汚ねぇ俺にピカピカのハートください
2022年6月4日改稿版を掲載しました。
隣の席のⅠ崎さんが「うっ」と呻いて、腹をおさえて部署を出ていった。数十分後、額に脂汗をうかべながら編集長と会話して、デスクで荷物をまとめだした。
「いいか、東。見切り品の寿司は、その日のうちに食わなきゃだめだぞ」
俺は引出しを開けて、カイロを彼のデスクに置いた。ぺりぺりと袋を破って、サンキュ、とセーターをまくって腹に貼りつけ、Ⅰ崎さんはリュックを背に小走りで扉に駆けていった。
編集長が横目で俺をみて、あごをしゃくった。デスクの前に立つと、一枚のはがきが顔の前に突きだされた。全面に絵が印刷されている。手渡されたそれを裏返したら、下半分に個展の案内が載っていた。公募で受賞して、今回が初めての個展らしい。ここから歩いて15分ぐらい、台東区にある画廊だった。
「今日の午後。Ⅰ崎の代わりに行ってくれ」
「…………俺が、ですか?」
一重のまぶたをぐっと上げて、編集長は部署を見渡した。書類や本が積まれて雪崩が起きる寸前のデスク、パソコンまわりが付箋だらけのデスク、塵ひとつ落ちてなさそうなデスク、観葉植物と推しの写真の圧が半端ないデスク。編集長と垂直に四つ並んだデスクは、どれも空っぽだった。六人だけの社員は、俺(と、さっきまでいたⅠ崎さん)をのぞいて全員席を外していた。
「了解です」
強制的に両頬の筋肉を持ち上げて、俺は笑顔をつくった。
昼飯を食ってから取材にむかうと言って、通りにでた。分厚い灰色の雲は、見てるだけでぶるりと震える。ダウンのポケットに指先を突っこんだ。冷え性には辛い季節だ。俺が務める小さな出版社は、美術書と美術雑誌を専門に手がけている。六階建てビルの二階がフロアで、部署ごとにパーテーションで仕切ってある。この春から、俺はここの編集に籍を置いている。入社から八か月経ったのに、まだ企画は一本も通らない。コラムの代理なんて喜んで引き受けるとこだろうけど、正直、憂うつでたまらなかった。
磯谷直人。
こいつにだけは絶対、会いたくなかったのに。
◆
曇天を映した隅田川が、どんよりと流れていく。地元の川につながっているような気がして、俺はますます気が滅入った。浅草寺の裏手にある路地に入った。住宅街の合間に、昭和から続いているような喫茶店や、日に焼けたポスターが貼られた美容院なんかが、ぽつぽつと店を構えている。そんな路地裏の一角にめあての画廊はあった。入口は狭く、ウナギの寝床のように細長いつくりだ。重たい扉を開けて、受付スタッフに名刺を渡した。約束の時間まであと十分。先に絵を見せてもらいたいと言って、俺は受付をはなれた。
受賞作は入口に一番近い、胡蝶蘭のスタンドのそばに飾られていた。壁のライトに誘われるように、右、左、と顔を動かしながら、奥へ、奥へと進んでいく。突きあたりまでいって、俺は足を止めた。乳白色の壁に小ぶりな絵画が展示されていた。
モチーフは、教室で絵を描く男子学生。
額縁の中にいるのは俺だった。
◆
小六の秋、俺は絵画コンクールで入賞した。担任が応募を呼びかけて、授業の一環で参加したものだった。俺は勉強もスポーツも苦手じゃない。でも得意ってほどでもない。絵だって別に好きでも嫌いでもなかったけど、単純に自分にもいいとこあるじゃんって思えて、子どもながらに嬉しかった。
だから公立中学に進んだあとは、考えるまでもなく美術部に入った。四階建て、Ⅼ字型校舎の南棟の二階。西向き。そこが俺たちの美術室だった。入学式の次の日、さっそく二階に下りていった。廊下の先に、突っ立ったままのあいつが見えた。
「どうした? 入らねぇの?」
「あ……先輩ですか」
こっちを振り向いたあいつに、俺は息をのんだ。
あいつの右頬には、濃い茶色の三角形の痣があった。
口元を押さえて声を殺して、息を整えた。
