4.通り入る悪意
「す、すまんな」
「いや、いい。こうなれば、とことん面倒を見るさ」
友達の家に行けといわれたが、俺には友達らしい友達がいなかった。さらに、無駄遣いしないようにと、銀行のキャッシュカードなどは、すべてあの部屋に置いてある。そのため、飯代とガソリン代に消えた財布の中身を補充することもできない。結局、宇曽利の家で厄介になることとなった。大好きな黄色い原付のためと、あまりお金を持ち歩かない習慣が仇となった形だ。これからは、いざというときのために、キャッシュカードくらいは持ち歩こうと心に決めた。
「しかし、普通に生きてれば、友達の一人くらいできるんじゃないのか?」
「うるさいな。いまは、いないんだ。これからできるんだよ」
「君は無礼だからな」
ぐうの音も出なかった。
「ここだ」
宇曽利が立ち止まり、俺も押していた原付を止めた。宮司だとは聞いていたが、いざ目の前で鳥居を見せられると、さすがに息を呑まざるをえない。鳥居の形なんかの知識はないが、真っ白で大きなそれは、問答無用の威容を誇っていた。
「思えば、鳥居の形って、いろいろあるよな」
「うん。これは後期形の八幡鳥居」
宇曽利は淀みなく答えた。
「お前マジだな」
「嘘だと思ってたのか。まじだぞ」
「いや、目の当たりにして改めてビックリしただけだ。……せっかくだから、参拝していこうかな」
「それがいい」
白い鳥居をくぐると、舗装された道路が遠く続いていて、まだいくつかの鳥居が見える。すでに日は落ちかけていたが、まだ暑さは十分残っていて、棒になった足にはつらい距離だ。
以前、宇曽利は、歩いて大学に通っていると言っていた。ここから大学までは遠い。俺の足が棒になるくらい遠い。信じられなかった。なにかの修行なのかもしれない。
「さっきの鳥居は、車でも通れるんだな」
「そうだな。三之鳥居の前までは、車でも行ける」
というのも、参拝した帰りらしいオジサンの車とすれ違ったからだ。速度を落として宇曽利に挨拶をしていた彼は、ものすごい笑顔だったのに対し、宇曽利はおそろしいほどの真顔で応じた。どうやら、彼女の態度は、見知った人にとっては慣れっこのようだった。
「これは、両部鳥居だ」
二つ目の鳥居は、さっきの八幡鳥居に――副柱とでもいおうか、橋のような形で左右に二つずつ小さな柱がくっついている。一つ目の鳥居とはうって変わって、目の覚めるような朱色だった。
そして、三番目の鳥居は、色と大きさこそ違えど最初のものと形が同じだ。おそらく、これも八幡鳥居だろう。
「三之鳥居は、明神鳥居だ」
「あれっ?」
「台輪があるから、台輪鳥居ともいう。後期形八幡鳥居との区別は、島木の先が垂直に切れているのか、斜めなのかが大きい。二之鳥居は斜めだから、どちらかというと明神鳥居に近い。そもそも、明神系と神明系は……、うん。面倒くさいという顔だな」
「うむ。テストにはでないな?」
俺はわざと重苦しく頷いてから、笑って見せた。
「へっへ」
宇曽利も例の笑い方をして、ぐーんと体を天に向けて伸ばした。
「テストには出ないし、知らなくったって構わないさ。わたしが思うに、宗教というのは習慣と相性がいい。なにげない日々の所作が、信仰を支える」
神様だとか、宗教だとか、そんなことを考えもしない人だって、正月になれば初詣だといって参拝に行く。赤ら顔で騒いでいる祭りが、もとをただせば神事だったりもする。それを知らなくても構わない。それでもいいんだと、宇曽利は言った。
「気付いていなくても、生活のなかに自然と存在しているんだ。たとえば、海開きや山開き。あれには安全祈願というのがあって、ちゃんと宮司が出向く。あまり神事としての側面を取り上げられることはないけど、海開きがされてない海水浴場では泳げない、というブレーキが君のなかにもあるだろ?」
「うん、ありますね」
なんでだか、俺は敬語になってしまった。
「それこそが、厄を防ぐ力になる。神事が執り行われていると知っていようが知るまいが、それは関係がない。寒いからとか、誰かに怒られるからとか、そういう間接的なブレーキであっても構わないんだ。触らぬ神に祟りなしとは、よくいったものさ。普通の事故防止にもなるしね」
