秘密 Secret × Secret
奈落は、思いもよらないところで口をあける。
佐々木理子の場合、それは行きつけの喫茶店で口を開いた。
「結婚!?」
「そう、来年の春に式を挙げる事になったの」
金木犀の香りが町中にあふれ出す頃、大親友の笑顔とともに吉報は届けられた。目の前に座る二人は、もう付き合って5年になる。みんなが口をそろえて「お似合いだ」と言うこのカップルの結婚は、周り中に待ち望まれていたものだった。
そう、これは喜ばしい知らせ。けれど、わたしの背中には冷や汗がにじみ、笑顔は引きつりそうだった。
「でさ、リコちゃんにお願いなんだけどさ。友人代表のスピーチお願いできないかな?」
「ええっ?」
内心ぎくりとしたのを悟られないように、わたしは精一杯驚いた表情を作ってみせる。
「だって、リコは私の一番の親友だもの。浩一郎さんに、スピーチをお願いするのはリコしかいない!って言ったら、俺もそう思ってた、だって」
美雪のいつもよりきらきらとした笑顔に、涙がこぼれそうになった。
いけない。まだガマンしなきゃ。
あわてて勢いよく立ち上がり、テーブルの向かいに座る美雪の手を握った。
「もちろん任せて!美雪の結婚式だもん、絶対やる!!」
「リコ、ありがとう!」
その勢いにまかせて美雪に抱きつこうとして……グラスをひっくり返してしまった。麗しい友情の図とはならず、テーブルの上は大惨事。
「あああ、ごめーんまたやっちゃったよ~」
「リコ、大丈夫?服にお水かかってない?」
「いいよいいよ、リコちゃんは座ってて。拭くものもらってくるから」
自分より先に私を気遣ってくれる美雪。笑顔で立ち上がる浩一郎さん。それを見ていると、色々なものがぐるぐると胸の中で渦巻いていく。
「リコちゃんのそういうところ、変わんないよね」
「それってどういう意味っ」
手際よくテーブルを片付けながらの言葉に、思わずわたしが噛みつくと、浩一郎さんは5年前とちっとも変わらない笑顔を浮かべた。
「元気で可愛いってことだよ」
でしょう?だって私の自慢の親友だもの、という美雪の嬉しそうな相槌。
ぐるぐる、ぐるぐる。どす黒く渦巻いたもので、胸の奥がどんどんと重くなっていく。
いつもと変わらないはずなのに、今日のコーヒーは苦くて飲みきることができなかった。
わたしの秘密。だれにも言えない秘密。
親友の彼氏に、ずっと恋をしている。
大親友の桜木美雪とは、高校時代からの付き合い。佐々木と桜木で出席番号が近かったから、なんてありきたりな出会いから、ずっと付き合いが続いている。
おっちょこちょいでうっかりもののわたしと、おっとりしてるけどしっかり者の美雪は何故か馬が合った。ただのクラスメートから大親友になるまで、そう時間はかからなかった。
美雪はとても美人だったので、クラスの中にはそれをやっかむ子もいたけれど、わたしはちっとも気にならなかった。むしろ、自分の事のように誇らしかった。
サラサラの長い髪、華奢な体、透き通るような白い肌、お人形さんのように端正な顔立ち。近隣でも可愛い制服として有名だったうちの制服が、誰よりも似合っていた。正直に言えば、美雪の美しさがうらやましくなかったといえば嘘になる。けれど、自分が持っていないものをうらやむのではなく、そんな美少女が自分を慕ってくれていることが、どこか誇らしく嬉しかった。少なくとも他の子のやっかみは、私たちの仲に何も影響を及ぼすことはなく、自他共に認める大親友として高校3年間を過ごした。
高校1年のクラスで一緒になって以来、とにかく何をするのも一緒だったわたしたちだが、進路だけは違った。進路が違うと疎遠になる友人も多くいたけれど、それでもわたしたちの友情に変わりはなかった。高校を卒業しても、休日や講義の空き時間を合わせてよく遊んだ。あまりにも一緒にいすぎて、彼氏ができないのも諦めがつくほどの蜜月ぶりだった。
そんなある日、わたしの大学の友人に教えられて行った喫茶店で、出会ってしまったのだ。
運命の人と。
