欧州戦線1946
架空戦記です。追いつめられた英国を舞台に、ひとりの男が淡々と任務をこなす。
そんなお話です。
「灰色の夜明け」
一九四六年八月五日。ロンドン郊外。
目覚めたとき、窓の外はまだ薄暗かった。
ジョージ・カニンガムは重い瞼をこすりながら、隣で眠る女の輪郭を見つめた。
ヴィクトリアの栗色の髪が枕に散らばり、薄い毛布の下で肩が小さく上下している。
昨晩は、……いや、昨晩も獣のように彼女を貪った。愛を確認するというより、今ある生を確認するような情事だった。
彼女の寝息を聞きながら、ジョージは天井を見上げた。ひび割れた漆喰。かつては瀟洒だったであろうこのフラットも、六年に及ぶ戦争で手入れをする者もいなくなった。
そっとベッドを抜け出す。床板が軋む音を気にしながら、ジョージは窓際に立った。カーテンの隙間から覗く空は、鉛色の雲に覆われている。八月だというのに、まるで晩秋のような寒々しさだ。
「……起きたの?」
背後からヴィクトリアの声。振り返ると、彼女は毛布を胸元まで引き上げて、こちらを見ていた。
「ああ。起こしたか」
「ううん」
ヴィクトリアは微笑んだ。だがその笑みには、どこか翳りがあった。いつからだろう。彼女の笑顔から、本当の明るさが消えたのは。
「コーヒー、淹れよっか?」
「頼む」
ヴィクトリアはベッドから降りた。美しい背中を薄いナイトガウンで包み、小さなキッチンへ向かう。ジョージはその後ろ姿を目で追った。
狭いキッチンで、ヴィクトリアがやかんを火にかける音がする。ジョージは煙草を取り出した。マッチを擦る。硫黄の匂い。深く吸い込む煙。
「はい」
しばらくして、ヴィクトリアが湯気の立つカップを差し出した。ジョージはそれを受け取り、一口含んだ。
苦い。そして、妙に薄い。
「……大麦か」
「チコリも混ぜてあるの。少しはましになったでしょう?」
ジョージは曖昧に頷いた。本物のコーヒーを最後に飲んだのはいつだったか。去年の冬、カナダから輸送船団が到着したときに配給されたのが最後だったかもしれない。その船団も、帰路でUボートに半数を沈められた。
「今日、帰るのね」
ヴィクトリアの声は平坦だった。質問ではない。確認だ。
「ああ」
「いつ、また会える?」
「わからない」
正直に答えた。嘘はつきたくなかった。いつまた休暇が取れるかなど、誰にもわからない。そもそも、次があるかどうかすら……。
ヴィクトリアは何も言わなかった。ただ、自分のカップを両手で包み、湯気を見つめていた。
駅までの道を、二人は無言で歩いた。
通りには人影がまばらだった。かつて賑わっていた商店街も、今ではシャッターを下ろした店ばかりだ。開いている店の前には、配給の列ができている。痩せた女たち、老人たち。男の姿は少ない。みな、戦場にいるか、あるいは――。
「ジョージ」
駅の入り口で、ヴィクトリアが足を止めた。
「何だ」
「死なないで」
ジョージは答えなかった。答えられなかった。
父は死んだ。ユトランド海戦で。
ウィリアム兄さんは死んだ。大西洋で、護衛艦ごとUボートに沈められて。
エドワード兄さんも死んだ。トブルクで、ドイツ軍の砲弾に吹き飛ばされて。
カニンガム家の男たちは、みな国のために死んでいった。そして今、残っているのは自分だけだ。
「……努力する」
それだけ言って、ジョージはヴィクトリアの唇に軽く口づけた。
振り返らずに改札を抜けた。
列車の中で、ジョージは窓の外を見ていた。
灰色の空。灰色の街。灰色の人々。
六年前、この国は違っていた。一九四〇年の夏、ドイツ空軍の大空襲を撥ね退けたとき、人々は歓喜に沸いた。「我々の最良の時」だと、チャーチルは言った。
だが、六年前とは決定的に違うものがあった。
