5. 異世界の基礎知識
時が、完全に止まっている。
…いや、実際に止まっているわけはないのだが。
少なくとも目の前の彼女は、凍りついたように動かない。
このまま彫像になってしまうのではないかと不安に駆られたところで、少女の呟く声が聞こえた。
「異世界…?」
「うん、そう」
よかった、生きていたようだ。しかし、なんて説明したらよいだろう。
普通なら何を言ったところで到底信じてはもらえなさそうな話だ。
よくて頭が弱いと哀れまれる程度だろう。本来なら言うべきではないのかもしれない。
この世界について知る目的だけなら、真実を言う必要はない。
だが、どうしてか目の前の少女には素直に話してみてもいいと思えたのだ。
「私は――」
だから正直に話をした。
自分が前前前世以前からの記憶を持っていること。
前世で事故にあい、気がついたらこの地に一人でいたこと。
ここに来てまだ一日経っていないということ。
誰にも会うことができず、ようやく会えたのが目の前にいる少女だということ。
そして、この世界の知識が欠片もないということ。全てを話した。
「い、異世界から―ここに?」
「うん。…たぶん」
正直自信はまるでない。
なんせ、自分にもよくわかっていないのだ。
自分は確かに『自分』というアイデンティティがある。
だが、それが真実だと証明できる手立ては何もない。
あるのは前世以前の記憶だけだ。
「…信じてもらえなくても当然だとは思うんだけど」
「いいえ!わたしは信じます!」
驚くほど強い声できっぱりと言い切って、少女は凛とした雰囲気でこちらを見た。その無垢で純粋な瞳に、思わずたじろいてしまう。
「ありがとう。そういうわけだから、この世界のこと、教えてもらえると嬉しい」
「もちろんです!」
にっこりと、文字通り天使のような微笑みを浮かべた彼女に、再び悶絶しながら話を聞く。
「この世界は――」
この“世界”は、リングレード。前世でいうと、『地球』、英語で『アース』と呼ばれる“世界”だ。
そして、今自分がいる国、ここは“ハートランド王国”と呼ばれる国だ。
ハートランド王国は、名前のとおり王国であり、王族が国を支配している国だ。
アイリスがどこからか取り出してきた古めかしい地図を見ると、なかなかに大きな国だった。
資源が豊かな国で知られており、漁業、農業や林業も盛んであり、多くを輸出している。最近では、魔石などの鉱物もかなり採れるようになったことから、ますます貿易が活発になっている。気候も温暖で過ごしやすいことから商人からの人気も高く、発展しながらも格調高い町並みや、美しい緑や海があるため、観光場所としてもかなり人気のある国だ。
当然、国民もそれらの恩恵を受けており、国民の大半は生活に困ることなく穏やかに暮らしている。ただ、もちろん良い面ばかりではない。人の行き来が増えたせいか、ちょっとしたいざこざやトラブルが増えており、更に豊かさに目をつけた良からぬ者が旅行者などから金銭を巻き上げる犯罪も増えている。この国では今、それらへの対策が急務とされているらしい。しかしまあ、総じて良い国だといえるだろう。
一通り説明を終えると、アイリスは汲んできた水を小さな片手鍋に移し、魔石をその下に置いて手をかざす。すると、一瞬で湯が沸いたではないか。驚く自分をよそに、アイリスは小さな陶器のポットのようなものにリーフを入れると、その中に沸いたお湯を注ぐ。少ししてリーフの良い香りが辺りに漂った。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
カップを受け取り、中を覗き込む。飴色の美しい茶だ。一口飲んで見ると、その味も素晴らしかった。地球でいう『紅茶』のような味だが、柑橘系のようでいて爽やかな甘みがすっと喉に入る。それでいて香りはまるで花のように芳醇で安心するもの。とても美味しくて、熱さにも関わらずあっという間に飲み干してしまった。
「―すごく美味しい」
「喜んで頂けて嬉しいです。お代わりはいかがですか?」
「頂きます」
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
お代わりを頂きながら、この世界のことについて更に尋ねる。
「魔法について教えて」
「魔法ですか?」
可愛らしく首を傾げる少女に大きく頷く。
「私の世界では、魔法というものが存在しないから。どういうものなのかとても気になる」
「魔法が―存在しない?」
大きく目を見開いて、アイリスは驚きの声をあげた。
「うん。さっきのヒーリング?っていうのも、初めて見たから感動した」
「そうなのですか」
興味深そうに頷くと、アイリスは魔法について話をしてくれた。
魔法というのは、体内にある魔力を使用して発現する技のようなものらしい。
前世の物語にあったような壮大なものは少なく、どちらかというと生活に密接した庶民的な魔法が多いとのこと。
ただし、魔法は魔力があれば誰でも使える可能性はあるが、絶対ではないらしく、むしろ使える人間はそう多くはない。
「魔力があっても使えない人が多いってこと?」
「はい。魔力は、体力等と同じで皆持っている力ですが、体力等と違い容易に扱えるものではないのです。大抵の者は、魔法を使うのには訓練が必要で、慣れるまでにかなりの時間を要します」
