9.目に映るすべて
2016/08/19 あとがき追加。
「なあ、今回みたいなことって、わりと多いのか?」
この世に生じた矛盾の整合性をとる、その理由が与えられる場所。宇曽利が見ている世界。意図せず、俺が足を踏み入れてしまった世界。いまは、俺の世界でもあった。
その世界を映す右目に触れて、俺は宇曽利に尋ねた。
「寺山淑子のような周到さは珍しい。けど、似たようなことはあるよ。不老不死は相変わらず人気さ」
白衣に、紫地に紋の入った袴姿の宇曽利。どうやら、その姿が基本らしく、境内にいるときはだいたい同じ格好だった。
「宇曽利的には、たまったもんじゃないな」
「まあね」
大学から戻り、すでに帰宅していた宇曽利と、俺は鏡ヶ池を眺めていた。夏の夕日が映えて、この世の風景とは思えない美しさだ。この右目の災いを肩代わりしてくれた魚様が、この池を泳いでいるかもしれないと思うと、余計にこの場所が愛おしくなる。
「引っ越しても、ちょくちょく来ていいか?」
実はもう引越し先は決まっており、近々ここから立ち去らねばならない。名残惜しくて、毎日のように中島に佇み、蓮池を眺めている。
「もちろんだ。君の右目のこともあるし、むしろ定期的に来て欲しいね」
「手伝おうか?」
「なにがだ? ……いやダメだ!」
宇曽利は一瞬で察したのか、即断られた。心なしか、夕日に滲んだ宇曽利の瞳が、怒っているように見えた。
「君は、もとから向こう側に馴染みやすい体質なんだ。初めて会ったときのことを憶えているか?」
「憶えてる憶えてる。渾身のギャグ言ってスベったやつだろ」
『え、わたしが見えるの?』
思い出して可笑しくなった。
「いまだから言うけど、あれ、まじだから」
「……うん?」
「わたしは、向こう側を見てるとき、こっち側での存在感が異様に希薄になるんだ。下手をすると、隣にいても気付かれないくらいさ。だから、君はそうとう向こう側と相性が良いんだ」
「マジか」
「まじだ。くわえて、いまは右目のこともある。あまり無茶なことは考えないほうがいい」
ついさっきまでの決意が揺らぎそうになった。相性が良いと言われ、これほど不安になる事柄もめったにあるまい。
「そう……か。だよな。でも、お前がひとりで走っていく背中は、あんまり見たくないんだよな」
え、と宇曽利が驚いたように俺を見た。
「ダ…………、ダメだ。ダメだぞ。あぶないもの」
「わかったよ。でも、手伝えることがあったら、いつでも呼んでくれ。お前、友達もいなさそうだし、ひとりぼっちよりは、いいだろ?」
宇曽利はうつむいてしまった。耳まで真っ赤になっているからには、恥ずかしがっているだけなんだと思う。
「やっぱり、駄目かね?」
そのとき――、風もないのに蓮の花が揺れ出した。そして、その揺れが池全体へ伝播していく。蓮花が、葉が、水が、ざわざわと揺れ動く。連なった鴨の親子は、平気そうな顔で浮いていた。やがて、揺れは池を飛び出し、境内のありとあらゆる植物や水に繋がっていった。境内全体が、ひとつの生物のように感じられた。まるで、鼓動だった。
「な……っ」
思わず喉が詰まる。不思議と恐怖は感じなかったが、あまりの出来事に声も出ない。その神異に反応したのか、俺の右目が青い世界を捉え始めた。やがて、境内を揺らすその鼓動は、大きく頷くように、俺の背中を叩くかのように、一度、どくんと大きく揺れて、余韻すら残さずに消えてしまった。
「……まったく。わかったよ、烏森」
「え? なに?」
「いいよ。手伝って欲しくなったら君を呼ぼう。でも、無茶は禁物だからな。しかし、……なんでかな、君は好かれたみたいだな」
そう言って、小柄な宮司はくるりと踵を返した。肩越しに、楽しそうな笑顔をのぞかせて、眠たそうな半開きの目で俺を見ていた。真っ青なフィルターが、宇曽利の笑顔を俺に見せてくれる。
「さあ、行くぞ、烏森。まずは炊事を手伝ってくれ。鈴谷さんが、良い野菜を手に入れたらしいんだ」
右目から青い世界を押し出すように、俺は何度かまばたきをする。目の前には、小柄な宮司が立っていた。肩越しに、眠たそうな真顔をのぞかせて、半開きの目で俺を見ている。
「あぁ、わかった。野菜は好きだ」
宇曽利が楽しいのなら、ひとりで誰かの命を背負わなくてもいいようになるなら、俺は炊事だって洗濯だってしてやる。この現実と、青い世界の現実。目に映るすべての宇曽利を、俺はひとりぼっちにはさせない。
俺は見つけてしまったんだ。探して、見つけて、はめ込んでしまった。俺が宇曽利と一緒にいる理由を。
「あ。そうだ、烏森。わたしには、ちゃんと友達いるぞ。バカにするな」
「マジで?」
「まじで」
一瞬、葉月さんのことかと思ったが、あの人は友達というよりも、頼りになるお姉さんといった感じだ。
「俺の知らないひと?」
「いつもベンチで一緒に座ってるだろ。わたしと君の間に」
「う、うそだろ……? そいういう冗談はやめろよ。え、マジでか?」
宇曽利はどうにも真顔だった。
「まじでだ。今度からは、君も会えるさ。紹介しよう」
俺は、完全に現実から足を踏み外した。
これから俺は、どれだけの見つけなくていいもの、見つけてはならないものを探して、見つけてしまうんだろうか。たとえ、そうして、ぴったりとはめ込んでしまった先で、悪意に抗うにしろ、善意の手を取るにしろ、それは宇曽利巫女と一緒だ。そこは譲れない。彼女をひとりぼっちにはしたくないじゃないか。それにいまさら、ひとりぼっちにはなりたくないじゃないか。
それが、こっち側と向こう側を行き来する視界を手に入れてしまった俺が、助けてくれたものたちへ報いる方法だと信じて、いまは野菜を洗うために走ろうじゃないか。
夏は、まだ始まったばかりだ。
――おわり――
最後までお付き合いありがとうございました。
この作品に登場する探偵事務所の面々は、拙作『HOPE&PEACE』の登場人物でもあります。所長はそっちの主人公です。もし気になりましたら、そちらもどうぞよしなに。
HOPE&PEACE
http://ncode.syosetu.com/n3949t/