1.蠢動
家鳴り、というのだったか。昼夜の温度差、乾燥などが原因で、建材が膨張収縮するときの音だときいた。
思えば、この部屋に越してきてからというもの、ずっと聞こえていたような気がする。さして大きな音ではないし、そういうこともあると知っていたし、気にしなければどうということはない。
だが、ひとたび気にしてしまうと、人はそこに意味を探してしまうんだろう。ぴったりとはまる理由を、見つけなくていい理由を、見つけてはならない理由を、探して、見つけて、はめ込んでしまう。
そして、俺は見つけてしまった。探して、見つけて、はめ込んでしまった。
俺は、完全に現実から足を踏み外した。
※
春は淑やかに後ろへ下がり、肩で熱風をきって夏がやってきた。
まだ初夏だというのに真夏日の連続で、俺は辟易しながら布団から這い出す。蒸し焼きにされそうな部屋のなか、タイマーで起動した扇風機が、むなしく熱風を送り続けていた。
「あっちぃ……」
聞いている人もいないというのに、益体のないことを言ってしまう。そういう風に仕組まれているみたいで、まるで呪いの言葉だ。俺は汗でべとついたタオルケットを蹴とばして、また、「あっつー……」と吐き捨てた。
立ち上がってカーテンを左右に引く。瞬時に、質量を持っているとしか思えない日差しが、強く目玉に射し込む。眩しさに目を細めて、いそいそと窓を開け放った。網戸越しに流れ込んできた空気は、夏の青臭い湿度を含んでいて窒息しそうだった。
むせかえる空気に、たまらず咳き込んでいると――。
ぱきん、という乾いた音がした。それをかわきりに、部屋のそこかしこで似たような音がしはじめる。金属が震えたような響く音も混ざっていた。
家鳴りだ。
俺の住む城東ハイツは、築三十年と古めだ。それゆえか、なんなのか、よく家鳴りがする。しかし、立地の良さ、間取りの良さ、家賃の安さを考えると、家鳴り程度は些事だと思えた。
親のおかげで学生にしては余裕のある俺だが、家賃は安いに越したことはない。エアコンを取り付けないのも、電気代を浮かすためだった。親がそこそこ金持ち、という足場の固いガキの涙ぐましい節約。我ながら、いい気なもんだと少し思う。
一人暮らしを初めて数ヶ月。家鳴りもたいして気にならないくらい新しい生活に馴染み始めていた。
ざらっとしたフローリングを踏みしめながら、本日の予定に頭を巡らせていたとき――。
ふと、隣の二○二号室で人の動く気配がした。
俺がいまいる六畳の洋室から、一畳ほどのクローゼットと半畳の押入れを隔てた向こう側。未だ顔を合わせたことのない隣人。生活のリズムが違うのか、夜になると気配が濃くなる気がする。俺自身、昼間は大学やバイトであまり家に居ないため、そう感じているだけかもしれない。
引っ越してきた当初、お隣さんである二○二号室へ菓子をもって挨拶に行ったことがある。一度目のノックで、すぐさま隣の婆さんが出てきた。二○一号室だ。
『いまは居ないから、あとで渡しておいてあげるよ。上がっていくかい?』
と、俺を部屋にあげて茶までご馳走してくれた。二十年くらい城東ハイツに住んでいるらしいので、ほかの住民とも顔見知りなんだろう。とても気さくで、笑顔の優しい婆さんだった。ちなみに、婆さんの部屋はうちと間取りは同じだが、そっくりそのまま反転していた。
『またいつでもいらっしゃい』
そうして婆さんの部屋を出てから、挨拶の菓子折りを渡してもらうのも変だよな、と少し後悔した。挨拶したことにはならない。とはいえ、俺はあまりマメなほうではないので、結局そのままにしておいた。
そんなことを思い出していると、不意に、どすっと壁になにかが当たったような音がする。
隣――二○二号室だ。たいした音ではなかったし、むしろ、これまでが静かすぎたくらいだ。ちゃんと誰か人が住んでいるんだな、という安心感すらわいてくる。