「空の目」がない。
かつて英国本土を守ったレーダー網――チェーン・ホームは、ほぼ壊滅していた。
度重なるドイツ軍の精密爆撃と特殊部隊による破壊工作。
塔は倒され、送信機は焼かれ、沿岸監視網は機能を失った。
今、英国は「盲目」のまま戦っている。
その代わりに使われているのが――
「空飛ぶレーダー」だった。
爆撃機に無理やり機載レーダーを積み込み、哨戒任務をさせる。
鈍重な機体。回避力は低い。
そして何より、敵戦闘機に見つかれば――終わりだ。
実際、ここ数ヶ月で何機も撃墜されている。
それでも飛ばさなければならない。
目がなければ、戦えないからだ。
フランスは陥ちた。いや、それはもっと前からだ。ポーランド、ベルギー、オランダ、デンマーク、ノルウェー。ヨーロッパ大陸のほとんどがドイツの軍靴に踏みにじられた。
そしてソ連。一九四三年にモスクワが陥落。赤軍はウラル山脈の東へ退却し、今も細々と抵抗を続けているという。だが、それがいつまで持つか。
イギリスは、孤独だった。
アメリカは助けてくれない。あのリンドバーグ大統領は「不介入」を唱え、武器も食料も「有償で」しか売ってくれない。金を払え。金がなければ、売らない。それがアメリカのやり方だった。
かつての同盟国、日本。彼らも動かない。満州での躓き以来、彼らは内向きになった。今では貿易で稼ぐことしか考えていない。ドイツとも、イギリスとも、等距離を保っている。
世界は、イギリスを見捨てた。
それでも、戦わなければならない。
ジョージは目を閉じた。
・・・
基地に着いたのは、正午過ぎだった。
ホーニングトン空軍基地。イングランド東部、サフォークに位置するこの基地は、第七五一飛行隊の本拠地だ。ジョージの所属する部隊。
「おう、カニンガム。戻ったか」
格納庫の前で、整備兵のトミー・ブラウンが手を振った。油まみれの作業服を着た中年の男。ジョージより十歳は年上だが、階級は下士官だ。
「状況は」
「相変わらずだ。滑走路に穴、レーダーは相変わらずゼロ」
トミーは肩をすくめた。
「代わりに、あの“空飛ぶ箱”が飛び回ってる」
「哨戒機か」
「ああ。今朝も一機やられた」
ジョージは眉をひそめた。
「どこで」
「北海上空。護衛なしでな」
それはつまり、「目を潰された」ということだ。
「それと、昨日の空襲で、滑走路に穴が空いた。今、埋めてる」
トミーは親指で滑走路の方を指した。確かに、数人の兵士たちがスコップを手に作業をしている。
「被害は」
「人的被害はなし。ただ、三号格納庫が半壊。スパイトフルが二機、修理中だ」
「ミーティアは」
「無事だ。お前さんの愛機も、ピカピカに磨いといたぜ」
トミーはニヤリと笑った。ジョージは小さく頷いた。
グロスター・ミーティア。英国空軍初のジェット戦闘機。ジョージはこの機体を駆って、もう一年以上戦っている。
最初は不安だった。プロペラのない戦闘機。異様な双発のジェットエンジン。だが、乗りこなすうちに、その速度と上昇力に惚れ込んだ。レシプロ機では味わえない加速感。高度一万メートルでも衰えない性能。
もっとも、ドイツのMe262には及ばない。あのドイツのジェット戦闘機は、ミーティアより速く、より強力だった。幸い、航続距離の問題で、Me262が英本土まで飛んでくることは稀だ。
だが、護衛戦闘機としてTa152が来る。フォッケウルフの高高度戦闘機。これもまた、厄介な相手だった。
「隊長はいるか」
「執務室だ。お前を待ってたぜ」
執務室のドアをノックする。
「入れ」
低い声。ジョージはドアを開けた。
部屋の中には、一人の男が座っていた。白髪交じりの短い髪。精悍な顔つき。左目の下に、古い傷跡がある。
