勇者パーティを追放された値付け士、悪役令嬢の領地を安売りさせない 〜買い叩かれた辺境で、価値を取り戻す商売を始めます〜
短編です。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
王都の冒険者ギルド裏。
遠征前の馬車置き場は、いつも騒がしい。
武器を積む者。
保存食を運ぶ者。
馬具を確かめる者。
怪我を隠して笑う者。
勇者パーティの馬車も、その一角にあった。
魔王軍の残党討伐。
北方街道の安全確認。
報酬は金貨三十枚。
依頼書だけ見れば、悪くない仕事だった。
ただし、依頼書だけなら、だ。
ノア・レインズは、支給された剣を手に取り、眉をひそめた。
刃を見る。
鍔を見る。
柄巻きの隙間を押す。
最後に、軽く振って重心を確かめる。
軽い。
軽すぎる。
【量産鋼剣】
【購入価格:銀貨三枚】
【推定修理費:銀貨八枚】
【破損予測:二度目の強打】
「この剣、二度目の強打で刃が曲がります」
荷を積んでいた仲間たちの手が止まった。
勇者アレス・ヴァンガードが振り返る。
金色の髪。
整った顔。
王都で最も若く魔王軍幹部を退けた男。
人々は彼を勇者と呼ぶ。
アレスはノアの手元を見て、面倒くさそうに息を吐いた。
「また金の話か」
「いいえ。命の話です」
ノアは剣を鞘に戻した。
「刃が薄い。芯材が弱い。魔物の外骨格に二度強く当てれば曲がります。三度目は折れる可能性が高い」
「だから?」
「前衛の武器が折れれば、後衛の被害が増えます。治療薬も減る。馬車を守れなければ積み荷も失う。結果的に、この剣は安くありません」
空気が重くなった。
いつものことだった。
ノアは、いつも間違った物を止めてきた。
折れる剣。
腐る保存食。
危ない契約書。
壊れる馬車軸。
それで何度も仲間を守ってきた。
だが、そのたびに仲間たちは少しずつ目を逸らすようになった。
ノアには、物の値段は見えた。
危険も見えた。
損失も見えた。
ただ、自分の言葉が相手にどう届いているかだけは、最後まで見えなかった。
「北の村から救援要請が来ている」
アレスが言った。
「街道が塞がれば、冬前の荷も届かなくなる。準備に時間をかけるほど、次の村が危ない」
「急ぐことと、壊れる装備で向かうことは別です」
「またそれだ」
アレスの声に苛立ちが混じった。
「行く前から、剣が折れるだの、薬が足りないだの、馬車が壊れるだの。お前はいつもそればかりだ」
「壊れてからでは遅いので」
「だから、その言い方が嫌なんだよ」
ノアは黙った。
言い方。
それは、ノアにとってもっとも値付けしにくいものだった。
「今回は支援物資も入ってる。装備も食料も、これまでより安く揃った。なのにお前は、また高い方を買えと言う」
「高い方ではありません。必要な方です」
「同じだろ」
「同じではありません」
周囲の仲間たちが、わずかに身構えた。
「高いと言うなら構いません。ですが、同じだと言うなら、見てからにしてください」
「見たさ。見た上で、俺たちはこれでいいと決めた」
「それは、誰が?」
「パーティ全員でだ」
アレスの後ろで、魔術師の青年が目を逸らした。
弓使いの女も、治癒術師も、ノアと目を合わせなかった。
決定は終わっている。
ノアはそれを理解した。
理解した上で、アレスの右肩を見た。
前回の遠征で受けた傷が、まだ完全には戻っていない。
剣を持つ腕の動きが、ほんの少し遅れている。
本人は隠している。
仲間も、気づかないふりをしている。
だから、ノアは言わなければならなかった。
「北の石橋は避けてください」
ノアは言った。
「今の馬車軸では持ちません。川沿いを迂回した方がいい。半日遅れますが、総損失は低くなります」
アレスは笑った。
明るい笑いではなかった。
「総損失、ね」
「はい」
「俺の怪我まで、値段に入れるんだろ」
「入れます」
ノアは即答した。
「あなたが倒れたら、パーティ全体が赤字です」
その瞬間、アレスの目が細くなった。
ノアは、言い方を間違えたと気づいた。
あなたの傷が心配です。
今の肩で無理をすれば、次は剣を握れなくなるかもしれません。
そう言えばよかった。
だが、もう遅かった。
「俺は帳簿の数字じゃない」
「分かっています」
「分かってない」
アレスは一歩、ノアに近づいた。
「俺は勇者だ。誰かが傷つくくらいなら、俺が前に出る。俺が怪我して済むなら、それでいい。そうやってここまで来た」
「それで済まないから、言っています」
「済ませるんだよ」
アレスの声が強くなる。
「ノア。お前は、いつも行く前から負けた時の話をする」
「負けないためです」
「違う。お前は俺たちを信用していない」
ノアは返せなかった。
信用していないわけではない。
むしろ、信用しているからこそ、折れる剣を持たせたくない。
傷む保存食を食べさせたくない。
壊れる馬車に乗せたくない。
アレスに、これ以上無理をさせたくない。
だが、それを言葉にすると、また金と損失の話になる。
「つまり、この剣は――」
ノアは言葉を探した。
高い。
違う。
弱い。
それも違う。
危ない。
近いが、まだ足りない。
この剣は、安く見えるだけで、あとから仲間の血と薬代と修理費を請求してくる。
そう言えば、また金の話になる。
ノアは結局、いつもの言葉を選んでしまった。
「……損失が大きい」
アレスの顔が、そこで完全に冷えた。
「もういい」
アレスは言った。
「ノア・レインズ。今日限りで、勇者パーティから外れてくれ」
馬車置き場が静かになった。
魔術師の青年が、小さく息を呑む。
弓使いの女が、何か言いかけてやめる。
ノアはアレスを見た。
「正式な解雇ですか」
「そうだ」
「理由は」
「戦えない。魔法も最低限。遠征前に士気を下げる。何より、金の話ばかりで仲間を信用しない」
「未払い報酬は」
仲間の一人が顔をしかめた。
「最後まで金かよ」
ノアはそちらを見ないまま答えた。
「最後だからです」
アレスは腰の革袋から銀貨を取り出し、ノアに投げた。
ノアはそれを受け止めた。
掌の上で数える。
少ない。
