檻の外へ
9月24日の「ゴリラの日」を記念して開催された清坂正吾様主催の個人企画『ゴリラパーティー』の参加作品です。
【檻の外へ】
「「「ウホォォォォォォッ!」」」
観覧場所よりも低く作られた中央の広場では、今日も大盛況のショーが繰り広げられていた。
父さんを筆頭に、母さんも、弟や妹たちも、みんな揃って胸を力強く叩いている。
リズムを合わせた軽快なドラミングと、コミカルなステップ。
観覧デッキの上から見下ろす人間たちが歓声をあげ、手を叩く。
──人間たちは、柵のあちら側から笑っている。
──俺たちは、柵のこちら側から人間を見ている。
誰が、どちらを檻に入れているのだろう。
一、二、三――。
俺はそこから遠く離れた日陰の鉄格子に足をかけ、一人で黙々と腕立て伏せを繰り返していた。
上腕の筋肉が軋み、汗が黒い毛並みを濡らしていく。
「あっちのゴリラ、全然踊らないね」
「運動してるだけじゃん。可愛くないなー」
観客のひそひそ話が耳に届く。
「ウホ(ふん、勝手に言ってろ)」
俺たちは動物園で飼育されているゴリラの群れ。──だが何故か俺は、子供の頃から人間の言葉が理解できた。
なので余計に、人間に媚びて踊る家族の姿を冷めた目でしか見えなかったのだ。
(──俺はいつか、この檻を出る……)
そう心の中で呟き、観客に背を向けた。その時だった。
「そんなことないですよ!」
明快で元気な声が響いた。若い女性飼育員のアスカだった。
「あの子はね、ゴウっていうんです! いつも力強くて、すっごくかっこいいダンスを見せてくれるんですよ!」
彼女は観客たちに爽やかな笑顔を向けながら、俺を指さした。
「ウホウホ(……は? 誰がかっこいいダンスだ? 俺はトレーニングをしていただけで、媚びるダンスなんて踊った覚えはないぞ)」
そんな俺の言葉など気にせず、アスカが弾けたような笑顔で手を振る。
「ほら、ゴウ! みんなに見せてあげて!」
その言葉につられ、ヘラヘラ笑っていた観客ちの視線がこちらに向けられる。
「……ウホッ(ちっ、仕方ない)……」
俺はため息をつきながら、ゆっくりと立ち上がり、広場の中心へ歩み出た。
そこまで言われたのなら、観客どもに「本物の力」ってやつを教えてやらないと、あいつの顔がつぶれるだろう。
「ウホォォォォォォォォッ!!」
ドドドン! ドドドドドンッ!
俺の吠え声と共に、爆音が園内に轟いた。
鍛え抜いた大胸筋を脈動させ、大地を揺らす渾身のドラミング。
衝撃波で室内観覧場所のガラスがびりびりと震える。
「きゃーっ! すごい迫力!!」
歓声が一気に跳ね上がる。俺はしたり顔で胸を張り、チラリとアスカを見た。
「さすが、ゴウ! ゴリラの中のゴリラ! まさにキングのコングね!」
彼女は目を輝かせて拍手を送っていた。
「ウホッ(ふん、当たり前だ)!」
俺は誇らしげに両腕を掲げて見せると、観客たちから拍手が巻き起こった。
──俺が身体を鍛えている理由は、観客を沸かせる為でも、ただ外に出たいからだけじゃない。
かつて俺は、人間たちの「手」が大嫌いだった。
毛の一本すら生えていない、青白くて薄っぺらい皮膚。
自力で木の一本も登れそうにない、か細く頼りない指先。
爪すらも丸く退化し、何かを殴れば自分から砕けてしまいそうな、弱々しいだけの部位。
「ウホ(ヘラヘラと……そんなもやしみたいな手で、俺たちの前に現れるな……)」
特に、新しくやってきたアスカの手は見るに堪えなかった。
出会いは、三年前の春だった。
初日、アスカはバケツを抱えたまま落ちていたバナナの皮に足を滑らせ、水を盛大にぶちまけた。
その拍子にバナナの皮が宙を舞い、俺の顔面に張り付いた。
更にはアスカの手から離れたバケツが俺の後頭部を直撃した。
ずぶ濡れの俺はバナナの皮を、無言で食べた。
「ご、ごめんね! 怪我、ない!?」
真っ赤になって頭を下げる彼女に、俺は背を向け──無視をした。
(……使えない人間がやってきた……)
それが第一印象だった。
その後も、アスカは毎日何かしら失敗した。
「ウホッ(爪すら尖っていない軟弱な手で、この俺を世話する気か。えらそうに食べ物を差し出してくるな。不快だ)」
その華奢な指先でバナナを差し出されるたび、俺は激しい嫌悪感を覚えて背を向けた。
あんなか弱い手で触れられたら、自分の体が弱り、腐ってしまうような気すらしていたのだ。
