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勇者パーティを追放された値付け士、悪役令嬢の領地を安売りさせない 〜買い叩かれた辺境で、価値を取り戻す商売を始めます〜

作者: 爪楊枝男爵
掲載日:2026/05/24

短編です。


楽しんでいただけたら嬉しいです。

王都の冒険者ギルド裏。


 遠征前の馬車置き場は、いつも騒がしい。


 武器を積む者。


 保存食を運ぶ者。


 馬具を確かめる者。


 怪我を隠して笑う者。


 勇者パーティの馬車も、その一角にあった。


 魔王軍の残党討伐。


 北方街道の安全確認。


 報酬は金貨三十枚。


 依頼書だけ見れば、悪くない仕事だった。


 ただし、依頼書だけなら、だ。


 ノア・レインズは、支給された剣を手に取り、眉をひそめた。


 刃を見る。


 鍔を見る。


 柄巻きの隙間を押す。


 最後に、軽く振って重心を確かめる。


 軽い。


 軽すぎる。


【量産鋼剣】

【購入価格:銀貨三枚】

【推定修理費:銀貨八枚】

【破損予測:二度目の強打】


「この剣、二度目の強打で刃が曲がります」


 荷を積んでいた仲間たちの手が止まった。


 勇者アレス・ヴァンガードが振り返る。


 金色の髪。


 整った顔。


 王都で最も若く魔王軍幹部を退けた男。


 人々は彼を勇者と呼ぶ。


 アレスはノアの手元を見て、面倒くさそうに息を吐いた。


「また金の話か」


「いいえ。命の話です」


 ノアは剣を鞘に戻した。


「刃が薄い。芯材が弱い。魔物の外骨格に二度強く当てれば曲がります。三度目は折れる可能性が高い」


「だから?」


「前衛の武器が折れれば、後衛の被害が増えます。治療薬も減る。馬車を守れなければ積み荷も失う。結果的に、この剣は安くありません」


 空気が重くなった。


 いつものことだった。


 ノアは、いつも間違った物を止めてきた。


 折れる剣。


 腐る保存食。


 危ない契約書。


 壊れる馬車軸。


 それで何度も仲間を守ってきた。


 だが、そのたびに仲間たちは少しずつ目を逸らすようになった。


 ノアには、物の値段は見えた。


 危険も見えた。


 損失も見えた。


 ただ、自分の言葉が相手にどう届いているかだけは、最後まで見えなかった。


「北の村から救援要請が来ている」


 アレスが言った。


「街道が塞がれば、冬前の荷も届かなくなる。準備に時間をかけるほど、次の村が危ない」


「急ぐことと、壊れる装備で向かうことは別です」


「またそれだ」


 アレスの声に苛立ちが混じった。


「行く前から、剣が折れるだの、薬が足りないだの、馬車が壊れるだの。お前はいつもそればかりだ」


「壊れてからでは遅いので」


「だから、その言い方が嫌なんだよ」


 ノアは黙った。


 言い方。


 それは、ノアにとってもっとも値付けしにくいものだった。


「今回は支援物資も入ってる。装備も食料も、これまでより安く揃った。なのにお前は、また高い方を買えと言う」


「高い方ではありません。必要な方です」


「同じだろ」


「同じではありません」


 周囲の仲間たちが、わずかに身構えた。


「高いと言うなら構いません。ですが、同じだと言うなら、見てからにしてください」


「見たさ。見た上で、俺たちはこれでいいと決めた」


「それは、誰が?」


「パーティ全員でだ」


 アレスの後ろで、魔術師の青年が目を逸らした。


 弓使いの女も、治癒術師も、ノアと目を合わせなかった。


 決定は終わっている。


 ノアはそれを理解した。


 理解した上で、アレスの右肩を見た。


 前回の遠征で受けた傷が、まだ完全には戻っていない。


 剣を持つ腕の動きが、ほんの少し遅れている。


 本人は隠している。


 仲間も、気づかないふりをしている。


 だから、ノアは言わなければならなかった。


「北の石橋は避けてください」


 ノアは言った。


「今の馬車軸では持ちません。川沿いを迂回した方がいい。半日遅れますが、総損失は低くなります」


 アレスは笑った。


 明るい笑いではなかった。


「総損失、ね」


「はい」


「俺の怪我まで、値段に入れるんだろ」


「入れます」


 ノアは即答した。


「あなたが倒れたら、パーティ全体が赤字です」


 その瞬間、アレスの目が細くなった。


 ノアは、言い方を間違えたと気づいた。


 あなたの傷が心配です。


 今の肩で無理をすれば、次は剣を握れなくなるかもしれません。


 そう言えばよかった。


 だが、もう遅かった。


「俺は帳簿の数字じゃない」


「分かっています」


「分かってない」


 アレスは一歩、ノアに近づいた。


「俺は勇者だ。誰かが傷つくくらいなら、俺が前に出る。俺が怪我して済むなら、それでいい。そうやってここまで来た」


「それで済まないから、言っています」


「済ませるんだよ」


 アレスの声が強くなる。


「ノア。お前は、いつも行く前から負けた時の話をする」


「負けないためです」


「違う。お前は俺たちを信用していない」


 ノアは返せなかった。


 信用していないわけではない。


 むしろ、信用しているからこそ、折れる剣を持たせたくない。


 傷む保存食を食べさせたくない。


 壊れる馬車に乗せたくない。


 アレスに、これ以上無理をさせたくない。


 だが、それを言葉にすると、また金と損失の話になる。


「つまり、この剣は――」


 ノアは言葉を探した。


 高い。


 違う。


 弱い。


 それも違う。


 危ない。


 近いが、まだ足りない。


 この剣は、安く見えるだけで、あとから仲間の血と薬代と修理費を請求してくる。


 そう言えば、また金の話になる。


 ノアは結局、いつもの言葉を選んでしまった。


「……損失が大きい」


 アレスの顔が、そこで完全に冷えた。


「もういい」


 アレスは言った。


「ノア・レインズ。今日限りで、勇者パーティから外れてくれ」


 馬車置き場が静かになった。


 魔術師の青年が、小さく息を呑む。


 弓使いの女が、何か言いかけてやめる。


 ノアはアレスを見た。


「正式な解雇ですか」


「そうだ」


「理由は」


「戦えない。魔法も最低限。遠征前に士気を下げる。何より、金の話ばかりで仲間を信用しない」


「未払い報酬は」


 仲間の一人が顔をしかめた。


「最後まで金かよ」


 ノアはそちらを見ないまま答えた。


「最後だからです」


 アレスは腰の革袋から銀貨を取り出し、ノアに投げた。


 ノアはそれを受け止めた。


 掌の上で数える。


 少ない。


 不足している。


 だが、遠征前にこれ以上揉めれば、さらに空気が悪くなる。


 ノアは銀貨を自分の革袋に入れた。


「不足分は?」


「装備費の過剰支出分と相殺だ」


「過剰ではありません」


「俺たちはそう思ってない」


「分かりました」


 自身の報酬については、不思議なくらい執着が湧かなかった。


 仲間の装備費にはあれほど食い下がれるのに、自分の未払い分となると、損失として処理してしまう。


 悪い癖だ。


 それも分かっている。


 分かっていて、後回しにした。


 馬車の脇に、小さな革鞄が一つ置かれていた。


 ノアの荷物は、それだけだった。


 帳簿。


 筆記具。


 小型の秤。


 替えのシャツ。


 修繕用の針と糸。


 硬いパン。


 ノアは鞄を持つ。


 軽い。


 軽すぎる。


 人の荷にはうるさいくせに、自分の荷物はいつも削っていた。


 アレスが背を向ける。