不足している。
だが、遠征前にこれ以上揉めれば、さらに空気が悪くなる。
ノアは銀貨を自分の革袋に入れた。
「不足分は?」
「装備費の過剰支出分と相殺だ」
「過剰ではありません」
「俺たちはそう思ってない」
「分かりました」
自身の報酬については、不思議なくらい執着が湧かなかった。
仲間の装備費にはあれほど食い下がれるのに、自分の未払い分となると、損失として処理してしまう。
悪い癖だ。
それも分かっている。
分かっていて、後回しにした。
馬車の脇に、小さな革鞄が一つ置かれていた。
ノアの荷物は、それだけだった。
帳簿。
筆記具。
小型の秤。
替えのシャツ。
修繕用の針と糸。
硬いパン。
ノアは鞄を持つ。
軽い。
軽すぎる。
人の荷にはうるさいくせに、自分の荷物はいつも削っていた。
アレスが背を向ける。
「行くぞ」
勇者パーティが動き出す。
ノアは最後に、馬車の車輪を見た。
軸受けに小さな歪みがある。
安い車軸に交換したのだろう。
「アレス」
「まだ何かあるのか」
「北の石橋は、本当に避けてください」
アレスは振り向かなかった。
「俺たちは行く。お前はもう、関係ない」
「分かりました」
ノアは一礼した。
勇者パーティは馬車を出した。
車輪が石畳の上を鳴る。
軸の音が、少しだけ軽かった。
軽い音は、よくない。
ノアはそれを聞きながら、しばらく立っていた。
怒りはなかった。
悔しさも、思ったより少なかった。
ただ、頭の中に損失だけが並んでいた。
剣。
車軸。
保存食。
薬。
依頼失敗時の違約金。
そして、アレス自身の消耗。
「俺の怪我まで値段に入れるな、か」
ノアは小さく呟いた。
入れるに決まっている。
命は、失ってからでは買い戻せない。
それでもノアは、アレスが無事に戻る方へ賭けたかった。
だから止めた。
だから嫌われた。
だが、それを伝える言葉を、最後まで持てなかった。
革鞄を肩にかける。
これからどうするか。
宿を取るには銀貨が足りない。
ギルドで別の仕事を探すにも、勇者パーティを追放されたばかりの値付け士を雇う者は少ないだろう。
ノアは市場の方へ歩き出した。
まず、五日以内に仕事を見つける必要がある。
筆記具は売らない。
秤も売らない。
帳簿も売らない。
それらを売れば、値付け士として終わる。
では、上着を売るか。
そこまで考えた時、市場の方から怒声が響いた。
「聖女様に嫌がらせをした令嬢の領地の布だろ? 半値でも高いくらいだ!」
ノアの足が止まった。
半値。
その言葉だけで、耳が反応した。
値引きと買い叩きは違う。
交渉と搾取も違う。
そして、半値という言葉は、多くの場合、商品だけではなく、相手の弱みにつけられる。
ノアは市場の方を見た。
人だかりができている。
布商区画。
王都の商人たちが集まる場所だ。
怒声の後に、冷たい笑い声が続いた。
「王太子殿下に捨てられた悪女の品に、まともな値がつくと思うなよ」
「社交界を乱した女の布なんぞ、店に置けるか」
「エルネスタ領も終わりだな。領主の娘があれでは」
人垣の奥で、若い女の声がした。
「私の評判を買うのではなく、布を買いなさい」
その声は冷たかった。
だが、わずかに震えていた。
別の商人が鼻で笑う。
「布だけ見ても同じことですよ、クラリス様。今売らなければ、明日にはもっと下がる」
「王都で悪女の布を置く店なんぞない」
「領地に持ち帰れば、今度は運び賃で赤字だ」
ノアは革鞄を持ち直した。
自分の宿代を計算していたはずだった。
自分の食費を削ることを考えていたはずだった。
だが、足はもう市場へ向かっている。
人垣の隙間から、白い手袋が見えた。
若い令嬢が立っている。
顔色は悪い。
唇は薄く結ばれている。
手袋の指先が、ほんの少し震えていた。
それでも、背筋だけは不自然なほど伸びていた。
倒れそうな人間が、倒れないために無理やり姿勢を正している。
ノアには、そう見えた。
彼女の前には、深い灰色の羊毛布が積まれている。
布そのものは静かだった。
だが、周囲の商人たちの視線が、それを安物にしていた。
ノアは布を見た。
織りは密。
厚みもある。
毛足は整っている。
雑に作られたものではない。
冬を知っている土地の布だ。
なのに、商人が提示している価格は低すぎる。
低すぎるというより、低くしていい相手だと見られている。
ノアの視界に、文字が浮かんだ。
【辺境羊毛布】
【現在提示価格:銀貨二枚】
【適正価格:銀貨七枚】
【買い叩かれ度:危険域】
【売れない原因:品質ではなく信用】
ノアは人垣を抜けた。
令嬢――クラリス・エルネスタが、悔しさを押し殺した声で言う。
「……その価格で、構いません」
商人が笑う。
ノアは、その間に立った。
「構います」
クラリスと商人が、同時にノアを見る。
商人の眉が動いた。
「何がだ」
「その価格が、です」
ノアは積まれた羊毛布に手を置いた。
「この布は、半値で売るものではありません」
◇
「誰だ、お前は」
商人は、ノアを上から下まで見た。
革鞄。
旅用の外套。
手入れされたが古い靴。
腰には剣もない。
魔術師の杖もない。
商人の目が、すぐに値踏みを終えた。
戦えない。
貴族でもない。
金もない。
だから、脅す必要もない。
そう判断した目だった。
ノアは商人ではなく、羊毛布を見ていた。
「値付け士です」
「値付け士?」
商人が笑った。
「無能職の一つじゃないか。剣も振れず、魔法も使えず、商人にもなれない半端者が、値札に文句をつけるのか」
「文句ではありません」
ノアは羊毛布から手を離さなかった。
「訂正です」
「訂正?」
「銀貨二枚ではなく、銀貨七枚です」
人垣がざわついた。
誰かが吹き出した。
クラリスも、ノアを見た。
驚きではない。
警戒に近い。
「あなた、この布の何を知っているの」
「見れば分かります」
「見ただけで?」
「はい」
クラリスの目が細くなった。
彼女は顔色こそ悪いが、立っている姿は崩れていなかった。
白い手袋の指先だけが震えている。
それを隠すように、彼女は手を握った。
「なら答えなさい。どこが銀貨七枚なの」
