8.交差するふたつの現実
退院した俺たちは、葉月さんと長倉さんを含めた四人で、情報交換と状況の整理を行った。
そこで、俺たち四人は誓約書にサインした。“今日これから目にするもの耳にすることのすべてを、悪用することはない”という旨の誓約書だ。本来は、探偵が調査した内容に対して、互いに誓約するものらしい。
まず、葉月さんと長倉さん側から情報が提供された。
「あの婆さん、寺山淑子が死んだ。ぽっくりだ」
「え!?」
俺は、思わず大きい声を出してしまった。
あれほどの憎悪をみなぎらせた人間が、その本懐を遂げることなく簡単に死ぬものだろうか。宇曽利に向けられた殺意。それを思い出すだけでも身震いがする。
「なにをするつもりだったかは知らねえが、もう無理だと思ったんだろうな。老人なんてのは、そういうもんだ。目的を果たそうが果たすまいが、気を抜いたら死んじまう。それだけなら、べつに騒いだりしねえんだが……」
長倉さんは、グレーの頭髪をなでながら言いよどんだ。
「もう、何年も前に死んでいてもおかしくない状態だった?」
眠たそうな目で話を聞いていた宇曽利が、長倉さんの話を継ぐように言った。
「そのとおりだ。全身がん細胞人間になってたらしい。担当した検視官が腰抜かしてたぞ」
そんなことがあり得るんだろうか。あり得ないような体験を立て続けにしてきた俺でも、さすがに開いた口がふさがらなかった。
「なるほど。やっぱり、そういうことでしたか……」
俺の口はふさがらないというのに、宇曽利はひとり納得している。
「どういうことだ、宇曽利?」
「本当に胸くそが悪い話さ。おそらく寺山淑子は、自己の延命のために孫娘を利用したんだ」
珍しく宇曽利は眉をひそめ、吐き捨てるように言った。
寺山淑子の悪意は、孫娘に自分と同じ名前を付けたところから始まった。ずっとそのつもりだったのか、己の死期を悟ってそうしたのか、それはわからない。いずれにしろ、寺山淑子は怪物だった。生に憑かれた悪意の怪物にほかならない。
同じ名前を付けるという行為で、寺山淑子は孫娘の名前を奪った。そうすることで、孫娘の魂は肉体から離れやすい状態になってしまった。そして、いつしか肉体から離れてしまった名もなき魂は、繋がるべき体を見失って、霊魂と成り果ててしまった。
孫娘は、一時的に名を失って流れてしまった俺と同じ状態になったということだ。誰も見ない。誰も気付かない。誰も見ようとしない。ついには、誰も助けに来てはくれなかった。唯一、己を見ていたのは、悪意の塊だった。
「名も魂も失くした体は、そのまま朽ち果てます。空の肉体に、別の魂が繋がるなんてことは、まずあり得ません」
「でも、今回はそれがあり得てしまった、ってことすか?」
「はい。かなり醜悪な形で繋がってしまった」
葉月さんの問いに、宇曽利は首肯し、話を続ける。
「おそらく寺山淑子は、呪術的な分野に明るい人だったんだと思います。でなければ、今回のような真似はできない。空の体が再び別の魂と繋がるためには、いくつか条件があるんです。えと、長くなるので今回は割愛したいんですが……」
「寺山淑子はそれらの条件を満たしていた、という認識でいいすね?」
「そうです。同性の近親者であったということ、名前が同じであったということ、その二つが非常に大きいです」
仮に、宇曽利の言っていることが真実だとすると、少し不可解な点が浮かんでくる。孫娘が名付けられたのは、とうぜん赤ん坊のときだろう。寺山淑子が孫娘の体に己の魂を繋げたのだとすると、肉体年齢がどうしても合わない。
「待ってくれ、宇曽利。孫娘は名付けられた時点では、まだ赤ん坊だよな。寺山淑子は、老婆のままだったぞ」
「最初に言った醜悪な形というのが、つまりそのことなんだ。端的に言うと、寺山淑子と孫娘が、孫娘の肉体に半分ずつ繋がってしまった」
「は、半分ずつ……!?」
「信じるか信じないかは別として、気色悪い話すねえ……。入道太さん、コーヒー飲むすか?」