「すみません。驚いたでしょう。火傷です。同小のやつらは慣れてるんですけど」
「ああ……いや悪い。そうか。てか俺も新入生。昨日入ったばっか」
「そうなの? 堂々としてたから」
「ははっ、でかいだけが取り柄だかんな。おまえも? 美術部?」
「うん……いや……迷ってる」
「へえ。とりあえず入ってみよーぜ」
俺はあいつの背中を押した。ごわごわの学ランの下は、薄くて女子みたいに華奢だった。一歩踏みこんだら、むわっとこもった空気が鼻についた。絵の具とカビと濁った水をかき混ぜたみたいな匂い。薄暗くて、カーテンを開けたら、橙色に部屋が染まった。
「わっ、まぶし」
「てかこれ絵傷むんじゃねぇの」
黄や緑の絵の具が付着した前衛アートみたいな石膏像も、卒業生が残したらしい林檎と洋ナシの水彩画も、ぜんぶ橙色のフィルター越しに眺めてるみたいだった。
部は弱小、顧問はやる気のない爺さんだった。部活必須の学校で幽霊部員ばっか集まるなか、俺は毎日、放課後になると美術室にむかった。俺の隣には、あいつがいた。あいつは結局、俺と一緒に美術部に入部した。
茶色い猫毛をぴょんぴょん跳ねさせ、薄い背中を丸めて、あいつは画用紙を膝にのせていた。クラスが違うから、顔を合わせるのは放課後だけだった。たまに廊下ですれ違っても、あごをゆらす程度の間柄。一人でいることが多かったけど、別に虐められてるふうでもない。遠目からでもよく分かるのは、あの痣のせいだった。同級生たちはあいつを受け入れながらも、どこかよそよそしく見えた。あいつも人当たりはよかったけど、目だけはいつもひとを突き放すみたいだった。
放課後になると、俺はショルダーバッグを掴んで、階段を二段飛ばしで駆けていった。扉を開けたら、だいたいあいつのほうが先にいた。硬い木の椅子を引き寄せ、ひとりぶんの距離を空けて、あいつの隣に座る。二、三時間がすぎて、気づいたら外は真っ暗になってた。俺はあいつに声をかけて、ふたりで鍵を返して下足箱にむかった。
街灯に羽虫がちらついて、コンクリートにふたつ、黒く長い影がのびていた。喋ったのは他愛もない話ばかりで、今じゃもうほとんど覚えていない。母親が過保護だとか、それは不注意でアイロンを幼児の手の届く場所に置き忘れたからだとか、そんな話だ。俺の話なんて、ホイッスラーを理解できないラスキンは時代遅れの堅物だなんて知ったかぶりばっかで黒歴史。もう忘れたい。
途中までは同じ方向だった。コンビニの前の三叉路で、あいつは真っ直ぐ、俺は脇道にそれる。羽虫みたいに白い明かりに誘われて、俺とあいつは毎晩コンビニに寄った。夏はソーダとレモンの棒アイス。冬は豚まんとピザまんを買って、駐車場で食べて別れた。あいつがあんまり旨そうに食べるから、俺はいつも笑ってしまった。
その日も、いつもどおりの放課後だった。並んで座ってスケッチをして、ふと隣に人間がいたと思い出して、顔を上げた。いつもどおり眉間にしわを寄せ、小難しい顔をして、ちびちびと鉛筆を動かすあいつがいた。画用紙もいつもどおりぐしゃぐしゃで灰色だった。
「……僕、もう絵、描くのやめようかな」
突然放たれた言葉に、俺はぽかんと口を開けた。
「は? なんで?」
「ぜんぜん思いどおりに描けない。見て、また消して、見て、描いて、また消して……僕の画用紙の汚さったらないよ。なんで東みたいにスラスラ描けないんだろ。自分の下手くそさにうんざりする。せめて先生がいてくれたらいいのにさ、爺さん、ぜんぜん来ないし。最近はもうイライラしてばっかだ。苦しい。やめたい」
西日があたる教室に、辛酸なめたおっさんみたいな顔があった。俺は思わず吹きだして、あいつが目を丸くした。
「え? それ笑うとこ⁈」
「や、悪い。ばかにしてんじゃねえ。なんか疲れた親父みたいな顔してっからさ。別にこんなの、仕事でもなんでもねぇんじゃん? 俺ら、好きで描いてんだから。下手でもいいじゃんか。描いてるうちに上手くなるって。いまは楽しく描ければそれでいんじゃね?」
