2話
家に帰る頃には、二十三時を回っていた。帰りに寄ったコンビニで、遅くなった夕食を机に並べた。おにぎり二個とからあげ一個だ。冷蔵庫からお茶を出してからそれらを平らげる。
風呂も最低限で済ませる。カラスの行水という奴だろうか。明日も早い。早々に寝る支度を済ませて、私は小さな仏壇の前に正座した。
「香奈恵。私はどうすればいい?」
小さな写真の中で微笑んでいる、死んだ女房に向かって、私は語り掛けた。紗也佳を産んだ後、病を患って逝ってしまった。
まだ覚えている。お前が、まだ生きていたときのことを、ついこの前のように私は覚えていた。
「ごめんね。将ちゃん」
ベッドで横になったままの香奈恵は、私を見て謝罪した。産まれたばかりの紗也佳を抱いた私を見て、開口一番に謝ったのだ。
「何……謝ってるんだ。縁起でもない。この間言っただろ。治すって、絶対治して、俺と、この娘と生きるって……。そう言ったじゃないか」
「うん、言ったね……」
「三人で暮らすんだろ。そう、言ったじゃないか」
「……言ったね。でも……」
「でもじゃない。俺は約束したぞ。ちゃんと聞いた。絶対負けないって言ったじゃないか!」
「でも、私……治らないんでしょ……」
言葉を飲み込んだ。紗也佳を抱く手に力が入ってしまう。目を見開いて、私は香奈恵の顔をじっと見つめるだけだった。
香奈恵の目に涙が溜まるのが見えた。手を焼いてしまう程、気が強い女性だったのに。香奈恵が泣いているのを、この時、私は初めて目にした。
「お前、誰から……」
「ごめん。私が、先生から、無理矢理聞いた。だって将ちゃん……、治る病気だから、頑張ろうって、ちゃんと治そうって、言ってくれたけど、何にも教えてくれないんだもん……」
私は何も言えなかった。本当にその通りだったから。今も昔も変わっちゃいない。怖くて、怖くて仕方が無い。本当のことも言えない只の臆病者だった。
「……ち、違うんだ。香奈恵。本当は治せるんだ。海外の、もっと大きな病院に行けば、治せるんだよ」
「……お金は?」
「それ、は……」
先生から言われたのは、ただただ莫大な医療費。見たこともない、途方もない数字だった。
「知ってるよ。将ちゃんの給料くらい。私が、好きになった人だもん」
「……よ、用意する。今、半分くらい集まってるから。絶対、絶対、用意するから……」
「……うん。ありがとう。将ちゃん」
今思えば、香奈恵は何もかも分かっていたんだと思う。諦めたくなくて、諦めて欲しくなくて、咄嗟についた私の嘘を。半分どころか、雀の涙すら集められてなかったことを。
香奈恵はそれでも、笑って、ありがとうと言ってくれた。そしてそのまま、何も出来ないままに、香奈恵は逝ってしまった。
「最近、お前に似てきた気がするんだ」
写真の香奈恵に向かって、私は語りかけた。こうやって話し掛けるのは、もう何度目になるか分からない。
目元とか。笑った顔とか。本当は意地の強いところとか。それに……。
「……病気までも、似なくてもいいのにな」
理不尽だと思う。愛していた人を失って、今また同じように、私は愛している娘を失いそうになっている。
つくづく嫌になる。あの時十分思い知ったんだ。この世に神様なんていやしない。
「だから香奈恵。私に力を貸してくれ。あの娘は絶対死なせやしない。死なせるものか」
香奈恵、約束は守るから。
お前の代わりにやり遂げる。
今度は、今度こそは絶対だ。