俺たちを閉じ込めるくせに、あまりにも脆く、あまりにも無力な人間の手──俺はそれを、心底見下していた。
一見同じように見えるゴリラでも、それぞれ果実が好きな者もいれば、葉っぱが好きなヤツもいる。
──アスカは、そんな区別も長い時間をかけなければ覚えられない。
少食なヤツもいれば、放っておいてくれる方が好きなナイーブな者もいる。
──アスカは、努力とタイミングが見事に空回りする人間だった。
鍵をかけ忘れて先輩に叱られる。掃除中に自分で滑って尻もちをつく。
そっぽを向き続けて、三か月。
「おはよう。今日もよろしくね」
それでも翌朝には、必ず檻の前に立っていた。
俺は返事をしなかった。
──ある夕方、遅くまで残っていた彼女が、檻の前にしゃがみ込んでいた。
先輩に叱られた後らしい。
膝を抱えて、鼻をすすっている。
「向いてないのかなぁ、私……。他の子たちには懐いてもらえたけど……あなたには嫌われてるみたいだよね?」
俺は聞こえないふりをした。
「でもね。ここの子たちがご飯を食べてくれると、嬉しいの。……あなたが一本でもバナナを食べてくれたら、今日は頑張ったなって思えるの」
彼女は涙を拭って、笑った。
「明日も来るね。あなたが認めてくれなくても」
その笑顔が、なぜか胸に残った。
翌朝、俺は初めて、彼女の差し出したバナナを目の前で受け取った。
(……諦めないオマエの、その強さだけは認めてやる……)
アスカは目を丸くして、それから泣きそうな顔で笑った。
「……ありがとう。ねえ、あなたのこと、ゴウって呼んでもいい? 名簿には『4号』としか書いてないんだもん。剛って字で、ゴウ。強くて優しそうだから」
勝手な名前だ。俺は眉間にシワを寄せたが──その日から、俺はゴウになった。
更なる転機が訪れたのは、その翌年の春だった。
俺たちがもっと自由に動き回れるよう、立体的な屋外運動場を拡張する工事が始まった。
「ゴウ、見て。これならみんな上まで登れるよ」
アスカは子供のように目を輝かせていた。
みんなのために、安全で頑丈な資材や設備を必死に考え、悩み──そして選び抜いた。
そして秋、大型の台風が街を直撃した翌朝のことだ。
夜通し風が吠え、檻の屋根が軋んだ。
強風で煽られた足場が揺れ、仮置きされていた太い丸太がロープから外れかかっていた。
「危ないっ!?」
アスカが様子を確かめに、檻のすぐ横の作業通路へ入った時、先輩飼育員が叫んだ。
人手が足りなかった。
誰も、彼女ひとりを止められなかった。
みしり、と音がした。
丸太が、ずるりと滑る。その真下に、アスカがいた。
「ウホッ(アスカ)!!」
考えるより先に、身体が動いていた。
俺は全力で鉄格子に体当たりをかまし、右の拳を突き出すようにして落ちてくる丸太を殴り飛ばした。
「ウ……ゴォォォォォッ!」
骨が軋み、肉が裂ける。
「きゃあっ!?」
かがんだアスカの頭スレスレを丸太の先端が通過し、地面に轟音を立てて倒れた。
体当たりした鉄格子が数本、ぐにゃりと曲がっていた。
俺の左肩と右の拳から大量の血が流れる。
「ゴウ!? あなたの手が!?……ごめんなさい……ありがとう……」
深い傷を負った俺の右手に触れる、彼女の柔らかく、滑らかな手──。
──その日から、アスカは毎日手当てに通ってくれた。
その感触は俺に温かな思いを抱かせてくれた。
消毒液が染みて唸る俺に、何度も「ありがとう」と泣きそうな顔で言った。
俺は初めて、華奢な人間の手を悪くないと思った。
「ウホウホっホ……」
傷が塞がった日、俺は檻の隅で密かに育てていた黄色い小さな花を差し出した。
彼女の長靴の泥からこぼれた種が、いつの間にか芽吹いたものだ。
名前も知らぬ可憐なその花は、檻の中という閉塞感への唯一の慰みであったが──それをどうしても贈りたいと、俺の心がザワザワしていた。
「キレイ……。ありがとう、ゴウ」
アスカはそれを胸に抱きしめ、涙を浮かべる。
後日、黄色い花はペンダントになって、彼女の首元を飾っていた。
檻の中と外。
彼女は、いろいろな話をした。
幼い頃から動物が好きで、飼育員になれて嬉しかったこと。
父親が園長で、病に倒れて、悲しかったこと。
動物園にお金がなくて、困っていること。
「仕事がキツいし、給料も安すぎると言って、みんな離れていくの……でもね、あなたたちが元気でいてくれれば、それでいいの」
おそらく俺に言葉が通じていない、という気楽さもあったのだと思う。
