教え子
長らく念願していたことが実現しました。
と言っても、大したことではないのです。
そう、「病院に入る」ということです。
中学生だった頃、友人が盲腸の手術をしました。
だから、他の友人たちと誘い合って、近所にある小さい病院に、見舞いに出かけたことがありました。
ところが、入院した友人は、意外なほど、元気に私たちと接してくれました。
私は入院し、しかも、手術を受けた人なら、ベットに横たわったまま、口を聞くのもやっとの状態という思いがあったから、友人の元気な姿に拍子抜けしてしまったのです。
入院というのは、結構、気楽なものだなという感想をその時に、おそらく持ったのです。
長じて、私立学校で、教師として働くようになると、殊の外、病院へ行く機会が増えました。
生徒たちはもちろん、同僚や友人たちが、”幸運なこと”に入院したのです。私は喜んでそこへ行きました。そして、心配をし、慰め、激励をしました。
さらに、歳を経るにつれて、病院へ行くことが、気の重たいことになりました。
父の時も、叔父の時も、それは「死」を前提とした入院だったからです。あの晴れ晴れとした気持ち、快方に向かって、元気になる病人の姿を見るにのではなく、死に行く身内の姿を目にしなくてはならなかったのです。
一方、齢六十に至るまで、幸か不幸か、私自身が病院のベットに横たわることはありませんでした。
ところが、定年退職してすぐに、私の体に異常が発見されました。
医師は、その病巣の切除を強く勧めてきます。
まだ、初期段階のうちにとっておけば安心です。ただ、百パーセントというわけではないので、その点はご承知おきをと医師は言います。
私は医師の言葉を受け入れることにしました。この世に生を受けて初めて、入院手術という体験をすることとなったのです。
あの憧れに憧れた入院……です。
しかし、友人・知人にはそのことを知らせないことに決めました。
理由は、私自身がこれまで見舞ったあの無責任で、脳天気な振る舞いを嫌ったからです。
こっちはこれから人生最初の手術をするのです。
どうなるかも知れない状況の中で、友人や知人に、横たわる姿を見られたくないという思いです。散々、自分がやってきたことを、自分に対してはしてほしくないという、まことに勝手な申し分なのです。
手術は、さほど心配をすることもなく終わりました。
もっとも、全身麻酔だから、いっさいがっさい記憶はありません。気が付いたら、集中治療室に横たわり、看護師さんたちから丁重な処置をいただき、ただただそこに横たわっているだけでした。
病室に移動してからも、決まった時刻に決まった活動をします。
このような規則正しい環境に身を置いて生活をする職業に就いていたので、入院生活は私には何の苦労も必要ありませんでした。
むしろ、医師がいつ来るのかわからないとか、急に検査があるとなれば、その方が混乱をしたことと思います。しかし、病院は私の入院スケジュールをこと細かく提示してくれました。そして、そのタイムテーブルに従って治療と看護が、実に見事になされたのです。
その病院で、偶然、医師をしている教え子の一人に出会いました。
「先生ではないですか。」と病室のあるフロアーを所在なくぶらぶらする私に声をかけてくる青年がいました。
確かに、面影はあるが、それが誰だか名前が出てこないのです。
教師というのは、そういう時、自分の記憶を呼び起こすように、その人物と適度な会話を試みます。その会話から、それが誰で、どういう人物であるかの情報を収集するのです。
「いや、ご無沙汰です。」私は、面影を頼りに会話を進めていきます。
周りにいる看護師さん達もこちらを見つめています。
この患者さんは学校の先生だったんだというような顔つきです。あるいは、同じ病院で働いているこの医師にも学生時代があったんだと微笑ましく見つめる視線も感じ取れます。
「寮ではお世話になりました。」
……そうだ。寮があった。
私は、そこで土曜日の午後から日曜日の午前中まで寮監をしていた時期がある。この医師がそこにいたということは医学部現役合格を目指すクラスにいた子だ。
「大学を卒業して、なんとか医師をやっています。先生から教わった国語も大いに役立っています。」
……そうか。明らかに医学部クラスにいた子だ。確か、お父さんが病院をやっていたはずだ。教師としての記憶が、怒涛のように蘇ってきます。
「確か、お父さん、病院をやっていたよね。」
「ええ。」
「しかし、立派になったね。見違えたよ。」
次第に、入院患者から教師の姿に自分が戻っていくのを感じます。
周りにいる病院関係者も、私と医師の会話を微笑ましく見守ってくれています。きっと、私の教え子は同僚からも患者からも愛されているに違いないと私は確信しました。
教え子の医師は、私が何で入院しているのか、それがいつまで続くのかを問うことはしませんでした。問わなくても、医師であれば、それを知りうる立場にあります。それより今は、偶然の逢瀬を懐かしみ、お互いがお互いを認識するだけで十分であったのです。
私は、担当の看護師に呼ばれ、病室に戻ることになり、教え子である医師は別の看護師から声をかけられ、私たちはお互いに丁重な挨拶をしてわかれました。
