セイレーン
月明かりが海を照らし、彼女を照らし、スポットライトのように彼女をふんわりと輝かせる。
満月に向かって、彼女は波打つ海から顔を出し、のびのびと透き通った歌声を響かせる。
夜風を渡り、何処までも奏でられる彼女の声。
彼女の喉はまるで楽器で、空気を震わせ、星々を震わせ、しかし水面をも震わせた。
彼女が歌うと、海は夜空の中で元気を取り戻したように波を荒らし、船を引っくり返した。
海で働く男達は満月の夜仕事にならず、彼女を忌み嫌った。
彼女の歌声は、嵐の前触れと囁かれるようになった。
魚達から話を聞いた彼女は、その歌声を封じてしまった。
自分の声は災いを呼ぶのだと、彼女は口を閉ざし、時折岩陰に腰掛けては静かに月を眺めた。
寂しげな彼女を見掛けたのは、そんな静かな満月の夜だった。
僕はそっと声を掛けた。「今日は歌わないの?」
彼女はほんの少し口角を上げると、ふるふると首を振った。
「君の歌声を、楽しみにしている人達もいるんだ」励ましの言葉ではなかった。僕の世界では、それが真実だったから。
彼女はまた寂しげに微笑む。答えは返ってこなかった。
月明かりによく似た長い金色の髪をなびかせると、彼女はパシャン。体をしならせ海へと帰っていった。
「明日また、ここで!」
僕は海に向かい叫んだ。彼女に届いたのかはわからなかった。
海は、彼女をただ静かに見守るように、その黒い波をゆっくりと風に漂わせた。
次の晩、欠けた月の元、半ば諦めの中彼女を岩場で待った。
彼女は来なかったが、一匹の魚が近付いてきた。
不思議な魚だった。夜空を映した真っ黒な水面の中で、その鱗はまるでルビーのように赤く艶めいていた。
「今日は、彼女は来ないよ。歌えなくなってしまったその日から、寝込んでしまうことが増えたんだ」
魚は言った。
「どうすれば、彼女を元気にしてやれるだろう?」僕は魚に聞いた。
魚はふいと海の中をひと泳ぎすると、こう答えた。
「彼女に見せてやるんだ。お前の知っている真実を。お前の生きる世界の真実を」
そう話すと、魚はゆっくりと瞬きをした。
「僕の世界の真実を、彼女に見せてやりたい。でも、彼女には足が無い。彼女は陸に上がれないじゃないか」
彼女に生えているのはしなやかな魚の尾。彼女に陸の風景を見せてやることなど出来ない。
「ひとつだけ方法がある」
魚は答えた。
「海には無いもの。陸の花を100本集めるんだ。それを海辺の月明かりに三晩照らすといい。そうすれば、彼女を元気にしてやれる薬が出来るだろう」
花は陸の象徴。それを潮風と月明かりに三晩当ててやると、薬が出来るのだと言う。
「言っておくが、これは秘薬だよ。他に使えばお前に災いが起きるからね」
「どうしてそんなに大事な薬のことを、僕に教えてくれるんだ?」
魚はまたゆっくりと瞬きをすると、静かに答えた。
「私達もまた聞きたいのさ。彼女の歌声を。例え海の世界を旅立ち、風に乗ったささやかな歌でも」
それだけ言うと、魚はポチャンとその真っ赤な体を海へと沈めた。
僕は次の朝から、草原へと出向いた。
咲き誇る白い花々。風に揺れるそれは魔法の絨毯が宙に舞うことを待ち望んでいるようだった。
僕は大きなガラス瓶に、白い花をめいっぱい摘んだ。100本と数えることだけに没頭した。
ガラス瓶はむせ返るような花の香りを漂わせるようになった。
やがて夜になり、花が眠りにつこうとしているのを邪魔しているようで、少し申し訳ない気持ちになりながらも、僕は摘み続けた。
やがて100本の白い花が、ガラス瓶に収まった。
僕は次の日から三晩、あの岩場で白い花々に月明かりを浴びせた。
彼女は顔を見せることはなかった。
少し冷たい潮風と、ふんわり暖かい月明かりだけが、僕を見守っていた。
三日目の晩、花に変化が訪れた。
月光に溶かされるように、花達がしゅわしゅわと液体に変わっていった。
白い花は夜の海の力を借りて、金色に輝くシャンパンのような液体になった。
やった!成功したんだ!