ノアは布の端を持ち上げた。
「織りが密です。毛足の向きも揃っている。厚みはあるのに、畳んでも硬くならない。寒冷地用としては上等です。安い羊毛に混ぜ物をした布ではありません」
商人が鼻で笑った。
「そんなもの、見れば分かる。だがな、品物が良くても売れなければ価値はない」
「その通りです」
ノアは即答した。
商人の笑みが、少し止まった。
「だから、今は売ってはいけません」
クラリスが眉を動かした。
「……どういう意味?」
「この布の品質は銀貨七枚です。ですが、今の市場では銀貨七枚では売れません」
「さっきは銀貨七枚だと言ったでしょう」
「適正価格と、今売れる価格は違います」
ノアは商人を見る。
「あなたは布を買おうとしていない。エルネスタ領の弱みを買おうとしている」
商人の目が冷えた。
「口の利き方に気をつけろ、値付け士」
「交渉なら気をつけます。買い叩きなら、気をつける必要はありません」
人垣がざわついた。
クラリスが、わずかにノアを見る。
商人は低い声で言った。
「グランベル商会に喧嘩を売る気か」
その名前が出た瞬間、周囲の空気が変わった。
グランベル商会。
王都最大級の大商会。
食料、布、薬、魔道具、馬車、宿場の契約まで扱う巨大な商会。
辺境の小領主が逆らえる相手ではない。
クラリスの手袋の指が、また小さく震えた。
ノアはそれを見た。
それでも、声は変えなかった。
「喧嘩ではありません。価格の話です」
「なら、価格を教えてやる」
商人はクラリスの前に置かれた羊毛布を指した。
「この布は、以前なら銀貨七枚だったかもしれん。だが今は違う。王都で悪女と呼ばれた令嬢の領地だ。財政難も知られている。商人は信用を買う。信用のない商品は、値が落ちる」
「それは事実です」
「なら、銀貨二枚でも高いくらいだ」
「そこは違います」
ノアは短く言った。
「信用が落ちているなら、信用を戻すべきです。商品を半値にするべきではない」
商人は笑った。
「戻せると思っているのか? 悪女の領地の信用を?」
その言葉に、クラリスの目がわずかに揺れた。
だが、彼女は口を閉じたまま立っていた。
背筋は伸びている。
まるで、倒れないことだけが今できる仕事だと言うように。
ノアはクラリスを見た。
【クラリス・エルネスタ】
【信用毀損:危険域】
【推奨:救済ではなく再設計】
救済ではなく再設計。
ノアは、その表示を見て、少しだけ納得した。
この令嬢は、ただ可哀想な被害者ではない。
失敗している。
だが、終わってはいない。
クラリスがノアの視線に気づいた。
「今、何を見たの」
「今つけられている値段です」
「私の?」
「はい」
答えた瞬間、クラリスの顔がこわばった。
ノアは、言い方を間違えたと気づいた。
あなた自身の価値ではない。
周囲が勝手に貼った値札だ。
そう言えばよかった。
だが、口から出たのは別の言葉だった。
「不当に低いです」
「……慰めているの?」
「事実です」
「そう」
クラリスは目を伏せた。
「あなた、優しいのに下手ね」
ノアは返事に困った。
優しい。
その言葉だけは、損益眼に表示されなかった。
その時、クラリスの目が、王都の市場ではない別の場所を見た。
遠い記憶。
痛む言葉。
値札のように貼られた評価。
「お前には、聖女ほどの価値がない」
誰の声かは、ノアには分からない。
だが、その言葉が彼女の中に残っていることだけは分かった。
価値がない。
そう言われたのは、自分だけだったはずだった。
なのにクラリスは、いつの間にかその値札を、領地にまで貼っていた。
自分が安く見られたから。
領地も、布も、職人の手も、少しくらい安く見られても仕方がない。
どこかで、そう思ってしまっていた。
クラリスは唇を引き結んだ。
「便利な目ね」
「便利ですが、万能ではありません」
「何が見えないの」
「人の本心です。納得も、誇りも、恨みも見えません」
「なら、商売には不便ね」
「はい」
ノアは即答した。
「なので、見える範囲から始めます」
商人が苛立った声を出す。
「茶番は終わったか。クラリス様、どうされます? この価格で売るのか、持ち帰ってさらに赤字を増やすのか」
クラリスは羊毛布を見た。
それからノアを見た。
「あなたは、売るなと言うのね」
「今は」
「では、領地の支払いはどうするの」
「考えます」
「考えるだけなら、誰でもできるわ」
「では、値をつけ直します」
「この場で?」
「いいえ。売り方ごと」
クラリスは黙った。
市場の喧騒が遠くなる。
グランベル商会の商人が腕を組んで待っている。
周囲の商人たちは、悪女と呼ばれた令嬢がどこまで値崩れするかを見ている。
ノアは、クラリスを助けたいと思ったわけではなかった。
同情ではない。
正義感でもない。
ただ、良い布が半値で買い叩かれるのを見過ごせなかった。
それは、剣が折れる前に止めるのと同じだ。
失われてからでは、買い戻せないものがある。
クラリスは深く息を吸った。
背筋がさらに伸びる。
怖い時ほど、彼女は姿勢が良くなるのだろう。
「売るのはやめます」
商人の顔から笑みが消えた。
「後悔しますよ」
「もうしています」
クラリスは言った。
「だから、これ以上増やさないことにします」
ノアは少しだけ彼女を見直した。
商人は鼻を鳴らした。
「では、持ち帰るがいい。運び賃も保管料もかかる。明日にはもっと安くなる。明後日には、誰も見向きもしない」
「それも含めて、再計算します」
ノアが言うと、商人は冷たい目を向けた。
「名前を聞いておこうか、値付け士」
「ノア・レインズです」
「勇者パーティの?」
商人の目に、別の笑みが浮かんだ。
「今朝、追放されたと聞いたが」
人垣がまたざわついた。
クラリスがノアを見る。
ノアは頷いた。
「はい。今日から無職です」
「なら、ちょうどいい」
クラリスが言った。
「私が雇います」
商人も、ノアも、周囲も、同時にクラリスを見た。
クラリスは言葉を続ける。
「無能と呼ばれた値付け士と、悪女と呼ばれた令嬢。随分と値崩れした組み合わせでしょう」
ノアは少し考えた。
「報酬は」
