5.奪われた名前
スズメの鳴き声が、かすかに俺の意識を揺さぶった。ぼんやりとした視界が、ゆっくりと像を結んでいく。すでに、夜は明けようとしていた。
「な……」
見慣れた景色に、俺は声を失った。俺は城東ハイツの階段を上ろうとしていた。だが、おかしい。いつもの階段と少し違う。これは、隣の二○二号室の階段ではなかったか。
荒く、短くなる呼吸。その呼吸音が消えて、また、青いフィルターが、周囲の色を染め上げていく。朝もやのなか、俺の足は抗いがたい招きに誘われて、階段を一歩、また一歩と踏んでいく。
「烏森け……ち……!!」
俺を呼ぶ声が聞こえた。ざらざらとノイズが混じり、ちゃんと聞こえないが、宇曽利が俺を呼んでいた。ぐずぐずに腐敗した金属製の階段と、見慣れた少し古い金属製の階段とが、俺の視界でオーバーラップしている。その二重階段をゆっくりと上った。鉄錆の匂いが鼻を衝き、徐々になにも考えられなくなっていく、そんな気がした。
「……森健一!!」
声に引っかかって、俺はふと下を覗き込む。そこでは、微妙にズレた宇曽利が、こちらに白くて細い手を伸ばしていた。青いガラスの向こう側から、彼女は俺の腕を掴んだ。
「行くな……。烏森健……ち……!」
ぜぇぜぇと息を切らしながら、小柄な宮司は俺の名前を呼ぶ。引き剥がされるようにして、俺は城東ハイツから離れ、近くの電柱に背をあずけた。
「やっと……見つけたぞ。はぁ。人を撒くのが……うまいんだな、烏……一」
「いや、俺はなにも……」
そんなに息を切らせて、汗だくになって、俺を探していたのか。服だって、昨日見たままだ。そんなに、俺を――。
お札と、赤い文字。そして、俺の名前。
「宇曽利。お前は、俺をどうするつもりだ?」
「君を助ける!」
さっと、青い世界が引いていった。青いフィルターも、うごめく霧も、水中のような音響も、すべてぐるぐると渦巻いて掻き消えた。現実にオーバーラップしていた朽ちた建物も、幻のように渦に飲み込まれてしまう。
「烏森健一。いったいなにがあった?」
「わからない。家鳴りが聞こえて、お札を見て、呼ばれた気がした。気付いたら、ここに――」
そこで、改めて城東ハイツを見た俺は、あまりの異様に失神しかけた。
腐肉を煮詰めて溶かしたような赤黒いどろどろの粘体が、二階を覆いつくしていた。しかも、その巨大な粘体は、いまも大きさを増している。こんな場所に数ヶ月も住んでいたことを思い、俺は吐き気を堪えられなくなった。
ばしゃっと、電柱の裏に胃液を吐き出す。
「う……、うそだろ。なんだあれ」
「あ、あれも見えるのか? おかしい。早すぎる。もう、烏森健一は向こう側にいるということか」
やさしく俺の背中をさすりながら、宇曽利は恐ろしいことを口にした。
「ど、どういう……、ことだ?」
向こう側ってなんだよ。俺はまだ死んでなんかいないというのに、なんてことを言うんだ。それに――。
「なんで、ずっと俺のフルネームを呼ぶんだ?」
宇曽利は、しつこいほど俺の名前を呼んでいる。フルネームでなければ、それほど気になりはしない。なのに、なぜか彼女はフルネームを口にする。
「名前は重要なんだよ、烏森健一。この世で、人が生きるために拠って立つもの。その、もっとも基本的なものが、肉体と名前だ。名は体に魂を繋ぐんだ。それを失ってしまったら、君はいよいよヤバい。だから、わたしは忘れないように、なんども言って聞かせているんだ」
「ははっ。さすがに、記憶喪失でもないのに忘れるわけないだろう」
渾身のギャグかと思って、場違いにもに少し笑いがもれた。
「じゃあ、君の名前はなんだ。教えてくれ」
宇曽利は真顔で、俺に俺の名前を聞いてくる。
「なにを馬鹿な――」
「アレらは、まず最初に名を奪う。さあ、烏森健一。君の名前を言ってみるんだ」
ぴしゃりと叩くように、宇曽利は言った。
お前の名前はなんだ、と彼女は尋ねる。これまで、さんざんフルネームで呼んでおいて、それはおかしい。いまだって、俺の名前を呼んだ。真顔だからわかりづらいだけで、やっぱり渾身のギャグなんだろうか。いや、いくら真顔とはいえ、声に焦りがある。彼女も必死なんだ。ほかでもない、俺を助けようと必死なんだ。安心させてやらなければならない。助かるために、俺も頑張らなければならない。