「行くぞ」


 勇者パーティが動き出す。


 ノアは最後に、馬車の車輪を見た。


 軸受けに小さな歪みがある。


 安い車軸に交換したのだろう。


「アレス」


「まだ何かあるのか」


「北の石橋は、本当に避けてください」


 アレスは振り向かなかった。


「俺たちは行く。お前はもう、関係ない」


「分かりました」


 ノアは一礼した。


 勇者パーティは馬車を出した。


 車輪が石畳の上を鳴る。


 軸の音が、少しだけ軽かった。


 軽い音は、よくない。


 ノアはそれを聞きながら、しばらく立っていた。


 怒りはなかった。


 悔しさも、思ったより少なかった。


 ただ、頭の中に損失だけが並んでいた。


 剣。


 車軸。


 保存食。


 薬。


 依頼失敗時の違約金。


 そして、アレス自身の消耗。


「俺の怪我まで値段に入れるな、か」


 ノアは小さく呟いた。


 入れるに決まっている。


 命は、失ってからでは買い戻せない。


 それでもノアは、アレスが無事に戻る方へ賭けたかった。


 だから止めた。


 だから嫌われた。


 だが、それを伝える言葉を、最後まで持てなかった。


 革鞄を肩にかける。


 これからどうするか。


 宿を取るには銀貨が足りない。


 ギルドで別の仕事を探すにも、勇者パーティを追放されたばかりの値付け士を雇う者は少ないだろう。


 ノアは市場の方へ歩き出した。


 まず、五日以内に仕事を見つける必要がある。


 筆記具は売らない。


 秤も売らない。


 帳簿も売らない。


 それらを売れば、値付け士として終わる。


 では、上着を売るか。


 そこまで考えた時、市場の方から怒声が響いた。


「聖女様に嫌がらせをした令嬢の領地の布だろ? 半値でも高いくらいだ!」


 ノアの足が止まった。


 半値。


 その言葉だけで、耳が反応した。


 値引きと買い叩きは違う。


 交渉と搾取も違う。


 そして、半値という言葉は、多くの場合、商品だけではなく、相手の弱みにつけられる。


 ノアは市場の方を見た。


 人だかりができている。


 布商区画。


 王都の商人たちが集まる場所だ。


 怒声の後に、冷たい笑い声が続いた。


「王太子殿下に捨てられた悪女の品に、まともな値がつくと思うなよ」


「社交界を乱した女の布なんぞ、店に置けるか」


「エルネスタ領も終わりだな。領主の娘があれでは」


 人垣の奥で、若い女の声がした。


「私の評判を買うのではなく、布を買いなさい」


 その声は冷たかった。


 だが、わずかに震えていた。


 別の商人が鼻で笑う。


「布だけ見ても同じことですよ、クラリス様。今売らなければ、明日にはもっと下がる」


「王都で悪女の布を置く店なんぞない」


「領地に持ち帰れば、今度は運び賃で赤字だ」


 ノアは革鞄を持ち直した。


 自分の宿代を計算していたはずだった。


 自分の食費を削ることを考えていたはずだった。


 だが、足はもう市場へ向かっている。


 人垣の隙間から、白い手袋が見えた。


 若い令嬢が立っている。


 顔色は悪い。


 唇は薄く結ばれている。


 手袋の指先が、ほんの少し震えていた。


 それでも、背筋だけは不自然なほど伸びていた。


 倒れそうな人間が、倒れないために無理やり姿勢を正している。


 ノアには、そう見えた。


 彼女の前には、深い灰色の羊毛布が積まれている。


 布そのものは静かだった。


 だが、周囲の商人たちの視線が、それを安物にしていた。


 ノアは布を見た。


 織りは密。


 厚みもある。


 毛足は整っている。


 雑に作られたものではない。


 冬を知っている土地の布だ。


 なのに、商人が提示している価格は低すぎる。


 低すぎるというより、低くしていい相手だと見られている。


 ノアの視界に、文字が浮かんだ。


【辺境羊毛布】

【現在提示価格:銀貨二枚】

【適正価格:銀貨七枚】

【買い叩かれ度:危険域】

【売れない原因:品質ではなく信用】


 ノアは人垣を抜けた。


 令嬢――クラリス・エルネスタが、悔しさを押し殺した声で言う。


「……その価格で、構いません」


 商人が笑う。


 ノアは、その間に立った。


「構います」


 クラリスと商人が、同時にノアを見る。


 商人の眉が動いた。


「何がだ」


「その価格が、です」


 ノアは積まれた羊毛布に手を置いた。


「この布は、半値で売るものではありません」


     ◇


「誰だ、お前は」


 商人は、ノアを上から下まで見た。


 革鞄。


 旅用の外套。


 手入れされたが古い靴。


 腰には剣もない。


 魔術師の杖もない。


 商人の目が、すぐに値踏みを終えた。


 戦えない。


 貴族でもない。


 金もない。


 だから、脅す必要もない。


 そう判断した目だった。


 ノアは商人ではなく、羊毛布を見ていた。


「値付け士です」


「値付け士?」


 商人が笑った。


「無能職の一つじゃないか。剣も振れず、魔法も使えず、商人にもなれない半端者が、値札に文句をつけるのか」


「文句ではありません」


 ノアは羊毛布から手を離さなかった。


「訂正です」


「訂正?」


「銀貨二枚ではなく、銀貨七枚です」


 人垣がざわついた。


 誰かが吹き出した。


 クラリスも、ノアを見た。


 驚きではない。


 警戒に近い。


「あなた、この布の何を知っているの」


「見れば分かります」


「見ただけで?」


「はい」


 クラリスの目が細くなった。


 彼女は顔色こそ悪いが、立っている姿は崩れていなかった。


 白い手袋の指先だけが震えている。


 それを隠すように、彼女は手を握った。


「なら答えなさい。どこが銀貨七枚なの」


 ノアは布の端を持ち上げた。


「織りが密です。毛足の向きも揃っている。厚みはあるのに、畳んでも硬くならない。寒冷地用としては上等です。安い羊毛に混ぜ物をした布ではありません」


 商人が鼻で笑った。


「そんなもの、見れば分かる。だがな、品物が良くても売れなければ価値はない」


「その通りです」


 ノアは即答した。


 商人の笑みが、少し止まった。


「だから、今は売ってはいけません」


 クラリスが眉を動かした。


「……どういう意味?」


「この布の品質は銀貨七枚です。ですが、今の市場では銀貨七枚では売れません」


「さっきは銀貨七枚だと言ったでしょう」


「適正価格と、今売れる価格は違います」


 ノアは商人を見る。


「あなたは布を買おうとしていない。エルネスタ領の弱みを買おうとしている」


 商人の目が冷えた。


「口の利き方に気をつけろ、値付け士」


「交渉なら気をつけます。買い叩きなら、気をつける必要はありません」


 人垣がざわついた。


 クラリスが、わずかにノアを見る。


 商人は低い声で言った。


「グランベル商会に喧嘩を売る気か」


 その名前が出た瞬間、周囲の空気が変わった。


 グランベル商会。


 王都最大級の大商会。


 食料、布、薬、魔道具、馬車、宿場の契約まで扱う巨大な商会。


 辺境の小領主が逆らえる相手ではない。


 クラリスの手袋の指が、また小さく震えた。


 ノアはそれを見た。


 それでも、声は変えなかった。


「喧嘩ではありません。価格の話です」


「なら、価格を教えてやる」


 商人はクラリスの前に置かれた羊毛布を指した。


「この布は、以前なら銀貨七枚だったかもしれん。だが今は違う。王都で悪女と呼ばれた令嬢の領地だ。財政難も知られている。商人は信用を買う。信用のない商品は、値が落ちる」