「はいはい。朝からお盛んですな?」
言ってしまってから、これほど馬鹿らしい台詞は人生に数度もあるまいと、ひとり恥ずかしくなった。
「アホか……。さて、大学行く準備するか」
気持ちを切り替えるように呟いて、俺は大きく伸びをした。
それから、シャワーで汗を流し、大学へ向かう準備をしていたら二○二号室の気配はすっかり薄くなっていた。ぼんやりとクローゼットの方を見つめながら髪の毛を乾かしていると、また家鳴りがした。今日は少し多い気がする。妙に気になったが、そろそろ家を出なければならない。
俺は外に出て、ちょっと立て付けの悪い玄関のドアを閉めた。鍵穴に鍵を差し込んだとき、またしても部屋から家鳴り聞こえた。
その音を聞いて、俺はハッとする。
いやまさかな、と頭を振って、いましがた思いついた気味の悪い想像を振り落とした。
「そんなわけないよな……」
俺は苦笑いをこぼして、駐輪場にとめてある原付にまたがる。部屋からもってきたヘルメットをかぶり、エンジンのスターターを押し下す。心地よい始動音と振動が体に伝わってきて、薄気味悪い非日常的な考えは、いよいよもって粉みじんに吹き飛んだ。
大好きな黄色い原付。こいつの維持費やガソリン代のために、俺はくそ暑い部屋のなかでエアコンもつけずにとろけている。
ホント、いい気なもんだ。
◆
「いい気なもんだな、葉月よ」
「いい加減、窓から入ってくるのやめてくれないすか。ここ、ビルの三階すよ」
しかも、真夜中だ。危うく少しちびりそうになった。
長倉入道太という妖怪みたいな名前の男が、わたしの目の前で脚を組んで座っている。合皮のソファーがきしりと音を立てる。身長は二メートルにも達する細ノッポだ。まさに妖怪。でも、それを本人に言うといじける。ナイーブなおっさんなど実に面倒だ。しかも、外面は豪放磊落ときているから、尚更だ。まあ、でも、べつに嫌いじゃない。
「かわいいでしょ、それ」
わたしがそう言うと、「あいつの困った顔が目に浮かぶぜ」と入道太さんは、シャチのぬいぐるみを弄びながら笑った。
あいつとは、この永塚探偵事務所の所長であり、私立探偵である永塚文人のことだろう。彼は訳あって不在なので、わたし――葉月小夜子が、この事務所の主といって差し支えないだろう。だから、ぬいぐるみ一つ飾るくらい問題ないはず。いい気なもんでもない。
「お前、水族館とか好きだもんな」
入道太さんは、弄んでいたぬいぐるみをデスクトップPCの上にちょこんと載せた。
「はい。……それで、今日はどうしたんすか?」
わたしは、背もたれの高いワーキングチェアに寄りかかり、入道太さんに本題を促した。
「葉月は、幽霊とか興味あるか?」
「は?」
だろうな、と入道太さんは苦笑いを浮かべる。わたしが、あまりにも怪訝な顔をしたからだろう。彼はコーヒーをぐいと飲み干し、ファイルケースをひとつ投げてよこした。
「危ないすよ」
わりと鋭い勢いで飛んできたケースをがっしと掴み、私は非難の声を上げる。
「殺すつもりすか」
「死なねえだろ、お前」
ファイルケースがチタン合金で、手をすり抜けて脳天に当たってめり込んだら、わたしだって死ぬ。一度、冗談で殺されかけたこともあるし、このおっさんはマジで怖いんだ。
「とりあえず見てみろ。今回はちっと胡散臭くてな。葉月ひとりになって初めてまわす仕事が、これじゃまずいかとも思ったんだが……あぁ、もう聞いてねえか」
二つのボタンをぱちんと外し、ファイルケースの中身を広げた。そこには、身辺調査がある程度まで済んだ男の情報があった。
起床時間。就寝時間。
出かける時間と場所。
通っている大学。バイト。
主に利用する移動手段や食事処。
交友関係。
出身地。
現在地。
周辺住民の情報。
……etc.