「今払える額は安いわ」
「買い叩きですか」
「後払いの交渉よ」
「支払期日は」
「領地が黒字になったら」
「危険な契約ですね」
「受けるの?」
ノアは羊毛布を見た。
銀貨二枚。
銀貨七枚。
失われた信用。
震える手袋。
伸びすぎた背筋。
そして、買い叩かれる寸前の価値。
「交渉なら受けます」
クラリスは、ほんのわずかに口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
だが、それは一瞬で消えた。
「なら来なさい、ノア・レインズ。私の領地を見て。値段ではなく、残っている価値を」
ノアは革鞄を肩に掛け直した。
市場の端で、グランベル商会の商人が冷たい目で見ている。
ノアは、その視線を背中に受けながら歩き出した。
【エルネスタ辺境領】
【財政状況:赤字】
【信用毀損:危険域】
【潜在価値:未回収】
【破綻予測:近い】
破綻予測。
近い。
ノアは小さく息を吐いた。
「急ぎましょう」
クラリスが横に並ぶ。
「領地が?」
「いいえ」
ノアは答えた。
「領地より先に、信用が底を抜きます」
◇
エルネスタ辺境領は、王都から馬車で半日ほどの場所にあった。
辺境というには王都に近い。
だが、王都の商人たちはそこを辺境と呼ぶ。
街道から外れ、冷たい風が早く降りる土地。
冬が長く、畑は大きくない。
代わりに羊が多い。
灰色の丘に、白い羊が点のように散っている。
ノアは馬車の中で硬いパンをかじっていた。
それを見たクラリスが、眉を寄せる。
「それが昼食?」
「はい」
「硬そうね」
「安いので」
「あなた、自分の食事には随分と安い値段をつけるのね」
ノアはパンを持ったまま止まった。
「栄養は最低限あります」
「最低限で足りる、は安売りする側の言い訳に聞こえるわ」
ノアは何も言えなかった。
「少なくとも、今の私にはそう聞こえる」
クラリスは窓の外に視線を戻す。
馬車の中に、少しだけ沈黙が落ちた。
エルネスタ領に入ると、空気が変わった。
羊はいる。
工房の煙も上がっている。
倉庫も空ではない。
道も崩れていない。
終わった土地ではない。
だが、人々の目が暗かった。
クラリスの馬車を見ると、領民は頭を下げる。
礼はある。
信頼はない。
ノアには、そう見えた。
馬車が止まったのは、羊毛の集積所の前だった。
そこに、一人の少女が立っていた。
十七歳ほど。
日焼けした肌。
羊毛を束ねる作業着。
手は荒れている。
彼女はクラリスに向かって、深すぎるほど礼をした。
「お帰りなさいませ、クラリス様」
「ミリア。原毛の納入は?」
「倉庫に入れています。ただ……」
ミリアと呼ばれた少女は、ノアを見た。
それから、クラリスを見る。
「王都で、また売れなかったんですね」
クラリスは一瞬だけ黙った。
「売らなかったわ」
「……そうですか」
ミリアの声には、安心も喜びもなかった。
ノアは倉庫に入る。
原毛を見る。
手に取り、指でほぐす。
【エルネスタ原毛】
【品質:高】
【納入価格:低下】
【生産者負担:増大】
【継続可能性:低下】
品質は高い。
だが、生産者の方が削れている。
良い商品が残っているのに、作る側が疲弊している。
よくある赤字の形だった。
ノアは原毛を手にしたまま言った。
「この品質なら、原毛の納入価格も戻すべきです」
ミリアの表情が、わずかに硬くなった。
「戻す、ですか」
「はい」
「それで布の値段も上がるんですよね」
ノアは少しだけ黙った。
「上がります」
ミリアは倉庫に積まれた羊毛を見た。
「高く売れるのは、いいことなんだと思います。羊を飼う家には、たぶん。でも、その布を買う家には、どうなんですか」
ノアはミリアを見た。
彼女は反抗しているわけではない。
生活の話をしている。
高く売れば職人は助かるかもしれない。
だが、その布を領民が買えなければ、冬は越せない。
ノアは即答できなかった。
クラリスも黙っている。
ミリアは少しだけ視線を落とした。
「布のことなら、ガルドさんに聞いてください。たぶん、怒鳴られますけど」
◇
羊毛布工房は、領地の外れにあった。
中に入ると、油と羊毛と木の匂いが混ざっていた。
織機は古い。
だが、手入れは行き届いている。
道具の置き方に乱れはない。
仕事を捨てた工房ではない。
捨てられたくない工房だった。
奥から、太い腕の男が出てきた。
五十代前半。
短く刈った灰色の髪。
節くれだった指。
その指には、細かな傷がいくつもあった。
ガルド・メイザー。
エルネスタ領の羊毛布職人代表。
彼はクラリスを見ても、礼をしなかった。
「今度は何をしに来た」
クラリスは咎めなかった。
「布の扱い方を、変えに来ました」
「同じだ。どうせまた、金の話だろう」
ガルドはノアを見た。
「で、その細いのは何だ。商人か」
「ノア・レインズ。値付け士です」
クラリスが答えると、ガルドは鼻で笑った。
「値付け士だと?」
彼は、工房の奥に積まれた布を顎で示した。
「値札をつければ、あれが元に戻ると思うなよ」
ノアは工房の布を見た。
深い灰色。
厚み。
均一な織り。
指で触れると、表面は柔らかいが、奥にしっかりとした密度がある。
【辺境羊毛布】
【保温性:高】
【耐久性:高】
【現在市場認識:安物】
【信用毀損原因:半値売り/悪評/販路崩壊】
「適正価格に戻すべきです」
ノアが言うと、ガルドが笑った。
笑いというより、喉の奥で何かが割れたような音だった。
「値段を戻せば、誇りも戻ると思うな」
工房が静かになる。
ガルドは棚から一枚の古い布を取り出した。
端が擦り切れている。
何度も修繕されている。
だが、まだ温かそうだった。
「この布はな、子供が生まれた時に包む。嫁入りの時に持たせる。冬に旅人が宿で借りる。夜番の男が肩に掛ける。吹雪の日、馬車の御者が膝に乗せる」
ガルドはクラリスを見た。
「あれは布じゃねえ。うちの冬だ。それを半値で売られたんだ」
クラリスは何も言わなかった。
唇を結び、背筋を伸ばしている。
ノアは、その姿勢が少し痛々しく見えた。
ガルドは続ける。