だから、俺は自分の名前を口にする。幼いころから、それこそ生まれた瞬間から聞き馴染んだ、その名前。
「俺は、烏森だ。烏森……だ。烏森――」
頭から血が落ちた。自分の顔が、真っ青になっていくのを感じる。
「そ……、そんな馬鹿な」
下の名前が思い出せない。俺の下の名前は、なんだったろう。
膝が、がたがたに笑い出す。すがりつくように電柱を抱きしめて、宇曽利を見る。なんなんだこれは、と。
しかし、そこに宇曽利はいなかった。
上空にある暗い流れ。宇曽利が霊魂と呼んだ彼らが、突如、落下してきた。俺の顔を覆い、宇曽利の姿を隠す。いや、違う。俺が、上に落ちた。暗い流れで、まるで溺れているかのように息ができなくなる。かろうじて見える下方に、無様な格好で電柱に抱きついている俺と、俺になにごとか囁いている宇曽利が見えた。
たすけてくれ、宇曽利。
声は届かない。そもそも出ているか怪しい。
宇曽利の声に、俺は耳を澄ます。
「烏森■■。聞こえているか、烏森■■……!」
聞こえない。肝心な部分が聞こえない。
すると、宇曽利は俺を見た。下で震えている俺ではなく、上空で溺れている俺を見た。その、真っ青なインクを流し込んだような瞳で、俺を見上げた。あの目は、俺たちを見ることのできる目なんだと、理解した。そのとたん、強烈な恋慕にも似た感情がわきあがる。
――こっちだ! ここにいる! 俺を見てくれ! 君だけなんだ!――
声にならず、悲鳴のように叫んで、俺は宇曽利を求めた。破裂した感情が、奔流となって体中を荒れ狂う。
――寂しいんだ!――
あぁ、そうだ。寂しいんだ。俺たちは、強烈な孤独感に気付いた。彼女の瞳は、なにもなく、ただ流れているだけだった俺たちに、孤独を教えてくれた。焼き付けた。
手を伸ばす。俺たちは無数の手を伸ばす。ただひとり、俺たちを見てくれるその人に、募る想いを伝えたくて、寂しかったと伝えたくて、必死に手を伸ばした。
「烏森健一……!」
その人は、だらだらと汗のように血を流し始めた。俺たちに手を伸ばし、必死の形相で、誰かの名前を呼ぶ。
違う。違うんだ。その人じゃない。俺たちを――俺を、見て欲しいんだ。ここで、ただ流れていた俺を、掬い上げて欲しいんだ。
「くそっ、飲み込まれたか……!」
そして、その人の腕は空を切った。
俺たちの誰も、その人の手を掴むことができず、また道に沿って流れ出した。圧倒的な孤独感を抱いたまま、俺は暗い流れとなる。誰にも見えない、誰にも気付かれない、誰も見ようとしない。
やがて、流れが滞った泥濘のような場所で、俺は腐臭の中に沈んだ。
◆
あの部屋には、表札が出ていなかった。ぱっと見だったが、郵便受けにもなにも刺さっていない。お手軽かんたん安くて美味しい住人の割り出し方、それは使えない。住宅地図の類も無意味だろう。
戸籍謄本や住民票の取得、住民基本台帳の閲覧など、個人のプライバシーに関わる情報の取得は、以前にも増して難しくなった。他人がまっとうな方法でそれらを取得しようと思えば、さまざまな書類や手続きが必要になる。そしてなにより、まっとうな理由が必要だ。それこそ、刑事事件にまで発展すれば、こちら側にも権利が生まれる。しかし、悠長にそれを待ってはいられない。
ならば、まっとうではない方法はどうか。グレーゾーンを掠めるような方法はいくらでもある。しかし、それには、張り込みや尾行など時間を要するものがほとんどだ。急を要する今このとき、じりじりと調べている時間はない。
でも、我が永塚探偵事務所には、長倉入道太がついている。ブラックでもホワイトでも、ましてやグレーでもない。そもそも、色など関係がない。彼は無慈悲なジョーカーだ。
国の決めたルールであれば、それに対してもっともアクセスしやすいのは、もちろん国である。わたしは、そんな国家の猛犬が用意してくれた書類を漁っていた。
「くっそ、あの駄犬め」
まったくもって理不尽な罵倒だ。入道太さんの仕事に不備はない。でも、たまらず呟いてしまった。もし、いまのを聞かれていたら、どんな意地悪をされるかわかったものじゃない。思わず、軽く車内に盗聴器の類がないか確認してしまった。
「いや、入道太さんは悪くないす。ごめんなさい」
