9話
暑い日差しの中、私は花と水がバケツを持って歩いていた。同じような石が並ぶ中、何度も通い慣れると、頭より足が先に動く。すれ違う人にお辞儀をして、私も香奈枝の元へと向かった。
掃除をしたあと、花を差し替えて水をゆっくりと掛ける。線香にも火をつけたあと、私は中腰になりながら手を合わせた。
「久しぶりだな。香奈枝。と言っても仏壇では会ってるが。そっちはどうだ?」
私は香奈枝の文字が刻まれた墓石に向かって語りかける。もちろん返事は返って来ないが、香奈枝がそこにいる気がする。
「私は元気でやってるよ。まぁ歳のせいか、最近体は鈍っているけどな。それと、今日は報告があるんだ」
何?と香奈枝が続きが気になっている。そんな光景が目に浮かぶ。
「多分少しの間こっちに来れないと思う。実は明日にな。少し日本を離れるんだ」
そう。香奈枝はそれだけで何も言わない。ただ柔らかく微笑む表情が、私は嬉しかった。まるで全てを悟ったかのようだった。
「あぁ。だから安心してくれ。約束だからな。私たちの娘は私が護るって約束だ」
あの緊急手術も無事に成功した。私はもちろん、先生も涙を流して喜んでいた。後を任せた益岡さんにも伝えると、あの人も我が事のように喜んでくれた。
ただ、安定するようになっただけで、いや小康状態に近くまだ不安要素は残っている。やはり私が頑張らないといけないと強く思って大体ひと月ほどだったと思う。
平坂さんがぽっくり逝ってしまった。会った時は、一緒に花札をした時なんかまだまだ元気そうだったのに。後から聞けば、平坂さんも相当な病気を患っていて、それも深刻な状態だったらしい。紗也佳と違い、もう手の施しようがないそうだった。
「十分生きてきたが、これからも十分生きる」
それが平坂さんが遺した言葉だった。ただ周りにはそう言っていたものの、自分の死期を覚悟していたようだ。
それを決定付ける一つが、私に送られた手紙だった。その内容は、今でも驚いている。平坂さんの財産を、全て紗也佳に譲るといったものだ。
ほとんど病院暮らしで、金はあっても意味はない。家族も早くに亡くして独り身だったんだそうだ。自分が死んで国のものになるくらいなら、紗也佳ちゃんの治療費に充ててくれ。あの娘も儂の孫みたいなものだからな。
それが手紙の内容だった。
本当に、あの人には頭が上がらない。まさか、平坂さんの財産だけで事足りるとは思わなかった。
「それじゃあ、行ってくるよ。今度は多分、紗也佳も連れて来れると思う」
報告を済ませて私は重い腰を上げた。ゴミとバケツを手にまた来た道を戻ろうとした時、携帯が鳴り響いた。荷物がある為、少し戸惑いながら出ると、紗也佳からだった。
「お父さん、今どこ?」
「今お母さんの墓参りをしたとこだよ。あと平坂さんにもお礼を言ってからそっちに行くよ」
「うん、分かった。待ってるからね」
「あぁ」
そうだ。香奈枝。もう一つ、報告しておくことがあったんだ。紗也佳の奴、最近少し変わってきたみたいでな。思ってたより甘えん坊かもしれない。ちょっと我儘になった気もするけど、可愛いもんだ。
紗也佳は、ちゃんと護っていくよ。
「約束だよ」
「え……?」
香奈枝の声が聞こえた気がして、私は振り向いた。もちろん誰もいない。香奈枝の墓石があるだけだった。気のせいか。
ふっと笑って、私は来た道を戻り始める。
あぁ、約束だ。