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病院の噂話  作者: 東堂柳
2/5

接触

 夜が明けた。あまり寝られず、体がだるい。

 今日はリハビリがある。看護師に呼び出され、一階のリハビリルームへと連れていかれた。ここで足のリハビリを行う。よくドラマで見るような、平行棒の手すりを使ったものだ。早くリハビリをして足を治したいが、気持ちばかりが急いて、なかなかうまくいかない。担当のリハビリスタッフにも


「落ち着いて、一歩一歩しっかりと焦らず進みましょう」


 と言われるばかりだ。

 その時、リハビリルームに白衣を着た長身の男が入ってきて、俺を見つけると話しかけてきた。


「どうだい? 調子は?」


 この男は俺の担当の外科医、斎藤明彦だ。面倒見がよく腕も確かで、周囲からの評判も上々の医師だった。歳は三十で流石に俺とはそれなりの差があるが、他の入院患者と比べればむしろ近いほうで、数少ない俺の話し相手になってくれる一人だ。顔立ちもよく、独身だということで、女性患者や看護師の何人からは狙われているという話を耳にする。


「ああ、だいぶいい感じです」


 俺の言葉に安心したような顔をして医師は頷いた。


「ならよかった。この調子で続けていきましょう。でも、やり過ぎもよくないからね。焦りは禁物だから」


 斎藤医師はそれだけ言うと、リハビリをしている他の患者に話しかけに向かった。

 確かに彼は独身だが、既に彼女がいるということを彼自身から聞いていた。どうして隠しているのかと聞くと、隠しているつもりはなかったが、独身だという話が尾鰭を引いて、いつの間にやら彼女もいない人間だという設定になってしまったのだという。今更本当のことを言っても、まるで騙していたみたいになって悪いし、そのことで評判が落ちるかもしれないから未だに打ち明けられないでいる、と。

 病院という閉鎖空間では、噂の広まり方は世の中のそれよりも段違いに早い。娯楽の少ないこういう所では、そういう噂話だけが楽しみになってしまう人も多いからだ。

 斎藤医師も外面を気にする人なのかと、その時は少し意外だった。だが、父から聞いた話によれば、評判というのは医者の生命線のようなもので、悪い評判ばかりが広まれば、廃業に追い込まれてしまうことも少なくない。特にネットが整備された現代では、悪い噂は良い噂よりも圧倒的に早く広まる。それ故に、ちょっとしたことでも命取りになるし、同業者が陥れるために根も葉もないガセネタを言い触らすこともあるのだという。


 今日のリハビリが終わって病室に戻るときにロビーを通りかかると、後ろから声をかけられた。


「あれ? 真田?」


 振り返ってみると、点滴スタンドを片手に持った、ぼさぼさ頭に黒縁メガネの男が立っていた。


「……もしかして、東か?」


「そうそう、高校の時、同じ部活だっただろ? 覚えてるよな?」


 話を聴いているうち、徐々に思い出してきた。東秀斗。彼が言った通り、高校時代の同級生で、俺と同じ軽音楽部に所属していた。彼は理系の単科大学に進んだため、卒業後はなかなか会う機会がなかったのだ。しかし、思い出してから彼の姿をよく見ると、卒業から二年も経ったが高校時代とほとんど変わっていないように見える。


「もちろん。まさかこんなところで会うなんてな……。ってか、どうかしたのか?」


「ああ、ちょっと病気でね……」


 彼は肩を竦めた。


「いつから?」


「二週間くらい前かな」


 彼は思い出すように空を見てから言う。


「大丈夫なのか?」


 訊いてもいいのかわからなかったが、気になったのでおずおずと尋ねてみた。だが、その心配をよそに、彼は笑みを浮かべて答えた。


「ああ、もうだいぶいい感じなんだ。そろそろ退院できるかもってさ」


 ホッと心の中で胸をなでおろす。


「そっか、そりゃあよかったな」


「真田は骨折か? まあ、俺のほうが早く退院することになるかもしれないけど、よかったら部屋に遊びに来てくれよ。時間ができたらそっちにも行くからさ」


 東は自分の病室の場所を教えてくれた。この病院は上から見るとカタカナのコの字型をしており、彼の部屋は三階で、俺のいる棟の丁度向かい側の部屋に位置していた。かなり遠いが、リハビリ代わりに行ってみるのも悪くない。


