Day off
桜が咲いていたような気もするし、蝉の声が聞こえていたような気もする。黄色い銀杏が散っていたようにも、雪が降っていたようにも思える。晴れていたか、雨だったか。風が強かったもしれない。
あれがどんな日だったかなんて、もうほとんど覚えていない。
覚えているのは、自転車でひっくり返った背中の痛みと、俺を見下ろしている美しい瞳。風に流されていた黒くて長い髪の毛。
仰向けに転がった情けない姿を見られるのが恥ずかしかったから、俺はすぐさま起き上がって、逃げるように自転車を漕ぎだした。
彼女に見惚れていたからバランスを崩したなんて、そんなことを言う余裕があるわけなかった。
騒がしいと思うほど騒がしくなくて、けれど、周りを見渡せばどこか騒がしい。周囲に人が多くいるわけでもなくて、目を閉じれば喧騒は遠く感じるのに、目を開けるとすぐに人々の話し声が聞こえる気がする。窓の外を見れば、駅前の交差点を行き交う人々が忙しなく、途切れることなく延々と歩き回っていた。
あぁ、なるほど、騒がしいと感じるのは視界に人混みがあるからなんだと妙に納得して、俺はじっとこちらへ向けられた視線に目を戻す。
新メニューがおとなしく並べられたステッカーに彩られた小さなテーブル。その向こうから丸い大きな瞳で真っ直ぐに俺を見つめるのは、このところようやくイメージと現実が重なるようになってきた、美しい学校の先生。
先生に見つめられて悪い気はしないので俺もそのまま視線を向けていると、彼女は頬にかかった艶のある黒髪を軽くかきあげて、形の良い唇に柔らかく笑みの形を作った。
「さぁ、観念してこれにサインをするんだ」
先生がそういってテーブルにのった薄い紙を指差す。それには、どう見ても婚姻届と書いてあった。
「……無理ですね」
実は、もうかれこれ二十分はこんなやりとりを繰り返している。本当に先ほどから何回も繰り返している問答だが、諦めてくれないので俺はもう一度改めて指摘した。
「俺はまだ十七だから、結婚なんかできませんよ」
誕生日はまだもう少し先だし、十八歳になったからといってすぐに結婚なんて考えられない。というか、そもそもどうして俺が記入するための婚姻届を先生が持っていて、すでに自分の名前を書き込んでいるのか。
そんな風な話をずっとしている。
「先生、せっかくの休みなんだし、ゆっくり休まないといけませんよ」
休日に先生から呼び出しを食らって驚きながら指定の場所まで向かうと、すぐに駅前の喫茶店まで連れ込まれてこれだ。
俺ならまだしも、社会人として頑張って日々を過ごしている先生にとって、週末の休みというのは身体を休める唯一のチャンスなんだからきちんと休まなくてはいけない。休日というのは、休む日と書いて休日と読むのだと教えてくれたのは、他の誰でもない彼女だ。
「いつも週末は家でゴロゴロしてるって言ってたじゃないで……」
「休日に先生と呼ぶな。五回目だぞ」
いつだったか"最も正しい休日の過ごし方"として先生が教えてくれたスタイルを頭のなかで反芻しながら呟くと、彼女が鼻を鳴らして俺の言葉を遮った。
「せっかくの週末だ。なんで休みの日にまで仕事と同じように呼ばれなきゃいけないんだ」
先生は不服そうにそう言って、アイスティーのグラスから伸びるストローを咥えた。なんとなくその口元に目をやると、薄いピンクのルージュが引かれている。それだけではない。今日は休日だからなのか、全体的に控えめではあるが化粧をしているようだ。珍しいというか、学校では化粧をしているイメージがないので、少し新鮮だ。
「……なんだ」
ストローから唇を離して、先生が気まずそうに肩をすくめる。やや俯いたまま、上目遣いで俺を睨みつけてきた。
「なにをそんなに人の顔を見る必要がある」
「いや、よく見たら今日はメイクしてるんだなって」
「なんだと?」
どうして先生の顔を見ていたのか正直に話すと、彼女はなんだか怒ったように椅子の背もたれへと身体を預ける。そのまま顎をあげて、大袈裟な仕草で腕を組んだ。
「よく見なきゃ分からないか?ものすごく気合を入れてきていたとしたらどうするんだ。あ、ダメだ今の発言で泣くかもしれない」
「気合を入れてきたんですか?」
「ノーコメントだ馬鹿やろう」
そう言って婚姻届を指でとんとんと叩く先生は、いつもより少し声が高い。
「これ書かないと帰さないからな」
これもまた、先ほどから何度も聞いたセリフだ。
「だって先生、俺と先生は付き合ってるわけでもないし、そもそも教師と生徒ですよ。ダメなんじゃないですか」
少なくとも、あまり人様に向けて堂々と言えるようなことではないだろう。個人的にありかなしかで言えばあってもいいとは思うが。
「ダメなことあるか」
そうは言いつつも堂々としていられないのは先生も同じようで、授業中よりも難しい顔をしながら、背もたれに預けていた身体をこちらに乗り出してテーブルに肘をついた。