そんなある夜警の日、二人で並んで夜空を見上げていた。
星がひとつ、尾を引いて流れた。
「あっ、流れ星! ゴウ、流れ星に願い事を唱えると叶うんだよ!」
彼女は胸の前で手を合わせ、目を閉じた。
俺も真似をして、目を閉じた。
(──いつか檻の外に出て、彼女ともっと近くで歩きたい。ずっと隣で、守りたい――)
心の中で、一度だけ、俺はそう願った。
アスカの願いは分からず……星は、何も応えなかったが──。
真剣に祈る彼女の顔を見て。
いつの間にか、俺は本気で、アスカに恋をしていた。
◆ ◆ ◆
工事は途中で止まったままだった。
丸太を殴り飛ばした日に歪んだ鉄格子は、あれから一年経っても、まだそのままだった。
曲がった数本を、俺は毎日眺めていた。
園長の入院費と、途中で止まった工事費が重なって、動物園の金はもう、格子一本を直す余裕さえ無いらしい。
ひしゃげた鉄の断面が、雨の日にはうっすらと錆の色を滲ませていた。
「ウホホ(俺は柵の外に出る)」
そう呟くと、近くで弟の毛づくろいをしていた母さんが顔を上げた。
「ウホ、ウホホ(外は危ないわ)」
「危なくてもいい」
「ウホ……ウホホ(ここには家族がいるでしょう。ご飯もある。雨の日だって濡れないわ。……外に出て、何になるの)」
母さんは、優しく、けれど少しだけ困ったように笑った。
「ウホ(いつか、あなたにも分かるわ。この檻の中にも、ちゃんと幸せがあるって)」
壁際で、父さんが黙ってこちらを見ていた。
この動物園で一、二を争う巨体。
その背中には、刃物で斬りつけられたような古い傷跡が走っている。
「父さん。その傷って……」
「ウホ(昔のことだ)」
低い声が、檻の空気を押し潰した。
「ウホ、ウホウホ!(檻の中の方が安全だ。外に出たがるなど、どうかしている。二度と口にするな)」
いつもと違う雰囲気を察して、弟が不安そうに俺を見上げる。
「ウホ?(兄ちゃん、変なの。ここにいれば、なんにも怖くないのに)」
「……お前には分からないよ」
──その夜、俺は弟が不安にならないように、ずっと眠るまで頭を優しく撫でてやった。
「──ウホッ(ゴウ、話があるの)……」
弟が寝たのを見計らって──母さんが話かけてきた。
「ウホウホ(昔ね、ある人間の女の子が、この動物園にいたの)……」
「……またその話か」
「ウホウホ、ウホホッ(流れ星に三度願うと、姿を変えてくれるのよ。──でも星は、願いを叶える代わりに、必ず何かを持っていくの。だから、軽々しく願ってはだめ)」
「願い事は三度……って、それは人間の作り話だろ」
「……ウホ(そうね。そう思っていてくれた方が、母さんは安心だわ)」
訝しがる俺に母さんはそれ以上、何も言わなかった。
その話を、俺を檻に留めておくための脅し文句だと思っていた。
◆ ◆ ◆
ある日の夕方。
いつものようにアスカの姿を探していると、見慣れない服で歩く彼女が見えた。
綺麗なワンピース。髪も整えている。
「……ウホ(おめかして……デートかしら)?」
母さんが呟く。
「ウホホッ(人間の女があんな服を着るときは、そういうことだな)」
父さんも頷いた。
「ウホウホ!? ウホホッ──!?(デートって言うと……逢引!? もしかしたら、交尾しちゃうってことかぁ!? いつの間にアスカに別の雄がついた──!?)」
あまりの事に俺の頭はクラクラし、胸の奥がずきりと痛んだ。
──けれど、次の瞬間、気づいた。
アスカは、笑っていなかった。
目に、涙が浮かんでいる。
彼女は檻の前で立ち止まり、小さく言った。
「ごめんね。私、もう来られないかもしれない」
病に倒れた園長の父に代わり、彼女が借金を背負ったこと。
そして融資を持ちかけてきた男の条件のこと。
「黒須さんが……『俺の女になれば、動物園は助けてやる』って」
黒須。名前を聞いたのは、初めてだった。
「本当は、嫌……でも、みんなを守るには、これしか……行ってくるね」
走り去る背中を見送りながら、胸の奥で何かが弾けた。
「ウホッ(行くな! 行くな、アスカ)!!」
俺は檻を力いっぱい引き動かした。
「ウホォォ!(やめなさい!)」
母さんの悲鳴が飛ぶ。
「ウホ(檻の外は危険だと言っただろう)」
父さんが低く言った。
「ウホホッ(守る! 俺は、あいつを守る)!!」
俺は、あの日から曲がったままの鉄格子に助走した身体を叩きつけた。
──ゴッ!