「それは事実です」


「なら、銀貨二枚でも高いくらいだ」


「そこは違います」


 ノアは短く言った。


「信用が落ちているなら、信用を戻すべきです。商品を半値にするべきではない」


 商人は笑った。


「戻せると思っているのか? 悪女の領地の信用を?」


 その言葉に、クラリスの目がわずかに揺れた。


 だが、彼女は口を閉じたまま立っていた。


 背筋は伸びている。


 まるで、倒れないことだけが今できる仕事だと言うように。


 ノアはクラリスを見た。


【クラリス・エルネスタ】

【信用毀損:危険域】

【推奨:救済ではなく再設計】


 救済ではなく再設計。


 ノアは、その表示を見て、少しだけ納得した。


 この令嬢は、ただ可哀想な被害者ではない。


 失敗している。


 だが、終わってはいない。


 クラリスがノアの視線に気づいた。


「今、何を見たの」


「今つけられている値段です」


「私の?」


「はい」


 答えた瞬間、クラリスの顔がこわばった。


 ノアは、言い方を間違えたと気づいた。


 あなた自身の価値ではない。


 周囲が勝手に貼った値札だ。


 そう言えばよかった。


 だが、口から出たのは別の言葉だった。


「不当に低いです」


「……慰めているの?」


「事実です」


「そう」


 クラリスは目を伏せた。


「あなた、優しいのに下手ね」


 ノアは返事に困った。


 優しい。


 その言葉だけは、損益眼に表示されなかった。


 その時、クラリスの目が、王都の市場ではない別の場所を見た。


 遠い記憶。


 痛む言葉。


 値札のように貼られた評価。


「お前には、聖女ほどの価値がない」


 誰の声かは、ノアには分からない。


 だが、その言葉が彼女の中に残っていることだけは分かった。


 価値がない。


 そう言われたのは、自分だけだったはずだった。


 なのにクラリスは、いつの間にかその値札を、領地にまで貼っていた。


 自分が安く見られたから。


 領地も、布も、職人の手も、少しくらい安く見られても仕方がない。


 どこかで、そう思ってしまっていた。


 クラリスは唇を引き結んだ。


「便利な目ね」


「便利ですが、万能ではありません」


「何が見えないの」


「人の本心です。納得も、誇りも、恨みも見えません」


「なら、商売には不便ね」


「はい」


 ノアは即答した。


「なので、見える範囲から始めます」


 商人が苛立った声を出す。


「茶番は終わったか。クラリス様、どうされます? この価格で売るのか、持ち帰ってさらに赤字を増やすのか」


 クラリスは羊毛布を見た。


 それからノアを見た。


「あなたは、売るなと言うのね」


「今は」


「では、領地の支払いはどうするの」


「考えます」


「考えるだけなら、誰でもできるわ」


「では、値をつけ直します」


「この場で?」


「いいえ。売り方ごと」


 クラリスは黙った。


 市場の喧騒が遠くなる。


 グランベル商会の商人が腕を組んで待っている。


 周囲の商人たちは、悪女と呼ばれた令嬢がどこまで値崩れするかを見ている。


 ノアは、クラリスを助けたいと思ったわけではなかった。


 同情ではない。


 正義感でもない。


 ただ、良い布が半値で買い叩かれるのを見過ごせなかった。


 それは、剣が折れる前に止めるのと同じだ。


 失われてからでは、買い戻せないものがある。


 クラリスは深く息を吸った。


 背筋がさらに伸びる。


 怖い時ほど、彼女は姿勢が良くなるのだろう。


「売るのはやめます」


 商人の顔から笑みが消えた。


「後悔しますよ」


「もうしています」


 クラリスは言った。


「だから、これ以上増やさないことにします」


 ノアは少しだけ彼女を見直した。


 商人は鼻を鳴らした。


「では、持ち帰るがいい。運び賃も保管料もかかる。明日にはもっと安くなる。明後日には、誰も見向きもしない」


「それも含めて、再計算します」


 ノアが言うと、商人は冷たい目を向けた。


「名前を聞いておこうか、値付け士」


「ノア・レインズです」


「勇者パーティの?」


 商人の目に、別の笑みが浮かんだ。


「今朝、追放されたと聞いたが」


 人垣がまたざわついた。


 クラリスがノアを見る。


 ノアは頷いた。


「はい。今日から無職です」


「なら、ちょうどいい」


 クラリスが言った。


「私が雇います」


 商人も、ノアも、周囲も、同時にクラリスを見た。


 クラリスは言葉を続ける。


「無能と呼ばれた値付け士と、悪女と呼ばれた令嬢。随分と値崩れした組み合わせでしょう」


 ノアは少し考えた。


「報酬は」


「今払える額は安いわ」


「買い叩きですか」


「後払いの交渉よ」


「支払期日は」


「領地が黒字になったら」


「危険な契約ですね」


「受けるの?」


 ノアは羊毛布を見た。


 銀貨二枚。


 銀貨七枚。


 失われた信用。


 震える手袋。


 伸びすぎた背筋。


 そして、買い叩かれる寸前の価値。


「交渉なら受けます」


 クラリスは、ほんのわずかに口元を動かした。


 笑ったのかもしれない。


 だが、それは一瞬で消えた。


「なら来なさい、ノア・レインズ。私の領地を見て。値段ではなく、残っている価値を」


 ノアは革鞄を肩に掛け直した。


 市場の端で、グランベル商会の商人が冷たい目で見ている。


 ノアは、その視線を背中に受けながら歩き出した。


【エルネスタ辺境領】

【財政状況:赤字】

【信用毀損:危険域】

【潜在価値:未回収】

【破綻予測:近い】


 破綻予測。


 近い。


 ノアは小さく息を吐いた。


「急ぎましょう」


 クラリスが横に並ぶ。