あいつの大きな黒い目が、極限まで見開かれた。
サバンナの野生動物が頭にうかんだ。
小柄で大人しくて、虫も殺せないみたいなやつなのに。
あいつの目に獰猛な光が見えた気がして、
俺はごしごしとまぶたをこすった。
あいつはぽつりと呟いた。
「…………そっか」
それから卒業まで、俺の隣であいつはデッサンを描き続けた。
◆
俺たちは高校生になった。同じ学校で、同じクラス。同じ美術部を選んだ。その春に着任した美術教師は、ガチな奴だった。部員に毎日デッサンをさせた。来る日も来る日も、デッサン、デッサン。鉛筆、木炭、画用紙、木炭紙。絵の具も筆も触れなかった。別にあたし画家になりたいわけじゃないし。ゆるい部活って聞いてたから選んだのに。そう言って、部員はどんどん減っていった。教師は一度も俺のデッサンを褒めなかった。いつも渋い顔をして、どこが悪いか指摘されるばかりだった。くやしくて、コンクールで入賞したことをぽろっと漏らしちまったら、それがどうしたと言わんばかりに目を眇められた。俺は部室に通うのを止めた。それでも絵は止められなくて、誰にも内緒で隣の市の予備校に通い始めた。
その一年間、あいつは美術部を辞めなかった。授業中もB5のスケッチブックを隠し持って、ずっと鉛筆を動かしていた。その手はいつも灰色だった。
「洗っても洗っても落ちないんだ」
あいつはそう漏らしていた。
俺たちが二年に進級した春に、教師は学校を辞めた。
市内で画塾を始めたらしく、あいつはそこに通いだした。
「東も行かない?」
俺は誘いを断った。新任の美術教師に替わっても、俺はもう部室には戻らなかった。あいつも画塾が忙しいみたいで、美術部を辞めた。
予備校も厳しかったけど、ダメ出しばかりじゃない。デッサンは、壁にずらりと点数順に張りだされる。右下のほうが多かったけど、真ん中、たまに左上に貼って貰えることもあった。そんなときはコンクールで入賞したときの気持ちを思い出した。
二年の秋、俺は公募に出品した。予備校仲間にも親にもダチにも言わなかった。あいつにだけは話そうかと思ったけど、なんとなく言えないまま時間が過ぎた。
ひと月後、ネットで結果を見たら選外だった。
その代わり、そこにはあいつの名前があった。
次の日、担任が誇らしそうな顔で、あいつの絵が受賞したと発表した。教室がどよめいて、すげえじゃん、やだあたしサインもらっちゃお、なんて言いながら、クラスの奴らがあいつの机に群がっていった。俺は頬杖をついて、ずっと窓の外を眺めていた。冬の重暗い雲がじっとりと流れていって、うんざりして教室に顔をむけたら、あいつと目が合った。俺はその目から逃げた。
放課後になって、下足箱であいつと鉢合わせた。まわりに何人かが集まって、あいつの肩をたたいていた。そいつらに笑いながら、あいつはこっちに向かってきた。
おい、来るな。頼むから、来ねぇでくれ。
「東」
「ああ」
呼ぶな。俺の名前。
「僕」
「すげぇじゃん、おまえ、才能あったじゃん。俺たち凡人とは違うっつーか。俺、おまえみてーにそんな真剣に絵、描けねぇわ。はは、悪いな、このあと予定あっから。じゃーな」
見るな。俺の顔。
「東」
顔中の筋肉を無理やり動かして、俺は『直人のダチの東』の笑顔をつくった。筋肉痛になりそうだった。背中にあいつの気配を感じたけど、一度も振り返らなかった。
なぁ直人。なんで俺じゃねぇんだ? スマホの画面に載ってるのが、担任が誇らしそうに見る顔が、みんなの賞賛の目が集まるのが、おまえから祝われるのが、なんで俺じゃねぇんだよ。おまえ、絵止めたいって言ってたじゃんか。才能ねぇって言ってたじゃんか。俺のほうが先に始めて、賞だって先に取ったのに。なんでおまえがそっちにいるんだ?
