6.わたしには見えない
不思議と、気分は悪くなかった。
赤黒い泥濘のなか、俺たちはぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。腐敗し、腐臭を放ち、脈動する粘体。それは、俺であり、俺たちだ。自分の匂いで気分が悪くなるほうが、不思議だろう。不思議と、と思うほうが不思議だ。待て。なんだか混乱してきた。まあいい。いずれ、俺たちはなにも考えなくていいようになる。猛烈な孤独も、やがて消えるだろう。まだ新鮮なこの意識も、はやく腐り果ててしまえとそう願うばかりだ。
赤黒い粘体は、順番に消化されていた。より濃く沈殿した部分から、なにかに食われている。そのなにかは、幼子のようにも見えるし、老婆にも見える。粘体と同じ赤黒い体躯をもった、小さな女性であることは、間違いなさそうだった。そいつは、俺を見て舌なめずりをしている気がした。一番の好物は、あとの楽しみにとっておく。そういった、子供じみた感情が見え隠れしていた。
「■■■■!」
声が聞こえ、不意に痛みを感じた。
頭や手足を、どこかにぶつけたような、そんな痛みだ。
そして、強烈な吐き気が襲ってきた。周囲の泥濘に対する嫌悪感が加速し、腐臭に鼻をつんざかれ、吐瀉物がせり上がってくる。しかし、吐き出すことができない。俺には体がない。
いや、そんな馬鹿な。しかし、ない。体がない。でも、さきほどの痛みのおかげで、まともな意識がぼんやりとだが戻ってきた。
伝えなくてはならない。俺はここにいるぞと、あの人に伝えなくてはならない。
――あれ?――
気が付くと、俺はなんだか懐かしさを覚える部屋にいた。天井付近から部屋を見渡している。
ここは……、俺の部屋だったと思う。そうだ。俺が住んでいた部屋だ。
いまにも消えそうになる意識を、必死の思いで繋ぎ止める。甘い泥濘に誘われながら、それに抗い続け、俺は居場所を伝える手段を考えた。
なにかないだろうか。なにか、いい方法は――。
俺は部屋を見渡す。空のペットボトルが載った机。そのうえには、ノートパソコンがある。そうだ、ネットだ。メールさえ送ることができれば、伝えられる。
泳ぐように、俺は体を動かしてみる。青く沈んだ部屋の天井で、無い体を必死に動かす。ゆらゆらと漂う霧を掴んで、引き寄せる。少しずつ、俺の意識はパソコンに近づいていった。真っ青な水底のような世界で、もがいて、もがいて、ようやくノートパソコンにたどり着いた。
そのころには、なんとなく動き方のコツを掴み始めていた。
しかし、肝心のパソコンに触れることができない。LANケーブルは繋がっている。ネット回線は問題ないだろう。メールアドレスは、クラウドの電話帳が携帯電話と同期されているから、それも問題ない。相手にも俺からだと伝わるだろう。
――いいぞ。思い出してきた――
でも、触れられないのであれば、それらも意味をなさない。やたらめったら、俺は腕を振り回してみるが、掠った感触すらない。そもそも腕がないんだ。どうにもならない。
画面が割れ、埃を被ったノートパソコンと、まだ真新しいノートパソコンが、青いフィルターのなかでオーバーラップしている。それに合わせるかのように、俺の意識も明滅を繰り返した。
――考えろ。諦めるな。帰ると誓ったんだ――
ぞぞぞ、と部屋の青さが濃くなる。背後から、なにかが俺を掴んだ。振り返ると、赤黒い粘体が俺にへばり付いていた。そいつらは、俺をまた泥濘へと戻そうとする。お前はこちら側のモノだと、言われているような気がした。
――違う! 俺は……!――