「ああ、わかったよ。じゃあ、また後でな」


 俺は彼に別れを告げて、ロビーを離れた。

 東がこの病院にいるとは知らなかった。しかし、これで少しは退屈をしのぐことができると、少しうれしくなった。

 部屋に戻る際に、談話室から声が聞こえてきた。あの中年女性の声。飽きもせずに、例の黒い影の噂話を得意げに話している。


「……そうなのよ。昨日も出たらしいのよ。容態は安定してたのに、急に発作を起こしたとかで……」


 俺はもう気にもせずに、病室に戻った。これ以上毒されたくなかった。



 この日の夜、俺は急に目が覚めて、トイレに行きたくなった。用を済ませて、病室に戻っている時、背後に視線を感じた。暗い廊下。昼間でも静かだが、夜になると不気味なほどの静寂が支配している。だが、後ろに誰かがいることは分かった。恐る恐るゆっくりと振り返ると、少し離れたところに黒い影が立っている。


「誰だ?」


 返事はない。影が接近する。禍々しい気配。暗くてその姿ははっきりとはわからないが、少なくともまともな奴ではないことは明らかだった。俺は病室に逃げようと前に向き直り、歩き出そうとしたが、少し焦っていたのか、バランスを崩して転倒した。松葉杖が廊下に倒れる音。


「痛っ」


 声が漏れる。手で受け身はとれたが、痛みが走る。振り返ると、影がさらに接近している。


「く、来るな!」


 と、少し声を張って牽制しようとするが、相手は動じる様子もない。じりじりと距離を詰めてくるばかりだ。最早悠長に松葉杖を拾っている余裕はない。壁の手すりを支えに立ち上がり、どうにか前へ進む。

 捕まってはならない。そんな気がしたのだ。あれは、いったい何なのだろうか。

 やっとの思いで自分の病室の前まで来たが、鍵がかかっているのか、力を加えても開こうとしない。自分で鍵をかけた覚えなどなかった。


「くそっ、開けよ!」


 力任せにこじ開けようとするが、無駄な努力だった。そうこうするうちに、影が再び俺に近づいてくる。俺はもう、病室に隠れることを諦めて、影から逃げるように奥の階段へ向かった。足が思い通りに動かず、階段を下りるのにも時間がかかる。そのもどかしさが焦りに繋がり、さらに足がもつれた。

 手すりを掴む手に力を加え、どうにか落ちないように気張る。転げ落ちることは免れたが、追い付かれてしまう。俺は急いで再び階段を下り始めた。しかし、一階の廊下に黒い人影が伸びている。影の主は壁に隠れて見えないが、奴に違いなかった。先回りされたのだ。見つかる前に下りてきた階段を逆戻りする。再び2階の病室に戻ってきたが、やはり鍵はかかったままのようで、扉はびくともしない。このまま廊下を進んで、突当りを左に曲がれば、その先にナースステーションがある。消灯時間をとっくに過ぎているので、看護師が誰かしらいるはずだ。急いでそこへ向かう。角を曲がると、ナースステーションの明かりが廊下に漏れている。心底安心した。助かったのだ。倒れそうになりながらも到着すると、やはりそこに看護師がいた。


「どうかしましたか?」


 ただならぬ様子に彼女は駆け寄り、俺の身体を支えてくれた。


「だ、誰かにつけられて……、助けてください……」


 その言葉で、看護師は俺が来た方の廊下を一瞥した。そして、もう一人の看護師に


「悪いけど、西岡さん、見てきてくれない?」


 と頼んだ。頼まれた西岡という看護師は嫌そうな顔をしていたが、渋々懐中電灯を持って、調べに向かった。しかしすぐに俺が落とした松葉杖を手に戻ってきて、


「誰もいなかったよ。夢でも見たんじゃないの?」


「そんなはずありません! 確かに、誰かに追い回されたんです!」


 するとそこへ、暗闇の広がる廊下から黒い影が現れた。

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