「領地が?」


「いいえ」


 ノアは答えた。


「領地より先に、信用が底を抜きます」


     ◇


 エルネスタ辺境領は、王都から馬車で半日ほどの場所にあった。


 辺境というには王都に近い。


 だが、王都の商人たちはそこを辺境と呼ぶ。


 街道から外れ、冷たい風が早く降りる土地。


 冬が長く、畑は大きくない。


 代わりに羊が多い。


 灰色の丘に、白い羊が点のように散っている。


 ノアは馬車の中で硬いパンをかじっていた。


 それを見たクラリスが、眉を寄せる。


「それが昼食?」


「はい」


「硬そうね」


「安いので」


「あなた、自分の食事には随分と安い値段をつけるのね」


 ノアはパンを持ったまま止まった。


「栄養は最低限あります」


「最低限で足りる、は安売りする側の言い訳に聞こえるわ」


 ノアは何も言えなかった。


「少なくとも、今の私にはそう聞こえる」


 クラリスは窓の外に視線を戻す。


 馬車の中に、少しだけ沈黙が落ちた。


 エルネスタ領に入ると、空気が変わった。


 羊はいる。


 工房の煙も上がっている。


 倉庫も空ではない。


 道も崩れていない。


 終わった土地ではない。


 だが、人々の目が暗かった。


 クラリスの馬車を見ると、領民は頭を下げる。


 礼はある。


 信頼はない。


 ノアには、そう見えた。


 馬車が止まったのは、羊毛の集積所の前だった。


 そこに、一人の少女が立っていた。


 十七歳ほど。


 日焼けした肌。


 羊毛を束ねる作業着。


 手は荒れている。


 彼女はクラリスに向かって、深すぎるほど礼をした。


「お帰りなさいませ、クラリス様」


「ミリア。原毛の納入は?」


「倉庫に入れています。ただ……」


 ミリアと呼ばれた少女は、ノアを見た。


 それから、クラリスを見る。


「王都で、また売れなかったんですね」


 クラリスは一瞬だけ黙った。


「売らなかったわ」


「……そうですか」


 ミリアの声には、安心も喜びもなかった。


 ノアは倉庫に入る。


 原毛を見る。


 手に取り、指でほぐす。


【エルネスタ原毛】

【品質:高】

【納入価格:低下】

【生産者負担:増大】

【継続可能性:低下】


 品質は高い。


 だが、生産者の方が削れている。


 良い商品が残っているのに、作る側が疲弊している。


 よくある赤字の形だった。


 ノアは原毛を手にしたまま言った。


「この品質なら、原毛の納入価格も戻すべきです」


 ミリアの表情が、わずかに硬くなった。


「戻す、ですか」


「はい」


「それで布の値段も上がるんですよね」


 ノアは少しだけ黙った。


「上がります」


 ミリアは倉庫に積まれた羊毛を見た。


「高く売れるのは、いいことなんだと思います。羊を飼う家には、たぶん。でも、その布を買う家には、どうなんですか」


 ノアはミリアを見た。


 彼女は反抗しているわけではない。


 生活の話をしている。


 高く売れば職人は助かるかもしれない。


 だが、その布を領民が買えなければ、冬は越せない。


 ノアは即答できなかった。


 クラリスも黙っている。


 ミリアは少しだけ視線を落とした。


「布のことなら、ガルドさんに聞いてください。たぶん、怒鳴られますけど」


     ◇


 羊毛布工房は、領地の外れにあった。


 中に入ると、油と羊毛と木の匂いが混ざっていた。


 織機は古い。


 だが、手入れは行き届いている。


 道具の置き方に乱れはない。


 仕事を捨てた工房ではない。


 捨てられたくない工房だった。


 奥から、太い腕の男が出てきた。


 五十代前半。


 短く刈った灰色の髪。


 節くれだった指。


 その指には、細かな傷がいくつもあった。


 ガルド・メイザー。


 エルネスタ領の羊毛布職人代表。


 彼はクラリスを見ても、礼をしなかった。


「今度は何をしに来た」


 クラリスは咎めなかった。


「布の扱い方を、変えに来ました」


「同じだ。どうせまた、金の話だろう」


 ガルドはノアを見た。


「で、その細いのは何だ。商人か」


「ノア・レインズ。値付け士です」


 クラリスが答えると、ガルドは鼻で笑った。


「値付け士だと?」


 彼は、工房の奥に積まれた布を顎で示した。


「値札をつければ、あれが元に戻ると思うなよ」


 ノアは工房の布を見た。


 深い灰色。


 厚み。


 均一な織り。


 指で触れると、表面は柔らかいが、奥にしっかりとした密度がある。


【辺境羊毛布】

【保温性:高】

【耐久性:高】

【現在市場認識:安物】

【信用毀損原因:半値売り/悪評/販路崩壊】


「適正価格に戻すべきです」


 ノアが言うと、ガルドが笑った。


 笑いというより、喉の奥で何かが割れたような音だった。


「値段を戻せば、誇りも戻ると思うな」


 工房が静かになる。


 ガルドは棚から一枚の古い布を取り出した。


 端が擦り切れている。


 何度も修繕されている。


 だが、まだ温かそうだった。


「この布はな、子供が生まれた時に包む。嫁入りの時に持たせる。冬に旅人が宿で借りる。夜番の男が肩に掛ける。吹雪の日、馬車の御者が膝に乗せる」


 ガルドはクラリスを見た。


「あれは布じゃねえ。うちの冬だ。それを半値で売られたんだ」


 クラリスは何も言わなかった。


 唇を結び、背筋を伸ばしている。


 ノアは、その姿勢が少し痛々しく見えた。


 ガルドは続ける。


「王都の商人どもは言ったよ。悪女の領地の安物だってな。弟子が聞いてた。羊を育てた連中も聞いてた。織った女たちも、染めた爺さんも聞いてた。お嬢様、あんたは金に困って売ったんだろう。だが、俺たちにはこう聞こえた」