藤井浩一郎さんは、その頃の仲間内でのアイドルだった。最初は大学にほど近い喫茶店にかっこいい店員がいる、と言う噂を聞いたのがきっかけ。まあ、その手の話は8割がた偏見と思い込みによるもので、万人受けするような男前って身近にいないよねという教訓を得ることができるものだけれど。
「ほんっとうにかっこいいんだから!」
という友人の今までにない力説に期待半分、からかい半分で行ってみて……びっくりした。
そりゃ、芸能人張りのルックス!とまではいかなくても、爽やかで優しそうな「男前」がちゃんといたからだ。
今思えばはなはだ迷惑だっただろうが、わたしたちはその店員さんを「お兄さん」と呼び慕い、時間が空けばその喫茶店に足しげく通った。幸い、喫茶店のマスターもお兄さんもいやな顔をすることはなく、常連客として気安く接してくれた。
だから、わたしの中ではその喫茶店とお兄さんを美雪に紹介したのは自然な流れだった。けして自分のものではないと分かっていても、「かっこいいお兄さん」を見せびらかしたかったのかもしれない。
それを、これから先ずっと後悔することになるとは思いもしないで。
「いらっしゃいませー……あれ、リコちゃん一人?」
すっかり顔なじみになったお兄さんが、さわやかな笑顔でお水のグラスを持ってきてくれる。端整で甘い顔立ちは、やっぱり何度見てもかっこいい。
「ううん、待ち合わせなんです。もうじき来ると思うから、注文は後にしてもいいですか?」
もちろん構わないよ、という返答とメニューをくれて、お兄さんはカウンターへ戻っていった。180cmは余裕であるだろうという長身だから、お兄さんは店内のどこにいてもすぐに分かる。だから、どの席に座っても、自然とお兄さんの姿ばかり目で追ってしまう。
お兄さんは、わたしより2つ年上の大学4年生。うちの大学よりもずっと頭のいい大学に通っていて、ここでバイトを始めた理由は、マスターのコーヒーの味が昔から大好きなのと家が近所だから。
この喫茶店に通いつめ、仲間内で情報を交換しながら、少しずつお兄さんとの距離を縮めていくのはとても楽しかった。名前と顔を覚えてもらえた日は、興奮し過ぎて眠れなかったほどだ。女子高育ちのわたしにとって、お兄さんは正真正銘の「アイドル」だった。
今度はどうやってお兄さんに名前を聞こうかな、なんて考えながらぼんやりとお兄さんに見とれていると、入口のドアにつけられたベルが軽やかな音を立てた。
「リコ!遅くなってごめんね」
満面の笑みを浮かべた美雪が、私の座る席まで小走りでやってくる。薄暗い照明の店内が、美雪の通ったその道筋だけ、一気に明るくなったような気がした。
高校の頃から美人だった美雪だが、大学に入ってから花が咲くようにさらにどんどん美しくなっていた。見慣れているわたしでさえ、時々見惚れてしまうほどだったから、さぞかしもてていることだろう。けれど、わたしとの蜜月ぶりが仇となってか、不思議と彼氏は作らなかった。何度かその訳を聞いたことがあるが、なんだかんだとはぐらかされてしまう。正直言って、もったいない。
もったいながられているとは思いもしていないだろう親友は、お水のグラスを運んできたお兄さんをチラッと見て、わたしに小さく笑いかけた。
(本当にかっこいいね)
(でしょ?)
長年の付き合いで、アイコンタクトだけでこれくらいの会話は出来る。わたしが褒められているわけでもないのに得意になって、ついニヤニヤ笑いがこぼれてしまう。
「リコちゃんのお友達?初めてお会いすると思うんだけど」
「はい、リコの高校時代からの友人で、美雪といいます。はじめまして」
美雪も驚く位かっこいいでしょ?わたし、顔と名前を覚えてもらうのに2ヶ月通い続けたんだから。ようやく、お店が混んでない時にだけだけど、雑談できるようになったんだよ。
そんなことが、うずうずするほど自慢したくてしょうがない。
「はじめまして。この店のバイトの藤井浩一郎です。リコちゃんにはお世話になってます」
……あれ?