「王都の商人どもは言ったよ。悪女の領地の安物だってな。弟子が聞いてた。羊を育てた連中も聞いてた。織った女たちも、染めた爺さんも聞いてた。お嬢様、あんたは金に困って売ったんだろう。だが、俺たちにはこう聞こえた」
ガルドは布を握った。
「お前たちの冬は、半値だってな」
クラリスの指先が震えた。
ノアは言葉を挟まなかった。
ここに値札を出しても、何の役にも立たない。
それくらいは分かった。
だが、まだ足りなかった。
値段だけでは、人は動かない。
それを知っているのに、ノアは今も、まず値段から話している。
「一度、売場に出します。正しい価格で」
ガルドがノアを睨んだ。
「売れるもんなら売ってみろ。売れなかった時に、また俺たちのせいにするなよ」
「売れるとは思っていません」
工房の空気が、一段冷えた。
ガルドの眉が動く。
「何だと」
「今のままでは売れません。王都で分かりました。問題は布ではなく、信用です」
ノアは、積まれた羊毛布を見た。
「だから、それを売場で見せます。客が布を見て、それでも信用できないと言って離れるところを」
ガルドは黙った。
「売れなかった理由を、もう一度、職人のせいにしないためです」
クラリスが小さく息を吸った。
ガルドは返事をしなかった。
だが、もう笑わなかった。
◇
翌日。
領地の広場に、簡易の売場が作られた。
ノアは辺境羊毛布を並べ、値札を置いた。
銀貨七枚。
本来の適正価格。
品質説明も添えた。
寒冷地向け。
保温性が高い。
長持ちする。
修繕可能。
クラリスが横から、紙に長い商品名を書こうとしていた。
「エルネスタ厳冬期特級防寒羊毛織布」
ノアは黙った。
ミリアも黙った。
ガルドが言った。
「客が読む前に冬が終わる」
クラリスの手が止まった。
「では、どうしろと言うの」
ノアは少し考えた。
「冬を越す羊毛布」
「短すぎない?」
「伝わります」
ミリアが頷いた。
「私はこっちの方が分かります」
クラリスは不満そうだったが、紙を置き換えた。
売場が整う。
客が来る。
布を見る。
触る。
値段を見る。
そして、離れる。
「少し前は半値だったんだろ?」
「王都で悪女の領地の商品だって聞いたぞ」
「また困ったら安くなるんじゃないのか」
「高く戻しただけで信用しろって言われてもな」
一枚も売れなかった。
ノアは値札を見た。
銀貨七枚。
間違っていない。
けれど、客は値札だけを見て離れたわけではなかった。
布に触れた。
質を確かめた。
その上で、噂を口にした。
ノアは、静かに息を吐いた。
予想どおりだった。
価格ではない。
品質でもない。
信用が、値段の前に立っている。
そして今、それをクラリスも、ミリアも、ガルドも見た。
【価格設定:適正】
【品質訴求:不足なし】
【購入阻害要因:信用】
【推奨:価格変更ではなく信用回復】
「分かっていたの?」
クラリスが横で言った。
「はい」
ノアは売場を見た。
「でも、分かっているだけでは足りませんでした」
「どういうこと?」
「俺が言っても、ただの値付け士の判断です。ガルド殿が納得しなければ、職人は動けない。ミリアが納得しなければ、領民は信じない。あなたが見なければ、領主として謝る相手を間違える」
クラリスは、売場の前から離れていく客の背を見た。
「なら、やはり信用なのね」
「はい。値段を戻す前に、信用を作り直す必要があります」
クラリスはしばらく黙っていた。
やがて、顔を上げる。
「私が、話すわ」
「誰にですか」
「私が説明を省いた人たちに」
◇
その日の夕方。
工房前の広場に、職人と領民が集められた。
ガルド。
ミリア。
羊飼いたち。
染め職人。
運び手。
織り子。
皆、クラリスを見ていた。
期待ではない。
警戒だった。
クラリスは彼らの前に立つ。
背筋が伸びていた。
伸びすぎていた。
怖い時ほど、この人は姿勢が良くなるのだと、ノアは思った。
クラリスは口を開いた。
「私の判断により、皆に不利益を与えたことを認めます」
空気が冷えた。
言葉は正しい。
だが、正しいだけだった。
帳簿に向かって読み上げているような謝罪。
誰の顔も見ていない謝罪。
ミリアが小さく言った。
「それ、誰に謝ってるんですか?」
クラリスの言葉が止まった。
広場に沈黙が落ちる。
ガルドは何も言わない。
ノアも言わない。
クラリスは、何かを言い直そうとした。
だが、言葉が出なかった。
その場は、それで終わった。
◇
夜。
領主館の小さな執務室に、明かりが一つだけ灯っていた。
クラリスは帳簿を開いていた。
だが、見ていたのは金額欄ではなかった。
納品記録。
そこには名前がある。
ミリア・トールの家が納めた羊毛。
ガルド・メイザーの工房が織った布。
染めを担当した老職人。
運んだ馬車屋。
保管した倉庫番。
それから、古い顧客名簿。
クラリスは、その一冊をゆっくり開いた。
王都の宿屋。
北方街道の馬車宿。
夜番詰所。
産婆の家。
古い取引先の名が、細い字で並んでいた。
その多くに、十年以上前の日付がある。
もう消えた名前もある。
だが、すべてが消えているわけではない。
「昔は、届けていたのね」
クラリスが呟いた。
ノアが顔を上げる。
「はい」
「私は、倉庫にあるものを売ろうとしていた。売場に置けば、誰かが買うと思っていた」
クラリスは指先で、名簿の一行をなぞる。
「でも、昔のエルネスタは、必要な場所に届けていた」
その一行には、王都南区の宿屋の名があった。
備考欄。
吹雪の年、膝掛け追加。
子供用小布、好評。
修繕対応、早し。
ただの取引記録のはずなのに、そこにはかすかに生活の匂いが残っていた。
ノアは、その文字を見た。
値段ではなく、使われた場所が残っていた。
誰が、何のために、どんな夜に必要としたのか。
ノアは少しだけ目を伏せた。
アレスに足りなかったのも、これだったのかもしれない。
不意に、自分自身の表示が浮かぶ。
【ノア・レインズ】
【現在報酬:未設定】
【労働負荷:過多】
【自己評価:低】
【未計上損失:本人】
ノアは帳簿を閉じた。
少しだけ早すぎた。
クラリスが顔を上げる。