「やったぞ!」
朝日が昇り始める岩場で、僕は飛び上がった。
その日僕は日中ぐっすりと泥のように眠り、夜に備えた。
陽が沈み、僕は早速岩場へ向かった。
すると、彼女が海から顔を出していた。こちらを見ている。
「やあ、しばらく来なかったね」
今日すぐ彼女に会えるとは思っていなかった僕は、なんと声を掛けてよいのかわからず、何やら軽い挨拶になってしまったと思った。
彼女は何故だか少し恥ずかしそうに視線を反らし、やがてゆっくりとした動作で岩陰に腰を下ろした。月が輝き始めていた。
僕はポケットから小瓶を取り出した。花の薬を入れた小瓶だ。
「これを飲んでごらん」
彼女に見せると、彼女はきょとんとした目線を僕へと向けた。
「これを飲めば、また歌えるようになるかも知れないんだ」
不思議そうに小瓶を見詰める彼女。無理もない。そもそも、彼女とそんなに信頼関係を築けているとも思えない。
「赤い魚に教わったんだ。ルビーのような、美しい魚だったよ」
それを聞くと彼女は、はっとした顔を向けた。
どうやら彼女と赤い魚には、何か親しい間柄があるらしい。
おそるおそる白い指先を小瓶へと伸ばす彼女の顔付きは、強ばっていた。
僕も、この薬で一体何が起こるのかわからない。自然と僕の表情も険しくなるのがわかった。
ゆっくりとした動作で、彼女が小瓶の蓋を開ける。小瓶は月に照らされた海の波を反射し、きらきらと揺らめいている。
しばらく小瓶をじっと見詰めていた彼女は、ついに意を決し、唇へと近付け、一気に飲み干した。
静かだった水面が、一瞬ざわめいた気がした。
彼女の魚の尾がふわっと光を放った。
それはあの白い花の様な光だった。
彼女は戸惑い、こちらを見やる。僕もそうだ。彼女に何が起きているんだ!?
ふたりであたふたしている間も無く、なんと彼女の魚の尾は、人間の足になった。
そうか。僕の世界を見せるというのは、こういうことだったんだ!
「行こう!君は今、歩けるはずだ。歩いてごらん」
僕の興奮した声に戸惑いながら、彼女はゆっくり、ゆっくりと足を上げる。
地面を踏む。腰を浮かせる。立てた!
少しよろめいてはいるが、岩場に立った彼女は、嬉しさと戸惑いを顔に浮かべていた。久しぶりの彼女の自然な笑顔だった。
「行こう。こっちだ」
僕は彼女に手を差し伸べた。
「君が、歌える場所があるんだ」
僕の言葉に、彼女は首を傾げたが、それでも僕の手をそっと取ってくれた。
ゆっくり、ゆっくり、ふたりは歩く。
慣れない彼女の歩幅に合わせ、月明かりの下をゆっくりと、地面を踏みしめる。
やがて辿り着いたのは、僕が花を摘んだ何処までも続く草原。
彼女は目をぱちくりさせている。
「此処なら君の好きな歌声を、好きなだけ響かせることが出来るよ」
僕の言葉に、彼女は一瞬寂しげな、戸惑いの表情を見せる。無理もない。
「さあ、歌ってごらん」
何かを確認するように僕をちらりと見ると、彼女は目を閉じた。
すうっ、と息を吸う。
夜風を震わせたのは、久しぶりの彼女の歌声。
澄んだ声が、草原中にさあっと響き渡る。
空気が変わったようだった。
夜空に舞う、彼女の歌声。
すると、それに応えるように、草木がさわっとざわめいた。
眠っていた白い花々が、その身を開く。
緑は青々と色を取り戻し、木には小さな花の蕾がちらちらと姿を現し始めた。
そう、彼女の歌声には、自然に力を与える能力があった。
これが、僕の知っている真実だった。
「ありがとう」
彼女はふっと歌い終えると、花々の中で僕が見たことのない満面の笑顔を見せた。
彼女が歌うことで、麦が輝き、木の実がもりもりと太った。
作物が豊富になり、町は活気づいた。
満月の夜には、蛍のような光が草原を照らすのを見掛ける人がいたという。
もう彼女を、忌み嫌う人などいなかった。
彼女はのびのびと、歌い続けた。
風に乗り、彼女の歌声は優しく海へと届くだろう。
その歌声は、ただやわらかく、海を揺りかごのように揺らすのだ。きっと。