「わたし、初めてお兄さんの名前聞いた……」
「あれ?そういえばそうだっけ?」
きょとんとした顔で、お兄さん…いや、藤井さんがわたしの顔を見た。だけど、あんまりわたしがぽかーんとした顔をしていたからだろう、照れたように笑って言った。
「まあ、改めて名乗るのも変な感じだけど、藤井です。リコちゃんも、美雪ちゃんも、今後ともうちの店をごひいきにね」
それが、二人の馴れ初めだった。
しばらくは、二人の気持ちに全く気がつかなかった。藤井さんから美雪のことを尋ねられるのも、美雪があの喫茶店に行こうと誘うのも、普通のことだと思っていた。女子高生活に慣れすぎて、恋愛沙汰に対してとにかく疎かったのだ。
はじめて「もしかして?」と思ったのは、マスターに美雪が一人で訪れることがあると聞いたときだった。それでも、「急に時間が空いたから、リコに会えるかと思って遊びに行った」という美雪の話を信じて、自分の予想をすぐに打ち消してしまった。いや、そうであって欲しいと無意識に願っていたのだろうか。
「ねえ、リコ、今度の土曜日って時間空いてる?話したいことがあるんだけど……」
美雪から、相談したいことがあると打ち明けられたのは、藤井さんを引き合わせてから3ヶ月ほど経ったある日のことだった。
「え?土曜?……うん、講義もバイトもないから大丈夫だよ!じゃあ、藤井さんとこで待ち合わせね!」
何時にする?と続けるつもりの声は、電話越しでも真っ赤になっていることが分かるほど、あわてた声で打ち消された。
「あ、あ、最近あのお店ばっかりだから、今度は別のお店にしようよっ!!ね!?」
わたしからすれば、その申し出を断る理由はない。とりあえず、駅前のファミレスで落ち合うことを約束して電話を切る。
「美雪、どうしたのかな……」
ぽつりと独りごちたが、全く心当たりがない。土曜日を待つしかない、と自分に言い聞かせた。
そう、何も知らないわたしは純粋に美雪のことを心配していた。まさか、後々自分の馬鹿さ加減をつくづく思い知る羽目になるとは思いもしないで。
「どうしたの、相談って」
土曜の午後、にぎやかなファミレスの中。何度も何かを言いかけて口ごもる美雪に、焦れて私のほうから単刀直入に聞いた。遠慮も何もない私の問いかけに、見たことがないほど真っ赤な顔をして、喧騒に消え入りそうなほど小さな声で言った返答を、今でも覚えている。
「あのね……私、藤井さんのことが好きになっちゃったの……」
わたしが本当に馬鹿だったのは、恋愛沙汰に疎すぎて、自分の気持ちにも鈍感だったところだ。美雪のその告白に、本気でこう答えたのだから。
「絶対ふたりはお似合いだよ!わたしも応援する!!」
そして、無駄に行動力のあるわたしはその後二人を陰日なたとなく応援し、程なく一組のカップルを作り上げてしまったのだった。
それから、わたしは胸の奥にちくちくするものを感じだした。藤井さんからお礼を言われるたびに、美雪から嬉しそうに藤井さんとのデートの報告を聞くたびに、ちくちくと何かが胸の奥でうずくのだ。その正体が分かるのは、二人が付き合いだして一月ほど経った頃のことだった。
のどかな秋の休日。散歩の途中で幸せそうに手をつないで歩く美雪と藤井さんを見かけたわたしは、何故かいつものように声をかける気にはなれなかった。思わず物陰に移動し、気づかれないよう息を潜める。
どうしてだろう。いつものわたしだったら、絶対に声を掛けるのに。
自分の取った行動に驚きながら、二人が立ち去るのをじっと待つ。最近、自分で自分がわからなくなる。でも、とにかく二人の顔を見たくなかった。
そう、見たくない。だから、お願いだから、早く見えないところに行ってしまって!