 ガルドは布を握った。


「お前たちの冬は、半値だってな」


 クラリスの指先が震えた。


 ノアは言葉を挟まなかった。


 ここに値札を出しても、何の役にも立たない。


 それくらいは分かった。


 だが、まだ足りなかった。


 値段だけでは、人は動かない。


 それを知っているのに、ノアは今も、まず値段から話している。


「一度、売場に出します。正しい価格で」


 ガルドがノアを睨んだ。


「売れるもんなら売ってみろ。売れなかった時に、また俺たちのせいにするなよ」


「売れるとは思っていません」


 工房の空気が、一段冷えた。


 ガルドの眉が動く。


「何だと」


「今のままでは売れません。王都で分かりました。問題は布ではなく、信用です」


 ノアは、積まれた羊毛布を見た。


「だから、それを売場で見せます。客が布を見て、それでも信用できないと言って離れるところを」


 ガルドは黙った。


「売れなかった理由を、もう一度、職人のせいにしないためです」


 クラリスが小さく息を吸った。


 ガルドは返事をしなかった。


 だが、もう笑わなかった。


     ◇


 翌日。


 領地の広場に、簡易の売場が作られた。


 ノアは辺境羊毛布を並べ、値札を置いた。


 銀貨七枚。


 本来の適正価格。


 品質説明も添えた。


 寒冷地向け。


 保温性が高い。


 長持ちする。


 修繕可能。


 クラリスが横から、紙に長い商品名を書こうとしていた。


「エルネスタ厳冬期特級防寒羊毛織布」


 ノアは黙った。


 ミリアも黙った。


 ガルドが言った。


「客が読む前に冬が終わる」


 クラリスの手が止まった。


「では、どうしろと言うの」


 ノアは少し考えた。


「冬を越す羊毛布」


「短すぎない?」


「伝わります」


 ミリアが頷いた。


「私はこっちの方が分かります」


 クラリスは不満そうだったが、紙を置き換えた。


 売場が整う。


 客が来る。


 布を見る。


 触る。


 値段を見る。


 そして、離れる。


「少し前は半値だったんだろ?」


「王都で悪女の領地の商品だって聞いたぞ」


「また困ったら安くなるんじゃないのか」


「高く戻しただけで信用しろって言われてもな」


 一枚も売れなかった。


 ノアは値札を見た。


 銀貨七枚。


 間違っていない。


 けれど、客は値札だけを見て離れたわけではなかった。


 布に触れた。


 質を確かめた。


 その上で、噂を口にした。


 ノアは、静かに息を吐いた。


 予想どおりだった。


 価格ではない。


 品質でもない。


 信用が、値段の前に立っている。


 そして今、それをクラリスも、ミリアも、ガルドも見た。


【価格設定:適正】

【品質訴求:不足なし】

【購入阻害要因:信用】

【推奨:価格変更ではなく信用回復】


「分かっていたの?」


 クラリスが横で言った。


「はい」


 ノアは売場を見た。


「でも、分かっているだけでは足りませんでした」


「どういうこと?」


「俺が言っても、ただの値付け士の判断です。ガルド殿が納得しなければ、職人は動けない。ミリアが納得しなければ、領民は信じない。あなたが見なければ、領主として謝る相手を間違える」