「教師と生徒が教師と生徒なのは校内だけだ。一歩校舎の外に出ればもう男と女。愛と同意があればどうにでもなる」
自分に言い聞かせるようにうんうんと頷く彼女は、やはり授業中よりも真剣な表情に見えた。
「やっぱり同意が必要だっていうのは分かってるんですね」
「そんなのは常識だろう」
「でも未成年ですけど」
「それは追い追い」
「愛はどうなんですか」
「あるだろ。お互いに」
なんとなく会話の流れで頷きながら、うっかりやり過ごしそうになって俺も身体を乗り出した。
「え、先生、本気で言ってるんですか」
愛があるというのは、つまりそういうことだろう。婚姻届にサインをさせようというのもそういうことだ。
「本気だぞ。大いに本気だとも」
自分には愛があると胸を張り、だからこそお前にも自分への愛があるだろう、と俺を指差す。
「分かっている。私は分かっているよ、君が私のことを好きで好きでたまらないことくらい、かなり前からお見通しだ」
「いや……」
「違うとは言わせない」
先生がさらに身を乗り出して、俺に顔を近づける。俺は、なんだか身体が緊張してしまって、彼女との距離をとるチャンスを逃してしまった。
先生が好きかと言われれば、たしかにそうだ。美人だし、ためになることを教えてくれるし、話は面白いし。今のように頻繁に会話をするようになる前はもっと冷たい印象を持っていたが、このところはそんなこと少しも思わない。むしろ、少し子どもっぽいくらいだ。そんなところがまた、この人ともっと話していたいとか、もっとこの人のことを知りたいとか思うような気持ちにさせる。
それを先生が言うところの愛だとするならば、俺にだってある。
「……たしかに、そういうところありますね」
だが、愛があるからといって、ここでそれを全て肯定してしまうのはいけない気もする。
教師と生徒なのだから。
「でも先生、俺はまだまだ十七のガキですよ」
先生がそれでいいと言っても、きっとどこかに必ず綻びが生まれる。何かアクシデントがあったときに、俺よりも先生の方が責められやすい。それくらい、教師と生徒、未成年というのは強大な壁なのだ。
「先生はほら、もっと大人の付き合いというか……」
こんな高校生の子どもじゃなくて、もっと年齢に相応しい、落ち着いた相手を探したらどうだろう。そんなことを言おうと思ったのに、目の前の顔は俺の言葉を遮るように額をぶつけてきた。
「私は君が大人になるまで待ちたくないんだ。今のうちに私のものにしておきたいんだよ」
予想外に強い衝撃にくらくらしながら、先生の言葉を聞く。
「私だって君が未成年なことくらい分かってるし、教師が未成年と交際するというのがどれほどデリケートなことなのか、考えたこと、ないわけ、ないだろう、おい、分かってんのか」
声に合わせて何度も額をぶつけられて、最後の方はほとんど聞いていなかった。
「先生、ちょっと今日おかしいっすよ……」
視界をキラキラさせている謎の現象にくらくらしながら言い返すと、彼女は額をくっつけたままの俺の頭を両手でおさえた。
「おかしくない。むしろいつもの私がおかしいんだ」
「いつもと違うなら結局のところ今日おかしいじゃないですか」
「生意気なことを言うな、馬鹿者め」
君のそういうちょっと意地悪なところがどうのこうの、なんてぶつぶつ言いながら、彼女が俺から顔を離す。
離れる瞬間、ちょっと顔が近くなって、唇のあたりに変な感触があったような気がした。
「……あの」
「そういうところだぞ!」
「えっ」
頬を少しだけ赤くして、彼女が俺の胸に人差し指をあてる。あてるというか、そのまま突き刺すのかと思うくらい、とんとん叩いてきた。
「そういうところが、私は、うんと、あれだよ、そういうねぇ、大人をからかうような、そういうところがダメなんだ」
「なに言ってんですか?」
彼女の言葉はほとんど日本語になっていない。そんなことよりも、たったいまの彼女の行動が誰かに見られていないか、俺はさっと周囲に視線を走らせて確認した。
大丈夫。誰も俺たちに注目していない。
「キョロキョロするな、悪いことしてるみたいじゃないか」
そんなことを言いつつ、彼女も軽く周りの目を気にして肩をすくめる。
「悪いことじゃないんですか」
「グレーゾーンだ。しかもパッと見は分からない」
こうして私服で普通にしていれば誰も教師と生徒だなんて思わない。そう呟く姿は、やっぱり自分に言い聞かせているみたいだ。俺はそんな彼女を見ながら、軽く指で自分の唇に触れる。ほんのりと暖かい。まあ自分の体温だろうが。
「それで」
初めての経験が不意打ちだったのは本意じゃないが、柔らかかったなぁなんて思っていると、彼女が軽く咳払いしてから俺を睨んだ。
「どうするんだ。ここまでさせておいて」
頬にかかった髪の毛をかきあげつつ、彼女は口を尖らせる。