「都合の悪い数字でも出たの?」
「いいえ」
「嘘が下手ね」
「値付け士なので、嘘は不得手です」
「なら、なおさら分かるわ」
クラリスは、ノアの脇に置かれた硬いパンを見た。
夕方からそこにある。
ほとんど減っていない。
「あなた、自分の食事にも、報酬にも、随分安い値段をつけるのね」
「最低限で足ります」
「それを続けた人間が、最後に何を削っているのか、私は今日見たわ」
ノアは返答に困った。
クラリスは帳簿を静かに閉じた。
「自分の値段だけ書き忘れる人間に、領地の値段を任せるのは危険だわ」
「……商売に関係ありません」
「あるわ」
クラリスは、納品記録に並んだ名前へ視線を戻す。
「私も同じことをしたもの。領地のためと言いながら、人の仕事に値段をつけて、自分が何を削っているか見なかった」
ノアは黙った。
その言葉は、帳簿の数字より重かった。
「あなたは、人を励ます時まで値段をつけるのね」
「励ましたつもりはありません」
「そこが問題なのよ」
ノアは視線を落とした。
「……数値上、放置できませんでした」
「だから、そういうところ」
クラリスの声は呆れていた。
だが、少しだけ柔らかかった。
クラリスは古い顧客名簿を閉じずに、もう一枚、白い紙を取った。
「明日、もう一度話すわ」
「はい」
「今度は、帳簿ではなく、人に」
それから、クラリスは震える指でペンを持った。
「その後で、手紙を書く」
「誰にですか」
「昔、この布を必要としてくれた人に」
ノアは、名簿に残された宿屋の名を見た。
売れなかった商品を、もう一度、必要だった人へ届ける。
それは値下げではない。
謝罪でもない。
商売の形をした、信用への呼びかけだった。
◇
翌朝。
クラリスはもう一度、広場に立った。
職人も、領民も、昨日と同じように集まっている。
空気は重い。
だが、クラリスは逃げなかった。
今度は、まっすぐ前を見る。
「ミリア・トール」
名を呼ばれて、ミリアが目を見開いた。
「あなたの家が納めた羊毛を、私は半値で売りました」
クラリスは次に、ガルドを見る。
「ガルド・メイザー。あなたの工房の仕事を、私は守れませんでした」
ガルドは黙っている。
「染め職人のハンナ。運び手のトム。倉庫番の老マルク。あなたたちの仕事も同じです」
広場に、昨日とは違う沈黙が落ちた。
名前を呼ばれた者たちが、顔を上げる。
その場にいる誰も、彼女を悪女と呼ばなかった。
それが、王都の罵声より痛かった。
「私は、領地を守るつもりでした。けれど、あなたたちに説明することを省いた。嫌われてもいいと思っていた。でも、それは信じてもらう努力から逃げただけでした」
クラリスの声は震えていた。
だが、姿勢だけで耐えているのではない。
目の前の人間を見ていた。
「私は悪女ではなかったかもしれない。でも、良い領主でもなかった」
誰も拍手しなかった。
誰も許したとは言わなかった。
それでいい。
そんな簡単に戻る信用なら、ここまで値崩れしていない。
クラリスは続ける。
「謝罪で済むとは思っていない。だから、働く」
ミリアが、小さく息を吸った。
「まだ信用してません」
「分かっているわ」
「でも、今の言葉なら聞きます」
そこでミリアは、顔を上げた。
昨日より強い目だった。
「ただし、次にまた私たちを帳簿の一行にしたら、私はもう頭を下げません」
広場が少しだけざわついた。
クラリスはその言葉を受け止めた。
怒らなかった。
咎めなかった。
ただ、深く頷いた。
「そうして。次に私が同じことをしたら、あなたは頭を下げなくていい」
ミリアの唇が、少しだけ震えた。
ガルドが腕を組む。
「で、どう売るんだ。もう半値はごめんだぞ」
ノアは前に出た。
「値段を下げません。売り方を変えます」
◇
ノアが最初にやったのは、値札を書き換えることではなかった。
商品を分けることだった。
「一枚布は銀貨七枚のままです」
工房の台の上に、辺境羊毛布が置かれている。
「これは冬越し用。職人印を入れます。修繕一回無料。誰が織ったか、どの羊毛を使ったか、保証札に書く」
ガルドが眉をひそめる。
「俺の名前を札に書くのか」
「はい」
「面倒だな」
「安く見られたくないなら、誰の仕事か見せるべきです」
ガルドは黙った。
反論はしなかった。
ノアは次に、端切れを手に取る。
「これは補修用にします」
「端切れでうちの布を売るのか」
ガルドの声が低くなった。
「端切れを安物として売るなら反対です」
ノアはすぐに言った。
「ですが、補修用として必要な人に届けるなら、これは別の商品です」
「別商品だと?」
「はい。破れた上着を直す。古い布団の角を補う。子供の膝に当てる。大きな一枚を買えない人にも、必要な形で届きます」
「だったら俺の名は入れるな」
ガルドが言った。
工房の空気が固まる。
「半端物に、俺の名は入れねえ」
ノアはすぐには返さなかった。
ここで押し切れば、また同じ失敗になる。
正しさだけで人は動かない。
ミリアが、端切れを一つ手に取った。
「名前がなかったら、また安物に見えます」
ガルドがミリアを見る。
「何だと」
「私の家で羊を育てた毛も、ガルドさんが織った布も、端だからって別物になるんですか」
ミリアの声は大きくなかった。
だが、工房の奥まで届いた。
「一枚は買えなくても、子供の上着を直したい家はあります。そういう家が買うものに名前がなかったら、また“安い方”って呼ばれます」
ガルドは黙った。
ミリアは端切れを台に置いた。
「私は、それも嫌です」
ノアはその言葉を待ってから、口を開いた。
「職人印を入れるかどうかは、あなたが決めてください。ただし、入れないなら、これは補修布ではなく端切れとして扱われます」
ガルドは長く沈黙した。
そして、低く言った。
「……補修用だ。端切れじゃねえ」
ノアは頷いた。
「では、補修用として売ります」
「名は入れる」
ガルドは吐き捨てるように言った。
「ただし、札に書け。半端物じゃない。直すための布だと」
「書きます」
クラリスが帳面に書き込む。
補修用羊毛布。
用途。
上着、寝具、子供用布の補修。
