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2.藍染めの瞳

「幽霊とかのオカルト、興味あるか?」

 俺は昼飯のカツカレーをかき込みながら、目の前にいる黒尽くめの知人に尋ねてみた。当然、俺の頭にあるのは、あの家鳴りのことだ。

「ないことはない」

 はぐらかされたかな、と思った。まだ友人と呼べるほど付き合いは長くない。相手にとってもそうだろう。そんな、知人以上友人未満な男に、いきなりオカルトに興味はあるかと尋ねられれば、勘ぐるのは当然だ。きわめて怪しい。俺だったら、妙なサークルの勧誘だろうかと身構えて、興味はないと一蹴したはずだ。

「君は?」

「ん?」

「あるの、興味?」

 宇曽利(うそり)、という珍しい名前の女は、終わったと思った会話を続けてくれた。案外、良い奴なのかもしれない。宇曽利は俺と同じカツカレーを咀嚼しながら、半開きの目をこちらに向けている。

「宇曽利は、いつも眠たそうだな」

「まるで眠くない。生まれつき、こういう目なんだ。不気味だろ」

「まあな」

「君は呆れた正直者だな。いや、無礼者か」

 いずれにしろ変わってるな、と宇曽利はぼやいている。しかし、ひとを指して、“君”なんて呼ぶやつも、わりと変わっている。あまりお目にかかれない。

「で?」

 と、改めて話を戻されて、俺は気付いた。宇曽利は興味がある。霊とか魂とか、そういうオカルトの類に、彼女は興味があるとみた。

「ラップ音っていうのは、聞こえるとヤバいか?」

「家鳴りだろ」

 にべもなかった。思わず、深い意味があるのではと考えてしまうほどの即答だった。

 宇曽利は、すでに興味を失ったかのような目でカツカレーに視線を戻している。いや、そういう目をしているのは生まれつきだと言っていたか。

 とにかく、宇曽利は感情が読みづらい。眠そうな目で、いつも真顔だ。初めて会ったときもそうだった。



 ある日、俺は学内のベンチに座って、参考書を読んでいた。そこは、午後になると、ちょうどよく木陰になってすこぶる気持ちの良い場所だった。だから、俺はいつもそのベンチに居座っていた。

 すると、いつしか宇曽利がそこに現れ、俺の周りをうろちょろするようになった。だが、彼女はなにもしない。なにも言わない。能面みたいな真顔で、うろうろしているだけだった。そして、気が付けば、霧が晴れるかのようにいなくなっている。そんなことが何日か続いて、俺はついに痺れをきらした。

『あの。一応聞くけど、俺に何か用ですか?』

 近くに突っ立って、真顔でこっちを見つめていた宇曽利。俺を見ているようで、見ていないような、曖昧な視線だった。本当に、能面かと思うほど表情が変わらない。

『え、わたしが見えるの?』

 聞こえてなかったかと心配になったころ、宇曽利はそんな痛い台詞を吐いた。

 呆気にとられてしまった俺を見て、宇曽利は真顔のまま頬を紅潮させる。どうやら恥ずかしがっているらしい。

『いや、冗談なんですけどね』

 まるで冗談とは思えない能面顔で宇曽利は弁明した。あとで聞くと、あれは渾身のギャグだったと彼女はやはり真顔で答えた。

 俺が半ば占領していたベンチは、もともと、宇曽利も気に入っていた場所だったらしい。そんなわけで、ベンチの両端に居座ることになった俺たちは、なんとなくいつも一緒に昼飯を食うようになった。



「怖いと思うから、怖くなるんだ。触らぬ神に祟りなしだよ」

 そう言って、宇曽利はまた視線を落とし、もぐもぐとカツカレーを食い始める。

 大丈夫そうだ。そっけなく感じるだけで、わかりづらいだけで、宇曽利にはまだ会話をする気があるようだ。彼女と俺は、ベンチの端と端のような関係だ。遠くはないが、近くもない。距離を測りかねる。

