姉のこと
◯
夜明け前には、雨が降りだした。
サアサアと地面が打ち付けられる音に目を覚ました僕は、布団の中で寝ぼけ眼を擦ると、その手を顔前で広げてみせる。
小さな手。
明らかに中学生のものではない、幼児の手だった。
僕の身体は未だ、十年前の姿を保ったままだった。
(これ、本当に夢……だよね?)
さすがに、ただの夢にしては長すぎるんじゃないかと思う。
ベッド脇の時計を見ると、午前四時。
日を跨いで朝方になっても、夢は続いていた。
(僕、もしかしてこのまま……)
このままずっと、現実の世界には帰れないんじゃないか、なんて思う。
決して覚めることのない夢。
永遠に続く、十年前の世界。
僕にとってそれは、理想郷以外の何物でもないけれど。
「…………」
もぞもぞと寝返りを打ち、時計と反対側に顔を向けてみると、すぐ隣にあるベッドでは、安らかな寝息を立てて姉が眠っていた。
(……姉さんと一緒にいられるのなら、僕は)
他には何もいらない。
姉がここにいてくれるのなら、僕は元の世界に帰れなくたっていい。
僕にはもともと、失うものなんて何もないのだから――と、そう思ったとき。
まるで忘れるなと言わんばかりに脳裏を過ぎったのは、在りし日の、僕に向けられた鏡宮の笑顔だった。
◯
午前八時を過ぎると、僕は母の運転する車に乗せられて幼稚園へと向かった。
「じゃあね、社。今日も良い子にしてるのよ。先生の言うこと、ちゃんと聞くのよ?」
僕を送り届けた後、母はその足で仕事へ向かった。
いつもの流れだった。
ここからお迎えの時間まで、僕は家族の誰とも離れ離れになってしまう。
しばしの別れ。
十年前にも感じていた寂しさを少しだけ思い出しながら、僕は母の背中を見送った。
「ヤシロくん、おはよー」
「ねぇヤシロくん。いっしょにお絵描きしようよ」
「あそぼー」
教室の真ん中に突っ立っていると、見覚えのあるクラスメイトたちが話しかけてきた。
そういえば、こんな僕にも幼稚園の頃はまだ友達がいたんだっけ。
なんだか懐かしい。
できれば久しぶりに校庭の遊具で遊んでみたかったけれど、外は相変わらず雨が降っていたので、僕は誘われたお絵描きに参加することにした。
床の上に広げられた一枚の画用紙に、みんなで色んな方向から好き放題に絵を描いていく。
そうして、つい夢中になっていた手を何気なく止めたとき、
「…………」
外で降り続いている雨の音が、やけに耳についた。
――雨ってね、神様の涙なんだよ。誰かが悲しい思いをしているときに、神様が一緒に泣いてくれるんだって。
いつだったか、姉がそんなことを言っていた。
雨が降るときはいつも、誰かが悲しい思いをしているのだと。
(姉さん、大丈夫かな……)
ふと、姉のことが気になった。
昨日からずっと、姉の様子がおかしかったことを思い出す。
今頃どこかで泣いているんじゃないか――なんて考えると、段々と心配になってくる。
(……会いたいな、姉さんに)
姉の様子が知りたい。
できるなら今すぐにでも、この場所を抜け出して、姉に会いに行きたかった。
「? ヤシロくん、どうしたの?」
僕はふらふらとその場に立ち上がると、クラスメイトたちからの不思議そうな視線を受けつつ、教室の入口へと向かった。
そうしてグラウンドに面した扉から顔を出して、外の様子を窺う。
すると、扉の外では複数の先生たちが何か話し込んでいるのが見えた。
今なら僕が教室の外に出ても、気づかれることはなさそうだ。
(今ならいける)
グラウンドを囲むフェンスをよじ登れば、敷地の外に出られる。
小学校に行けば姉に会えるはずだ。
(……行っちゃえ!)