轟音。
──ゴッ!
二度。
──ゴッ!
三度。
――バキンッ!
「「ウホウホッ(ゴウっ)!?」」
一年間、誰にも直されなかった鉄格子が、錆びて弱った所から砕け散った。
「ウホォォォォォッ!」
俺は初めて、自分の意思で檻の外へ飛び出した。
◆ ◆ ◆
閉園後の動物園を突き抜け、街の通りへと飛び出した瞬間、辺りは騒然となった。
「ヒッ……ゴ、ゴリラ!? 街の中にゴリラがいるぞ!!」
「嘘だろ、逃げ出したのか!? 警察を呼べ! 早く!」
通りかかった車のクラクションが甲高鳴り響き、街灯の下で人々が悲鳴をあげて逃げ惑う。車から降りてパニックを起こす者、腰を抜かす者。人間の街は大騒ぎだった。
ゴリラが檻の外へ出れば、こうなることくらい最初から分かっていた。
俺たちが檻の中で暮らしていたのは、ただ閉じ込められていたからじゃない。
人間たちのルールと、俺たちの存在が相容れないからだ。
外に出れば恐れられ、脅威とみなされ、排除される。
父さんや母さんが言っていた「檻の外は危険だ」という言葉の意味が、背中に刺さる無数の視線と怒号で嫌というほど理解できた。
──だが、そんなことはどうでもよかった。
アスカが助けを求めている、その時に傍にいてやれないことが、俺は心底嫌なんだ。
傷つくかもしれない、捕まるかもしれない。だが、あいつが泣いているかもしれない時に、鉄格子の向こうでじっとしていることなんて、俺には絶対にできなかった。
アスカの甘い匂いだけを頼りに、夜の街を一直線に駆け抜ける。
──その時、夜空を流れ星が横切った。
母さんの昔話が、脳裏をよぎった。
――願い事は三度。
「ウホ(アスカの隣に、立たせてくれ)!」
「ウホ(アスカの隣に、立たせてくれ)!」
「ウホ(アスカの隣に、立たせてくれ)!」
夜空から声が降ってきた。
『願いを聞こう。姿を変えて叶える。姿は、願いに仕えるもの。代償に、その腕の力をいただく』
「持っていけ!」
俺は迷わず即答した。
光が全身を包み、黒い毛が引いていく。
皮膚がひりつくような感覚と共に、身体が急速に縮んでいく。
目を開けると、そこには毛のない、二本の華奢な腕があった。
ふと自分の体を見下ろすと、見覚えのある紺色の制服──動物園の飼育員たちが着ているのと同じ作業着を纏っていた。
星は、アスカの隣に立てる姿を選んでくれたのだ。
だが右手と左肩の傷跡だけは、そのまま残っていた。
「……俺が、人間に……」
自分の声が、聞いたこともないほど頼りなく響いたが、これでアスカの隣に立てるという喜びに、心が満たされていた──その時。
「や、やめてください!! 乱暴なことはしないって約束を……きゃあ!?」
パン!