 クラリスは、売場の前から離れていく客の背を見た。


「なら、やはり信用なのね」


「はい。値段を戻す前に、信用を作り直す必要があります」


 クラリスはしばらく黙っていた。


 やがて、顔を上げる。


「私が、話すわ」


「誰にですか」


「私が説明を省いた人たちに」


     ◇


 その日の夕方。


 工房前の広場に、職人と領民が集められた。


 ガルド。


 ミリア。


 羊飼いたち。


 染め職人。


 運び手。


 織り子。


 皆、クラリスを見ていた。


 期待ではない。


 警戒だった。


 クラリスは彼らの前に立つ。


 背筋が伸びていた。


 伸びすぎていた。


 怖い時ほど、この人は姿勢が良くなるのだと、ノアは思った。


 クラリスは口を開いた。


「私の判断により、皆に不利益を与えたことを認めます」


 空気が冷えた。


 言葉は正しい。


 だが、正しいだけだった。


 帳簿に向かって読み上げているような謝罪。


 誰の顔も見ていない謝罪。


 ミリアが小さく言った。


「それ、誰に謝ってるんですか?」


 クラリスの言葉が止まった。


 広場に沈黙が落ちる。


 ガルドは何も言わない。


 ノアも言わない。


 クラリスは、何かを言い直そうとした。


 だが、言葉が出なかった。


 その場は、それで終わった。


     ◇


 夜。


 領主館の小さな執務室に、明かりが一つだけ灯っていた。


 クラリスは帳簿を開いていた。


 だが、見ていたのは金額欄ではなかった。


 納品記録。


 そこには名前がある。


 ミリア・トールの家が納めた羊毛。


 ガルド・メイザーの工房が織った布。


 染めを担当した老職人。


 運んだ馬車屋。


 保管した倉庫番。


 それから、古い顧客名簿。


 クラリスは、その一冊をゆっくり開いた。


 王都の宿屋。


 北方街道の馬車宿。


 夜番詰所。


 産婆の家。


 古い取引先の名が、細い字で並んでいた。


 その多くに、十年以上前の日付がある。


 もう消えた名前もある。


 だが、すべてが消えているわけではない。


「昔は、届けていたのね」


 クラリスが呟いた。


 ノアが顔を上げる。


「はい」


「私は、倉庫にあるものを売ろうとしていた。売場に置けば、誰かが買うと思っていた」


 クラリスは指先で、名簿の一行をなぞる。


「でも、昔のエルネスタは、必要な場所に届けていた」


 その一行には、王都南区の宿屋の名があった。


 備考欄。


 吹雪の年、膝掛け追加。


 子供用小布、好評。


 修繕対応、早し。


 ただの取引記録のはずなのに、そこにはかすかに生活の匂いが残っていた。


 ノアは、その文字を見た。


 値段ではなく、使われた場所が残っていた。


 誰が、何のために、どんな夜に必要としたのか。


 ノアは少しだけ目を伏せた。


 アレスに足りなかったのも、これだったのかもしれない。


 不意に、自分自身の表示が浮かぶ。


【ノア・レインズ】

【現在報酬:未設定】

【労働負荷:過多】

【自己評価:低】

【未計上損失:本人】


 ノアは帳簿を閉じた。


 少しだけ早すぎた。


 クラリスが顔を上げる。


「都合の悪い数字でも出たの?」


「いいえ」


「嘘が下手ね」


「値付け士なので、嘘は不得手です」


「なら、なおさら分かるわ」


 クラリスは、ノアの脇に置かれた硬いパンを見た。


 夕方からそこにある。


 ほとんど減っていない。


「あなた、自分の食事にも、報酬にも、随分安い値段をつけるのね」


「最低限で足ります」


「それを続けた人間が、最後に何を削っているのか、私は今日見たわ」


 ノアは返答に困った。


 クラリスは帳簿を静かに閉じた。


「自分の値段だけ書き忘れる人間に、領地の値段を任せるのは危険だわ」


「……商売に関係ありません」


「あるわ」


 クラリスは、納品記録に並んだ名前へ視線を戻す。


「私も同じことをしたもの。領地のためと言いながら、人の仕事に値段をつけて、自分が何を削っているか見なかった」


 ノアは黙った。


 その言葉は、帳簿の数字より重かった。


「あなたは、人を励ます時まで値段をつけるのね」


「励ましたつもりはありません」


「そこが問題なのよ」


 ノアは視線を落とした。


「……数値上、放置できませんでした」


「だから、そういうところ」


 クラリスの声は呆れていた。


 だが、少しだけ柔らかかった。


 クラリスは古い顧客名簿を閉じずに、もう一枚、白い紙を取った。


「明日、もう一度話すわ」


「はい」


「今度は、帳簿ではなく、人に」


 それから、クラリスは震える指でペンを持った。


「その後で、手紙を書く」


「誰にですか」


「昔、この布を必要としてくれた人に」


 ノアは、名簿に残された宿屋の名を見た。


 売れなかった商品を、もう一度、必要だった人へ届ける。


 それは値下げではない。


 謝罪でもない。


 商売の形をした、信用への呼びかけだった。


     ◇


 翌朝。


 クラリスはもう一度、広場に立った。


 職人も、領民も、昨日と同じように集まっている。


 空気は重い。


 だが、クラリスは逃げなかった。


 今度は、まっすぐ前を見る。


「ミリア・トール」


 名を呼ばれて、ミリアが目を見開いた。


「あなたの家が納めた羊毛を、私は半値で売りました」


 クラリスは次に、ガルドを見る。


「ガルド・メイザー。あなたの工房の仕事を、私は守れませんでした」


 ガルドは黙っている。


「染め職人のハンナ。運び手のトム。倉庫番の老マルク。あなたたちの仕事も同じです」


 広場に、昨日とは違う沈黙が落ちた。


 名前を呼ばれた者たちが、顔を上げる。


 その場にいる誰も、彼女を悪女と呼ばなかった。


 それが、王都の罵声より痛かった。


「私は、領地を守るつもりでした。けれど、あなたたちに説明することを省いた。嫌われてもいいと思っていた。でも、それは信じてもらう努力から逃げただけでした」


 クラリスの声は震えていた。


 だが、姿勢だけで耐えているのではない。


 目の前の人間を見ていた。


「私は悪女ではなかったかもしれない。でも、良い領主でもなかった」


 誰も拍手しなかった。


 誰も許したとは言わなかった。


 それでいい。


 そんな簡単に戻る信用なら、ここまで値崩れしていない。


 クラリスは続ける。


「謝罪で済むとは思っていない。だから、働く」


 ミリアが、小さく息を吸った。


「まだ信用してません」


「分かっているわ」


「でも、今の言葉なら聞きます」


 そこでミリアは、顔を上げた。


 昨日より強い目だった。


「ただし、次にまた私たちを帳簿の一行にしたら、私はもう頭を下げません」


 広場が少しだけざわついた。


 クラリスはその言葉を受け止めた。


 怒らなかった。


 咎めなかった。


 ただ、深く頷いた。


「そうして。次に私が同じことをしたら、あなたは頭を下げなくていい」


 ミリアの唇が、少しだけ震えた。


 ガルドが腕を組む。


「で、どう売るんだ。もう半値はごめんだぞ」


 ノアは前に出た。


「値段を下げません。売り方を変えます」


     ◇


 ノアが最初にやったのは、値札を書き換えることではなかった。


 商品を分けることだった。


「一枚布は銀貨七枚のままです」


 工房の台の上に、辺境羊毛布が置かれている。


「これは冬越し用。職人印を入れます。修繕一回無料。誰が織ったか、どの羊毛を使ったか、保証札に書く」


 ガルドが眉をひそめる。


「俺の名前を札に書くのか」


「はい」


「面倒だな」


「安く見られたくないなら、誰の仕事か見せるべきです」