僕は誰にも見つからないよう、こっそりと幼稚園を抜け出した。
◯
中学生の足なら、およそ十五分の距離。
それを三十分近くかけて、僕はついに小学校へとたどり着いた。
傘を持って来なかったせいで、全身がずぶ濡れだった。
さすがに三十分も雨の中にいると、まるで着衣水泳でもしたときのように服が重い。
時刻は午前九時過ぎ。
まだ一時間目の授業中だった。
タイミング的にも人通りが少ないのをいいことに、僕は学校の正門から堂々と敷地内に入ると、全身から滴る雨水で床を濡らしながら廊下を進んだ。
(そういえば、姉さんのクラスは……)
姉がどこのクラスだったのかは聞いたことがない。
けれど、四年生の教室が並んでいる棟の場所ならわかる。
B棟の、二階。
そこへ行けば姉に会える。
(姉さん、驚くかな……)
いきなり僕が現れたら、姉は一体どんな顔をするだろう?
きっとびっくりするに違いない。
そして、勝手に幼稚園を抜け出してきたことを怒るのだろうか――なんて、まるで他人事のように考える。
悪いことをしているのはわかっている。
けれど、それ以上に僕は姉に会いたかった。
まあ、どうせ夢だから何をしても大丈夫だろう、という投げやりな気持ちが前提にあったからだけれど。
〇
やがて目的の場所に着くと、四つほど横に並んだ教室の中で、一際賑やかなクラスがあった。
四年二組。
他の教室は静かなのに、そのクラスだけはなぜか笑い声が飛び交っている。
自習でもしているのだろうか。
入口の扉が少しだけ開いていたので、僕はその隙間から中の様子を窺った。
すると予想した通り、その空間に教師の姿はなかった。
黒板の真ん中には『自習』とだけ書いてある。
監視する者のいないその教室は、もはや無法地帯と化していた。
素直に自習をするような児童はほとんどおらず、皆それぞれ自分の席を離れ、仲の良いグループで集まって談笑したり、歌ったり、中にはスマホやゲーム機を弄っている者もいる。
けれど、その中に一人だけ。
教室のちょうど真ん中にある席に腰掛けて、静かに読書をする少女がいた。
その姿に、僕は釘付けになる。
「ねえ、誰か刀坂さんのことも誘ってあげたらー?」
と、不意に、僕のすぐ近くの場所から声が上がった。
見ると、教室の入口付近――僕のすぐ目の前にある席に座った女子児童が、クラスメイト全員に呼びかけるようにして笑っていた。
「可哀想じゃん。一人だけ仲間外れでさー。今日の放課後くらい誰か誘ってやりなよ」
何やら含みのあるその言葉は、中央の席に座る少女に向けられている。
「あーだめだめ。そいつ、いくら誘っても来ないから。弟にしか目がないんだってさ」
げらげらと笑いながら、今度は男子児童が返事をした。
その児童の顔を見て、僕はハッとする。
見覚えがあった。
昨日、あの神社で。
鳥居の陰から僕らを見て笑っていた、あの男子の集団のうちの一人だった。
彼は昨日と同じニヤニヤとした笑みを少女に向けたまま、クラスメイトたちへ同調を求めるようにして語りかける。
「弟と二人だけで、だるまさんが転んだとかして遊んでんだぜ。その前はかくれんぼだったかな」
「地味っ」
「あはは」
「休みの日も弟とばっか遊んでんだって」
「もしかしてブラコン?」
教室のあちこちから上げられる言葉の矛先は、すべて中央に座る少女――僕の姉に向けられていた。
当の姉はまるで何も聞こえていないかのように、手にした本に目を落としている。
けれど、その瞳がわずかに揺れて、少なからず動揺しているのは誰の目にも明らかだった。
(……僕のせいで、姉さんが笑われている?)
予想だにしなかった姉の境遇を目の前にして、僕は愕然とした。
弟、弟と、クラスメイトたちは何かにつけて僕ら姉弟の仲を嘲笑う。
と、今度は姉の後頭部の辺りに、何か丸くて小さな物が飛んできた。
それは一度姉の頭に当たってから、軽く跳ね返って僕の足元まで転がった。
「あっ、ごめーん。消しゴム落としちゃった。悪いけど拾ってくんない?」
そんな声が奥の方から届いた。
見ると、あきらかに消しゴムを投げ終えた手を引っ込めながら、一人の女子児童が窓際の席で笑っていた。
どう見ても、故意による嫌がらせだった。
いわゆる、いじめだ。
「…………」
これ以上、黙って見ていることはできなかった。
僕のせいで、姉がこんな目に遭っていたなんて。
(何とかしなきゃ……!)