間違いない。聴こえた。アスカの悲鳴と何かを叩くような音が。
「アスカ──!!」
近くなるアスカの匂い。
公園の街灯の下で、頬を赤くし、座り込むアスカは男に腕を掴まれていた。
恰幅のいい、指に何本も指輪をはめた中年の男。
その後ろに、黒いスーツの男が二人。
俺の感覚は、そのふたりが中年の男に従っているということを感じさせた。
自然界ではありえない、力弱い者が他の者を支配するという歪んだ関係。
「その手を離せ!!」
俺は構わず、その間に飛び込んだ。
「あぁ!? なんだお前は!? 」
手下の一人が、俺を睨みつけながら吐き捨てた。
「園の職員か何か知らねえが、黒須さんに逆らうと痛い目見るぞ。この辺一帯の土地、あの人が押さえてるんだからな」
もうひとりがゴキゴキと拳を鳴らしながら、俺の方に近づいてくる。
黒須。──アスカを汚そうとする男の名前が、初めて輪郭を持った。
「……あなた、誰? 見慣れない顔だけど……」
アスカが、涙で濡れた目を細めて俺を見る。
(……俺がゴウだと、分かる訳ないか……)
俺の胸が、ぎゅっと締め付けられた。
「私が黒須さんの言うことを聞けば、動物園は存続できるって……あなたが誰か分からないけど……あなたも動物が好きなら、私には構わないで! あの子たちの為には仕方ないことなのよ! こうするしか、もう私には無理なんだもん!!」
彼女の声には、拒絶と諦め、それでいて自分を卑下するような響きが混じっていた。
「……違う……」
その姿は、俺の知っているアスカではなかった。
俺の知るアスカは決して諦めず、どんな困難があっても、次の瞬間には顔をあげて、無理やりにでも笑顔を見せる、強い女のはずだ。
──そのはず、だが。
俺が見ていたのは彼女の一面に過ぎない。
檻の外と中の境界で触れ合っていた、だけ。
──それでも、伝えたい言葉があった。
「……絶対に、俺がアスカを守る……」
短く、アスカを見つめ、それだけを言った。
「──あなた、どこかで会ったことが……?」
アスカの濡れた瞳が、人間の俺を見つめる。
「なんだこいつ、頭沸いてのか?…… おい、おまえらやれ!!」
黒須の命令に、手下たちが同時に地を蹴った。
一人が右から、もう一人が左から。
挟み撃ち。
「……そっちの方が分かりやすいぜ!」
俺は本能的に半身になって、右の拳を突き出す。
――ドスッ。
拳が、確かに何かを捉えた感触があった。
ドカッ! バキッ!
だが、次の瞬間。視界が真っ白に弾けた。
「──ぐはぁっ……!?」
人間の身体は、恐ろしく脆かった。
渾身のはずの拳は相手の肩を掠めただけで、代わりに反対側から放たれた蹴りが脇腹に深々と食い込む。
肺の中の空気が、一息に抜けた。
積み上げた力は、もうどこにもない。
息が詰まり、視界が白く弾ける。
俺はあっけなく殴り飛ばされ、地面に叩きつけられた。
「なんだこの弱っちい奴は!」
「口だけじゃねえか、この優男が!」
膝が折れる。
地面に片手をついた瞬間、もう一人の靴底が背中を踏みつけた。
嘲笑うような声が、頭上から降ってくる。
立ち上がろうとする度に、拳と靴が容赦なく降り注いだ。頬骨が軋み、口の中に鉄の味が広がる。
視界の端で、アスカが両手で口を覆っているのが見えた。
(……立て……立たなきゃ……)
腕に力を込める。
だが、地面を押す腕は、震えるだけで持ち上がらなかった。
ボロボロになった俺の口の中に、鉄の味が広がった。
「もうやめて!…… 逃げて!」
アスカが叫び、倒れた俺を庇うように覆いかぶさってきた。
「……えっ……?」
彼女の震える右手が、俺の破れた作業着の隙間から覗く左肩に触れる。
彼女の指先が、右手の古い傷跡の輪郭をなぞった。
その瞬間、アスカの手が止まった。
「……この傷……」
台風の日。
丸太を殴り飛ばしてくれた拳。
毎日手当てした傷の感触。
差し出された花。
「……ゴウ、なの?」
並んで見上げた星。
すべての記憶が、傷跡に凝縮されていた。
俺はゆっくり頷いた。
「……ああ。アスカ、俺だ……ゴリラのゴウだ」
アスカの目から、涙がこぼれた。
「なんで……! どうして人間になんて……!……こんなに痛い思いもして!?」
「……お前の隣に、立ちたかったんだ」
「そんなこと、しなくても!」
彼女は泣きながら叫んだ。
「ずっと隣にいたじゃない! 檻のあっちとこっちで、同じ星を見てたじゃない! あなたは人間にならなくていいの……あなたが、あなたが優しいゴリラだから、好きになったのよ!」
その言葉が、胸を強く貫いた。
「ゴリラの……俺が好きだった……?」
──俺の願いは、本当に「隣に立つこと」だったか?
違う。
俺は、守りたかったんだ。
なのに俺は、闇雲にその腕を差し出した。
言葉の通りに願って、願いの中身を見失っていた。
「……そうか」
拳を握りしめる。
骨の折れそうな、頼りない拳を。
「……俺は、人間になる必要なんてなかった」
夜空へ向かって叫んだ。
「俺は――ゴリラだ!!」
『──願いに仕えぬ姿は、返してもらう』
ゴゴゴゴゴゴ……!
光が弾け、全身から黒い毛並みが噴き出す。
骨格が軋みながら組み直され、奪われた腕の力が、血のように全身へ戻ってくる。
地面を踏みしめる足の裏に、確かな重みが戻ってくる感覚。
「ウホォォォォォォッ!」
「「ぐえぇ!?」」
振り向きざまの右の一薙ぎが、手下二人の胴を同時に捉えた。
二人まとめて、乾いた音を立てて吹き飛んだ。
公園の幹にぶつかり、そのまま崩れ落ちる。
「ひっ……こ、この化け物が……!」
追い詰められた黒須が、震える手で懐から黒光りする金属を抜いた。
銃口が、俺とアスカの間で定まらず揺れる。
「死にやがれっ!!」
「やめて!」
バァン――!