この宮司が、ほかの宮司と比べて特異なのか、それとも一般的なのか、俺には比べる対象がいないからわからない。だが、彼女の真摯さは、よく伝わってきた。
「宇曽利。今日は、なんだか楽しそうだな」
心なしか、宇曽利がはしゃいでいるように感じた。
「は? そんなわけない。死にかけたやつが隣にいるというのに、それはない」
「そうか?」
「そうだし」
宇曽利は耳まで真っ赤にして、真顔ですたすたと先に歩いて行ってしまった。
「なぜ恥ずかしがるんだ……」
ひとり取り残されてしまった俺は、参拝をしたあと境内をぶらついた。すると、見事な蓮の池を見つけた。花はまだつぼみのものが多かったが、広い池に群生している蓮が、いっせいに咲き誇ったらさぞ見ものなんだろう。橙色に染まった蓮池は、まだ暑い日差しも忘れ、見入ってしまうほどに綺麗だった。
また、ここに来よう。宇曽利と一緒に、咲き誇る蓮花を見るために、また、俺はここに来る。絶対に生きて帰る。そう思った。
「烏森健一」
蓮池の中島には弁天宮があり、そこに架かる朱色の橋で佇んでいると、遠くから宇曽利が自転車をこいで現れた。どれくらい俺はここで突っ立っていたのか、宇曽利は着替えを済ませたようで、別の真っ黒な服に変わっていた。
「お前の家、自転車で行かなきゃならないくらい遠いの?」
「いや、すぐそこだ。あとで鈴谷さんという人が迎えに来てくれる。わたしは、これから会いに行かなきゃいけない人がいるんだ」
思わぬ答えが返ってきて、俺はまごついてしまう。
「わ、わかった。それで、誰に会いに……?」
正直、心細さを感じてしまった。正体のわからないものが、俺を殺そうとしている。それでも、宇曽利がいるのならどうにかなると、思い始めていた矢先だった。
「探偵だ。あ、いや、会いに行く人は、祖父の知り合いだった刑事なんだけど」
「探偵!? 刑事!?」
あの、暗くて真っ青な世界を思い出す。現実とズレてしまった世界。きっと、俺を殺そうとしているものは、ああいう世界の住人なんだろう。それに対して、探偵や刑事といった現実の申し子のような人たちが、いったいどう関わってくるというんだろうか。
「うん、そう。現世と常世という言葉を使うとして、烏森健一は現世の住人だろ?」
「そうだな。まだ死んでやるつもりはない」
「いいぞ、その意気だ。で、常世にはわたしが対処するとして、君がいる現世の対処を任せられる人が、おそらく必要になるんだ。一戸建ての家とかじゃなくて、今回はアパートという集合住宅だ。現実的なことを考えるなら、住居侵入罪なんかに問われるような場面も出てくるかもしれない」
仮に、俺の部屋だけでことが済むなら問題はないんだろう。でも、そうはならなかった場合のために、保険をかけようということだ。たしかに、そういうことならば、探偵や警察というのは、現世において、この上ない味方に思えた。
「なるほどな。しかし、宮司が探偵と一緒にお祓いか……」
「いいか、烏森健一。わたしは、人に憑く厄を祓えるのなら、十字架だって、銀の弾丸が込められた銃だって、躊躇なく握ってやる。悪魔とだって戦う」
神社の境内で宮司が放つ言葉としては、かなりかっ飛ばしている。しかし、本殿から摂社や末社にいたるまで、この神社に祀られているすべてが、彼女とともに鬨の声を上げている。そんな錯覚さえ起こす。
「頼もしい限りだよ」
「うん、任せて。君には、まだ時間がある。だが、決して気を緩めるな。それが君の戦いだ」
「わかった。……しかし、さっきの台詞、宮司としてどうなんだ」
俺は思い返して、思わず笑ってしまった。
「なんで? 君の実家には、神棚と仏壇が同居してなかったか? 神様仏様と願ったことはないか?」
「……たしかに、あるな」
「それと大差ないよ」
ハワイの神社には、天照大御神と一緒にカメハメハ大王とジョージ・ワシントンも祀られていると聞く。それを考えれば、宇曽利という宮司の懐の深さや柔軟さは、ごく自然なことのようにも思えた。たぶん、彼女ならさっきの台詞を本当に実行するだろう。必要とあらば、十字架を握って、装束姿で祝詞をあげながら、拳銃で銀の弾丸を撃ちまくるだろう。
「それじゃ、ちょっと行ってくるよ」
“普通に生きてれば、友達の一人くらいできるんじゃないのか?”