いちおう、どこにともなく謝った。
そのとき、背後でごそごそと動く気配がして、わたしは視線を向ける。キャロルの後部座席には、烏森健一が横たえられていた。あのあと、宇曽利さん宅で彼を預かり、後部座席に押し込んだ。この車は、前のシートを倒さないと後部座席には乗れないため、押し込むのに少し苦労した。その際、何度か彼の頭や手足をぶつけてしまったが、許して欲しい。
宇曽利さんが言うには、烏森健一の肉体は、いま空なんだそうだが、わたしにはそうは見えない。すやすやと憎たらしいくらい安らかな寝息を立てている。癖っ毛なのか、やたらモサついた頭をぽりぽりと掻きさえする。本当に、空っぽだとは思えなかった。
「いい気なもんすね……」
小柄なあの宮司が、寝ている男をひとり担いで、――途中、家人に車で拾われたとはいえ、自宅まで運んだというのだから、まったく恐れ入る。そんなことも知らずに、暢気に寝ている烏森健一に腹立たしさを覚えてしまった。しかし、彼は彼で大変な状況なのだろう。許そう。
『彼がひとりでにどこか行ってしまわないよう、見張っていてください』
宇曽利さんがそう言ったのも、寝ている彼を見ていれば、あながち的外れではないんだろうと思う。たとえ彼女の言うとおり、中身が空だったとしても、ここまで生を感じる肉体なら、起き上がってすたすたと歩き出しても不思議ではない。
わたしの仕事は、そんな彼を見張ることだ。あわよくば、殺人者を炙り出す。見張る、という部分に関して言えば、十全だ。十全すぎて、囮にさえ使えない点には、しかたなく目をつむろう。問題は、彼を殺そうとしているものを炙り出す、そちらのほうだ。
宇曽利さんは、もう一人いると言った。あの婆さんのほかに、もう一人。それが、二○二号室の住人だと、彼女は考えていた。
入道太さんから受け取った資料にもう一度、視線を落とす。それによれば、二○二号室の住人は、“寺山淑子”となっている。ところが、寺山淑子は、二○一号室にも住んでいた。あの婆さんだ。つまり、二○二号室は、あの婆さんが借りているのだ。そして、本人は二○一号室に住んでいる。不動産の書類上ではそうなっていた。
書類に記載されているのは、そのくらいだった。あとは、別の資料にある住人の簡単な家族構成くらいのものだ。寺山淑子と離れて暮らしている息子夫妻と思しき、男女。そのくらいだ。まったくもって、手詰まりだった。
『二○二号室の住人、その人の名前を調べて欲しいんです』
宇曽利さんは、わたしにそう頼んだ。そうすれば、烏森健一をもとに戻せるかもしれないし、そもそも彼がこうなってしまった原因も断てるかもしれないと、訴えた。しかし、いますぐ調べろと言われても、取れる手段は限られている。
「誰も住んでなさそうすよ……?」
ちなみに、息子夫妻の名前は伝えたが、どうやら関係ないらしく、二人の名前にはぴんときていない様子だった。
そして、彼女はいま、ここで眠っている烏森健一から連絡を受け、二○三号室にこもっている。不可解極まりないが、わたしはわたしの仕事を果たすまでである。それに全力を尽くすことが、結果的に二人を救うことになるはずだ。
「君は誰だ」
宇曽利さんの声が、片耳に装着したイヤホンから聞こえた。一体になっているマイクは、いまはオフにしてある。これがあれば、十数メールほどなら、離れていても同期をとった端末同士で暗号化された音声通信が可能だ。
念のため、彼女にはわたしと同じものを身に着けてもらっていた。なにか異変を感じたら、わたしがすぐに飛んでいけるように、マイクは常時オンにしてもらった。本当は、わたしも傍にいられたら良かったのだが、わたしがいると生者の側があまりに強くなりすぎて、死者を見失ってしまうらしかった。十人分ぐらいの活気です、と言われ、なんだか少し落ち込んでしまった。
「君は誰なんだ」
また、宇曽利さんが誰かに名前を尋ねている。
名前。
彼女は、名前は大事だと教えてくれた。名前は願いを込めて付けられるもので、意図しようがしまいが、その名前に沿って人は成長するのだそうだ。名は体を表すとは、つまりそこに由来する。とはいえ、成長するにしたがって、本人の自我が、名前に込められた願いを上回ってしまうことも多く、一概には言えないらしい。