アーサー・ホワイト中佐。第七五一飛行隊の隊長であり、ジョージの直属の上官だ。
「カニンガム大尉、帰隊しました」
「休暇はどうだった」
「……良い休息になりました」
「そうか」
ホワイト中佐は机の上の書類に目を落とした。しばらく沈黙が続いた。
「カニンガム」
「はい」
「座れ」
ジョージは促されるままに椅子に腰を下ろした。中佐の表情は硬い。何か、良くない知らせがあるのだと直感した。
「君に、話しておかなければならないことがある」
「何でしょうか」
「明日の作戦についてだ」
中佐は一枚の写真を差し出した。ジョージはそれを受け取り、目を凝らした。
巨大な飛行機だった。六発のエンジンを持つ、異様に大きな機体。翼幅は五十メートルを超えているように見える。
「これは……」
「ユンカース Ju390。ドイツの戦略爆撃機だ。航続距離一万キロ以上。大西洋を無着陸で横断できる」
「存在は知っています。ですが、実戦配備されているとは」
「された。それも、特別な任務のために」
中佐は別の書類を取り出した。
「情報部からの報告だ。ドイツが、反応兵器を完成させた」
ジョージの背筋に冷たいものが走った。
反応兵器。ウランの核分裂による、途方もない破壊力を持つ新型爆弾。噂では、都市一つを一瞬で消し飛ばすという。
「……本当ですか」
「残念ながら。確度の高い情報だ」
「そして、それを」
「明日、ロンドンに投下する。そういう計画らしい」
ジョージは言葉を失った。
ロンドン。首都。八百万の人々が暮らす街。ヴィクトリアがいる街。
「迎撃します」
気づけば、そう言っていた。
「当然だ。だが、容易ではない」
中佐は地図を広げた。北海からイングランド東岸にかけての海図。
「Ju390は、護衛機を伴って飛来する。Ta152-H1。高高度戦闘機だ。数は十二機と推定されている」
「我々の戦力は」
「第七五一飛行隊のミーティア十二機。第六〇三飛行隊のスパイトフル十六機。第五〇一飛行隊のテンペスト八機。合計三十六機」
「三対一。悪くない数字です」
「数だけならな」
中佐の声は苦い。
「問題は高度だ。Ju390は高度一万二千メートルを飛ぶ。スパイトフルもテンペストも、その高度では性能が落ちる。ミーティアでなければ、まともに戦えない」
「つまり、実質的に十二対十二」
「そういうことだ」
ジョージは唇を噛んだ。
「しかも」と中佐は続けた。「敵は我々が迎撃に出ることを知っている。当然、厳重な護衛態勢を敷いてくるだろう。Ju390には絶対に傷一つつけさせない。そういう構えで来る」
「……難しい任務ですね」
「ああ。だが、やらなければならない」
中佐は立ち上がり、窓の外を見た。
「我々が失敗すれば、ロンドンは消える。八百万の人間が、一瞬で」
その背中は、いつもより小さく見えた。
その夜、ジョージは格納庫を訪れた。
静まり返った格納庫の中、彼の愛機が翼を休めていた。グロスター・ミーティアF.4。銀色の機体に、イギリス空軍のラウンデルが描かれている。
整備台の上に腰を下ろし、ジョージは機体を見上げた。
「明日、頼むぞ」
声に出して言った。馬鹿げていると思った。機械に話しかけるなど。だが、そうせずにはいられなかった。
ふと、父の話を思い出した。
子供の頃、母から何度も聞かされた話。一九一六年五月三十一日。ユトランド海戦。
父は巡洋戦艦「インディファティガブル」に乗り組んでいた。ビーティ提督率いる巡洋戦艦戦隊の一艦だ。
その日、ビーティ提督の巡戦部隊はドイツ艦隊と遭遇した。そして、突出しすぎた。ドイツ艦の猛射を受け、イギリス巡戦部隊は苦境に陥った。