 ガルドは黙った。


 反論はしなかった。


 ノアは次に、端切れを手に取る。


「これは補修用にします」


「端切れでうちの布を売るのか」


 ガルドの声が低くなった。


「端切れを安物として売るなら反対です」


 ノアはすぐに言った。


「ですが、補修用として必要な人に届けるなら、これは別の商品です」


「別商品だと?」


「はい。破れた上着を直す。古い布団の角を補う。子供の膝に当てる。大きな一枚を買えない人にも、必要な形で届きます」


「だったら俺の名は入れるな」


 ガルドが言った。


 工房の空気が固まる。


「半端物に、俺の名は入れねえ」


 ノアはすぐには返さなかった。


 ここで押し切れば、また同じ失敗になる。


 正しさだけで人は動かない。


 ミリアが、端切れを一つ手に取った。


「名前がなかったら、また安物に見えます」


 ガルドがミリアを見る。


「何だと」


「私の家で羊を育てた毛も、ガルドさんが織った布も、端だからって別物になるんですか」


 ミリアの声は大きくなかった。


 だが、工房の奥まで届いた。


「一枚は買えなくても、子供の上着を直したい家はあります。そういう家が買うものに名前がなかったら、また“安い方”って呼ばれます」


 ガルドは黙った。


 ミリアは端切れを台に置いた。


「私は、それも嫌です」


 ノアはその言葉を待ってから、口を開いた。


「職人印を入れるかどうかは、あなたが決めてください。ただし、入れないなら、これは補修布ではなく端切れとして扱われます」


 ガルドは長く沈黙した。


 そして、低く言った。


「……補修用だ。端切れじゃねえ」


 ノアは頷いた。


「では、補修用として売ります」


「名は入れる」


 ガルドは吐き捨てるように言った。


「ただし、札に書け。半端物じゃない。直すための布だと」


「書きます」


 クラリスが帳面に書き込む。


 補修用羊毛布。


 用途。


 上着、寝具、子供用布の補修。


 職人印あり。


 ガルドは目を逸らした。


 それは同意の代わりだった。


「膝掛けも作ります」


 ノアは小さめに裁った布を示した。


「宿屋、馬車屋、高齢者、子供向け。大きな一枚布より買いやすい。用途を絞れば、値段を下げずに入口を作れます」


 クラリスが帳面に書き込む。


「値下げではなく、別商品化」


「はい」


 ノアは頷く。


「価値を下げるな。売り方を変えろ、です」


 クラリスが顔を上げる。


「あなたの決め台詞?」


「今、決めました」


 ミリアが少しだけ笑った。


 ガルドは鼻を鳴らした。


「軽いな」


「でも、悪くないわ」


 クラリスは値段を書いた。


 高級一枚布。


 補修用羊毛布。


 冬支度用の膝掛け。


 領地保証札。


 ノアがそれを見る。


【価格設定:妥当】

【購入可能層:拡大】

【職人利益:維持】

【信用回復:微増】


「良い値段です」


 ノアが言うと、クラリスが一瞬止まった。


「……そう」


 それだけ言って、視線を帳面に戻す。


 褒められることに慣れていない反応だった。


 その後、クラリスは別の紙を差し出した。


「あなたの雇用条件も書き直したわ」


「今ですか」


「今よ」


 ノアは紙を見る。


 報酬。


 食事。


 宿。


 交通費。


 帳簿確認権限。


 休息日。


「食事と宿は削って構いません」


「駄目」


「ですが、領地の財政は赤字です」


「あなたは自分の値段だけ書き忘れるから、駄目」


 ノアは何も言えなかった。


 ガルドがぼそりと言う。


「似た者同士だな」


 クラリスとノアが同時にガルドを見た。


 ガルドは知らん顔をした。


     ◇


 再販売の日。


 広場には、確認売場の時とは違う売場ができていた。


 高級一枚布。


 補修用羊毛布。


 冬支度用の膝掛け。


 そして、それぞれに保証札。


 誰が織ったか。


 何に向いているか。


 なぜこの値段なのか。


 値札ではなく、値段の理由を置いた売場だった。


 クラリスは朝早く、古い顧客名簿をもとに手紙を出していた。


 手紙は長くなかった。


 謝罪。


 売場の案内。


 修繕保証の再開。


 そして、最後に一文だけ。


 エルネスタの布を、もう一度、必要な方へ届く形に直します。


 それは宣伝文としては、拙かった。


 だが、クラリスが初めて自分の言葉で届けた商売の手紙だった。


 客が集まり始めた。


 最初の売場より、足を止める人が多い。


 保証札を読む者がいる。


 補修用羊毛布を手に取る者がいる。


 だが、最初の買い手が現れる前に、別の客が来た。


 王都の上等な外套。


 柔らかい物腰。


 笑っているのに、目が笑っていない男だった。


 男は売場の前で足を止め、軽く頭を下げた。


「失礼。グランベル商会のラウル・グランベルです。王都であなた方の布を拝見しました」


 その名を聞いた瞬間、ガルドの拳が固まった。


 ミリアの顔がこわばる。


 クラリスも、わずかに背筋を伸ばした。


 グランベル商会。


 王都で、銀貨七枚の布を銀貨二枚に沈めようとした相手。


 その商会の名を背負った男が、目の前に立っていた。


 王都で買い叩かれかけた布が、どんな顔で売場に戻るのか。


 見に来ない商人ではなかった。


「良い売場になりましたね」


 ラウルは膝掛けを手に取った。


「王都で見た時より、ずっと商品らしい」


 クラリスが警戒する。


「何の用ですか」


「もちろん、商談です」


 ラウルは穏やかに言った。


「こちらの商品、まとめて買い取りましょう。銀貨三枚で」


 ガルドが拳を握る。


 ミリアの顔がこわばる。


 クラリスは一瞬だけ迷った。


 銀貨三枚。


 王都で出された銀貨二枚よりは高い。


 だが、本来の価格には届かない。


 ラウルはその迷いを見逃さない。


「在庫を抱えるより、今売った方がよいでしょう。資金繰りも楽になる」


 クラリスは深く息を吸った。


 背筋が伸びる。


 だが、以前とは違う。


 逃げるためではなく、立つためだった。


「その価格では売りません」


 ラウルの笑みは崩れない。


「売らなければ在庫になりますよ」


「在庫にします。銀貨二枚で売るよりは、次の売り方を考えます」


 ノアが続けた。


「交渉なら受けます。買い叩きなら帰ります」


 広場が静かになった。


 ラウルはノアを見た。


 それから、羊毛布に視線を落とす。


「良い商品です」


 ラウルは本気でそう言った。


「だから、ほとんどの人には届きません」


 ノアは黙った。


 ラウルは膝掛けを丁寧に畳み直す。


「王都南区では、銀貨七枚の布は売れません。ですが、銀貨一枚半の冬布なら、十人が買う」


 ミリアが小さく反応した。


 ラウルは静かに続ける。


「その十人のうち何人かは、本当に寒さに困っています。粗い布でも、今夜膝に掛けられるなら買うでしょう」


 ノアは返せなかった。


「守られた価値は高くなる。高くなった価値から、最初に締め出されるのは貧しい者です」


 ラウルは微笑む。


「では、こちらも別の届かせ方を考えましょう」


 そう言って、彼は去っていった。


 ミリアがぽつりと言う。


「悔しいけど、買う人はいると思います。うちの隣の家なら、たぶん買います」


 ノアは頷いた。


「次の課題です」


「次?」


 クラリスが聞く。


「価値を守りながら、届く価格を作ることです」


 クラリスはラウルの去った方を見た。


「簡単ではなさそうね」


「はい」


「でも、買い叩かせない」


「はい」


 その時、売場の前に一人の女が立った。