彼女が叫ぶと、乾いた銃声が夜を裂くのは、ほとんど同時だった。
俺の野生は銃弾を見た。
──考えるより先に、アスカの前へ身を投げ出していた。
あの丸太を受け止めた夜と同じ、迷いのない動きで。
弾丸が左肩を深く貫く。
「……痛ぇな」
声にした瞬間、焼けるような痛みが遅れて追いついてきた。
世界が一瞬、赤く滲む。
「く、くそ……! くたばりやがれ!!」
バァン!バァン!バァン――!
黒須が闇雲に引き金を引き続ける。
二発目が右の二の腕を掠め、三発目は的を外れて夜空へ消えた。
四発目、五発目──膝が崩れそうになる。
それでも俺は、アスカを背に庇ったまま、一歩、また一歩と前へ出た。
カチン! カチン!
弾切れの、虚しい音が響く。
「ゴウ!……ゴウ!!……いやぁ……」
アスカの悲痛な声が遠くで聞こえる。
「な、なんなんだよ!?……オマエはぁ!?」
黒須の声が、恐怖で震えていた。
「……俺は……ゴリラだ」
血まみれの俺は残された力を拳に込め、拳銃ごと奴の手を握り込んだ。
「ぐぎゃあぃああーー!?」
ぐしゃり、と音を立てて粉々に潰れる。
「飼育員を愛する、動物園でナンバーワンのゴリラだ!!」
振り抜いた渾身の拳を顔面に受け、黒須は地面を何度もバウンドし、藪の中に突っ込んでいった。
──遠くで、サイレンが鳴っていた。
強がっていた膝が、血溜まりの中、ガクンと崩れる。
「やだ……ゴウ!、お願い……死なないで……!」
血の海の中で、アスカが俺を抱きしめて泣いていた。
その温かさだけを、遠のく意識の中で感じていた。
「……アスカ……その花をつけてて、くれて……ありが……」
もう、視界は黒くぼやけて、愛しい女の顔さえ見えない。
「……愛して……」
ただ黄色い花のペンダントが一瞬、夜空の光を映したのが──俺の最後の記憶だった。
◆ ◆ ◆
──暗闇だった。
音も、匂いも、何も感じない。
ただ、どこか遠くで誰かが自分の名前を呼んでいるような気がした。
「……ウ……ウホ……」
重い瞼を、無理やりこじ開ける。
「……俺は……生きている、のか?」
見慣れた天井。
見慣れた鉄格子の影。
「そうだ……アスカ……! アスカは!?」
跳ね起きた拍子に傷が疼いたが、ほとんどの傷はふさがりかけていた。
痛みに構わず、俺は周囲を見回した。
「アスカ! アスカ、どこだ!?」
檻の隅々まで目を走らせる。
いない。
──いない。
いつも隣にいる彼女の姿が、どこにもない。
「アスカ……! アスカァァッ!」
檻の格子に取りつき、外の通路まで見渡す。
飼育員の誰かが通りかかりはしないか、息を弾ませながら探した。
「……ウホ?(どうしたの?)」
背後から声がした。振り返ると、一頭の若い雌ゴリラが、心配そうにこちらを見ていた。
しなやかで、どこか気品のある──しかし、見覚えのない美しいゴリラ。
手には、一本のバナナ。
「ウホ、ウホホ……(はい、これ食べて。まだ本調子じゃないでしょ)」
彼女はそっとバナナを差し出しながら、小さく首を振った。
「ウホ……(アスカなら、ここにはいないよ)」
心臓が、冷たく縮んだ。
「……いない、って……どこに……」
呆然とその場に座り込みそうになった、その時だった。
雌ゴリラの首元で、何かがきらりと光った。
黄色い、小さな花。
見覚えのある、あの花のペンダントが、彼女の黒い毛並みの中で揺れていた。
俺は、息を止めた。
「……その、花……」
雌ゴリラは、悪戯っぽく目を細めた。
「ウホホ(気づくの、遅いよ。ゴウ)」
「……アスカ、なのか……?」
彼女は静かに頷いた。
長い睫毛の奥、優しく見つめてくるその瞳は、確かに知っている光だった。
「アスカ……」
俺の目から、勝手に涙が溢れた。
「お前……お前……何が……どうして、ゴリラに……」
「ウホ、ウホウホ(私は選んだの)……」
アスカは俺の隣に腰を下ろし、静かに、ゆっくりと語り始めた。
「ウホ……(あなたが意識を失った後ね)」
──黒須を倒した後、血を流し続ける俺を抱きしめながら、アスカは半狂乱でその名を呼び続けた。
「ウホホ……(ゴウは、もう、指一本動かなくなって。息もどんどん浅くなって……私、頭が真っ白になった)」