「あぁ、頼む」
葉月さんは憤りを刻むかのように、のしのしと給湯室へ消えた。
「寺山淑子という名前に込められた願い――つまり、寺山淑子の肉体として適切に育って欲しいという願い。その願いを、おそらく孫娘の自我が上回りかけたんだと思います。結果、二人の寺山淑子が一つの肉体に繋がってしまった。孫娘のほうは、辛うじてくっついているといった感じでしたが……」
「それは、その孫娘が本当の寺山淑子は自分だと、主張したってことか?」
長倉さんが、銀縁メガネを押し上げて言った。興味深そうな顔をしている。
「はい。そう言っていいと思います。ひとつの肉体を奪い合って、結果、ふたりともが中途半端に繋がってしまった」
「ババァはすっこんでろ、ってことだろ。おもしれぇな、その孫娘」
長倉さんは、くはっと笑いながら、ソファーに背を預けた。
「だから、二○二号室には、二人ぶんの魂が繋げられた体があったはずなんです。おそらく、小学生くらいの女児」
「小学生? ま、まさか、二人ぶん繋いだまま成長してたってことか!?」
俺の驚愕をよそに、長倉さんはすいっと資料をテーブルに滑らせた。
「城東ハイツの二○二号室から、五歳から八歳くらいの女児の遺体が見つかった」
それは、写真と検死結果だった。遺体と聞いて強張ったが、写真のなかで横たえられている少女は、顔色が悪いだけで、眠っているかのように穏やかだった。とつぜん目を開けてもおかしくないほど、それは綺麗な寝顔だった。
「エンバーミング。そんなことまで、できたのか……」
宇曽利は呟いて、大きく溜息をついた。
「というと?」
「この国は火葬にしちまうから、あんまり馴染みがないだろうな。防腐処理のことだよ。血液とか腐りやすい内臓とかを抜いて、防腐剤を突っ込むんだ。定期的にメンテナンスすれば、ずっと保存しておくことができる。それなりの設備も必要だが、あのババァはやってのけたってことだ」
あまりの胸くそ悪さに、俺は吐き気をもよおした。自らの手で抜け殻にした孫娘を、我欲のために防腐処理までして保存する。しかも、ご丁寧にメンテナンスもかかさない。いくらなんでも、あまりにも孫娘が不憫だった。
「これは、つまりどういった理由があるんすか?」
葉月さんが戻り、四人ぶんのコーヒーを並べながら尋ねた。
「二人ぶん中途半端に繋がった肉体は、もちろん魂の器としては機能しません。でも、こうして朽ち果てないようにすることで、コネクタとしての機能は十分だったんでしょう」
孫娘はすでに亡くなっていた。
宇曽利曰く――、
赤ん坊は、体と魂が混ざり合っている状態で離れようがない。だから、別のものを繋ぐこともできない。体と魂が明確化されるのを待たなければならない。それは、自我がそこそこ確立されてくるころで、一般的には七歳くらいからと言われている。
ちなみに、宇曽利は便宜上、自我という言葉を使っている。そこそこモノを考えられるようになってくるころ、と思っていいそうだ。
孫娘の魂が体から離れ、二人ぶんの魂と繋がったのは、おそらく七歳前後。繋がったまま成長したわけではなかったのだ。
そして、長倉さんと葉月さんの追加調査で、孫娘の両親もすでに亡くなっていることが判明した。書類上では、まだ三人とも生きていることになっていたそうだ。両親の遺体は骨だけにされ、二○二号室に安置されていたらしい。
孫娘は、両親の遺骸のそばで、醜悪なコネクタとして綺麗に防腐処理されていたのだ。まったくもって、耐え難い悪意だ。
「コネクタ?」
頷いた宇曽利を見て、嫌な想像が頭を支配した。寺山淑子と赤黒い怪物。ついに、そのふたつを結び付けるかのような言葉が出てきた。
「真に幸せを願っていたなら、名前が同じであろうと問題なんてないんです。でも、あの老婆の願いは、子供の幸せを願った善意ではなく、我欲を叶えんとする悪意だった。そして、悪意は、色のない御霊を厄に変えてしまうんです」
