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7.あいのめ

 放っておかれたこと自体は、とくに問題はなかった。なんなく、俺はもとの体に戻った。しかし、俺の体がもとの通りかといえば、違ってしまっている。




 あの怪物を宇曽利が退治したあと、すぐさま警察官が駆けつけてきて、寺山淑子という婆さんを捕まえた。警官たちは事情を把握済みなのか、事件の詳細をなにひとつ尋ねることなく、現場をてきぱきと動き回っていた。その際、指揮を執っていた長倉という男が、宇曽利の言っていた刑事だった。

「大丈夫か?」

 宇曽利は眠たそうな目で俺に言った。

 彼女は全身に打撲を負い、救急車で搬送された。念のためにと、俺も付き添いを兼ねて一緒に乗っていたのだが、めまいと頭痛くらいのもので、心配されるべきは彼女のほうだ。

「それは俺の台詞だ。……本当に、ありがとうな」

「いいんだ。やりたくてやったことだし、わたしの怪我はすぐ治る。問題は、君だ。大丈夫か?」

「俺はべつに――」

 おかしいとは思っていた。視界がズレている。右目だけ、大量の目ヤニでも付いているかのように、曇っている。著しく視力が低下していた。めまいや頭痛は、これが原因だった。

 救急車に乗って城東ハイツから遠ざかり、ほっと人心地ついたところで緊張の糸が解けたのか、俺は初めてそのことに気付いたのだった。

「右目が……、見えない」

 ぎりっと歯が鳴った。横になっていた宇曽利が、歯を食いしばって上半身を起こしたのだ。

「ちょっと……!」

 俺たちの傍にいた救命士が慌てる。かたや、全身に怪我を負った白装束の女。かたや、目が見えないと言い出す男。そりゃ、慌てる。そんな救命士を、助手席にいた男が、「関わるな」と静止した。長倉刑事の部下だった。二人は喧嘩でも始めそうなほど睨み合っている。

 そんなことはどこ吹く風、宇曽利は、お札と筆を傍らの鞄から取り出した。そして、すらすらと蛇のような文様を描く。色は朱色だった。自分の尾を飲み込んでいる蛇、なんといったか忘れたが、あれに似ていた。無事な左目をこらすと、お札には薄っすらと蓮花の模様がエンボス加工されている。輪になった蛇の真ん中に、鯉のような魚を描き、最後に俺の名前を上から黒で書いた。

 宇曽利は、そのお札を俺に差し出す。

形代(かたしろ)の一種さ。一時しのぎにしかならないが、わたしが戻るまで、それを肌身離さず持っているんだ」

 わけもわからず受け取ると、もやが晴れるように視界が戻った。

「う、うおっ! 見える。見えるよ、宇曽利! でも、いったいどういう……」

「えぇっと、それは……ごめ……なさい」

 宇曽利は、ばたりと担架に倒れこんだ。そして、すやあと安らかな寝息を立てたのだった。




 それから、検査などのため、俺は数日入院した。宇曽利は全治に一週間ほどを要した。

 お札を手放せなくなった俺だが、それでもあのとき決意したとおり、全快した宇曽利と一緒に蓮池にいる。白色と桃色のグラデーションを誇るように、蓮花がところ狭しと池の水面に連なっていた。

「烏森、こっちだ。うちは、眼の守護神としての信仰もあるんだ」

 眼の守護神と聞いて、まっさきに思い浮かんだのは、煌々とした青い瞳で怪物に立ち向かう宇曽利の姿だった。純白の装束をまとった姿は、実に神々しかった。いまは、上に白衣、下に紫地に薄く紋の入った袴、という出で立ちだ。

「それって、お前の目とも関係があるのか?」

「ないってことも、ない」

 なんとも、ぼんやりとした返答だった。もしかしたら、宇曽利もよくわからないんだろうか。

「わたしのこの目は生まれつきで、君の右目は後天的なものだ。うちの父も両目が君と同じだった」

 だった、と父を過去形で語る宇曽利。そして、何度か彼女の家に足を運んでいるが、両親の姿は見たことがない。どうやら込み入った事情がありそうで、いまは触れないでおこうと思った。

「鏡ヶ池に流れ込んでいる水は、湧き水でね。その根元にあるのが、この水天宮さ」

 蓮が群生している池は鏡ヶ池という名称で、その西側に祠があった。こんこんと水が湧き出ていて、夏の昼間であることを忘れてしまうくらい涼やかだった。この水が、境内の水路を通って池に流れ込んでいるんだろう。