俺は、なんだというのか。
真っ青なズレた世界で、青いガラスの向こうにあるパソコンに触れられない。それが、まさに此方と彼方の境目ではないか。俺は、後ろで手招く彼らと、同じ側のモノだ。なにも違わない。
――あぁ、いいよ。行こう――
また、あの泥濘に身をゆだねて、なにも考えずにいよう。孤独も、失意も、差異も、なにも感じずに済むんだから。
そのとき――。
カランコロン、と鈴が鳴った。そして、この青い世界に、薄桃色が差し込んだ。それは、容赦なく青い世界を蹂躙し、俺とパソコンの間にあった絶望的な壁をこじ開けた。
蓮の花だった。薄桃色の蓮花が、俺のために活路を開いてくれた。心なしか、青いガラスに穿たれた穴が、鳥居の形に見える。なに鳥居といったんだったか、ちゃんと聞いていなかったな、などと少し笑う余裕さえ生まれた。
しかし、時間はそんなにない。直感でしかないが、蓮花の力にも限界がある。なにがどうとは言えないが、遠すぎるんだ。いまの俺と彼らの力は、遠すぎる。
だから、俺は急いでノートパソコンの蓋を開け、メーラーを起動する。その間も、しつこく赤黒い粘体は、俺の意識をもぎ取ろうとしていた。
――■■■――
はっきりとは、わからない。でも、アドレスはこの人でいいはずだと思った。マウスを操作し、キーボードを叩く。もう、時間がない。件名は、“no subject”のまま、本文に、“203”とだけ打った。最後にマウスを引っ掴み、カーソルを“送信”に合わせ、半ば叩くようにクリックした。
――やった! これで、届く!――
俺は、再び赤黒い泥濘に引きずり込まれながら、助けてくれた薄桃色に、ずっと感謝の言葉を言い続けた。
しばらく意識がとんでいた。また、俺は俺たちになっていた。
「■■■■?」
俺を呼んでいる声に気付いた。メールが届いたんだろうか。いつから呼ばれていたのかわからない。でも、きっとそうだ。そして、俺には名前がある。それはとても大切なものだと、教えてもらった気がする。誰が教えてくれたんだったか、うまく思い出せない。
そして、気が付くと、青いフィルターのかかった部屋に浮いていた。相変わらず霧も濃く、冷ややかな世界だった。
その青い世界の水底に、ぽつりと、まるで真っ黒な墨汁の海に浮かぶ半紙のように、誰かが部屋の真ん中に佇んでいた。周囲の悪意という墨汁にさらされながら、染み込まれることのない純白の存在は、とても荘厳に見えた。
――君は誰だ――
「君は誰だ」
俺と声が重なった。その小柄な女性は、俺ではない誰かに向けて、その言葉を投げた。部屋の壁。その向こう側。彼女の視線の先には、あの怪物がいた。赤黒い粘体となった俺たちを食らう、恐ろしい化け物だ。クローゼットやら押入れやら、そんなものは関係なく、やつは粘体とともにこの部屋に染み入ってきていた。
「君は誰なんだ」
再び、白い装束の女性が、怪物に向かって問いかけた。その姿は、とても綺麗だった。
悪意に汚されることのない、純白の装束。上着の袖には白い紐が通っている。正しく折りたたまれた下半身には、やはり白い袴をはいていた。均等な長さの黒髪を束ねた頭には、立烏帽子というやつがのっている。
どれもばっちり決まっていて、神秘的な雰囲気がある。ただ、烏帽子だけは、彼女にとっては大きすぎるのか、傍目から見てもぶかぶかだ。しかし、顎紐できっちり固定してあるようで、ずり落ちたりする心配はなさそうだった。もともとは、誰か別の人が使っていたんだろうと予想できる。
