襲撃
「どうかしたんですか?」
聞いたことのある声。その黒い影は、ナースステーションから漏れた明かりで徐々に掻き消え、隠れていた素顔が露になった。斎藤医師だ。
「それが……、この患者さんが、誰かにつけ回されていると……」
驚いたように目を丸くする医師。
「それで?」
「調べに行きましたけど、別におかしなところはありませんでした」
「信じてください!」
俺は斎藤医師を訴えかけるように見たが、医師は困惑したように頭を掻いて俺に近づいた。
「きっと、疲れてるんだよ。病院だと幽霊話もよく聞くし、それでたまたまそこにいた人を見間違えてしまったんだろう」
斎藤医師は俺を宥める様に肩に手を置いて、優しくそう言った。無理もない。こんな話を素直に信じるほうがおかしい。ようやく少し落ち着いてきて、「部屋に戻って、早く休んだほうがいい」という斎藤医師の言葉に俺は立ち上がり、看護師に連れられて部屋に戻った。あれだけ頑なに開かなかったドアは嘘のようにすんなりと開いた。やはり疲れていただけなのか、ベッドに横になると、とてつもない眠気が襲ってくる。俺の意識は睡魔のなすがままだった。
眠っていると、足音で目が覚めた。部屋の外から聞こえてきているようだ。まだ夜も明けていない時間。誰だろうかと、聞き耳を立てていると、その音は俺の病室の前で止まった。ドアが開く音。俺は頭から布団を被り、中に潜り込んだ。しかし、足音がさっきよりも鮮明に聞こえてくる。ベッドの前で止まり、カーテンが開く音。
また、父かもしれない……。
俺はそんな風に自分の都合のいい解釈をして、怖々と布団を下げていった。そこにいたのは、父ではなかった。黒い影。俺を追ってきていた、黒い影だ。輪郭がぼやけていて、この世の生物とは思えない。人の姿にも見えるが、ゆらゆらと陽炎のようにその形は不安定だ。今まで散々子供騙しだとバカにしてきた噂話が、頭の中をよぎる。黒い影に捕まると、死ぬ。
その影は、俺の首に手を伸ばす。逃げようと身体を動かそうとするが、金縛りにあったようにガチガチになって言う事を聞かない。黒い影は俺に近づき、この世の者とは思えないような、喉が張り裂けているのではないかと思うほど、酷く掠れたノイズのような音を浴びせかけた。
「こ……ろ、す」
全身に寒気が走った。不快な音。首に伝わる冷たい感触。影は手に力を加えていく。呼吸ができない。目から滲み出た涙が頬を流れる。影が歪んだ。意識が朦朧とし始めた。しかし寸前で、身体の硬直が解けた。黒い影を振り払い、文字通り飛び起きると、既に朝になっていた。鳥の鳴き声。窓から差し込む朝日。もう見慣れたこの景色が、こんなにも安息をもたらしてくれるとは思わなかった。服だけでなく、シーツも汗でぐっしょり濡れていた。
あれは、夢だったのだろうか。しかし、首に残った感触は妙にリアルに感じられた。
それからしばらく、物思いにふけってぼうっとしていると、斎藤医師が部屋に入ってきた。
「やあ、大丈夫かい?」
「ええ……、ただ、変な夢を見まして……」
「変な夢?」
「はい……、昨日、俺を襲ってきた奴が、俺を殺そうとする夢を……」
そう言うと、斎藤医師は深刻そうな顔をした。
「その……、君を昨日つけ回したっていうのは、どんな奴だったんだ?」
昨日の様子を思い浮かべたが、黒い影という印象しかなかった。
「暗いせいで、よくわかりませんでした。俺よりは、背が高かったように思いますけど……」
「そうか……、まあ、とにかく、リハビリはまた明日にして、今日はゆっくり休んだほうがいいよ。じゃあ、僕は他の患者さんの様子を診に行かないといけないから、これで」
斎藤医師はそう言うと、部屋から出ていった。
汗をかいたせいか、喉が渇いたので例のように自動販売機に買いに行く。すると、談話室からこの間の女性の声が聞こえてきた。
「昨日も出たらしいよ、黒い影。また患者さんが一人亡くなったみたい」
一昨日に聞いたときには、辟易していたはずの話が、今は他人事に思うことができないでいた。無意識のうちに、耳をそばだてている自分に気付いた。先が気になったので、談話室の隅の椅子に座って、新聞を読むふりをして、女性の話に聞き耳を立てた。
「そう、あのイケメンの斎藤先生の患者さんなんだって。確か……東っていう人だって言ってたわ。まだ若いのに、ツイてないわよね」