そう思ってからドキッとした。どうして、そんなことを思うのだろう。
本当のことを言ってしまえば、美雪と藤井さんが仲良くしてる姿を見るのが辛いのだ。美雪が嬉しそうに藤井さんの話をするのを聞くと、耳をふさぎたくなる。
(だって、藤井さんの彼女に、わたしがなりたかった)
そこまで考えて、どくん、と心臓が一つ大きく鳴った。血の気が引いて行くのがわかる。
いけない。気づいちゃいけない。パンドラの箱を開けてしまえば、悪い物しかでてこない。必死で考えるのを止めようとしたけれど、もう遅かった。わたしは気づいてしまった。
わたし、藤井さんが好きだ。
出会ったときからずっと、恋してた。
その瞬間、私を襲ったのは、言葉にならないほどの後悔だった。
どうして、二人を取り持ってしまったんだろう。
どうして、美雪から打ち明けられたとき何も考えずに応援してしまったんだろう。
どうして、二人を引き合わせてしまったんだろう。
どうして。どうして。
どうして、わたしは自分の気持ちに気づけなかったんだろう。
それからあと、どうやって家まで帰ったか覚えていない。気がついたら自分の部屋でぼろぼろと涙をこぼしていた。
自分の気持ちに気づけなかったことが、悲しくて、悔しかった。
そして、わかっていた。私の恋は、叶わないだけじゃない。自分の気持ちを、好きだというこの気持ちすら伝えることができないということを。藤井さんにだけじゃない。二人を知る、周りの人たち誰にもこの気持ちを言ってはいけない。美雪も、藤井さんも、どちらも大切で、大好きだからこそ。
この秘密は、誰にも言ってはいけない。
それから、長い長い片思いが始まった。絶対に報われることはない片思い。
何度も忘れようとした。他の男の人と付き合って、好きになろうともした。
でも、駄目だった。藤井さんが好きだと言う気持ちを再確認することにしかならなかった。
どんな人と付き合っても長続きしないわたしを見て、美雪も藤井さんも口をそろえて
「リコはとってもいい子なのに、男たちは見る目がない!」
と憤慨してくれた。でも、違うの。悪いのはわたしなんだ。好きじゃない人と付き合っていくのは、やっぱり無理があるんだよ。
だけど、長続きしない本当の理由を言えるわけもなくて、あいまいに笑って誤魔化すしかなかった。
他の人を好きになれないほど囚われているくせに、親友との仲を壊す勇気もなくて、どこにも踏み出せないでいる。
臆病な私を残して、季節は進んでいく。恐れていた二人の結婚も、現実のものとなってしまう。
まるで死刑執行の日を待つような気分で結婚式の日までを過ごすしか、わたしにできることはなかった。
「今度の土曜日?空いてるけど、どうしたの?」
「浩一郎さんがね、久々に三人で飲まないかって。このところ式の準備でばたばたしてるから、気分転換したいみたい」
久しぶりの美雪からの電話は、飲み会の誘いだった。いつもは三人でいろんな所に遊びに行ったり飲んだりしているけれど、さすがに結婚式を間近に控えた二人は忙しく、このところその類のお誘いはぱったり途絶えていた。
「うん、いいね!もちろん賛成!」
元気良く答えながらも、心のどこかで黒いものがじわりと広がる。三人で会うっていうことは、幸せいっぱいの二人を見ることでもある。それに、耐えられる?
待ち合わせの時間と場所を決めている間にも、どんどんと黒いものは広がっていく。電話を切った時には思わず深いため息が出てしまった。
「断れば良かったかな……」
出来もしないことを分かっているけれど、ぽろりとそんな言葉がこぼれた。
藤井さんのことだけが好きだったら、話はもっと早かったと思う。だけど、わたしは美雪のことも同じ位大好きなのだ。二人の仲の良い姿に胸が詰まる一方で、三人でにぎやかに過ごす時間も壊したくないくらい楽しい。
両方失いたくないから、動けない。欲張りで臆病なわたしは、何も出来ず、何も選べず、ただ眺めているしか出来ない。自分の首を絞めていくだけのわたしの恋。このまま絞めていって、いつかこの気持ちが息絶える日は来るのだろうか。それとも、息絶える寸前の苦しさだけがずっと残るのだろうか。
これから先、ずっと、何年も?