「厄……、災いか。悪霊みたいなことか?」
尋ねて、長倉さんはコーヒーをすする。探偵事務所内は、冷房のせいかホットコーヒーがちょうどよかった。
「そうです。悪意に蝕まれて、厄となってしまった孫娘の御霊。入れ替わることには失敗しましたが、寺山淑子は、厄となった孫娘の霊魂と繋がりました。その二者を繋げるコネクタとして機能していたのが、あのエンバーミングによって保存された肉体です」
「どんだけ生きたかったんすか……」
まったくだ。俺は葉月さんに向かい、激しく首肯した。
「そう願うやつは、ごまんといるだろ。んで、やらなくても死ぬ、やって失敗しても死ぬ。それなら、やるわな」
生きながらえるためなら肉親を嬉々として利用するやつは、ごまんといる。長倉さんは、眉ひとつ動かさずにそう言い切った。
「厄となってしまった霊魂は、ほかの霊魂を貪り食らう文字通りの怪物に成り果てます。霊魂を食らい、成長し続ける。そして、寺山淑子の老いや病を肩代わりし続けるんです。回復しながら、死に続けているようなもの。そして、霊魂よりも、いわゆる生霊のほうがアレらには好まれるようで、いったい、これまで何人が犠牲になったのか……」
ぞっとします、と宇曽利は結んだ。
「なるほどな。これで、だいたいの内容は掴めたな。推測するしかないところは、まあ、仕方ねえ。当の寺山淑子が、もういねえしな」
長倉さんは、大きく溜息をついて背もたれに寄りかかる。葉月さんは、悼むように孫娘の写真を見つめていた。どこか、やりきれない気持ちが事務所内に漂い、俺たち四人はしばらく無言になった。
「んじゃ、最後にひとつ、あの城東ハイツとかいうアパート、階段がおかしかったろ」
「ええ」
長倉さんが沈黙を破り、俺と宇曽利はそろって頷いた。
あのアパートは、御霊が流れる道に建っていた。そして、その流れをせき止めるかのように、二階の廊下が途切れている。それぞれの玄関に階段を設ける、という改装が施されたせいだった。
「あそこは、不動産業者の管理になっていたんだが、実態は寺山淑子が大家だった」
「そういうことか……」
俺は呻いた。すべて、生を貪るための仕掛けだった。寺山淑子は、生者も死者も、すべて食らう化け物だ。
「葉月に頼まれてな。一緒に不動産屋のオッサンつついたら、ゲロった。寺山淑子が入居してきたとき、金銭的な交渉があったんだとよ」
「城東ハイツは、どうなりますか? あのまま放置しておけば、必ず悪影響が生じます」
やらないならわたしがやる、とでも言いたげな宇曽利の瞳は、いまにも青い輝きを放ちそうだった。
「更地にしてやるすよ」
「おう。さすがに、こっち側から見ても黒いところが多すぎる。住人さえ他所に移せれば、取り壊す理由ならいくらでもある。任せとけよ」
「ありがとうございます。今回は、本当にいろいろ助かりました」
宇曽利は綺麗に頭を下げた。
「いいすよ。そっちもお疲れさん!」
「おつかれー。お前の爺さんも鼻が高ぇだろうよ。俺も、神職にデケぇ貸しが作れたしな。お互い、良いことだらけだ」
二人に頭をなでくり回され、宇曽利はへっへしていた。耳まで真っ赤なので、真顔でも照れているのがわかった。
俺は、ここにいる全員のおかげで命を拾うことができた。現世と常世。それぞれの現実で、それぞれの方法で、立ち向かってくれた頼りになる人たち。いったい、ありがとうと、何度言えば足りるのか。わからなかったから、呆れられるまで、俺はずっと頭を下げ続けていた。
俺はこの邂逅で、あの二人は刑事と探偵なんだと改めて思い知った。“人間の負の面を見る”という、ある意味での向こう側を見つめている人たちだった。二人とも、とてもはっきりとした人物だ。だから、今回の件にも、はっきりと自分の役割を見出して、ブレることがなかった。その姿勢が、宇曽利を援護し、俺の命を救ってくれた。俺もいつか、ああいう人間になりたいと、そう思ったのだった。