「インディファティガブル」は、ドイツ艦の砲弾を受けて爆沈した。乗員千人のうち、生存者はわずか二名。父は、その二名には含まれていなかった。
だが、母がよく話してくれたのは、その後のことだった。
「日本の艦隊が来たのよ」と母は言った。「コンゴウ級巡洋戦艦。英独艦隊の間に割り込んで、ビーティ提督を助けたの」
日英同盟の時代。日本海軍は同盟国として、欧州に艦隊を派遣していた。その艦隊が、苦戦するイギリス艦隊を救援したのだ。
「割り込む、か」
ジョージは呟いた。
明日の戦い。Ta152の護衛をどうやって突破するか。正面からぶつかっても、消耗戦になるだけだ。護衛機を振り切って、Ju390に迫らなければならない。
だが、どうやって。
・・・
翌日。一九四六年八月六日。
出撃前、ジョージは臨時の管制室に立ち寄った。
そこは元々倉庫だった場所を改造したものだった。
ケーブルが這い回り、真空管の匂いが漂う。
その中心に、一人の男がいた。
細身で、鋭い目をした技師。
「アーサー、状況は?」
ホワイト中佐が声をかける。
アーサー・C・クラークは振り向いた。
「最悪です、中佐」
彼は淡々と答えた。
「地上レーダーは全滅。現在の探知は、哨戒機からの断続的な報告のみ」
「精度は?」
「神に祈る程度には」
誰かが小さく笑ったが、すぐに消えた。
クラークは続ける。
「ですが、今朝の便が最後に送ってきたデータがあります」
彼はスクリーンに点を表示した。
「大型機。高度一万二千。編隊。北海上空」
「Ju390か」
「おそらく」
クラークは少し間を置いてから言った。
「彼らは目を持っている。我々は持っていない」
静寂。
「だからこそ、空に上がるしかない」
午前五時、緊急招集のベルが基地に響いた。
ジョージは安楽椅子から飛び起き、外に出る。空は相変わらず灰色だった。しかし、雲は高い。視界は良好だ。
「カニンガム大尉!」
走り寄ってきたのは、部下のデイヴィッド・ローソン中尉だった。まだ二十二歳。ジョージより五つ年下だ。
「状況は」
「レーダー哨戒機から報告がありました。北海上空に大型機の編隊を探知。距離約三百キロ、高度一万二千」
「来たか」
ジョージは格納庫へ走った。
整備兵たちが慌ただしく動き回っている。ミーティアのエンジンが次々と始動する。独特の甲高い唸り。ジェットエンジンの咆哮。
自分の機体に駆け寄る。トミーが親指を立てた。
「準備完了だ、大尉。燃料満タン、武装よし。二十ミリ機関砲、フル装填だ」
「ありがとう」
コックピットに乗り込む。計器類を確認。エンジン始動。低い振動が機体を伝わってくる。
無線機のスイッチを入れる。
『全機に告ぐ。これよりインターセプト・ミッションを開始する。各隊、滑走路へ移動せよ』
ホワイト中佐の声だった。
滑走路の端で、ジョージは深呼吸をした。
前方には、僚機のミーティアが並んでいる。十二機。それが、ジェット戦闘機の全てだ。
『離陸開始。第一小隊から』
中佐の号令。エンジンの回転数を上げる。ブレーキを解除。機体が滑り出す。
加速。風防の外を流れる景色。速度計の針が上がっていく。やがて、ふわりと機体が浮き上がった。
上昇。高度計の数字がみるみる増えていく。ジェットエンジンの性能を存分に発揮できる瞬間だ。
五千メートル。七千メートル。八千メートル。
雲を突き抜けた。目の前に広がったのは、青い空だった。地上では見られない、澄み切った青。
『全機、編隊を組め。目標方位〇二〇。高度一万二千まで上昇』
一万メートルを超えたあたりで、空気が薄くなってくるのを感じた。酸素マスクを調整する。呼吸を整える。
哨戒機からの通信が届く。
『……こちら哨戒機アルファ、敵編隊確認……数、多数……』
無線がノイズ混じりに響く。