コンクリートの橋を渡っていると、なにかが目の端に映った。どぎついピンク色。土を溶かしたみたいな濁った川面に、それは場違いにぷかぷか笑うみたいに浮かんでいた。あの川は、工場排水が流れこんでいると噂されていた。そんな生ゴミみたいに腐った臭いがする川のなかに、女子の鞄についてるみたいな、でかいハートのキーホルダー。ベロアみたいな生地は半分泥に沈んで、みじめにどろどろに汚れていた。
なぁ直人。なんで俺じゃねぇんだ? 知ってんぞ。授業中まで隠れてデッサン描いてたの。見えてたよ、斜め後ろの席だから。おまえの手、いつも木炭で汚れてるよな。洗っても落ちねーってぼやいてたもんな。なぁ直人。俺のはずだろ? おまえの机に走ってって、おめでとうって一番に声かけて、肩をたたいてやるのは。しかめっ面したおまえが鉛筆動かしてたの、誰よりも傍で見てたんだから。帰り道にファミレス寄って「なんでも好きなの頼め、でも飲みもんはドリンクバーな!」っつって、目の前で笑ってやりたかった。なのに。なんで俺はこんなとこで、ひとりで汚ねぇ川眺めてんだ?
なぁ神様(別に誰でもいいけどさ)。100%ピカピカで、きれーなハートと交換してくんねぇかな。そしたら今すぐ戻って、直人におめでとうって言ってやれんのに。俺はこの川みたいに臭くて濁ってどろどろで、汚ねえ。おまえの隣にいたら、どろどろの自分に飲みこまれちまいそうだ。俺は汚ねぇから、汚ねぇ自分を見たくねえ。だから、ごめんな。
俺はあいつから逃げた。
距離を置かれているのを察したらしく、あいつも俺に話しかけてこなくなった。高校を卒業して、俺は東京の大学に進学した。史学科を選んだのに結局美術史を専攻して、新卒で小さな出版社に就職した。未練がましさにうんざりしながら、それでも俺は絵から離れられなかった。
◆
「東」
澄んだ声が背中にかかる。振り向いたら、直人がいた。
すぐにはあいつだと分からなかった。
右頬の痣は一見気づかないほど、薄くなっていた。
「直人……いや、磯谷さん」
「なにそれ。めっちゃ他人行儀」
不快な顔もみせず、直人は目尻にしわを作っていた。
「なぁこれなん………ですか、磯谷さん?」
俺は目の前の『俺』を指さした。
「東」
「なんで………ですか?」
後ろに立ったまま、直人は絵を見上げた。
「さあ?」
「は?」
「わかんない。なんとなく描いてみただけ」
「あっ……そう……ですか」
俺は絵の下に貼られた、小さなパネルを見た。
『無題』と印刷されてある。
ほんとに意味なんてないのかもな、と思い直した。
ケースから名刺を取りだして、直人に差しだした。
直人は四角い紙をじっと見て、俺に目をむけた。
「東は絵、描いてないの?」
「ああ、描いてね…………ないです」
直人は「そっか」と呟いて、自分の名刺を手渡した。代理の取材を詫びても興味なさそうに頷いただけで、すぐに事務室に入っていった。当たり障りのない質問を終えて、何枚か写真を撮らせてもらって、事務的なことを二、三伝えた。直人は入口までついてきて、扉を開けて見送ってくれた。
空から白い粒が落ちていた。
吐く息も白い。
振り返ったら、このくそ寒いなか、直人はまだ扉の前で手をふっていた。
欄干に両腕をのせて、川面に落ちる雪を眺めた。
後から後から落ちてきて、今夜には真っ白になりそうだ。
あの日も雪だったらよかったな。どぶ川も汚ねぇハートも全部白い塊で覆われてたら、あの道を戻れてたかもな。
雪は川面に触れたとたん、溶けて消えていく。
花びらのようにこぼれ落ちて、でも姿は残さずに。
まるで最初から存在しなかったかのように。
…………やっぱだめだ。
雪で覆い隠しても、溶ければもっとドロドロになる。
生まれた感情は、儚く川面に消えてくれたりはしねえ。
なあ直人。
おまえ、なんであの絵を描いた?
