粒な罰
小雨が視線を通過する。
行き交う傘の彩りは疎らで、それだけを眺めているだけで時間の経過を忘却し、いつまでもこの駅前で突っ立っていてしまう。
「見山さん、おはよう」
呆然とした意識を振るい戻してくれたのは、同じ高校に通う中学時代からの友人、屋代さんだった。
衣替えの時期にしては些か早いにもかかわらず、振り返って見た彼女の上着は紺色のブレザーではなく、派手なピンク色の大き目なカーディガンだった。
以前から見た目を気にしている気を匂わせていたことから、こんな事態に陥ることは容易に予見できていたことだった。
「屋代さん、また先生に怒られるよ」
「だいじょーぶだって。ちゃんとカバンの中にはブレザー入ってるし、そこら辺の抜かりはないカナちゃんでしたー」
えへへ、と、わたしの心配を根こそぎに抜き取る。
そんな明るい性格が眩しく思え、時に羨ましく、時には救われたりと。折々でわたしの中の評価が移り変わる人物、それが屋代カナさん。
「ほら、早く行かないと遅刻しちゃうよ」
「うん」
屋代さんの茶色い髪がビニール傘に覆われるのを見てから、わたしもその後に続いて水色に頭上を覆われて歩き出した。
もう時期に五月にもなろうかというのに、今日は雨の所為か、いつもよりも羽織ったブレザーが疎ましくは思えない。
路面の小さな水溜りを跨ぎながら歩き進めていると、隣で次から次へと話題を代わる代わる矢継ぎ早に語っていた屋代さんの一方的なスピーカーが不意に、その鳴りを潜めた。
「屋代さん?」
口を閉じたと同時に歩みすらも滞った屋代さんを見る。するとその茶けた視線は、道先の光景を忌々しく捉えているようだった。
「また、事件かな……」
陽気なラジオパーソナリティのような声色はどこへやら。その声音は低く、これまで彼女の口から発せられてきたどの言葉よりも重厚な雰囲気を醸していた。
ただならぬ様相につられ、視線の方向を同調させてから気付いた。その先では一台のパトカーと救急車が路肩にたむろっていたのだ。
「最近、多いからさ……なんか、ごめん」
「ううん、大丈夫」
場の空気感に気を払える程度には落ち着きを取り戻せていたようで、程なくして、わたしたちは再び並んで歩き出した。
屋代さんが嫌悪する光景を脇目にした時、数人の警官と目が合った。その誰もが眼底まで窪んだような眼をしているように見え、わたしは背筋に嫌な汗が伝って行くのを感じた。
わたしの通う時網高校は県内でも並な偏差値で、名目上は進学校とも、就職斡旋に特化した学校とも言えない。取り分けて中途半端さが目立つ高校である。
しかしその半端なことが功を奏しているようで。生徒数は定員の倍近くの志願者を毎年のように集い、ひと学年でクラスが六つから七つと、この時世にしては恵まれているように感じる。
そんな大多数の中にあってもわたしと屋代さんの運は良かったようで、同じ五組になることが叶った。組分け表を前に二人で抱き合って喜んだのが、昨日のように喚起できる。
「カナちゃんのカーディガンかわいいー」
「でしょー」
社交的な屋代さんは新しい環境に対しての順応もやっぱり早く、人付き合いが並かそれ以下だと自負しているわたしは彼女の金魚のフンも同然、その後ろに着いて回るだけ。
他の人の話に相づちを打ち、タイミングを見計らって笑みを溢す。端的に言ってしまえば、今でも屋代さん以外とは上辺だけの関係。愛称でない名前もうろ覚えだ。
「そーいえばさ、最近マッポ多いよね」
「あー見る見る。ウチの近所でも多いよ」
「物騒な世の中ってやつだよねぇ」
「あんたみたいなバカが世の中語るなってーの」
「うっわ、ひっどー」
笑い合う三人とは裏腹に、それを聞いている屋代さんの表情は曇っている。今朝のこともあり、それがどうしても気になった。
「屋代さん?」
「え、なに?」
「カナちゃんの顔が怖いってぇ」
わたしの気遣いをヒメと呼ばれる子に、許可もなく冗談として変換される。良くあることだけど、今回だけは異を唱えてしまった。が、
「違くて――」
「あはは、らしくないよね。ごめんごめん」
それすらも聞き入れられなかった。
苛立ちはない。けど、例えようのない不安だけが募ったのは確かだった。決して流してはいけなかった、と重要な分岐点を誤ったような気持ちだけがシコリとなって胸に残る。
大事だと思っているから。その思いが強いからこそ、胸をつかえさせるこの異物感が不穏でならない。それを払拭する強引さを持ち合わせていない自分を、この時ばかりは恨んだ。