わたしの答えは、まだ見つからない。
週末の繁華街は華やかだ。大学生の合コンらしきグループから、お父さんたちの集いまで、さまざまな仲間たちが楽しく杯を酌み交わす。歓送迎会シーズンと言うこともあって、どこの居酒屋も人であふれていた。
そんな例に漏れず、にぎやかな居酒屋の個室の一角で、いつになく藤井さんが荒れていた。
「だからねっ、リコちゃん!結婚式って本当に大変なんだよ!もうどうでもいいじゃんそんなのって言いたくなるようなことが山盛りてんこ盛りなんだよ!」
乾杯から1時間半。大して飲めないくせに、かなりのハイペースでお酒を飲む藤井さんを、二人がかりで止めようとしたのだけれど無駄だった。ほとんど半泣きで、結婚式の準備がいかに大変かわたしに力説している。……いいのだろうか、酔っているとは言え、花嫁の前でこんな愚痴をこぼしても。
「うーん、男の人にとってみれば大変だろうなあと思うの。やっぱり結婚式って女の子向けのイベントなのよね。なのに、細かいところまで全部を二人で決めなきゃいけないし。テーブルクロスは何色が良い?なんてことまでいちいち決めなきゃいけないんだよ?そりゃあ、愚痴も言いたくなるよね」
恐る恐る美雪に聞いてみると、そんな答えが返ってきた。さすが、懐が深い。
結局、藤井さんの話は聞き流しながら、美雪とゆっくり飲む。
ああ、やっぱりこの空間が一番心地いい。今日の藤井さんは一人で暴走気味だけど、いつもは私と藤井さんが馬鹿なこと言ったりやったりして、美雪にしかられるの。それで、飲み会になると一番最初に藤井さんが眠ってしまって、その横で私と美雪がゆっくりおしゃべりしながら飲む。それが、わたしにとっていちばん楽しくて、居心地がいい場所。
二人をうらやむ黒い気持ちも、3人で過ごす楽しさの前ではどんどん薄れていく。だから、どんなに苦しくても、この関係は壊したくない。そんな決意を新たにした今日のお酒の味は、ほんの少し涙の味がした。
普段だったら、一眠りした藤井さんはすっきりお酒も抜けて自分の足で帰って行くのだけれど、今日はそうも行かなかった。いつもより飲んでいるのと疲れがたまっているせいか、美雪とわたしが両脇から支えないとまっすぐ歩くことすらおぼつかない。タクシーで家まで送るか迷ったが、藤井さんのアパートまでは普通に歩けば15分とかからない。短距離なことと、家に着くまでに酔いが醒める事に賭けて、歩いて帰ることにした。
「もうっ、リコにまで迷惑かけるような飲み方するんじゃありませんっ」
「むうー……」
美雪の呼びかけにも何やら口中でもごもご答えるだけで、会話にならない。
まだまだ夜は冷え込む時期だと言うのに、藤井さんを支えて歩くわたしたちの額には汗がにじんでくる。わたしたちの努力を知ってか知らずか、藤井さんはうとうとしはじめて、支えるというよりかは引きずって家へと向かう有様となってきた。ようようの思いで、藤井さんが住むアパートに到着した頃には美雪もわたしも、すっかり息が上がっていた。
「あああ、着いたああ!」
玄関からそのままつながっているダイニングに藤井さんを放り出して、ようやくゴールしたと言う達成感が沸きあがってきた。保育士として日々子どもと格闘していて、体力も人並み以上にあるとは思っていたけれど、大人を支えて歩くのにこんなに体力がいるとは思わなかった。
「リコ、遅くまでつきあわせてごめんね。タクシー呼ぶから待ってて」
そう言う美雪もわたしと同じ……いや、それ以上に頬を赤く染め、汗をかいている。そりゃそうだ、体育会系のわたしとは元の体力からして違うのだから。
「ううん、いいよぉ。明日はお休みだし、そんなの気にしなくても大丈夫だよ」
「でも、浩一郎さんのせいで疲れたでしょ?浩一郎さんからタクシー代は出すから、使ってあげて?」
ね?と美雪がすっかりダイニングの床の上で寝入った藤井さんに聞くと、満面の笑みで「うん!」と頷いてくれた。……100%わかっていないだろうけど、美雪の厚意はこのちょっとした労働の対価として貰っておいてもいいだろう。お言葉に甘えて、タクシーを呼んでもらうことにする。
「でもその前に、このままここで寝てたら風邪引いちゃうよ。移動させなくていいの?」