『だって、わたし巫女だけど宮司だし』
と、宇曽利さんは笑っていた。でも、神に仕える女性という意味では、宇曽利さんの名は、見事に体を表していると思うのは、わたしが浅学だからだろうか。
そして、彼女はこうも言っていた。
『名は体に魂を繋ぐ』
名を失うと、魂は体から容易く離れるようになってしまう。逆に、名前さえ失くさなければ、やすやすと持っていかれることもない。悪霊というのは、生者の名を奪い、体から離れた新鮮な魂を食らうのが好きらしい。烏森健一は、いままさに名を奪われ、魂が彷徨っている状況だという。
「名を奪う悪霊、か……。名を奪う。名を失う。名付ける……。名付け――」
ぼんやりと、そう呟いたとき――。
不意に、わたしの脳髄を電気信号が稲妻のように轟き、怠けていた脳細胞を震わせ、叩き起こした。以前、なにかの本で読んだ無意識だか前意識だかが、怒髪天を衝くように噴きあがった。
実際、わたしも車内で立ち上がってしまい、天井に頭を強打する。痛い。だけど、そんなことはどうでもいい。頭の中の白い光を見失わないように、わたしは脳内のパズルに意識を集中した。
寺山淑子。二○一号室。二○二号室。名前。名付け親。親。子供。孫。資料。寺山淑子。
頭の中を、ひらめきの白い閃光が、曖昧に散らばった破片を次々に貫いて繋がっていく。ときおり耳に入るイヤホンからの祝詞と思しきものが、わたしの背中を押してくれているような気がした。聞いたこともない抑揚のついた言葉が、とても心地よかった。
「あぁ……。甘やかしすぎすよ、入道太さん」
ちょっと雑だけど。
わたしはシートに座りなおし、強打した頭頂部をなでながら、改めて資料を睨みつける。
寺山淑子の近親者。
そこには、名前が四つ並んでいる。とくに、続柄などは書かれていない。四つの名前と、住所が二つ。入道太さんは、時間がなかったと言っていた。わたしは、時間がなかったという先入観で、ただの誤記だと思い込んでいたが、たぶんそうじゃない。なんて無様。自分の観察力の乏しさが嘆かわしい。
寺山淑子本人の名前。息子と思しき男性の名前。息子の夫人と思しき女性の名前と、その旧姓。そして、もう一人。
おそらく、これは息子夫妻の娘だろう。そこには――、
“寺山淑子”
と書かれていた。
きっと、同じ名前なんだ。祖母と孫が、まったく同じ名前だった。今どきの普通の感性なら、両親は拒むだろう。拒まなかったのか、拒めなかったのか、自分たちの娘に、祖母とまったく同じ名前が付けられた。
悪霊はまず名を奪う、という宇曽利さんの言葉。二つの寺山淑子という名は、わたしにとって同一のものとして認識されていた。たんなる誤記だと思った。それはつまり、この孫娘と思しき人間は、名を奪われたことと同じ状態なのではないか。事実、さっきまでのわたしには、孫娘は認識されていなかった。
名を奪われ、祖母と存在が同期してしまった孫娘。鳥肌が全身を覆った。その行為が悪意をもって行われたのだとしたら、寺山淑子という祖母は、間違いなく悪霊のような人間だ。
資料によると三人は郊外に住んでおり、寺山淑子が住んでいる城東ハイツからは、かなり距離があった。しかし、二○一号室と二○二号室の住人が、どちらも書類上、寺山淑子であることと、祖母と孫の名前が同じ寺山淑子であることが、偶然とは思えなかった。
わたしは、片耳に装着した送受信機に手を伸ばす。二○二号室の住人は誰なのか。その目星がついたと、宇曽利さんに伝えるためだ。
待て。
その住人は、死者ではなかったか?
宇曽利さんを階段から突き落としたモノ。わたしには見えないモノ。
一瞬、わたしは固まってしまった。身震いが襲う。しかし、孫の寺山淑子が、死者であろうとなんであろうと、やはり、わたしには関係がない。宇曽利巫女が、彼女に見える現実で懸命に戦っている。わたしは、わたしに見える現実で対処すればいいだけのことだ。いわばこれは、こちら側の現実と、向こう側の現実との共同戦線だ。
わたしは、ぱちんっと頬を叩き、気合を入れ直す。
「宇曽利さん」
その名を告げる。二○二号室の住人の名前。寺山淑子の孫娘の名前。
「そいつの名前は、寺山淑子だ!」
その瞬間、後部座席で横たわっていた烏森健一が、大きく体を跳ねさせた。