「怖いわけじゃないんだけどなあ……」

 怖いわけではなかったが、ほとんど気にならなかった家鳴りが、意識したとたん気になってしかたがなくなった。たぶんそれも、彼女が言う、“怖いと思うから怖くなる”ってことと、ほぼ同義なんだろう。

「なあ、モールス信号って、あるだろ? たとえば家鳴りが――」

「ダメだ!」

 予想外の強い口調に、俺は驚いて宇曽利を見た。

 すると、いつの間にか、宇曽利のまぶたは見開かれていた。その吸い込まれそうな彼女の瞳から、俺は視線を外せなくなる。そうすると、だんだん視界が狭く歪んでいき、現実感が薄く引き延ばされていった。目の前の宇曽利が、目の前にいないような。そんな、ズレた感覚が襲ってくる。

「見えないものに、応じるべきではない」

 あたりの色彩が青色に滲み、肌寒さが体を覆い始める。そこに存在(・・・・・)していない(・・・・・)宇曽利(・・・)と俺だけが、この空間に存在している。それは、とても矛盾していた。しかし、その矛盾が、矛盾であるとは思えなくなる。いま俺は、たしかに矛盾であると認識している。にもかかわらず、どこかで整合性がとれているのだと感じる。

 そして、自分の感覚が、そんな風に致命的なまでにズレたというのに、微塵も変だとは思わない。それが、とてつもなく恐ろしかった。

「聞くから聞かされる。見るから見られる」

 すべて均一に見える宇曽利の長髪が、さらりと耳元からこぼれ、彼女の逸した瞳を片方だけ塞いだ。見るから見られるのだと彼女は言ったが、そんなことは無理だ。俺をとらえる宇曽利の瞳は、まるで、ガラス玉に閉じ込めた湖の底だ。仄かに暗くて、青く澄んでいる。そんな絶景を見るなというのは、酷ではないだろうか。恐ろしくも美しい空間。その発生源。

 あたりは青みを増して、薄っすらと霧が立ち込めてきたように感じる。すべて錯覚だと、頭では理解している。いや、頭が錯覚を起こしているのか。いずれにしろ、青くて静謐なこの空間は、俺が立ち入ってはいけない場所だ。怖い、と素直に思う。この場所は怖い。しかし、動けない。声も出ない。宇曽利の見開かれた瞳から、目を逸らすことができない。

「入るから入られる。呼ぶから呼ばれる」

 宇曽利の声は続く。垂れた髪などお構いなしに、宇曽利は口だけを動かしていた。口以外は、凍ったように動かない。

「応じるから、引きずり込まれる」

 駄目だ。逃げなくてはならない。もう、ここにはいられない。俺の背中は、いつの間にか冷たい汗で濡れそぼっていた。

 そして、ふとあたりを見回して、怖気が走る。俺たちがいた学び舎は、すでに朽ち果てていた。正確には、形を保ちながら崩れている。錆や蔦に侵食され、砕けたコンクリの隙間からは鉄筋が見えた。藍染めのような空間で、白いもやに包まれた食堂。すべてが、凪いだ湖の底で静止しているようだった。

「恐怖という本能に従え」

 ゆら、と宇曽利がズレる。

「怖いもの見たさなど唾棄しろ。すべては、こちらが握っている。気にしなければいい。だから――」

 すうっと、霧が晴れていった。

「君は大丈夫だ、烏森健一(からすもりけんいち)

 宇曽利の優しい声が、耳元で大きく聞こえた。掠れた、古い鈴みたいな声。それで、俺は夢から覚めた。

「な……」

 声が、しわがれた。

「なんだったんだ、いまのは?」

 そこは、がやがやと騒がしい大学の食堂に他ならず、誰も俺たちに興味を示してはいないが、二人きりではない。ちゃんと、みんなそこにいる。喧騒というものが、こうも心地よくて安心するものなんだと、俺は初めて知った。強すぎる冷房も、いまは暖かいとさえ感じた。