そのとき、夜空をもう一筋、流れ星が走った。
「ウホ……(迷わなかった。迷ってる時間なんて、なかったから)」
彼女は愛おしそうに目を細める。
アスカは血だらけの俺を抱いたまま、空に向かって叫んだのだという。
「この子と、同じ場所で生きたい!」
「この子と、同じ場所で生きたい!」
「この子と、同じ場所で生きたい!」
夜空から、声が降ってきたのだと、彼女は言った。
『願いを聞こう。「同じ場所で生きる」。──ならば、獣の姿だ。』
声はそう語った。
『代償は、人として積み上げたすべて。仕事も、家も、名前も。そして姿が完全に願いに仕えたとき、お前は人間たちの記憶から外れる。』
『父も、友も、お前を思い出さない。誰も泣かない代わりに、誰も、お前を呼ばない。……それでもか』
「……お父さん、ごめんなさい……それでもです……」
小さく呟いてから、彼女は顔を上げた。
「ゴウは、私が人間だから好きになったんじゃない。私を守って傷ついても──花をくれた、この子が――ゴリラだから、好きなんです」
『……よかろう』
銀色の光が二人を包み込み、目が覚めたとき、この毛並みと、この姿になっていた。
そして、檻の中で俺が眠っていたのだという。
「──生きててくれて……良かった」
語り終えたアスカの目に、また涙が浮かんだ。
「……馬鹿だな、お前も」
俺はやっとの思いで、そう絞り出した。
「馬鹿はお互い様でしょ……こんなに傷だらけになちゃって」
アスカは涙を拭って、いつもの悪戯っぽい笑顔を見せた。
「もし怪我しても、また私がずっと手当てしてあげる……今度は、ずっと一緒よ」
「……ああ」
俺は照れくさくて、鼻を鳴らした。
──その光景を、少し離れた場所から、母さんがじっと見つめていた。
やがて静かに歩み寄ると、アスカの背をそっと撫でた。
「ようこそ、アスカ。……よく、選んだわね」
「え……?」
「私もね、昔は人間だったの。……あのひとがいた森に住んでいたの」
母は父を見つめ──俺は息を呑んだ。
「ゴウに話していた昔話の女の子は、実は母さんなの。……昔、森で私を襲った男から守ってくれたのが、この人。……背中の傷は、その時のものなの」
「そこで星に願いを!?……俺が檻を出た夜と同じだ……」
驚く俺の言葉に続いて父さんが、低く言った。
「そうだ、守るために出て……逆に私はお前から、人間としての全部を奪ってしまった……」
そう語る父の背中は、いつもより小さく見えて──。
「馬鹿ね。私が選んだのよ……人間を捨てたことを後悔なんてしてないのに」
母さんは明るい声で笑った。
「誰も泣かなかった。──それが、星のせめてもの優しさ。……だけど私は、あなたに檻の外へ出てほしくなかったの。お父さんがいつも後悔しているように、星へ何も差し出さなくて済むように」
「ふたりが檻の中の方が安全だと言っていたのは……」
父さんは目を伏せた。
「お前が星に願うのを、ワシと母さんは怖れていた……何かを選ぶことは、何かを捨てることになる……」
(……そういうことだったのか……。)
頑固な父も、過保護な母も、檻の外を知っていたのだ。
知っていて、それでもこの檻の中を選んだのだ。
「檻の外へ出ることが、自由だと思っていた……けれど違った。自由とは、檻があるかないかじゃない。──誰と、どこで生きるのかを、自分の意思で選べることだったんだ」
俺は、ぽつりと言った。
「この先は……お前たちの好きなようにするがいい」
父の言葉は、あの日の「二度と口にするな」とは、まるで違う響きだった。
俺とアスカは顔を見合わせて、笑った。
「じゃあ、ここにいるよ(います)」
◆ ◆ ◆
──飼育員たちは、誰も首を傾げなかった。
まるで、ずっと前からそこにいた、雌ゴリラのように彼女へ餌を配っていた。
あの夜の一部始終は、翌日、「深夜の公園でゴリラが悪徳投資家を撃退、動物園を救う」という見出しになった。
ゴリラが脱走したことは、何故か問題にされることはなかった。
黒須が「人間がゴリラになった」と喚いても、犯してきた悪行の数々が明らかにされ、その言葉を誰も信じず、檻に入れられたと聞いた。