『護衛機……確認……ああ、来る――』
通信が途絶えた。
「やられたか……」
ローソンが呟く。
ジョージは歯を食いしばった。
完全な位置情報は得られない。
あとは「勘」で探すしかない。
やがて――
雲の向こうに、影が現れた。
「見つけた……!」
それは、ほとんど奇跡だった。
『目標を視認。前方三十キロ』
ローソンの声。ジョージも目を凝らした。
水平線の彼方に、小さな点が見えた。一つ、二つ……いや、もっと多い。十数個の点が、ゆっくりとこちらに向かってくる。
その中心に、ひときわ大きな影があった。
Ju390。
六発エンジンの巨体が、悠然と飛んでいる。その周囲を、護衛機が取り囲んでいる。Ta152。細長い機体に、長大な翼。高高度戦闘機の証だ。
『全機、散開。攻撃態勢に入れ』
中佐の命令。だが、その声には焦りが混じっている。
『スパイトフル隊、テンペスト隊は護衛機を牽制しろ。ミーティア隊は爆撃機を狙え』
理想的な作戦だった。だが、現実はそう甘くない。
Ta152が動いた。編隊を崩し、こちらに向かってくる。十二機。全て、ミーティア隊に向かっている。
『くそ、来るぞ!』
誰かが叫んだ。
空戦が始まった。
機体を急旋回させる。Gが体を押しつぶす。視界の端を、曳光弾が通り過ぎていく。
「っ!」
反射的にスティックを引く。機首を上げる。Ta152が真下を通過していく。追撃しようとしたが、別のTa152Tが背後に回り込んでくる。
振り切る。急降下。速度を稼ぐ。ジェットエンジンの加速で、レシプロ機を引き離す。
だが、それだけだ。
敵を振り切ることはできる。だが、攻撃に移れない。Ta152は執拗にミーティア隊に食らいついてくる。まるで、壁のようだ。Ju390には一機たりとも近づけさせない、という鉄の意志。
『くそっ、どうにもならん!』
中佐の焦りが無線から伝わってくる。
『スパイトフル隊、もっと押し込め!』
『無理です! 高度が……この高度じゃ、こっちの性能が出ない!』
悲鳴に近い返答。当然だ。スパイトフルは優秀な戦闘機だが、所詮はレシプロ機。一万二千メートルの 高度では、本来の性能を発揮できない。
時間がない。
Ju390は、着実にロンドンへ向かっている。このままでは、あと三十分で投弾地点に到達する。
そのとき、ジョージの脳裏に、父の話がよみがえった。
「日本の艦隊が来たのよ。英独艦隊の間に割り込んで」
割り込む。
そうだ。
「隊長」
ジョージは無線のスイッチを入れた。
『何だ、カニンガム』
「Ta152の編隊に、正面から突っ込みます」
『……何だと?』
「護衛機の陣形を崩します。混乱したところを、隊長が爆撃機を」
『正気か。お前、死ぬぞ』
「やってみます」
ジョージはスロットルを開いた。機体が加速する。正面には、Ta152の編隊。十二機。いや、空戦で二機が脱落している。十機。
その真ん中に、突っ込む。
『カニンガム!』
叫びが聞こえた。だが、もう止まらない。
加速。風防が震える。速度計が限界を振り切る。前方のTa152が、急速に大きくなっていく。
正面衝突。
そう思った瞬間、敵機が散った。反射的に回避したのだ。当然だ。正面から突っ込んでくる狂人がいれば、誰だって避ける。
その瞬間、陣形が崩れた。
「今だ!」
ジョージは叫んだ。
『行くぞ、ミーティア隊! 爆撃機を狙え!』
中佐の声。何機かのミーティアが、護衛機の間をすり抜けていく。
だが、ジョージは追えなかった。
乱戦の中で、一機のTa152が背後につけてきた。曳光弾が機体をかすめる。左翼に衝撃。被弾。警告灯が点滅する。
「くっ……!」
急旋回。だが、追いつけない。ジェット戦闘機の機動性は、レシプロ機に劣る。旋回戦では、不利だ。