「いいのいいの。動かそうと思ったらもう一汗かかなくちゃいけないもの。私もリコもそんな体力残ってないから、もういいの。毛布でもかけておいてあげるわ」
そう言い置いて、美雪が奥の部屋へと毛布を取りに行った。冷え冷えとしたダイニングに、わたしと藤井さんだけがぽつんと取り残される。
実は、藤井さんのアパートに入ったのは初めて。アパートの前まで送ったことはあっても、部屋にまで上がったことはない。しかも、美雪も一緒だし仕方のない事とは言え、あんなに藤井さんにくっついたのも初めてで……。そんなことを思ってしまったのが失敗だった。さっきまでなんとも思っていなかったのに、急に恥ずかしくなってくる。
藤井さんの肩、広かった。腕もしっかりしてて、やっぱり男の人だと思った。わたしの大好きな、陽だまりみたいな藤井さんのにおいがした。ああ、駄目だ。一度意識しだすと止まらない。もう、絶対に封印しようと誓った黒いものが一気に心の中に広がりだす。
「み、美雪大丈夫?手伝おうか?」
「大丈夫、一人で持っていけるよ」
さすがに家主の意識がない中で綺麗とは言えないお部屋披露はちょっと可哀想だし、と言われると、美雪の所へ逃げるわけにも行かなくなってしまった。どうやら毛布だけではなく、布団一式を持ってくるつもりらしい。がたがたと物を移動させる美雪の姿がすりガラス越しに見える。
それなら、大丈夫だよね。ちょっとだけ、ちょっとだけなら。
黒い心がわたしにささやく。
美雪はもうしばらくこちらに来ないよ。だから、ちょっとだけなら、彼女の気分、味わってもいいよね。
寒そうにしてる浩一郎さんにコートをかけなおしてあげて、しっかり寝てるのを確認したら頬にキスするくらい……
その瞬間、ダイニングと奥の部屋の間を隔てていた扉が開いた。
「ごめんね、寒かった……」
見計らっていたのかと言うほど最悪のタイミングで声を掛けられ、思わず飛び上がって浩一郎さんから離れる。
「ち、違うの、あの、これはねっ」
「リコ……」
呆然とした美雪の顔を見て、冗談にしてしまおうと必死で言葉を探すけれど、ちっとも意味のある言葉が出てこない。
「キスしようとかそんなんじゃなくて、ただ寒そうだなーって、ちゃんと息してるかなーなんて確かめようとしただけでそんな」
ああ、ばか。やっとのことで出てきた言葉はフォローどころか墓穴ばっかり。駄目だ、どうしたらいいんだろう。
「リコ」
美雪の顔には怒りの表情は浮かんでいなかった。どこかが、痛むような表情だった。
それを見た途端、わたしの気持ちがばれてしまった事が分かった。
「ごめん、帰る」
「待ってリコ!」
引き止める美雪の声を置き去りにして、わたしは玄関を飛び出した。
とにかくこれ以上あの場にいられなかった。いたたまれなかった。だって、とうとうばれてしまったのだ。絶対に誰にも言えないはずの秘密が、一番伝えてはいけない人にばれてしまったのだ。
駅とは反対方向の角を曲がり、駐車場の塀に隠れるようにもたれかかったところで、こらえていた涙が溢れ出した。
どうしてあんな事をしてしまったんだろう。あんなにあきらめるって誓ったばかりだったのに。
いっそのことこの気持ちをぶつけてしまえば楽になるかもとも思っていた。だけど、実際は親友と好きな人を失ってしまう後悔の気持ちしかなかった。
動くこともできないまま、ただ涙だけがあふれる。
「リコ」
美雪の声に、びくん、と体が震えた。駄目だ、こんなに泣いてるところ見られたくない。あわてて逃げようとしたけれど、普段のおっとりした美雪とは思えない速さで後ろからぎゅっと抱きしめられた。往生際悪く逃げようともがくも、美雪の腕はそれを許さず離してくれない。さっき浩一郎さんを運ぶのにわたし以上にへばっていたとは思えないほどの力だった。
ごまかせない、と悟った私の口からは懺悔の言葉しか出てこなかった。
「ごめんね、ごめんなさい……」
呪文のようにそればかりをつぶやいているわたしに、美雪は何を思ったのだろう。何とか逃げようともがくわたしを一層の力で抱きしめた。
「リコ、私こそごめんなさい。いっぱい辛かったよね……ごめんね……」
そう告げる美雪の声が、涙で震えていた。
「どうして美雪が泣くの……?」
逃げようとするのをやめて美雪に向き直ると、私と同じくらい涙を流していた。
どうして、美雪が泣くの?どうして怒っていないの?