帰り支度をしているわたしが屋代さんを見失ったのは、日中に降り頻った雨がすっかりと止んでいるのに気付いた頃と同じだった。
窓際に置かれている萎れかけの花の水替えを行っている最中、雑多な叫び声やら笑い声が飛び交う教室や廊下の方へ振り返った時、いつもなら机の上に腰を掛けてスマホを弄っている彼女の姿がある場所にあったのは空虚。
行き場を失ったわたしの眼が辿り着いた着地点は、虚しさだけが残った場所から見てひとつ前にある自分の机。その机上に置かれたルーズリーフの一片だった。
――ごめん、ヒメたちと帰るわ。
律儀にも紙を伝える為の媒体として選択した彼女の真意は推し量ることができないが、その誠意だけはヒシヒシと伝わってくる。
入学当初から示し合わせた訳でもなく、何と無くの始発点から始まった二人で歩む帰路。ゆえに今回、彼女が犯したと思っている罪は無罪放免。お門違いの責である。
それが申し訳なく思えて、わたしの手は自然とスマホのSNSアプリを開き、屋代さんに向けてメッセージを書き込んでいた。
――わたしは大丈夫だから。
程なくしてスマホが鳴る。
――ありがと。
何気ないやり取りだったけど、この瞬間にわたしは思い及んだ。二人での帰り道はたぶん今後は無くなってしまうのかもしれない、と。
寂しさと喪失感は振るえないけど、それも仕方が無いことに違いはない。屋代さんは屋代さんで新しい環境での生活を始めたんだ。いつまでも停滞しているわたしとは違う。ただ、それだけのこと。
その日。わたしは久しく忘れていた孤独な帰路を歩み、駅までの数十分間を噛み締めながら進んだ。
家の最寄り駅は三つほど離れた位置にある三鷲駅。駅前には簡素な商店街が続き、シャッターが降りている店もチラホラと目に付く。
駅から一番近いところにこじんまりと居を構えていた玩具屋の無機質なシャッターも、気付いた時にはもう閉めたきりになっている一つだった。時が進めば移ろうのは人ばかりではなく、当たり前のようにその環境も変容していく。
何でもない当たり前の光景が、今日はどうにも目を付いてから離れることをしない。屋代さんとの一件がそうさせているのは明白で、でも、彼女の所為にしたくない自分もいて、わたしの頭の中はこれまでにない程にごっちゃごっちゃだ。
歩き進めている自覚がなくともすれ違う人と衝突しないのは不思議で、相手の方が避けてくれているのもあり、自分が無意識に避けている場面もあったりと。世の中が円滑に進んでいるように見える所以、その縮図が繰り広げられているような気がする。
無意識と意識。その両者が巧みに行き交い、それぞれが潤滑剤の役割を交互に引き受ける。そうして世界の歯車は円滑に動いている。それが世の中だ。
こんな高説ぶった物言いを披露したらきっと、ヒメに語るな、て一笑されてしまうんだろうな。
「笑える……」
小さな。本当に小さな呟きは、商店街の向こうの大通りを通過して行くパトカーだか救急車だかのけたたましいサイレンに掻き消されていくようだった。
夕暮れ時を過ぎたこと以上に空を覆い尽くす雲がそうさせているのか、大通りの道は非常に暗く感じられる。街灯なしでは寸尺先でさえも闇夜に包まれていることだろう。
露の残った枝葉が道灯りに透け、その美しさを満面なく振り下ろしてくる街路を進んでいるわたしの心は、依然として数ある星々の、その一欠片すらも見せてくれないケチな空模様と同じ。どんより、というよりはただ真っ黒。何にも見えない。
手荷物に変わった傘を何となくで引きずってみる。石畳を擦る不快な音だけが脇を通過する車の、道の窪みに溜まった水を捌ける音に紛れる。気持ちの良い音でないことが分かったので、すぐにやめた。無意味な行為の定義とは、これに則した行いを称えるのだろう。また一つ、わたしは物事を定義つけてしまった。
「何してるんだか……」
淀んだ思考はどこまでも濁るばかりで。しかし、もがくことをやめてしまえば水嵩を増した思考の湖で溺れる。が、代わりに湖は澄むことだろう。
こんな難題を突き付けられてしまうとは、今朝の薄ぼんやりとした色彩を眺め見ていた時点では到底に予想できなかった。
いつも通りがこのまま延長線状を極め、それをただ辿って行く。そんな日々が続いて行くだけだと、わたしはどこかで勘違いをしていたんだ。
それが怠惰と名付けられた原罪なら、このごった返す思考の散乱ぶりは罰に相当しているのだろうか。もしそうなら、
「随分と安っぽい罰」
その一言に尽きる。