振り切れない。
このままでは、やられる。
そのとき、無線から歓声が聞こえた。
『命中! 爆撃機に命中!』
『左エンジンから炎上! 落ちる、落ちるぞ!』
ジョージは一瞬、視線を前方に向けた。
Ju390が、黒煙を噴きながら高度を下げていた。その巨体が、ゆっくりと傾いていく。
やった。
だが、喜ぶ暇はなかった。
背後からの衝撃。機体が大きく揺れる。計器板がスパークを散らす。左エンジンが停止。
「まずい……」
高度が落ちていく。右エンジンだけでは、この高度を維持できない。
だが、不思議と恐怖はなかった。
任務は果たした。爆撃機は落ちた。ロンドンは、救われた。ヴィクトリアは、生き残った。
ジョージは操縦桿を握りしめた。
まだだ。まだ終わってない。
右エンジン全開。機首を下げる。急降下で速度を稼ぐ。雲の中に飛び込む。
追撃してくるTa152の姿が、霧に消えた。
どれくらい飛んだだろう。
気づけば、眼下にイングランドの海岸線が見えていた。白い崖。ドーバーの白い崖だ。
高度は三千メートルまで落ちていた。左エンジンは完全に死んでいる。右エンジンも、異音を立てている。
「……もう少しだ」
前方に、滑走路が見えた。ホーニングトン基地ではない。どこか別の基地だ。だが、そんなことはどうでもいい。
着陸態勢。脚を出す。フラップを下げる。速度を落とす。
滑走路が迫ってくる。
接地。衝撃。機体が跳ねる。ブレーキ。
ようやく、機体が止まった。
ジョージはコックピットの中で、大きく息をついた。
「長い一日の終わりに」
基地の医務室で、ジョージは軽い傷の手当てを受けていた。
左腕に破片が刺さっていた。気づかなかった。アドレナリンが出ていたのだろう。今になって、鈍い痛みが襲ってくる。
「ご苦労、大尉。軽傷で済んだのは幸運だった」
医務官が包帯を巻きながら言った。
「……結局、どうなりました?」
「Ju390は、北海に墜落した。反応兵器は、海中に沈んだ」
「そうか」
「君たちのおかげで、ロンドンは救われた」
ジョージは何も答えなかった。
しばらくして、ホワイト中佐が医務室に現れた。
「カニンガム」
「隊長」
「よくやった」
短い言葉だった。だが、その目には、確かな敬意があった。
「我々は三機を失った。だが、任務は成功した。お前のおかげだ」
「……自分は、ただ」
「言うな。分かっている」
中佐は椅子に腰を下ろした。その顔には、疲労の色が濃い。
「情報部からの報告があった」
「はい」
「ドイツは、反応兵器をまだ複数保有している。今回は阻止できたが、次がないとは限らない」
ジョージは黙っていた。分かっていた。今日の戦いは、勝利ではない。ただ、一日の猶予を得ただけだ。
「それでも」と中佐は言った。「今日、我々は戦い、勝った。それだけは事実だ」
「はい」
「明日も戦う。明後日も。それが、我々の仕事だ」
ジョージは頷いた。
・・・
夕暮れ。
ジョージは基地の片隅に立っていた。
西の空が、茜色に染まっている。久しぶりに見る、晴れた夕焼けだった。
ポケットから、一枚の写真を取り出した。ヴィクトリアの写真。去年の夏、二人で撮ったものだ。
「……生きてる」
声に出して言った。
彼女は生きている。ロンドンは、まだそこにある。今日、自分が守った。
だが、明日は分からない。
明日も、ドイツの爆撃機が来るかもしれない。また、反応兵器を積んで。そのとき、自分は迎撃に上がるだろう。そして、また戦う。
いつまで……?
いつまで、この戦いは続くのだろう。
答えは、ない。
ジョージは写真をポケットにしまった。そして、空を見上げた。
夕焼けが、ゆっくりと暮れていく。
彼の戦いは、まだ続く。