「この湧き水は、眼病に効くとされているんだ。実は、わたしは生まれたとき盲目だったらしいんだが、この清冽な水のおかげで治った」

「マジか……」

「まじまじ。まあ、当のわたしは憶えてなくて、聞いた話なんだけどね。飲み水から風呂の水まで、わたしに関わるほとんどの水に、この湧き水を使ったそうだ」

 宇曽利の盲目を治したという由緒があり、いまこの右目が見えているのは彼女がくれたお札のおかげだ。この札には蛇か竜のようなものが描かれており、目の前の祠の天井部分には、同じく木彫りの蛇か竜をかたどったものが据えられていた。

「さあ、右目に湧き水をかけてみて」

 宇曽利は、柄杓で湧き水を掬ってよこした。

 以前の俺は、宇曽利の話を信じただろうか。現実からズレた青い世界を見る目。盲目を治したという霊水。たぶん、無理だったろう。神妙な面持ちで話を聞いてはいても、心の中でそんな馬鹿なと思ったかもしれない。だが――、

「もし、なにかあっても、わたしがいるぞ」

「あぁ、頼りにしてる」

 俺は震える手で、あのお札を宇曽利に返した。とたん、視界がふたつに別たれる。見知った現実と、踏み外した先の青い世界。くらりと、めまいが襲ってくる。――いまの俺は、いままでの現実から完全に足を踏み外していた。

 柄杓を差し出す宇曽利は、見たこともない微笑を浮かべている。優しくて可愛げのある笑顔だ。たぶん、これが本当の彼女。でも、それを映しているのは、他ならぬ青い世界を映す右目だった。彼女はおそらく、魂とでもいうべきものの大部分が、ズレてしまっているんだ。相変わらずの真顔は、左目に映っていた。

「冷たい……」

 俺は湧き水を手に受け、思わず呟いた。とても夏場とは思えない水温だった。それを、一呼吸置いてから、思い切って右目に浴びせた。

「ひえっ!」

 思い切りやりすぎて、飛沫が宇曽利に向かって飛んでしまった。悲鳴を上げた宇曽利が、張り倒すぞと言っている。

「あぁ……っ!」

 俺は感嘆の声をもらした。ゆっくりとまぶたを開くと、視界のズレは消えうせ、見知った真顔のみが存在していた。

「どうだ?」

 宇曽利は身を乗り出して尋ねてきた。

「ひどい仏頂面が見える」

「うるせえ」

 へっと、宇曽利は安心したように笑う。そのとき、背後で、魚が飛び跳ねたような水音がした。鏡ヶ池の方向だ。ハッとした顔で宇曽利は振り返り、池のほうに向かって深々と頭を下げた。

「烏森。君の目は治った。いや、意識しないと見えなくなった。見ようと思えば、やはり向こう側は見えてしまう。少しコツが必要だけどね」

 それは、俺の右目が宇曽利と同じになったということだ。あの怪物に抉られた右目が、もうどうしようもなくズレてしまった。それを霊水の力で抑えられ、ある程度なら自分で制御することもできるという。

「わたしの両目が治ったとき、鏡ヶ池で両目のない鯉が泳いでいたらしい」

「え……!?」

 お札に描かれた鯉の絵を思い出して、全身に鳥肌が立った。さっきの水音は、もしかしたら、俺の右目の災厄を肩代わりしてくれた鯉が、飛び跳ねた音だったのかもしれない。

 気付くと、俺は宇曽利と同様に、池に向かって深々と頭を下げていた。

「君の引越しが済むまで、うちの客間を使っていい。その間、一応、ここの湧き水を生活に使用するといいよ」

 そう言って、宇曽利は小さく丸めたお札を水路に流した。

「あぁ、わかった。ありがとうな」

「いいさ」

 宇曽利はてくてくと元の道を戻り始めて、俺はそれに後ろから付いていく。

「なあ、宇曽利。ずっと思ってたんだけど、なんで下の名前教えてくれないの」

 さあっと、宇曽利の耳が赤くなった。こちらを振り返りもしない。心なしか早足になっていた。いったい、どんな秘密があるというんだろうか。ちょっと聞かないほうがいい気もしてきた。

「笑うなよ」

「それ絶対笑っちゃうやつじゃないか」

 宇曽利巫女。

 それが、彼女の名前だった。観念したように教えてくれた名前は、宇曽利にぴったりの名前だった。

「ぴったりだな。宇曽利に似合う良い名前じゃないか。なんで恥ずかしがる」

「き、君がときどき無礼なのは、素直だからだろう。それは美であり、悪であり、弱点でもある。努々、つけ込まれないように気を付けるんだな」

 一瞬、なにを言っているのかと思った。たぶん、また今回のような事件に遭遇しないように気を付けろと言っているんだろう。しかし、なぜいま急にそんな話を始めるのだろうか。

 相変わらず、宇曽利は不可解なやつだった。

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