僕は扉をスライドさせ、足元に転がっていた消しゴムをすぐに拾い上げると。
それを目の前の席に座っている女子児童の背中を目掛けて、力いっぱいに投げつけた。
「痛ッ……。ちょっ、何⁉︎」
消しゴムは思っていた場所からはかなり外れて、女子児童の二の腕を掠めただけだった。
けれどそんな微々たる衝撃にも驚いてこちらを振り返った女子児童は、すぐに僕の存在に気づいて目を丸くする。
お互いの視線がぶつかった瞬間、僕は噛み付くようにして声を荒げた。
「おねえちゃんをいじめるやつは、ぼくが許さない!」
言い終えるのと同時に、教室内はしんと静まり返った。
「……えっ、何この子。どこから入ってきたの?」
一瞬の静寂が去った後、その場は途端にざわめき出す。
「えっ、どこの子? なんでここにいんの?」
「もしかして、刀坂の弟?」
「まじ?」
「やっくん……!」
しばらくして、僕の姿に気づいた姉が慌ててこちらに駆け寄ってきた。
「やっくん、どうして……。どうしてここにいるの? 幼稚園はどうしたの? それに、こんなに濡れて……風邪ひいちゃうよ」
姉は混乱しながらも、僕のことばかり心配して、次々と質問を投げかけてくる。
僕のせいで、姉はこんな目に遭っていたというのに。
今まで僕は何も知らなかった。
そんな自分が不甲斐なくて、情けなくて。
気づいたときには、僕は大声を上げて、姉の胸の中で泣きじゃくっていた。
◯
その後は色々と面倒なことになったらしい。
僕の親と、幼稚園と小学校とで、責任やら何やら諸々のことで揉めたという。
僕もやはり怒られた。
結構キツめに、普通の子どもなら泣き出すくらいにはこっぴどく叱られたと思う。
けれど僕の涙はすでに枯れ果てていて、親や先生から何を言われても、ほとんど上の空だった。
何より、姉のことで頭がいっぱいだった僕は、それ以外のことを考える余裕なんてなかったのだ。
(僕のせいで、姉さんが……)
姉がいじめられていた。
僕のせいで。
あの明るくて優しい姉が、あんな風に言われていたなんて。
「おねえちゃん、……ごめんね。ぼくと遊んでたから、おねえちゃんは笑われたんだよね?」
僕が謝ると、姉は困ったように苦笑して言った。
「なに言ってるの。やっくんは何も悪くないよ? 私はただ、やっくんと一緒にいたいだけ」
そんな風に慰められると、僕はさらに惨めな気持ちになってしまう。
どうか夢なら覚めてほしい。
悪い夢だと言ってほしかった。
けれど、これがただの夢で済ませられるようなものではないという予感が、僕にはあった。
脳裏では、以前ネットで見たあのニュース記事が浮かぶ。
――『小四女児飛び降り いじめによる自殺か』。
(まさか、姉さんが自殺したのは……僕のせい?)
その可能性を見出したとき、どくん、と心臓が跳ねた。
姉が本当に、いじめのせいで自殺をしたというのなら。
その原因は他でもない、僕にあるということではないのか?
「…………」
仮説が真実味を帯びていくのを、僕は怖れた。
僕が存在したせいで、姉は幸せになれなかったのではないか、と。
(嫌だ……)
思わず、頭を抱えた。
すべてが夢であってほしかった。
姉がいじめられたことも、自殺したことも、いなくなってしまったことも、すべて。
「……うそだって言ってよ、神さま……!」
子ども部屋の隅で呟いた僕の声は、窓を打ち付ける雨の音に掻き消された。
◯
その日の、夜のことだった。
一日中降り続いていた雨が、やっと上がった頃。
僕の隣のベッドで眠っていた姉が、夜中に一人で起き出したのだ。
「…………?」
スプリングの軋む音で、僕はぼんやりと目を覚ました。
最初は、トイレに行くのかな? ぐらいにしか思わなかった。
けれど部屋の外から微かに聞こえてきたのは、聞き違いでなければ、玄関の扉を開閉する音だった。
(姉さんが、外に出た……?)