「いまのって……?」

 カツカレーの最後の一口を含み、もごつかせながら宇曽利が半目で俺を見ていた。いつもの目だ。見開かれた、水底のようなあの目は、そこにはもうない。あのズレた宇曽利は、もういない。

「えっと、その、なんというか……。青くて、静かで、どこかズレた……い、いや、いい。なんでもない。なに言ってんだかな、俺」

 触らぬ神に祟りなし。おそらく、それは正しい。なにせ、この数ヶ月間、俺は平穏無事である。それがなによりの証拠だ。

「ん」

 宇曽利はなんだか曖昧な返事をして、「気にしなければ、大概のことは平気さ」と言った。

 狐につままれたような心地は、いぜんとしてあった。いましがた見た、宇曽利の凍えるような瞳と、ズレた空間。なんとなく、後ろ髪を引かれるような気持ちはあった。だが、あんな恐ろしいところ二度と行きたくはないし、関わりたくもない。怖いもの見たさにも限度はある。唾棄しろと、宇曽利も言った。

「でも――、」

 やめろ。

 嫌な予感がした。宇曽利がなにかを否定しようとしている。きっと、それは、俺にとって致命的だ。そんな予感に呼応して、テーブルの下の脚が、がたがたと音を鳴らして震えだした。

「――君のそれは、もう大概ではないな」

「や……、や、やめろやめろ! なんだそれ! さっき、大丈夫って言わなかったか!? うそつきか!?」

「少し落ち着け、烏森健一」

 だらだらと嫌な汗を流す俺を見て、「へっ」と宇曽利は短い息を吐いた。

「……え? もしかして、笑ったのか、いまの?」

「うん……。取り乱し方があんまりだったから、つい笑ってしまった。ごめんなさい」

 ぺこりと、照れくさそうに頭を下げる宇曽利。こいつは、なんとわかりづらくて不可解な女か。

 焦る俺を見て、思わずといった感じで笑った宇曽利。とても笑みとはいえない代物だったが、それでも、笑いは安堵をくれる。こいつは、俺にドッキリを仕掛けたんだ。いったい、どこからがそうだったのかはわからない。でも、そうだと気付いたとたん、どっと安心感と疲労感が押し寄せて来た。

「まったく、妙な冗談はやめてくれよ。宇曽利は真顔だから、つい本気にしちゃうだろうが」

「残念ながら、まじだ。見えたんだろ? 心当たりはないか?」

「は、はは……」

 乾いた笑いがもれた。現実感に亀裂が入り、ずるずるとズレていく。その隙間から、青色が滲み出てくるような気がして、俺は恐怖を振り払うように頭を強く振った。

「いいか、烏森健一。ちゃんと思い出すんだ。たとえば、なにかに対して君は、返事(・・)をしたりしなかったか?」

 さっきから俺のフルネームを執拗に呼ぶ宇曽利の言葉で、俺は、非常にばかばかしい台詞を思い出した。

「今朝……、それらしいことを言った、と思う」

 どうにか、声を出して言葉をつむぐ。すでに、震えは脚だけにとどまらず、全身が可笑しなくらい引きつっていた。

「なんと言ったんだ、烏森健一?」

「な、なんで、名前――」

「いいから!」

 宇曽利のまぶたは、また大きく見開かれていて、その真ん中にある瞳は、青々として冷たかった。震える俺の顔を両手で掴み、宇曽利は先を促す。執拗に、俺のフルネームを呼びながら。

「朝から……」

「うん?」

 藍染めのような宇曽利の瞳は、透明で深かった。近いのか遠いのか、曖昧になる。

「朝からお盛んですな……?」

 宇曽利の瞳は、いっそう冷え込んだ。呆れたような半目になる。

「それが、君の死因となるぞ。恥ずかしくないのか」

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