1話
冷える時期だけあって暗くなるのが最近早い。
予定よりも少し延びた仕事を何とか片付け、俺は懸命に走っていた。小さな町には不釣り合いな、大きな病院が見えてくる。歴史があるらしく、この町の人間なら必ずこの病院へ診察に来るだろう。
激しく呼吸が乱れる。若い頃に比べれば体力も相当落ちたものだ。それでも、できるだけ速度を保つ。自動に開かれる扉の動きも待てずに、俺は身をよじってすり抜けた。
「先生」
俺は短く呼んだ。長いことお世話になっている人だ。すぐに通してもらえたし、多少外れた時間も、融通を効かせてもらえていた。
「今日も遅かったね」
診察の部屋に入ると、担当医である叶先生は、きぃと回転椅子を回す。そして、しわくちゃな顔で微笑んだ。眼鏡の奥にある元々小さかった目が、さらに小さくなった。
「すいません」
俺がすぐに頭を下げると、先生は優しく返す。
「いやいいんだよ。鈴原さんが忙しいことはよく分かっているつもりだから」
「そう言って頂けると有難いです。それで、紗也佳の容体は……」
本題に入ると、先生は少し口を結ぶ。優しい表情も強張らせ、時間を要してから、重い口を開く。
「長いこと医者をやっているが、こういう時は慣れないものだね。…… やはりうちではなく、もっと大きな病院に行かなくては……」
「……そう、ですか」
先生の言葉が重くのし掛かる。何も状況は変わっていない。俺がどうにかしないといけないことは、何も変わらないのだ。
「鈴原さん、顔を上げて。私もいいところを紹介出来ないか探してみる。まだ希望はあるよ」
先生の言葉に、私はようやく顔を上げることが出来た。そこには再び、小さな目が皺に紛れるくらいに微笑む、先生の柔らかな表情があった。だったら私も、希望を信じて笑うしかなかった。
「……ありがとうございます」
主な用件はそれだけだ。あとは精々、細かな伝達ぐらいだ。念の為の確認とも言える。当然重要なことに違いはないが、私の頭には、以前からこびり付いていて離れそうもない。今更とも言えた。
私は先生に頭を下げると、出来るだけ抑えるようにして、速やかに歩を進める。何度も、何度も通り慣れた廊下だ。頭よりも足が先に動く。
目的の病室に辿り着くと、私は一呼吸於いた。ドアを開けることを躊躇したのではない。しっかり笑えるだろうかと、躊躇ったのだ。
「紗也佳入るぞ」
病室に掲げられた名前を口にしてから、私は中に入る。無機質な病室は、二人分のベッドがある。一つは空だ。そして、奥にあるもう一つのベッドで、私の娘が笑顔を零した。
「お父さん、お疲れ様」
「ああ。気分はどうだ?」
消灯時間は既に過ぎていて部屋は暗い。だが、ベッド近くで小さく灯りが点いていて、娘の顔がしっかりと確認出来た。
「最近凄く良いよ。咳もないし。絶好調って感じ」
「そうか……」
十一歳になる紗也佳が嬉しそうに話す。私はそれに、努めて笑顔を作った。出来た娘だと思う。仕事で面会時間に来れない私を、この娘はしっかりと出迎えてくれていた。起きている必要はない。寝てていいからと言っても、紗也佳は必ず起きて待っててくれていた。
「今日、おばあちゃんから飴もらったよ」
「そうか。ちゃんとありがとうって言ったか?」
「うん。言ったよ」
「偉いぞ」
紗也佳は私が来ると、自分が見たこと。したこと。思ったこと。してもらったことをたくさん話した。
「あとね、皆でトランプもしたよ。ババ抜きと、あと、お金持ち……だったかな?」
「大富豪か?」
「あ、多分それだと思う」
とても小さな出来事ではあったが、それが紗也佳の日常だった。仕事で疲れた身体も忘れて、私は静かに、紗也佳の話を聴き続けた。
三十分くらいだろうか。紗也佳とひとしきり話した後、私は喉を鳴らした。
「紗也佳……」
「何? お父さん」
決めた筈だ。紗也佳にも言うと。だが、開いた口は、それ以上動かせなかった。言ってしまうと、今の紗也佳も、笑ってくれる紗也佳もいなくなってしまいそうだった。もしそうなったらと考えると、それだけでも私は怖くて、やはり今日も、言えそうになかった。
「いや、……病気、頑張って治そうな」
「うん……頑張る」
一瞬顔を曇らせた紗也佳は、余計な心配はかけまいとしたのか。無理矢理笑顔を作っていた。
「また明日来るよ。おやすみ紗也佳。ちゃんと温かくするんだぞ」
「うん。待ってるね。おやすみ」
音を立てないように、私はゆっくりと扉を閉めた。
「鈴原さん」
外に出た廊下はかなり暗く、声を掛けられるまで気付かなかった。いつの間にか、横には叶先生が立っていた。
「今日も、駄目でした」
「やはり、難しいですね」
自分の娘なのに、娘本人のことなのに、私は何も言えないでいる。
「ええ。私は無力ですね」
「そんなことはない。どちらが正しい選択かなんて誰にも分からないんだから。それよりも、私は私の、鈴原さんは鈴原さんのやるべきことをやりましょう」
「はい、ありがとうございます」
わざわざこうして時間を作ってくださっている先生に、私は深々と頭を下げた。