ベッド脇の時計に目をやると、午前二時前。
丑三つ時だった。
(……なんで、こんな時間に)
嫌な予感がする。
今朝のこともあり、言い知れない不安に駆られた僕は、こっそりと姉の後を追うことにした。
◯
そうしてやってきたのは、家の近所にある例の神社だった。
姉と二人で遊んだ場所。
そして姉が消えた後も、僕が毎日のように通っていた場所。
背の高い木々に囲まれたそこは相変わらず、夜になると恐ろしいほどの暗闇に包まれる。
僕は鳥居の前までやってくると、その柱に隠れるようにして身を伏せた。
そうしてわずかに首を伸ばして、暗闇の奥を覗き見る。
けれど、いくら目を凝らしたところで、その先にある景色を窺い知ることはできなかった。
その代わりに、微かな音が耳に届く。
小さく、鼻をすする音だった。
(泣いてる……?)
誰かが泣いている。
おそらくは姉が、この暗闇の奥で。
「……神様、……お願いします……」
嗚咽まじりに、途切れ途切れに紡がれるその声は確かに姉のものだった。
けれどその疲弊した弱々しい声は、まるで普段の明るい姉のものとは思えない。
そして何より、そこで語られた内容が、僕のよく知る姉のイメージとはあまりにもかけ離れていたのだ。
「もう、疲れた……。どこか遠くに行きたい。ここからいなくなりたい……。誰も知らない所に行きたい……お願い」
泣きながら、姉の口から零れ出す本音。
もう疲れた。
遠くへ行きたい。
それは僕の前では決して語られることのなかった、姉の悲痛な叫びだった。
(……姉さん)
僕は声も出せないまま、カタカタと小刻みに肩を震わせた。
(姉さん……疲れたんだね?)
見開いたままの瞳から、枯れたはずの涙が再び溢れ出す。
ここからいなくなりたい――そんな姉の言葉は、まるで僕の存在を全否定しているかのようだった。
姉の心にはもう、僕は存在しない。
クラスメイトたちにいじめられて、傷ついて、もう何もかもを捨てて楽になりたいと、姉は言っている。
そんな姉がいじめられていたのは、僕のせいなのだ。
――弟と二人だけで、だるまさんが転んだとかして遊んでんだぜ。
僕さえいなければ、姉は最初から、こんな酷い仕打ちを受けなくて済んだかもしれないのに。
(ごめんね、気づいてあげられなくて)
心の中で、ひたすら謝る。
知らなかった。
姉の心がここまで追い詰められていたなんて。
こんな誰もいない場所で、神様に泣いて縋るほど苦しんでいたなんて。
(きっと、僕のせいだよね。僕がずっと姉さんに甘えていたから……)
姉はいつも、僕に優しくしてくれた。
幼い僕の面倒をいつも見てくれた。
僕が寂しくないようにと、共働きの両親の代わりに、いつもそばにいてくれた。
僕が退屈しないようにと、かくれんぼやだるまさんが転んだをして、いつも一緒に遊んでくれた。
その優しさに甘えておきながら僕は、姉の気持ちを今まで何も理解していなかった。
いや、知ろうとさえしていなかったのだ。
姉がいつも笑っていたから、僕も安心して笑っていた。
その笑顔の奥にどんな心が隠されていたかなんて、想像もしなかった。
(ごめん……)
涙が止まらない。
いくら謝っても、謝り足りない。
僕の最大の罪は、姉の心を蔑ろにしたことだ。
(ごめんね、姉さん……ごめん)
やがて、姉の嗚咽が聞こえなくなった頃。
境内の奥に何か、淡い光のようなものが見えた。
「…………?」
何だろう、と、僕は少しだけ身を乗り出して奥を確認する。
けれどよく見えない。
するとそこへ、
「なぁーお」
どこからともなく聞こえた猫の声に、僕はハッとした。
と同時に、何か得体の知れない、ざわざわとした『気』のようなものが身体の内側を駆け抜けて、全身が総毛立った。
「!」
そのとき、ほんの一瞬だけ、境内の奥に白い猫の姿が見えたような気がした。
(カミサマ……?)
けれどそれは本当に一瞬のことで。
次の瞬間にはむしろ、人の気配が一切なくなった気がした。
境内に人の気配がない。
まるで、それまでそこにいた人物すら消えてしまったかのように。
「…………?」
誰もいない。
姉の息遣いさえも感じられない。
僕はひとり、自分だけが境内に取り残されたような気がして、
「……おねえちゃん?」
思わず姉を呼んでいた。
けれど、僕の声に返事をしてくれる人はもう、どこにもいなかった。
暗い、月明かりさえ届かない境内の入口で。
僕はひとり、何度も何度も、姉のことを呼び続けたのだった。