つまりはそういうことらしい。誰にでも使えるが、技術的に行使するまでに大変な労力が必要だと。レベルは違うが、自転車に乗るのと同じようなものか。ちなみに凛が自転車に乗れるようになるまで年単位の時間が必要だった。
「え、でも生活に必要なものなんでしょう?使えない人はどうやって暮らすの?」
この世界では、魔法を使用したものが一般的だ。前世でいう電気やガスといったインフラが、この世界では魔法に代わるのだ。魔法が使えないということは、そういう恩恵に預かれないということではないのか。
「そのための魔石なんです」
「ああ、なるほど」
魔石は、その名のとおり魔力が封じ込められた石である。魔石には二種類あり、一つは鉱山で採れるもの、もう一つは人や魔物が魔力を封じ込めたものだ。用法は異なるが、いずれも魔法が使えない人でも簡単に使用することができる優れものだ。ハートランドでは魔石が多く採れることもあり、庶民レベルにまで魔石は一般普及しており、人々の生活を支えている。
「―って魔物!?」
「はい。魔物とは、魔力を使用する生物のことです。魔物は人に害を与えることが多く、大抵の国では討伐隊が結成されています」
魔物を放置すると災害レベルにまで発展することも多く、過去には国一つが潰れてしまうほど大きな被害を被ったこともあったとのこと。ハートランドは、そこまでの被害ではないが、過去に町を一つ失うほどの大きな被害を被ったことはあるのだという。そういった災害を未然に防ぐ為、各国は討伐組織を結成し、国を守っているのだそうだ。ハートランドも例外ではなく、国が雇っている討伐隊が存在しており、日々人々の生活を守っている。
(ああ…やっぱり)
魔法だなんだと浮かれていた気持ちが一気にしぼんだ。
わかってはいたけれど、この世界もなかなか大変そうだ。現実はやはり甘くはない。
魔物がいるというだけなら、普通の感覚でいえば、この世界にはそれらを討伐する組織も大々的に結成されているわけだし、そこまで不安に思わないだろう。
だが、そこはそれ、前世以前から厄災に愛され続けてきた自分である。
どんな災難がふりかかってくるかわかったものではない。前世以前から、危険生物に愛されること(=デス★)は大得意の自分だった。
「通常、魔物が町に出ることは滅多にありません。町には討伐隊がおりますし、そんなにご心配なさらずとも大丈夫ですよ」
「…ありがとう、アイリス」
落ち込んだのを見て、アイリスが慌ててフォローしてくれた。優しい子だなぁ、抱きしめてなでなでしたい。
「さっき、魔法は魔力があっても訓練しないと使えないって言ってたけど」
「はい」
「この、『アイテムボックス』っていうのは?魔法ではないの?」
「それは―…」
気分を変えるように尋ねた自分に、アイリスは少し安心したように頷いて答えた。
「―アイテムボックスは、魔法ではなくて、特殊能力と呼ばれるものになります」
「特殊能力?」
「はい」
「…魔法とどう違うの?」
「魔法は、魔力があれば誰にでも使える可能性があります。もちろん、限界はありますが、時間さえかければ、普通の人でも少しくらい使えるようになるものです。ですが、特殊能力は違います」
「違う?」
「はい。特殊能力は、誰にでもあるわけではないのです。むしろ、能力を持っていない人の方が多いです」
「つまり、能力のない人にはどんなに訓練しても不可能ってこと?」
「はい」
生まれながらにして、人はなんらかの才能や能力に恵まれるものだ。
歌が得意だったり、絵が上手だったり、はたまた政治的手腕に長けていたりと、気がつかないことが多いだけで、どんな人間でも一つくらい秀でた才能がある。
そういった才能とは異なり、明らかに突出し、誰も真似ができない、試してみることさえ不可能な能力が存在する。それを特殊能力と呼ぶ。つまりそれは。
(超能力みたいなものか)
そう納得した。しかし、だとすれば。
「アイテムボックス使えるのって、結構すごい?」
「はい、そうですね。すごいです」
ひゃっほう!
にっこり微笑むアイリスに、思わず小躍りしそうになった。
前世以前から人様からすごいと褒められるような能力とは無縁の人生だった。
ひょっとしたら、今生こそは素晴らしい人生を歩むことができるのではないだろうか。いや、素晴らしくなくてもいいから、今生こそ、せめて普通の人生を送りたい。そんな夢が叶う日がとうとう来たのかもしれない!
―だがしかし。
(…私のアイテムボックス、なんか問題がある気がする…)
思い出した。アイテムボックスから突然落ちてきたパールポルンの実のことを。
その後のアイリス救出劇ですっかり忘れていたが、そういえば木から落ちる以前からボックスにしまっていた実の数がずいぶん減っていた。あれは一体…。
一瞬舞い上がった気持ちの分、なんとなくいやな予感が湧き上がってくる。
できれば放っておきたい、おきたいがしかし、放っておくと更に禄でもないことになるのは目に見えている。
「『ステータス』」
ステータス欄を確認してみる。そこには、今まで記載されていなかった文字があった。
アイテムボックス(穴あき)
「…アイテムボックスなのに、穴あいてたら収納できないじゃん…」
どうやら、今生でも禄でもない人生が続くようだ。
能力にも不良品があるんですよ。