「ここまでって、みんな先生が自分からやったことなのでは」
「やかましいな。なんだよ、いいじゃないか。好きなんだよ、分かるか?いい歳こいて恋したんだ、ふざけるな、どうしてくれるんだ」
「ちょっとキレてるじゃないですか……」
あーあー、と投げやりに吐き捨てる彼女の声が少しだけ大きくなる。このままでは、周囲から注目されてしまう。
「終わったな、私の恋が終わった。悲しいなぁ、本気だったのになぁー、切ないなァー!教師じゃダメかァー!」
「ちょちょ、ちょっと待っ……声がでかい!」
あまり不用意なことを口走られると問題なので、俺は咄嗟にテーブルの上のペンを持った。
その瞬間、彼女の瞳が爬虫類も驚くような速度で俺を捉える。まさしく、キラリと効果音がして光るくらいの俊敏さだ。
「サインしてくれるのか」
「あ、いや……」
ついペンをとったが、もちろんサインなんて出来るわけがない。
「保留……とか?」
「保留だと」
「とりあえず今日のところは、みたいな」
通るわけがないと思いつつ、そんな提案をしてみる。
しかし、彼女は案の定うんざりした顔でため息をついた。
「そんなことで私が納得すると思うかね。参ったな、大人だよ、私は。そういうのはいつのまにかなかったことになるっていうのよく知っているんだ」
ーーー
結局、サインさせられてしまった。
信じられないことだが、本当にサインしてしまったのだ。
「まあ、形に残る口約束みたいなものだ」
喫茶店を出て、見たことないくらい上機嫌な彼女が自分の鞄を撫でながら笑う。あのなかに俺のサインした婚姻届が入っているのだ。
「形に残ったら口約束じゃないですね」
「細かいことを気にする男はモテないぞ。私は大歓迎だが」
曰く、とりあえずサインだけしておいて、俺が結婚できるようになるまで(年齢的な問題だけでなく、大学や就職など、人生設計として結婚も視野に入れられるようになるまで)彼女が保管しておくということらしい。こうして考えてみると腑に落ちないなんてもんじゃないが、「これでどうだ、これでいいだろう」なんて熱弁されていた時は、これでいいんじゃないかと思ってしまったもんだから不思議だ。詐欺の手口だ。
俺の前を歩く彼女が楽しそうなのは結構。嬉しそうににこにこしているのも学校では見られないし、その笑顔がこの瞬間は俺にだけ向けられているというのもなかなか良い気分ではある。
しかし、だ。このままだと有耶無耶かつ曖昧になりそうなので、ひとつだけはっきりさせておこうと思う。
「……あの」
うきうきしながら歩く背中を呼び止めると、彼女は見てるだけで身体がむずむずしそうな笑顔でこちらへ振り向いた。
「なんだね。何か気になることでも?」
「まあ全部気になるんですけど、とりあえず一個だけ」
「うん」
「その紙が先生の手元にあるってことはですよ、俺はこれから、彼女とか作っちゃいけない感じのパターンのやつですよね」
「なるべく、ね」
彼女はうんうんと頷いて、そそくさと俺の隣に並んだ。
「彼女作るんなら私でもいいんだ、なんなら最初から最後まで私だけにしたっていいんだよ」
そう言いながら、俺の手を強く握って歩きだす。
離してはくれないみたいだ。
「なんで俺なんですか」
引っ張られて、遅れないように足を動かしながら尋ねると、彼女は髪をかきあげながら笑う。美しい瞳がすっと細められて、柔らかい風に黒く長い髪の毛が揺れた。
なんだか、初めて会ったあの日のことを思い出しそうになる。
「あの日、君は自転車で転んだね」
彼女の口から出てきたのも、初めて会った日のことだった。
「恥ずかしい思い出です」
彼女があまりに綺麗だったから、あのとき、俺は……。
「君は、私に見惚れてて転んだんだろう」
「えっ……」
まさか、バレていたか?
少しだけ心臓が早くなる。なんだか恥ずかしかった。
「私を見つめたまま自転車ひっくり返したアホがいたものだから。もうおかしくっておかしくって」
「バレバレだったんですね」
「あの日からずっとね。君が可愛くて仕方ない」
俺が彼女に目を奪われたあの日、彼女もどういうわけか俺と同じようなことになったらしい。それがなんだか、言葉にしにくいちょっとした熱を持って胸をくすぐった。だから、握るというよりは掴まれている手に、俺も少しだけ力を入れてみる。
俺から握り返されるなんて思ってもみなかったみたいに、彼女の手が震えた。それでも、すぐにまた力が入る。
「積極的になってきたね」
「……ちょっとくらいは前向きに考えようかなって」
「まあ私がいなきゃ彼女も嫁も一生縁がないだろうしな」
「クッソ、クッソ!離してください!」
振りほどこうとしても、彼女の手は離れない。
いろいろと考えなければならないこともあるだろうが、とりあえず今日だけくらい、このままでいいかもしれない。
まだ休日は終わっていない。
一日くらい、こんな休みがあってもいいだろう。
おしまい