東……。まさか、そんな。きっと、同じ名字の別人だ。
「で、その患者さんの容態が急変する前に、黒い影を見たっていう他の患者さんがいたらしいのよ。なんでも、その影につけまわされたとか」
聞きながら、それは俺の事だろうとわかった。恐らく、看護師のどちらかが喋ったのだろう。
そのあと、女性は雑誌のゴシップ記事の話を始めたので、俺は新聞を片付けて談話室を出ていった。東のことを確かめるために、ナースステーションへ向かうと、昨日の西岡という看護師がいた。
「あ、あの……、東くん……、東秀斗くんは、いつ頃退院することになってるんですか?」
不自然にならないように、なるべく遠回りに彼の生存を確認する。
「東くんのこと知ってるの?」
「ええ、高校時代の同級生で」
「そう……。実は、東くん、ほんとにもうすぐ退院だったんだけど、昨日の夜、急に容態が悪くなって、それで……」
それ以上、西岡は何も語らなかった。しかし、それだけでわかった。やはりさっきの女性の話は東秀斗のことで間違いなさそうだった。昨日会ったときには、あんなに元気そうだったのに。信じられなかった。
旧友の死で、気持ちがすっかり沈んでしまった。
病院にいると、死というものが身近に感じられる。でもそれも、赤の他人の俺とは全く関係のない死だった。見知った人間の死が、これほどまでに心に喪失感を与えるものだったとは……。
俺は肩を落として、病室に戻った。
その日の夜。俺は、またもなかなか寝付けずにいた。今朝見たリアルな夢のせいでもあった。目を瞑るのが怖かった。寝てる間に、黒い影に襲われるのではないかという考えが、頭にこびりついて離れないのだ。それに東のこと。
ただの幻覚。幽霊話に半ば洗脳めいた状況にさせられて、たまたまそこにいた誰かを見間違えただけ。今朝のこともただの夢だ。彼の死も、運が悪かっただけだ。
そう言い聞かせても、嫌な予感が消え去ることはなかった。そんなふうに考えてばかりいると、急に催してきてしまった。しかし、昨日の今日であまり病室の外に出たくはなかった。とは言え、すぐに我慢の限界を迎えて、仕方なくトイレに向かった。周りに注意を払いながら、慎重に向かう。しかし今夜はそれもただの取り越し苦労だったようで、何事もないまま部屋まで戻ってこれた。しかし、ドアを開けると、俺のベッドのそばに誰かがいた。
咄嗟に身を隠す。隙間から覗いてみると、昨日と同じ奴だとその雰囲気で分かった。そいつは空になった俺のベッドを眺めている。
こちらには気付いていないようだった。部屋へ戻るのは諦めて、ナースステーションへ助けを呼びに行こうとした時、うっかり松葉杖をドアに当ててしまった。
鈍い音が反響する。
気付かれた。影が近づく。
大声を張り上げようとした次の瞬間、側頭部に強い衝撃が走った。その勢いで、身体が横に倒れこむ。ガンガンと頭を激痛が幾度となく突き抜ける。手で押さえると、その部分が異様に変形しているのがわかった。生温かい感触が指に伝わる。
血だ。暗くてハッキリとは分からないが、鼻を刺すような鉄の臭いがする。わずかに差し込んでいる光で手についた血がぬらぬらと光った。
殺される……!
それはもう見間違いでも勘違いでも幻覚でもない。厳然たる事実だった。
心臓の鼓動に合わせて、頭から血が溢れてくる。
俺は助けを呼びに、ナースステーションへ向かおうとしたが、それを目の前に立ちふさがった、黒い影が制する。
這うようにして壁まで近寄り、手すりにしがみつくようにして立ち上がる。足元が覚束ない。腕の力でどうにか前へ進む。奥の階段までのたった数十メートルが異常に長く感じた。
ようやく階段の目の前まで来たその時、再び頭を殴られた。頭蓋骨が砕ける音が耳に響く。血液が足りずに、ぼんやりとしてきた頭は、叫び声を上げようとさえしない。そのまま床に前のめりに倒れこんだ。
とにかく立ち上がろうと、手すりを掴む。朦朧とする意識の中、よろよろになりながらも地に足をつける。そんな俺に静かに近寄る影。
限界だ……。もう、逃げられない……。
出来る限り、影から逃れるように、背後の壁に張り付く。影はさらに近づいてくる。窓から差し込む月明かりの下で、その影が次第に薄れていき、その下から現れた顔に、俺は目を疑った。