一枚のデッサン仕上げるのに、おまえがどんだけ描いて消してたか知ってんぞ。
たった一本の線さえも、おまえは全力で描いてただろ。
なんとなく、でも。
なんとなく、の裏にはなんか意味があるんだろ?
おまえの隣にいたら、また濁った感情が湧いてくるかもしんねえな。
でも。
あの絵の意味を俺が聞かなくて、他の誰が聞くんだ?
あおいだ空は高く白くて、昼飯前より明るく見えた。
冷たい結晶が、ひたひたと顔に落ちてくる。
俺は橋を引き返した。
◆
画廊の扉を開けると、細い通路の奥に直人がいた。
あの絵の前に突っ立っていた。
「直人」
受付のスタッフに会釈して、俺は早足で歩いていった。
直人が首を後ろにまわした。
「受賞、おめでとう」
隣に立った俺に、直人は目を見開いた。
「言い忘れてたから」
「わざわざ戻ってきたの?」
俺は頭をかいて、ああ、と頷いた。
「こんな寒いなか……別にメールかなんかでいいのに」
「いいんだよ。俺が直接言いたかったんだ」
「そう……ありがとう」
俺は直人の隣に立った。
直人もこの絵を見てるのが、気配でわかった。
「祝福」
唐突に直人が言った。
「は?」
「……題名は、祝福」
直人は絵から視線をうつし、俺を見つめた。
「悪い、よくわかんね」
俺が頭をかいたら、ふっと口元を緩め、懐かしそうな顔をした。
「東、楽しそうに絵、描いてたよね」
「そうだっけ」
「そうだよ」
直人の眼光がするどくなった。いつかの野生動物のように。
「僕はねえ……楽しく描いたこと、一度もない。一度だってないよ。息苦しくてたまらなかった……あの人の申し訳なさそうな視線に気づく度に、うんざりした。自分の母親にそんなふうに見られるの、想像できる? 優しかったり温かかったり、普通はそんななんだろう? 僕は物心ついたときから、ずっとあの目だ。温かな景色がほしかった。テレビの団らんみたいなのが。そんな絵がほしかった。だから描いた。でも描けなかった。美術部に入ったら描けるかなって思った。それでも描けなくて僕は下手くそなんだって思った。でもわかったんだ……僕は絵がきらいだ。楽しくない。全然、好きじゃない。東は楽しく描いてるんだ。好きで描いてるんだ。あの日、そう思ったら口惜しくてたまらなかった。デッサンが狂ってても、東の絵はのびのびして画用紙いっぱいに広がって、あったかい。僕もそんな絵がほしかった。でも絵が好きじゃない僕には無理だ。そう思ったのに、東の絵と絵を描いてる姿は温かで、見てたくて、僕は美術部に通い続けた」
直人は挑むような視線をむけた。
俺は口を開いたけど、適当な言葉が見つからなかった。
「高校に入っても、未練がましく美術部に入った。でも、先生……高校の美術教師だよ。彼のおかげで、僕は技術を知った。技術があれば、頭のなかのイメージを紙に写し取ることができる。僕は没頭した。でも描いても描いても、これはあくまで技術だ。ただのまやかしなんじゃないかって不安が消えなかった。東は本物で自分は偽者のような気がしてた。ある日、学祭で展示する絵を描いてて、腹がへって食堂にいったんだ。ちょうど日暮れ刻で、夕焼けが空いっぱいに広がってた。中学の美術室を思い出した。僕が唯一知ってる、まぶしくて温かな景色だ。完成してびっくりした。あったかいと思ったんだ。ずっとほしかった絵が目の前にあった。この絵が描けたから、僕は画家になれるかもしれないと思った。絵がきらいでも、技術だけでも、自分のほしい絵が描けるんだって。嬉しかった。だから……祝福」