職人印あり。
ガルドは目を逸らした。
それは同意の代わりだった。
「膝掛けも作ります」
ノアは小さめに裁った布を示した。
「宿屋、馬車屋、高齢者、子供向け。大きな一枚布より買いやすい。用途を絞れば、値段を下げずに入口を作れます」
クラリスが帳面に書き込む。
「値下げではなく、別商品化」
「はい」
ノアは頷く。
「価値を下げるな。売り方を変えろ、です」
クラリスが顔を上げる。
「あなたの決め台詞?」
「今、決めました」
ミリアが少しだけ笑った。
ガルドは鼻を鳴らした。
「軽いな」
「でも、悪くないわ」
クラリスは値段を書いた。
高級一枚布。
補修用羊毛布。
冬支度用の膝掛け。
領地保証札。
ノアがそれを見る。
【価格設定:妥当】
【購入可能層:拡大】
【職人利益:維持】
【信用回復:微増】
「良い値段です」
ノアが言うと、クラリスが一瞬止まった。
「……そう」
それだけ言って、視線を帳面に戻す。
褒められることに慣れていない反応だった。
その後、クラリスは別の紙を差し出した。
「あなたの雇用条件も書き直したわ」
「今ですか」
「今よ」
ノアは紙を見る。
報酬。
食事。
宿。
交通費。
帳簿確認権限。
休息日。
「食事と宿は削って構いません」
「駄目」
「ですが、領地の財政は赤字です」
「あなたは自分の値段だけ書き忘れるから、駄目」
ノアは何も言えなかった。
ガルドがぼそりと言う。
「似た者同士だな」
クラリスとノアが同時にガルドを見た。
ガルドは知らん顔をした。
◇
再販売の日。
広場には、確認売場の時とは違う売場ができていた。
高級一枚布。
補修用羊毛布。
冬支度用の膝掛け。
そして、それぞれに保証札。
誰が織ったか。
何に向いているか。
なぜこの値段なのか。
値札ではなく、値段の理由を置いた売場だった。
クラリスは朝早く、古い顧客名簿をもとに手紙を出していた。
手紙は長くなかった。
謝罪。
売場の案内。
修繕保証の再開。
そして、最後に一文だけ。
エルネスタの布を、もう一度、必要な方へ届く形に直します。
それは宣伝文としては、拙かった。
だが、クラリスが初めて自分の言葉で届けた商売の手紙だった。
客が集まり始めた。
最初の売場より、足を止める人が多い。
保証札を読む者がいる。
補修用羊毛布を手に取る者がいる。
だが、最初の買い手が現れる前に、別の客が来た。
王都の上等な外套。
柔らかい物腰。
笑っているのに、目が笑っていない男だった。
男は売場の前で足を止め、軽く頭を下げた。
「失礼。グランベル商会のラウル・グランベルです。王都であなた方の布を拝見しました」
その名を聞いた瞬間、ガルドの拳が固まった。
ミリアの顔がこわばる。
クラリスも、わずかに背筋を伸ばした。
グランベル商会。
王都で、銀貨七枚の布を銀貨二枚に沈めようとした相手。
その商会の名を背負った男が、目の前に立っていた。
王都で買い叩かれかけた布が、どんな顔で売場に戻るのか。
見に来ない商人ではなかった。
「良い売場になりましたね」
ラウルは膝掛けを手に取った。
「王都で見た時より、ずっと商品らしい」
クラリスが警戒する。
「何の用ですか」
「もちろん、商談です」
ラウルは穏やかに言った。
「こちらの商品、まとめて買い取りましょう。銀貨三枚で」
ガルドが拳を握る。
ミリアの顔がこわばる。
クラリスは一瞬だけ迷った。
銀貨三枚。
王都で出された銀貨二枚よりは高い。
だが、本来の価格には届かない。
ラウルはその迷いを見逃さない。
「在庫を抱えるより、今売った方がよいでしょう。資金繰りも楽になる」
クラリスは深く息を吸った。
背筋が伸びる。
だが、以前とは違う。
逃げるためではなく、立つためだった。
「その価格では売りません」
ラウルの笑みは崩れない。
「売らなければ在庫になりますよ」
「在庫にします。銀貨二枚で売るよりは、次の売り方を考えます」
ノアが続けた。
「交渉なら受けます。買い叩きなら帰ります」
広場が静かになった。
ラウルはノアを見た。
それから、羊毛布に視線を落とす。
「良い商品です」
ラウルは本気でそう言った。
「だから、ほとんどの人には届きません」
ノアは黙った。
ラウルは膝掛けを丁寧に畳み直す。
「王都南区では、銀貨七枚の布は売れません。ですが、銀貨一枚半の冬布なら、十人が買う」
ミリアが小さく反応した。
ラウルは静かに続ける。
「その十人のうち何人かは、本当に寒さに困っています。粗い布でも、今夜膝に掛けられるなら買うでしょう」
ノアは返せなかった。
「守られた価値は高くなる。高くなった価値から、最初に締め出されるのは貧しい者です」
ラウルは微笑む。
「では、こちらも別の届かせ方を考えましょう」
そう言って、彼は去っていった。
ミリアがぽつりと言う。
「悔しいけど、買う人はいると思います。うちの隣の家なら、たぶん買います」
ノアは頷いた。
「次の課題です」
「次?」
クラリスが聞く。
「価値を守りながら、届く価格を作ることです」
クラリスはラウルの去った方を見た。
「簡単ではなさそうね」
「はい」
「でも、買い叩かせない」
「はい」
その時、売場の前に一人の女が立った。
王都から来たらしい、宿屋の女将だった。
年は四十を過ぎたあたり。
実用的な服装。
目は商人の目だった。
女将は、最初にクラリスを見た。
「手紙を読んだよ」
クラリスの指先が、わずかに震えた。
「来てくださったのですね」
「迷ったけどね」
女将は淡々と言った。
「悪女の領地の布を仕入れたなんて言われたら、うちの宿にも響く」
クラリスは何も言い返さなかった。
女将は次に、膝掛けを手に取り、布を撫でた。
指先が止まる。
表情が、ほんの少しだけ変わった。
次に、保証札を見た。
職人印を見た。
ガルドの名を見て、目を細める。
「ガルド・メイザー……まだ織ってたのかい」
ガルドが顔を上げる。
「あんた、誰だ」
「昔、エルネスタの宿でこの布を借りたことがある。吹雪で馬車が止まってね。この布がなかったら、うちの亭主は足をやられてた」
女将は膝掛けを広げた。
