少しは役に立ってたんじゃないか)
そう、思わず頰を緩ませたとき。
突然、目の前が真っ白になって。
そして、急速に意識が遠のいていくのがわかった。
(……ありがとう、神様)
神様が助けてくれる。
僕の願いを叶えてくれる。
これで、この世界とはお別れだ。
僕という人間が存在した記憶は、きっと誰の心にも残らない。
(姉さん、どうか元気で)
どうか幸せに。
どうか、寂しさに負けたりしないで。
いつだって笑っていて。
(さよなら……)
やがて、僕の意識が完全に途切れようとした頃。
僕のすべてが無に還る、その刹那。
今際の際に思い出されたのは、いつか僕を救ってくれた、鏡宮の優しい言葉だった。
――私は……刀坂くんと一緒にいたいな。
第4章 (終)