動物園には見物客の行列ができ、善意の融資のおかげで動物園の借金は返済され、鉄格子は新しく直された。
アスカの父は、生まれ変わったかのように仕事に復帰し、のんびりと後継者を育成しているようだった。
◆ ◆ ◆
あの騒動から、何年もの歳月が流れた。
人間の姿になり、アスカを守り切ったあの日の事件の後、俺は本来のゴリラとしての姿と暮らしに戻った。
だが、動物園をとりまく環境は以前とは一変していた。
事態を大きく変えたのは、ある世界的な女性ゴリラ研究者が発表した一編の論文だった。
『ゴリラを視界に収めることは人間の自然キラー細胞を刺激し、免疫力を大幅に活性化させる。そして――ゴリラと共に身体を揺らし、踊ることは、あらゆる心身の不調を和らげる万病の薬となり得る』
世界中を駆け巡ったそのニュースによって、あの大騒動すらも「奇跡の前触れ」として好意的に受け止められるようになり、動物園には連日、世界中から超満員の客が押し寄せた。
「おい見ろよ! 今日のゴリラたち、動きがキレキレだぞ!」
「すごい、一緒に踊ってたら長年の肩こりが吹き飛んじゃった!」
ガラス越しに、大勢の人間たちが俺たちに合わせて手を振り、体を揺らす。
客足が途絶えるどころか、今や俺たちの「キレッキレのゴリラダンス」は動物園の一番の目玉になっていた。
群れの先頭に立ち、圧倒的な躍動感でリズムを刻む俺の姿に、歓声と拍手が鳴り響く。
人間に姿を変えてアスカの隣に立ったあの日。
俺はその腕の力を失ったはずだったが、大切なものを守り抜き、こうして仲間やアスカと絆を深めたことで、俺たちの絆とダンスのキレは以前よりも増していた。
そして、営業終了のベルが鳴り、大賑わいだった一日が終わりを迎える。
その夜。
満月が、檻を静かに照らしていた。
「……ところで」
俺は立ち上がった。
「今日は、俺たちの記念日だな?」
アスカが首を傾げる。
「そうね」
「ならば――!」
俺は胸をドンドンと叩いた。
「ゴリラパーティーだウホォォォォォッ!」
「「「ウホォォォォォォォッ!」」」
父さんも。母さんも。弟も妹も。そしてアスカも。みんな一斉に胸を叩き始めた。
ドン! ドドン! ドドドドドン!
動物園のあちこちから、鳴き声が返ってきた。
アフリカのサバンナからはライオンの地響きのような咆哮と音速の狩人の意地を見せるヒョウの唸り声、ミーアキャットたちの警戒のキンキン声を切り裂いてインパラやワイルデビーストが群れで地面を蹴る。
アジアの密林からはトラの重厚な唸り声とヒマラヤの崖を翔けるユキヒョウの遠吠え、オランウータンとテナガザルが樹上を揺らす甲高い大合唱。
極地の氷原からはシロクマが巨大な水しぶきを跳ね上げ、コウテイペンギンとアデリーペンギンが一斉に翼をはためかせて叫び、巨体のセイウチとアザラシが岩の上で腹を叩いて応じる。
南米のアマゾンからはジャガーの低い地鳴りと鮮やかなコンゴウインコやオオハシのけたたましい叫び声、カピバラとナマケモノまでが鼻を鳴らし、オオアリクイが爪を地面に叩きつける。
オセアニアのユーカリ林からはカンガルーが強力な後脚でドスンと地面を蹴り鳴らし、タスマニアデビルがダミ声を上げ、コアラが珍しく大声を張り上げる。
北米の森林からはグリズリーの巨体が放つ重低音とシンリンオオカミたちの美しくも壮大な遠吠え、ピューマの咆哮、バイソンの地鳴りのような足音が夜の空気を震わせる。
さらに深山からはカモシカやレッサーパンダ、砂漠のミーアキャットにフェネック、鳥類エリアのクジャク、フラミンゴ、ハシビロコウ、ハゲワシ、そして巨大なゾウたちが一斉に長い鼻を夜空にかかげて咆哮を轟かせた。
地球上のあらゆる生息圏を網羅するかのような、生命の底力に満ちあふれた狂乱のスペクタクル。
「うふふっ、私、ゴリラになって幸せよ♪」
隣で、アスカが笑っている。
「これが――!」
満月の下。俺たちは叫んだ。
「俺たちの家族だウホォォォォォッ!」
檻の中から響くドラミングは、夜が明けても止まらなかった。
――世界の、新しい人生が始まった。
(了)
間に合わなかったーー!!(TдT)<ゴリラパーティーよ、永遠に!!みなさま、ありがとうございました!