病室に戻り、体温を測り、体についている管の点検をされ、幾つかの質問に答えた後、私はあの教え子の医師の姓名を、それとなくこの世話を焼いてくれている看護師から聞き出しました。
これですべての記憶がつながりました。
彼は、市内でも屈指の病院を経営している父を持ち、医学部合格を目指して、私のいた学校に入学してきたのです。
とりわけ際立った成績ではありませんでしたが、努力家で、気持ちのさっぱりとした、リーダーシップのとれる青年でした。友人関係も良く、性根の優しい生徒であったことが私の脳裏に見事蘇ったのです。
入院中、この教え子の医師に、直接診療をしてもらうことはありませんでした。しかし、何度か、私の病室に顔を出してくれるなど気を使ってくれたのです。
私が入院した病院は、大学病院でもあるので、卒業間近の医学生が度々病室にやってきました。私の病気を教材に、私の病室で、担当教官に英語で状況説明をするという女子医学生が挨拶に来たことがあります。
その女子学生が、一枚の紙を私に差し出しました。
そこには英語で、私の病状について書かれていました。
彼女の担当教官に、私の病状を英語で説明するという実践的学習のために用意されたペーパーであるというのです。
そして、その時が来ました。
驚いたことに、狭い病室に、十数人の白衣を着た人々が入ってきました。
担当医師が、協力してくれたことに感謝の言を述べると、すぐに、それは始まりました。未来の医師たらんその女子学生に、担当教官と思われる頭の禿げ上がった男性が英語で質問をしていきます。
それに対して、女子学生が難しい医学用語をスラスラと発音し、突発的な質問にも、堅実な思考の果てに見事な説明を果たしていきます。
見ていて実に気持ちのいい時間でした。
実践学習が終わった彼女が部屋を出て行く際、私に感謝の言葉をかけてくれました。
私も、”Good Job!”と声をかけました。
彼女は、嬉しそうな笑みを浮かべて、一礼して病室を出て行きました。
プロの医師になるための厳しい鍛錬が課せられているのだと私は実感しました。
きっと、私の教え子もこのような授業をしていたのだと思い、改めてその努力に敬意を表したくなりました。
というのも、私がしていた教師という職業はというと、大学で必要単位を取り、地域あるいは私学の採用試験を受けて合格すれば教師になれるのです。
もっとも、採用枠が少なく、何年も何年も採用試験を受ける人がいるのは事実ですが、医師とは雲泥の差であると痛感したからです。
同じ、人の命を預かる職とは思えない鍛錬の違いがあると……。
教師が命を預かる職と書きましたが、それに賛同しない教師も実は多いのです。いや、それを自覚しない教員といった方が適切かもしれません。
それが、そもそもの間違いであり、学校で色々な事件が起こる、それは契機となるのです。
学校で発生するとんでもない事件の多くは、教師としての自覚のなさから大体は起きます。
命を預かっているという自覚があれば、教師は、生徒第一に、仕事をせざるをえません。自分の都合で「教育という仕事」を放棄できなくなるのです。
仮に、台風が来れば、朝一番に学校に行きます。学校施設の安全を確認するためにです。子供達にとって、危険箇所がないかどうかの確認は基本中の基本です。
生徒を旅行に引率していけば、誰よりも早く食事し、一晩寝なくても生徒の安全を確保しなくてはなりません。もし、生徒を第一にしない教師がいれば、物見遊山気分で食事を楽しみ、生徒の食事状況を見ることもなく、その結果、夜の夜中に生徒が体調を崩したりもすることになるのです。
あるいは怪我もします。
悪ふざけを生徒というものは好みます。何せ、平常と違う環境下にあるのですから仕方がありません。
ですから、教師は生徒を第一に取り組まねばならないのです。
そういう教師は、口うるさくなるのが常ですが、一方で生徒との信頼が生まれるのです。責任ある大人というのは口うるさいのが当たり前です。子供達というのはそれをよく知っています。
それが教師が命を預かるということです。
医師ならなおのことです。今日は気分が乗らないから、患者を見るのはそこそこではたまったものではありません。
大学病院で働くあの教え子が、退院が近くなった頃、私の部屋を訪ねてきてくれました。
「そろそろ退院だそうですね。」にこにことした誠実そうな笑みを浮かべて、彼は言いました。
「ありがとう。お陰で、憂慮すべき事態は改善されたようだよ。」と私も言いました。
「もう安心だと担当の先生もおしゃっていましたよ。しかし、人間の体はいつ何時、何があるかわかりません。だから、先生も十分気を付けてください。暴飲暴食、不摂生は禁物です。」
いつの間にか、師弟の立場が逆転しているかのようです。老いては子に従えということかと私は思いました。
「ところで、父上の病院、そろそろ継ぐようになるのかな。」と、私は軽率にもくだらない質問をしてしまいました。
彼は、それでも嫌な顔をせず、私の目を見て返事をしてくれました。
「まだまだひよこですよ。そんなこと先の先の話で、今の時代、子だからと言って継げるものでもありません。」と。
その声を聞いて、私は微笑みました。
そして、私の終末医療を頼むよと冗談めかして、言葉を繋げました。
「無理です。」
教え子は、今度は、ぶっきらぼうに言いました。
私は子を取り上げる方ですからと……。
了