布の端を見た。
縫い目を見た。
保証札を、もう一度見た。
「うちの宿には、古いエルネスタの膝掛けが一枚だけ残ってる。擦り切れて、何度も直して、それでも捨てられなかった」
ガルドが黙った。
女将は小さく笑った。
「客が寒いって言うと、なぜか皆それを選ぶんだよ。新しい布より、そっちがいいってね」
クラリスは言葉を失っていた。
自分が半値で売ったもの。
自分が守れなかったもの。
それが、どこかの宿で、まだ誰かの膝を温めていた。
女将はクラリスを見る。
「正直、もう買わないつもりだった」
クラリスの喉が、小さく動いた。
「悪女の布なんて言われるのも困るし、半値で売るような布なら宿には置けない。そう思ってた」
女将は膝掛けを畳んだ。
丁寧に。
古い客が、古い知り合いに触れるように。
「でも、手紙を読んだ。謝って、直すと書いてあった。だから、見に来た」
女将は、クラリスをまっすぐ見た。
「これ、昔のエルネスタの布に戻ったのかい?」
クラリスは一瞬、声が出なかった。
背筋だけで耐えようとして、失敗した。
唇が震えた。
それでも、目を逸らさなかった。
「戻したいと思っています」
声は小さかった。
「まだ、途中ですが」
女将はしばらくクラリスを見ていた。
それから、膝掛けを胸に抱えた。
「なら、一枚もらおう。宿の客に貸す。修繕は本当にしてくれるんだね?」
ガルドが答えた。
「する」
「昔みたいに?」
ガルドは少しだけ間を置いた。
「昔より、丁寧にする」
女将は笑った。
「じゃあ買うよ」
女将は、値札どおりの銀貨を数えて置いた。
広場の誰もが、その音を聞いた。
売れたのは、膝掛け一枚だけだった。
それでも、誰も笑わなかった。
半値ではない。
買い叩かれた価格ではない。
値段の理由ごと、必要だった人のところへ届いた一枚だった。
クラリスが小さく呟く。
「売れた、のね」
「……いえ」
ノアは、女将の背を見た。
膝掛けを抱える手つきが、妙に丁寧だった。
商品を持つ手ではなかった。
寒い夜に使うものを、迎えに来た手だった。
「戻ったんだと思います」
クラリスがノアを見る。
「必要だった場所に」
ノアは、胸の奥が少しだけ重くなるのを感じた。
銀貨の音ではない。
利益の重さでもない。
女将が膝掛けを抱える手つきが、いつまでも目に残った。
帳簿には、たぶん、こういう重さは載らない。
ノアは帳簿を開いた。
売上。
膝掛け一枚。
その横に、少し迷ってから、小さく書き足した。
戻った客、一人。
利益欄には入らない。
けれど、消してはいけない数字だった。
クラリスはそれを横から見て、何も言わなかった。
ただ、唇を結んだ。
泣かなかった。
泣けば許される気がして、泣けなかった。
ただ、深く息を吸った。
ガルドは何も言わずに、女将の背を見ていた。
ミリアの目が少しだけ潤んでいた。
クラリスは売場の前に立った。
職人たち。
領民たち。
客たち。
そして、ノア。
全員の前で、彼女は言った。
「エルネスタ領の商品は、もう安く見せません」
ガルドが腕を組んだまま言う。
「許したわけじゃねえ」
「分かっているわ」
「だが」
ガルドは少しだけ視線を逸らした。
「買い叩かせるよりは、ましだ」
クラリスは頷いた。
「それで十分です。今日は」
◇
その頃、北方街道の石橋近くで、勇者アレスは曲がった剣を見つめていた。
魔物は倒した。
依頼も失敗ではない。
だが、剣は曲がり、馬車軸は割れ、治療薬は底に近い。
報酬から修理費と補充費を引けば、ほとんど残らない。
魔術師の青年が、包帯を巻いた腕を押さえて呟いた。
「ノアがいたら、こんなことには……」
アレスは怒鳴れなかった。
耳の奥に、ノアの声が残っている。
いいえ。命の話です。
アレスは曲がった剣を握り、低く呟いた。
「……金の話じゃ、なかったのか」
◇
夕方。
エルネスタ領の広場に、人の姿は少なくなっていた。
売れた数は、多くない。
膝掛けが一枚。
補修用羊毛布が三組。
高級一枚布は、まだ売れていない。
だが、誰もそれを失敗とは言わなかった。
ノアは広場の端で、領地を見た。
【エルネスタ辺境領】
【信用毀損:継続】
【財政状況:赤字】
【再建完了率:一%未満】
【推奨:継続取引】
ノアは、少しだけ息を吐いた。
それを見て、クラリスが隣に立つ。
「悪い数字だったの?」
「良い数字ではありません」
「正直ね」
「嘘をついても、帳簿は変わりません」
「では、どのくらい?」
ノアは少し迷った。
だが、ここで曖昧にする方が、彼女には失礼だと思った。
「再建完了率で言えば、一%未満です」
クラリスは黙った。
「一%未満……」
「はい」
ノアは頷いた。
「ですが、最初はゼロでした」
クラリスはしばらく広場を見ていた。
半値で売られかけた布。
怒った職人。
まだ信用していない領民。
それでも戻ってきた、たった一人の客。
何も戻っていない。
だが、戻す場所だけは見えた。
クラリスは、ほんの少しだけ笑った。
王都の市場で見た時のような、倒れないための姿勢ではない。
まだ弱い。
まだ危うい。
だが、自分の足で立とうとしている顔だった。
「なら、次の値段もつけ直すわ」
「間違っていたら止めます」
「ええ。交渉なら受けるわ」
ノアは少しだけ肩の力を抜いた。
王都では、銀貨二枚に沈められかけた布が一枚。
ここでは、領地の冬として買われた。
買い叩かれた価値は、まだ戻りきっていない。
信用も、財政も、誇りも。
何一つ、簡単には戻らない。
それでも、最初はゼロだった。
今日は、一%未満。
なら、次がある。
クラリス・エルネスタは、夕暮れの広場を見た。
そして、静かに言った。
「この領地の値段は、私がもう一度つけ直す」
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
この短編をもとに、連載版を開始しました。
連載版では、ノアとクラリスがエルネスタ領の商品、職人、信用を取り戻していく物語として、短編より先の展開まで描いていきます。
よろしければ、連載版も読んでいただけると嬉しいです。