この人は、誰だっただろう。わからないのか、忘れてしまったのか。それさえ判然としないが、彼女を侵食しようとしているものがいて、それが許せないと、俺のなかに湧き上がるこの感情だけは、正しく認識できた。
これほど美しいものを、汚させてなるものか。
――■■■!――
たまらず、彼女が床に手をついた。怪物が踊りかかったのだ。ぱたぱたと、鮮やかな赤色が白衣を汚す。悔しかった。俺に手伝えることはないのかと、歯がゆい気持ちでいっぱいになる。
咳き込みながらも体勢を戻し、彼女は祝詞をあげ始める。いや、祓詞というものか。正直、よくわからない。聞いたこともない言葉だったが、抑揚のついたそれは、とても心地よい。
彼女の首元に迫っていた怪物は、その言霊を前にして奇声を上げてのたうっていた。かと思えば、赤黒い粘体を掴み上げ、貪ったり、彼女に投げつけたりを始める。
赤黒い粘体がぶつかるたび、彼女は体のどこかから血の汗を流した。苦悶に眉をひそめながらも、朗々と言霊を紡ぎ続ける。手に持った扇で片目を隠しながら、彼女は一進一退の攻防を繰り広げていた。その隠された片目だけ、なぜか、この青い世界からズレているように思えた。
ふと気付くと、怪物は大きくなっている。俺が混ざりかけている赤黒い粘体は、やつのエネルギー源だとでもいうのだろうか。さきほどから、それを貪るたび、汚物の権化のような怪物は肥大化していた。
そして、彼女の倍は大きくなった怪物が、膨らんだ腹を揺さぶって、全身でぶつかっていく。
――■■■!!――
小さく悲鳴を上げて、彼女は部屋の隅まで押し飛ばされた。扇が乾いた音を立てて、廊下の向こうへと滑っていく。そして、床には彼女が流した朱色が線を引いていた。驚いたことに、彼女はその朱色で文様を描き出した。己の血で、フローリングの床に家紋のようなものを素早く描く。
――邪魔をするな!――
なお彼女に襲いかかろうとする怪物に、俺は掴みかかった。と、思う。なにせ、俺は自分がどんな状態なのかわからない。とにかく、あるはずの手足をばたつかせ、怪物に近づいて、引き倒そうとした。
そのとき、彼女の見開かれた真っ青な瞳が、俺を見た。ギ、と奇声を発して止まった怪物越しに、俺と彼女の目が合った。
「■■■■……!? 君だな! やっぱり、そこにいるんだな!? よし!」
彼女は、短冊のような長方形の紙片を胸元から取り出し、こちらには目もくれず、またも己の血で何事かを書いている。俺はその間、暴れる怪物を必死になって押さえつけた。あるのか、ないのか、判然としない全身が焼けるように痛い。無様に泣き喚きながら、それでも俺は、美しい彼女を汚すわけにはいかなくて、怪物を縫いとめ続けた。
しかし、やがて、俺の意識がぶつりぶつりと明滅し始める。もう、これ以上もちそうにない。ギャン、と一鳴きした怪物が、俺を引き剥がそうと、がむしゃらに後ろ手で俺の顔を掴んだ。めりめりと食い込む赤黒い指は、俺の右目に入り込む。目玉を抉り、かき回される激痛に、俺は絶叫を上げた。たまらず、俺は怪物を離し、天地もわからず転げまわった。視界の半分が赤黒く染まる。
――あっ……、やめろ!――
気付くと、怪物はさらに一回り大きくなっていた。半分の視界のなかで、彼女の命をもぎ取ろうとしている。だが――、
「退散せよ」
はっきりと、俺にもわかる言葉で、彼女は言った。青く燃える瞳が、怪物を睨みつけている。どこか、憐憫のような色合いが混ざっているのは、気のせいだったろうか。
「“寺山淑子”――。君は、すでにこの名を持つものではない。もう、こちら側の世界で迷うことはない。さあ、本来の流れへ、お帰り」