 王都から来たらしい、宿屋の女将だった。


 年は四十を過ぎたあたり。


 実用的な服装。


 目は商人の目だった。


 女将は、最初にクラリスを見た。


「手紙を読んだよ」


 クラリスの指先が、わずかに震えた。


「来てくださったのですね」


「迷ったけどね」


 女将は淡々と言った。


「悪女の領地の布を仕入れたなんて言われたら、うちの宿にも響く」


 クラリスは何も言い返さなかった。


 女将は次に、膝掛けを手に取り、布を撫でた。


 指先が止まる。


 表情が、ほんの少しだけ変わった。


 次に、保証札を見た。


 職人印を見た。


 ガルドの名を見て、目を細める。


「ガルド・メイザー……まだ織ってたのかい」


 ガルドが顔を上げる。


「あんた、誰だ」


「昔、エルネスタの宿でこの布を借りたことがある。吹雪で馬車が止まってね。この布がなかったら、うちの亭主は足をやられてた」


 女将は膝掛けを広げた。


 布の端を見た。


 縫い目を見た。


 保証札を、もう一度見た。


「うちの宿には、古いエルネスタの膝掛けが一枚だけ残ってる。擦り切れて、何度も直して、それでも捨てられなかった」


 ガルドが黙った。


 女将は小さく笑った。


「客が寒いって言うと、なぜか皆それを選ぶんだよ。新しい布より、そっちがいいってね」


 クラリスは言葉を失っていた。


 自分が半値で売ったもの。


 自分が守れなかったもの。


 それが、どこかの宿で、まだ誰かの膝を温めていた。


 女将はクラリスを見る。


「正直、もう買わないつもりだった」


 クラリスの喉が、小さく動いた。


「悪女の布なんて言われるのも困るし、半値で売るような布なら宿には置けない。そう思ってた」


 女将は膝掛けを畳んだ。


 丁寧に。


 古い客が、古い知り合いに触れるように。


「でも、手紙を読んだ。謝って、直すと書いてあった。だから、見に来た」


 女将は、クラリスをまっすぐ見た。


「これ、昔のエルネスタの布に戻ったのかい?」


 クラリスは一瞬、声が出なかった。


 背筋だけで耐えようとして、失敗した。


 唇が震えた。


 それでも、目を逸らさなかった。


「戻したいと思っています」


 声は小さかった。


「まだ、途中ですが」


 女将はしばらくクラリスを見ていた。


 それから、膝掛けを胸に抱えた。


「なら、一枚もらおう。宿の客に貸す。修繕は本当にしてくれるんだね?」


 ガルドが答えた。


「する」


「昔みたいに?」


 ガルドは少しだけ間を置いた。


「昔より、丁寧にする」


 女将は笑った。


「じゃあ買うよ」


 女将は、値札どおりの銀貨を数えて置いた。


 広場の誰もが、その音を聞いた。


 売れたのは、膝掛け一枚だけだった。


 それでも、誰も笑わなかった。


 半値ではない。


 買い叩かれた価格ではない。


 値段の理由ごと、必要だった人のところへ届いた一枚だった。


 クラリスが小さく呟く。


「売れた、のね」


「……いえ」


 ノアは、女将の背を見た。


 膝掛けを抱える手つきが、妙に丁寧だった。


 商品を持つ手ではなかった。


 寒い夜に使うものを、迎えに来た手だった。


「戻ったんだと思います」


 クラリスがノアを見る。


「必要だった場所に」


 ノアは、胸の奥が少しだけ重くなるのを感じた。


 銀貨の音ではない。


 利益の重さでもない。


 女将が膝掛けを抱える手つきが、いつまでも目に残った。


 帳簿には、たぶん、こういう重さは載らない。


 ノアは帳簿を開いた。


 売上。


 膝掛け一枚。


 その横に、少し迷ってから、小さく書き足した。


 戻った客、一人。


 利益欄には入らない。


 けれど、消してはいけない数字だった。


 クラリスはそれを横から見て、何も言わなかった。


 ただ、唇を結んだ。


 泣かなかった。


 泣けば許される気がして、泣けなかった。


 ただ、深く息を吸った。


 ガルドは何も言わずに、女将の背を見ていた。


 ミリアの目が少しだけ潤んでいた。


 クラリスは売場の前に立った。


 職人たち。


 領民たち。


 客たち。


 そして、ノア。


 全員の前で、彼女は言った。


「エルネスタ領の商品は、もう安く見せません」


 ガルドが腕を組んだまま言う。


「許したわけじゃねえ」


「分かっているわ」


「だが」


 ガルドは少しだけ視線を逸らした。


「買い叩かせるよりは、ましだ」


 クラリスは頷いた。


「それで十分です。今日は」


     ◇


 その頃、北方街道の石橋近くで、勇者アレスは曲がった剣を見つめていた。


 魔物は倒した。


 依頼も失敗ではない。


 だが、剣は曲がり、馬車軸は割れ、治療薬は底に近い。


 報酬から修理費と補充費を引けば、ほとんど残らない。


 魔術師の青年が、包帯を巻いた腕を押さえて呟いた。


「ノアがいたら、こんなことには……」


 アレスは怒鳴れなかった。


 耳の奥に、ノアの声が残っている。


 いいえ。命の話です。


 アレスは曲がった剣を握り、低く呟いた。


「……金の話じゃ、なかったのか」


     ◇


 夕方。


 エルネスタ領の広場に、人の姿は少なくなっていた。


 売れた数は、多くない。


 膝掛けが一枚。


 補修用羊毛布が三組。


 高級一枚布は、まだ売れていない。


 だが、誰もそれを失敗とは言わなかった。


 ノアは広場の端で、領地を見た。


【エルネスタ辺境領】

【信用毀損:継続】

【財政状況:赤字】

【再建完了率:一%未満】

【推奨:継続取引】


 ノアは、少しだけ息を吐いた。


 それを見て、クラリスが隣に立つ。


「悪い数字だったの?」


「良い数字ではありません」


「正直ね」


「嘘をついても、帳簿は変わりません」


「では、どのくらい?」


 ノアは少し迷った。


 だが、ここで曖昧にする方が、彼女には失礼だと思った。


「再建完了率で言えば、一%未満です」


 クラリスは黙った。


「一%未満……」


「はい」


 ノアは頷いた。


「ですが、最初はゼロでした」


 クラリスはしばらく広場を見ていた。


 半値で売られかけた布。


 怒った職人。


 まだ信用していない領民。


 それでも戻ってきた、たった一人の客。


 何も戻っていない。


 だが、戻す場所だけは見えた。


 クラリスは、ほんの少しだけ笑った。


 王都の市場で見た時のような、倒れないための姿勢ではない。


 まだ弱い。


 まだ危うい。


 だが、自分の足で立とうとしている顔だった。


「なら、次の値段もつけ直すわ」


「間違っていたら止めます」


「ええ。交渉なら受けるわ」


 ノアは少しだけ肩の力を抜いた。


 王都では、銀貨二枚に沈められかけた布が一枚。


 ここでは、領地の冬として買われた。


 買い叩かれた価値は、まだ戻りきっていない。


 信用も、財政も、誇りも。


 何一つ、簡単には戻らない。


 それでも、最初はゼロだった。


 今日は、一%未満。


 なら、次がある。


 クラリス・エルネスタは、夕暮れの広場を見た。


 そして、静かに言った。


「この領地の値段は、私がもう一度つけ直す」

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


この短編をもとに、連載版を開始しました。

連載版では、ノアとクラリスがエルネスタ領の商品、職人、信用を取り戻していく物語として、短編より先の展開まで描いていきます。


よろしければ、連載版も読んでいただけると嬉しいです。

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