「本当は、ずっともしかしてって思ってたの。でも、確かめるのが怖くて何も聞けなかった」
「美雪……」
「リコが、浩一郎さんのこと好きかも知れないって。思ってたのに、そうだとしたらリコのことどれだけ傷つけるか分かってたはずなのに……っ」
ぽろぽろと涙がこぼれて、後は言葉にならないみたいだった。
「違う、美雪は悪くないよ。わたしがばかだったからなの」
そこまで言うのが精一杯だった。後は、私も美雪も、ただただ、抱きあって涙を流すことしか出来なかった。
そして、五月晴れの日曜日。
とうとう、美雪と藤井さんの結婚式の日がやってきた。
「キレイ……」
親族に混ざって式前に新婦控室に入った途端、美しいウェディングドレス姿に号泣したわたしは美雪に大笑いされた。
「どうしてリコがうちの父親より泣くの!?」
「だって、美雪が綺麗だから……」
ぼろぼろ涙がこぼれて止められない。
幸せになって。
声にならなかった祈りは、それでも美雪に届いたらしい。神々しいほど美しい微笑みで、確かに頷いてくれた。
結局、わたしは初恋をこじらせていたんだろう。誰にも言えないから、どう向き合ったらいいかも分からなくなってしまった。美雪に知られてしまった後は、不思議と恋心に決別をつけることが出来た。
美雪にそれを告げた時も、あんまりにもさっぱりしているものだからかえって心配されたくらいだ。
バージンロードを進んだ美雪が、美雪のお父さんの横から藤井さんの横へ進む。宣誓の言葉のあとに交わされた誓いのキスに、力一杯拍手を送る。
大好きな二人が幸せそうに寄り添う姿を見ても、もう胸は痛まない。それが、誇らしい。
今はただ、大切な親友が幸せであることを祈るばかりだ。
誓いのキスを交わした後、私は新郎と共に参列者からの祝福を受けてチャペルの外へ向かう。
大切な親友は、涙を浮かべながらも満面の笑みで拍手を贈ってくれている。今日参列してくれている誰より(実の両親より)、私の晴れ姿を喜んでくれているのはリコだと断言できる。
泣き笑いを浮かべた彼女にそっと手を振ると、一層強く拍手を贈ってくれた。
(ああ、大好きなリコ)
あなたに祝福されるのが、何より嬉しい。
きっと、色んな葛藤を乗り越えてくれた。その上で、私達を心から祝福してくれた。その清さが嬉しくて、何より愛しい。
(ごめんね)
リコが浩一郎さんのこと好きだって最初から分かってたの。
初めて紹介された時から、リコの浩一郎さんへの恋心は丸分かりだった。そして、浩一郎さんもリコに好意があることも。
この男は、私からリコを奪っていく。
それは、怖気のするような直感だった。だから、リコが自分の気持ちに気がつく前に浩一郎さんとの仲を取り持ってくれるようにお願いした。リコを傷つけることを分かっていて、ひどいことをした。
だって、私が愛しているのはリコだけだから。いつだって明るい笑顔で私を包んでくれるあなたに、ずっと恋をしているから。
嫌われて憎まれることも半ば覚悟していたけれど、リコは苦しみながらも私の側にいてくれた。あの男より私を選んでくれた。それが、どんなに嬉しかったか!
でも、あの春の夜にリコの抱えきれない恋心が零れた時。私がどんなにリコを傷つけてきたか目の当たりにさせられて、堪らなくなった。
あの時、決めたのだ。もう、リコを傷つけないって。
強くて潔いリコは、あの後に「もう吹っ切れたから、わたしの事は気にしないで幸せになってね」と伝えてくれた。だから、リコの望む通り愛し愛される夫婦として幸せであろう。
だから、一生秘密にするから。
リコ、あなたの事を想い続けることを許して。
そっと祈りを捧げて、心から愛する人に私は微笑んだ。
いかがでしたでしょうか。
楽しんでいただけたら嬉しいです。