小さな背中に俺の命を背負って、常世へと向かっていった宮司を見て、俺は彼女の台詞を思い出した。宇曽利のその言葉は、俺を馬鹿にした言葉ではなかった。単純に疑問だったんだ。ズレた世界を見つめる瞳。唐突に流れ出す血。そして、厄を祓うと言ったときの決意。すべてが、普通ではない生き方だ。
ならば、なおさら、俺は生きて帰らなければならない。宇曽利をぼっちにしておくわけには、いかないじゃないか。
この神社は、宇曽利を神職の代表である宮司として、数人の神職と事務員がいるそうだ。鈴谷さんという三十代の女性は、そのなかでさまざまな雑務を担当しているらしい。物静かで上品な人だった。ちなみに、鈴谷さんは神職ではないそうだ。
道中、鈴谷さんは、宇曽利についていくつか話をしてくれた。そのなかでもっとも驚いたのが、宇曽利はすでに一度大学を卒業しているということだった。本来ならあり得ない特例中の特例で、彼女は齢十九にして神道系の大学をぶっちぎりで卒業。それから、改めて俺の通っている大学に入り直したということだった。亡き祖父の跡を継ぐため、素質はもとより、並々ならぬ努力を重ねていると、鈴谷さんは誇らしげに語ってくれた。
そして、出会って以降、宇曽利がかたくなに教えてくれない下の名前は、やはり鈴谷さんも教えてはくれない。本人から直接聞いてください、と優しげに笑うだけだった。
「万が一、なにかありましたら、社務所に誰かしら詰めておりますので、そちらにお越しください」
「はい。ありがとうございます」
ある程度のことは宇曽利に聞かされているらしく、滞りなく俺は客間らしき部屋に通された。
照明のスイッチを入れると蛍光灯が明るく瞬き、部屋の全体を照らし出す。そこは、これといってなにもない部屋だったが、古い武家屋敷の板の間のような趣があった。片隅には布団がたたまれており、窓辺には机と座椅子が設置されている。そして、机の上には、半紙のような素材のメモ帳が置かれていた。
とくにすることもなくて、俺は座椅子に腰を下ろした。ぼんやりと天井を眺めていると、蚊取り線香の匂いが漂ってきて、俺は強い郷愁につつまれる。東北の実家を思い出し、少し寂しくなった。
夏休みは実家に帰ろう。そして、あの真っ青な池を見に行こう。宇曽利の瞳のような、あの色を見に行こう。きっと、夏は鮮やかな青色をしているはずだ。まぶたを閉じて、俺は幻想的な青池を思い描く。
涼やかな早朝。あたりは朝もやに包まれて、神秘的な雰囲気だ。目の前には、澄んだ朝日が差し込む青い池。透明度が高く、水深九メートルの底まで覗き込める。ブナの根っこを掠めて、小さな魚が泳いでいる。こうして、それらの風景が目に浮かぶようだ。
ぱきっ。
ハッとなって、まぶたを開ける。俺は、真っ青な世界にいた。
揺蕩う水面のような霧が、あたりに立ち込めている。物音ひとつしない静謐な世界。宇曽利の瞳に迷い込んだような青いフィルターがかかった世界。そこで、まるで水中で聞く音のように出所の定かでない家鳴りだけが、俺の耳に入ってくる。
「やめてくれ!」
と、俺は言っただろうか。声になったのかわからない。聞こえない。
最初は、大きく分けて二種類の音があると気付いた。『ぱき、ぴしっ』という木材が軋むような音と、『りーん』という響くような澄んだ音の二種類だ。そして次に、それらには一定のリズムがあると気付いた。
ダメだ。そう言った宇曽利の声が、聞こえたような気がした。
俺は息を吸うのさえ忘れて、音の出所を探した。探して、見つけて、叩き壊してやろうと思った。
そして、探して、見つけて、俺は慄いた。
閉じられた窓。その窓枠に、風鈴が下がっている。
ぱき。ぱきん。ちりーん。ぱきっ。ぴしん。
風もないのに、霧に押されたかのように風鈴が傾いた。
「・・―・・」
駄目だ。駄目だ。
やがて、家鳴りはトンとツーに変わり始める。俺の意識が音をそう聞いているのか、実際に変わったのかは定かではない。たしかなのは、そう聞こえてしまっているということだ。
俺は知っている。モールス符号を憶えている。子供のころ、友達と憶えて遊んだ。知らない子と知っている子がいれば、それは暗号になって、かっこうの遊び道具になった。
「・・―・・」
いや、そんなアルファベットはない。数字でもない。なかったはずだ。だから、これは気のせいだ。やはり、宇曽利の言ったとおり、気にするから駄目なんだ。そう聞くから、聞こえてしまうんだ。しかし――、
「あぁ……」
溜息のような合点がこぼれた。
子供のころ、モールス信号が少しだけ流行って、僕たちは別のものを探した。聞きかじったやつらには解読されないように、探して、見つけたんだ。アルファベットではないモールス符号。
――今度も俺は、見つけてしまった。これは、和文のモールス符号だ。
「ト」
いろは順にならんだモールス符号一覧が、聞こえてくるモールス信号を聞きなれた言葉に変えていく。無駄に記憶力を発揮する自分の脳みそが疎ましい。
「ナ」
「リ」
トナリ? 隣?
隣と言われて思い出すのは、二○二号室だ。今朝、俺が返事をしてしまったという隣の部屋。このふざけた体験の元凶。
「へ」
信号は続く。
聞いてはいけない。俺は歯を食いしばって、耳を塞ぐ。顔を下に向け、必死の思いで意識を逸らそうとした。うごめく霧が、目の前をゆらゆらと通り過ぎる。その向こう側に、メモ帳が見えた。半紙を短冊形に切ったよう
「オ」
なものが、青白く机の上に見えた。なにも書かれていなかったそのメモ帳に、じわりと赤い文字が浮かび上がった。
「――っ!」
声にならない悲鳴とともに、俺は気付いてしまった。これは、お札だったんだ。メモ帳なんかじゃなかった。いまや、はっきりと
「イ」
お札に書かれた赤い文字が見える。そこには、“烏森健一”と書かれていた。俺のフルネームだ。ずっと、俺の名前を呼び続ける宇曽利を思い出した。執拗にフルネームを呼ぶ、あの宮司。宇曽利は、いったい――。
気が付けば、そのお札は、部屋のいたるところに張られていた。
「デ」