彼女の声は、最後、優しく諭すかのようだった。そして、血液で描いた文様のなかに、“寺山淑子”と書かれた紙片を静かに置いた。とたん、その紙片は燃え上がり、跡形もなく消え去った。
「ふぅ……」
■■■は、溜息をひとつ吐いて、ぺたんと座り込んだ。
寺山淑子といわれた怪物は、まるで泣きじゃくる子供のように、少し暴れてから紙片と同じように燃え上がって消えた。なお押さえ込もうとした俺の手のなかで、消えてなくなった。えもいわれぬ物悲しさのようなものが、俺の胸中を去来する。
「さあ、君も帰っておいで。迷わず、こちら側の世界に。もう、思い出したはずだよ」
――あ、あぁあ……――
思い出した。
「なんて顔をしてるんだ、烏森健一」
そうだ。にっこりと笑ったこいつは。
――宇曽利!!――
「そうだ。もう大丈夫だぞ。お帰り、烏森け――っ!」
そのとき、宇曽利の頬が裂けた。
ばしっと飛び散った血液は、血の汗ではない。鋭利な刃物が、彼女の皮膚と血管を裂いたのだ。振り返ると、そこには鬼のような形相の老婆が、包丁を持って立っていた。
「こ、こいつはヤバいな。君には、なにが見える?」
――なにって……。鬼婆が、お前の頬を包丁で裂いた――
「わたしには見えない」
――馬鹿な……!――
「この……、このクソガキめが……!」
婆さんは、怒りに震える手で包丁を高く掲げ、宇曽利を見下ろしている。いまにも、その凶刃は宇曽利に向かって振り下ろされんとしていた。させまいと婆さんに殴りかかるも、俺の拳は空を切るばかりだった。
「返せ! いますぐあの子を返すんだよ!」
――逃げろ、宇曽利!――
「待って、まだダメなんだ。扇は……。あぁ……、どうして!」
青い湖を取り込んだような宇曽利の瞳は、なにも見ていなかった。胡乱と揺れ動いているだけだ。手足をバタつかせ、彼女はどこかへ逃げようと、ただ壁に向かって這いずっていた。
駄目だ。そんなことは許されない。せっかく、すべてがうまく治まろうとしているのに、それは駄目だ。
婆さんはしゃがれた声で喚き散らし、気が狂ったように宇曽利を蹴りつけている。いくら老婆の蹴りとはいえ、小柄な宇曽利はゴホゴホと絶息していた。
「やめ……て」
ぜぇぜぇと息を切らせた老婆が、いよいよもって包丁を宇曽利の背中に突き立てようと、腕を振り上げた。
「返せ……、返せ返せええぇ!」
――やめろぉお!!――
「ぉおおうらぁあ!!」
声が重なった。
――え?――
雄たけびを上げ、土足で他人の家に乗り込んできた細ノッポな女が、鬼婆を張っ倒した。腰まである長いポニーテールを揺らし、宇曽利に似た眠そうな目をしたその女は、
「あんたなら、自分にも見えるすよ。寺山淑子。いよいよ、手を出したな」
そう言って、わなわなと震える婆さんを見下ろした。いつの間にひったくったのか、婆さんが持っていた包丁は、すでにポニテ女が握っていた。
「いまから来るお巡りさんは、超怖いすよ。覚悟しとくといい」
「葉月さん? た、助かりましたぁ……」
「この婆さん、合鍵持ってやがったすよ。烏森健一はビクンビクンしてるし……。間に合ってよかった。ヒヤヒヤすよ」
なに、俺、ビクンビクンしてんの?
それ大丈夫なの?
薄れていく意識のなかで、婆さんをこともなげに拘束するノッポな女と、宇曽利が仲良さそうに話しているのを見て、俺は安堵した。
こいつ、ちゃんと友達いたんだな。俺が言うのもなんだけど、いつも一人ぼっちだった彼女を思い、まったくもって場違いな嬉しさを噛み締めていた。
でも、やっぱり、ビクンビクンしてる俺のほうも気になった。
それ、放っといて大丈夫なの?