直人は絵を見上げ、夕陽を見るように目を細めた。
絵のなかの俺は、楽しそうに微笑している。
橙色に染まった美術室と俺とスケッチブック。
「ま、温かく見えるのはオレンジ色を基調にしたせいかもね」
冗談めかして直人が笑った。
俺は笑わなかった。
「高校んとき、おまえが受賞したコンクール。俺も出してた」
「えっ……そうだったんだ」
「選外だった」
「……そっか」
「くやしかった。なんで俺じゃなくておまえがって」
「……うん」
「祝いたかったんだ」
「……え」
「おまえのこと、祝いたかった。がんばってんの知ってたから、一番に祝ってやりたかった。でも出来なかった。そんな自分が嫌で、おまえの傍にいたらどんどん嫌な自分になってく気がして…………おまえから逃げた」
「うん、なんとなくね。避けられてるのは気づいてた。でも東がそんな、絵、真剣だって僕知らなくて……」
「予備校にも通ってた」
「ああ……そっかあ。そっか……」
直人はまぶたを伏せた。迷子の子どものような顔になっていた。
「あんとき祝ってやれなかったけど、おまえと過ごした時間が……代わりにおまえを祝ってくれたんだな」
ぱっと上がった顔が、驚いたように俺を見ている。
「祝福か……いい題名じゃん。なんで無題なんて書いたんだ?」
「……恥ずかしいじゃないか」
直人が唇をとがらせた。
俺の目の前にいるのは、新人画家・磯谷直人じゃなくて、しかめっ面した地元の同級生だった。
「火傷のあと、だいぶ消えたんだな」
「ああこれね……大学のときレーザー治療したんだ。僕は別にあのままでも良かったけど、母さんが……パートでお金貯めてたから」
「そうか」
「気が楽になったみたいで。最近は笑ってくれるようになったし。あの暗い目がなくなっただけマシかなって」
そう言う直人の目も、昔よりも柔らかだった。
「夜、空いてっか? 受賞祝いしてやるよ」
「え? まじで? ははっ、やった。ありがと」
直人は八重歯をみせて、顔をくしゃりとさせた。
◆
夜に待ち合わせて、俺は直人を居酒屋に連れていった。あいつはザルで、しかも遠慮って言葉を知らなかったようで、俺の諭吉は軽く吹っ飛んでいった。まあいいさ。これは五年前に連れてけなかった、あのファミレス代も兼ねてんだから。雪をざくざくと踏みしだいて、あいつをタクシーに押しこんだ(運転手に渡した諭吉が最後の一枚だ)。薄墨色の空に雪が舞い散って、ひと足早い桜のようだった。俺は川沿いを歩きながら、カイロを入れたポケットに手を突っこんだ。
編集長は初めて俺の記事を褒めてくれた。直人の了承をもらって、あの絵の経緯を記事に加えた。俺はいま電車に乗って、年明けに提出する企画を考えている。最近はなんか、仕事が楽しい。帰省したら、押し入れの奥から画材を引っ張りだしてみるつもりだ。
橋梁にさしかかって、電車がガタガタと音を鳴らした。
川が遠くまで広がっている。
帰省中、直人とも会う約束をした。
あいつの隣にいたら、また自分の汚ねぇ感情を見つけるかもな。
でもあいつに「おめでとう」って言えたから、どろどろのハートんなかにも、ちょっとはきれーな部分もあるんじゃねぇのって、俺は最近思ってる。