「甘やかしすぎすよ、入道太さん」
これでは、わたしが調査するまでもない。ばっちり情報が揃っている。強いて言うなら、すべてがおおよそと言わざるを得ないところだろうか。とくに、日常的な行動パターンの把握が、ほぼ推測でしか行われていない。時間が無かったのだろう。
「時間がねえから手間を省いた。俺のためでもある」
「じゃあ、この人の身辺調査をしろってわけではないんすか? 浮気調査? それとも、素行調査?」
企業やらが、採用する人間の素行を調査することはよくある。わたしたち探偵の仕事の一つだ。しかし、それが目的で、わざわざこの男がここに来るとは思えない。
「そいつ、殺されるんだってよ」
わたしはファイルケースを投げつけた。わりと鋭く、回転をかけて顔面に飛ばした。
「危ねえだろ。殺す気かよ」
「死なないでしょ」
入道太さんは、危なげなく空のファイルケースを受け止めていた。
「俺もお前も頑丈だからな。でも、この学生は死ぬんだと。しかも、殺されるんだとよ」
「殺人事件は、警察の仕事すよ」
わたしが、探偵の助手見習いとしてこの永塚探偵事務所にやってきたころ、所長に何度も言われた台詞だ。小説やドラマの探偵に憧れていたわたしは、てっきり、「犯人はアナタだ!」と言えるものだとばかり思っていた。端的に言えばアホだった。
しかし、今回は人が死ぬという。殺されるという。失踪した自殺願望者や、長年会っていない友人の捜索を頼まれることとは、わけが違う。結果、失踪人は背中にナイフを生やして死亡していました、ということは起こり得る。そこが、探偵業務の終了地点だ。事件性が生じた時点で、警察の出番となる。
そして、長倉入道太は刑事である。シルバーフレームの眼鏡をかけ、グレーの頭髪をなでている姿は、どうあがいても妖怪かインテリやくざだ。だが、彼は本物だ。本物の刑事が、私立探偵に回す仕事。それが刑事事件であるはずがない。
「まだ殺人事件じゃねえからな」
「まあ、そうすね……。つまり、護衛ってことすか?」
わたしの言葉に、入道太さんはにっこりと笑ってみせる。
「まあ、ほぼ正解だ。知ってのとおり、俺たちは事件がなきゃ動けない。この学生を殺すぞってな話なら、脅迫罪なりなんなりで、こっちでどうにでもできる。だが、今回は違う。“この人が殺されるので助けてください”ってな話だ。普通の刑事なら追い返すところだが――」
「自分の出番、というわけすか」
「そうだ。ようは見張りだな。殺される予定の男を見張って、臨機応変に対応しろ。事件性が生じたら、すぐに俺を呼べ」
この長倉入道太という男は、あらゆる武器を所有し、力を手に入れたいと願っている。そのなかでも、最たる武器が人脈だと言っていた。刑事である彼が直接手を出せないところには、永塚探偵事務所の人間が出張り、彼の武器を磨き上げるために尽力する。
この探偵事務所は、いわゆる調査業協会というものには所属していない。簡単に言えば、“安心印の探偵事務所”ではないのだ。したがって、依頼主自体が真っ黒だったりもするし、現職刑事が裏でこそこそ自分磨きに精を出すための御用達にもなる。
長倉入道太の場合、もはや依頼主などというレベルではなく、事務所の一員であり、上司でもあるといったほうが正しいだろう。
「それで、その依頼主、入道太さんがお近付きになりたいと思うほどの人物なんすか?」
「宮司だ」
「は?」
思ってもない回答に、わたしはまた怪訝な顔をさらしてしまった。
「この国に神社仏閣がいくつあると思う。数えるのも面倒なくらいある。そんなわけで、神職に貸し作っとくのも、悪くねえだろ」
「そんなこと言ってたらバチ当たるすよ、まったく……。しかし、宮司か」
「最初に言っただろ、胡散臭えって。お前、幽霊とか興味あるか?」