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勇が剣  作者: 亜新ゆらら
Rain2.出会いとは、いかに。
7/23

1.その獣、凶暴につき…?





 ―――優に30分は歩いたのではなかろうか。


「どこがすぐ着くのよ…っ! めちゃくちゃ遠いっつーの…!!」


 鳥の囀りが小さな文句に返事をする中、ヘレナディアは恥も外聞もなく叫んだ。


 よくよく考えたら、関所を通って10分経っているかいないかの時間しか馬車に揺られていなかったような気がする。


 そんなので、ロンディーヌの首都なんか頭の先も見えるはずがない。


 歩き出す前に気付けたことかもしれないが、怒りに冷静さを欠いていたヘレナディアには、素直に歩くという選択しか出来なかったのは仕方ないと思う。


 ちくしょうと奥歯を噛みしめながら、最後に勝ち誇った顔を向けたあの伯父にいつか一矢報いてやると眉をつり上げて心に誓う。


 同時に、伯母に勧められた服で来なくて本当によかったと思った。


 旅に適したドレスだと言って進められたけれど、旅にドレスという名前が既に不釣り合いな気がするヘレナディアは、その申し出を丁重に断っていた。


 裾の広がりが少ないだとかなんとか言っていたけれど、締められた腰回りと引き摺りそうな裾が最早アウトだと思ったヘレナディアが選んだのは、シャツとトラウザーズだ。男物だったけれど、適当に端折ってみたら案外問題なかったのでそのまま穿いていた物と、柔らかい亜麻色のシャツだった。


 少し裾が短い上着は、それだけでは寒いだろうと思って持ってきただけだけど、着てみるとシャツだけより幾分か見栄えがよかったためそのまま着ておくことにしたものだ。


 いってみれば、単なる普段着。しかも若干男寄りの。


 それを見た瞬間ロザリアは卒倒していたけれど、涙ながらにやめろという伯母を押し切ってきて本当によかったと思う。


「―――ねえ、いい加減起きて、自分の足で歩いてよー……」


 小脇に抱えた未だ眠り続ける少し大きめの獣を揺すって、起きてと促す。


 運がいいのか悪いのか、街道を歩いているにも関わらず馬車の一輛も通らない。


 変なものを抱えて歩いているから近寄られないとかそんな理由ではなく、本当に人の影も見えなかったのだ。


 祭りだからと多く人が集まるんじゃなかったの…と人の無さに泣きそうになりながら愚痴を零すヘレナディアは気付いていなかったが、この街道は一本道だ。繋がるのはディアマンドとロンディーヌだけ。行き来がなくて、当然と言えば当然だった。


 おまけに滅多なことでは使われないその道は、街道とは名ばかりでほとんど手入れなどされていなかった。


 草は生え伸び、石やら岩やらが至る所に存在している。よく見て歩かないと躓いて転けそうなほどだったのだ。


(そりゃ、車輪の一つもぶつかって当然だわ)


 国内のことにもままならないのに、領有されていない場所など誰も手を加えたりしない。


 おまけにここは自国にほど近い――だろう――場所だ。好き好んで近づく者がいない限り自分たちで手を加えるのが筋なのかも知れないが、それさえも可能かどうかが怪しいのが自国の特徴だった。


 別に汚染されているわけではあるまいし、なんであんなに外に出ることを嫌うのかが不思議で仕様がなかった。


 だが今問題なのはそこではない。


 このままでは、ロンディーヌの関所にたどり着くのでさえ何日かかるのか分からなかった。


 ああどうしようと天を仰ぎ見ても、さんさんと輝く太陽があるだけ。


 どうにもならない事実にため息交じりに肩を落とすと、小脇に抱えた獣がもぞりと身じろいだ。


 やっと目を覚ますのかと、足を止めて抱えた獣をのぞき見るも起きる気配はなかった。まるで空気の通り道を探すかのように、その鼻からはぴすぴすと音が鳴っている。


『……ち、……が…』


 その小さな音を聞きながらじっと様子を伺っていると、ぽそりと何かを呟く声が聞こえてきた。それに呼応するかのように、へたっている耳がぴくりと弾む。


「…? なに…」


 なんだろうと顔を寄せて耳を傾けると、その小さな身体の奥でどくんと一際大きく脈打つ鼓動が、触れている手のひらから伝わってきた。


 それを不思議に思う間もなく、まるでその毛の一本一本が生きているかのようにざわざわとさざめきはじめる。


「……へ…? え、え…、うわ……う゛っ!」


 そのなんとも言えない不思議な感触に、思わずその獣を放ってしまった。


 けれどその身体から手が完全に離れる前に、勢いよく横から何かに押しのけられるような衝撃に襲われる。


「っ……!」


 ばいんと何か柔らかいものに弾かれるままに、勢いよく半身が地面と衝突する。突然の圧迫感に、けほっと咳き込んでそのまま仰向けに転がった。


 痛い…と思うより先に投げ出した四肢にずしりと重みを感じて、倒れた衝撃に反射的に瞑っていた目を見開く。


「……え……」


 そこに見えた光景に、ヘレナディアはさぁっと自身の頭から血の気が引いていくのが分かった。


 それはもう、目を開けたことを後悔するくらいに。


 音まで聞こえるんじゃないかと思うほどの勢いで引いていく血の気に、ひやりと背筋が凍ったのが自分でも分かった。


 初めに見えたのは、赤色に光る瞳の色。逆光で姿はよく見えないけれど、その黒い影は優に自分を覆い隠すほど大きくて、狼のような風体だった。


 ぎらりとした瞳に見える殺意に、ひっと喉の奥に張り付いていた悲鳴が僅かに口から零れる。


 いきなり襲われた訳の分からない状況に、頭の中は真っ白だった。


 殺気立ったその目を見ていたくなかったけれど、目を逸らすことの方が恐ろしくて瞬きも忘れて目の前の赤い瞳を見つめ返す。


 少しでも動いたらその口から覗く牙に喉を食い破られそうで、怖くて動けなかった。


「…っ」


『…血のニオイ、…が…』


 その牙の鋭さに思わずごくりと唾を飲み込むと、その風体に似合わない細い声が聞こえてきた。


 けれど、言葉と共にグルグルと鳴っている喉とその口の端からぽたりと落ちる唾液のせいで、声が細かろうが太かろうがそんなもの気にする余裕なんかなかった。


 声を発する。それだけで、今目の前にいるのが自分が抱えていた小さな獣だということは、なぜか恐怖に真っ白になった頭でも理解できた。


 そして、その生き物にとって自分は食料でしかないのだということも。


 なぜにどうしてそんなことになっているのか見当も付かないが、取り敢えずこのままではここで一生を終える結論しか待っていないということは確定している。


 ここでくたばれば、確実に骨が風化するまで放置されることが分かりきっていた。骨が残ればの話だが。


 贅沢は言わないから、死んだらせめて小さな墓くらいは作って欲しい…かもしれない。


 だからここで死ぬのは、ちょっと遠慮したい。


 引き攣りそうな頬を意識して押しとどめて、意を決してキっと瞳に力を込めてみるも、勢いだけではどうにもならないこともあるわけで。


 分が悪いなんてレベルでは言い表せない体勢に、思わず心がくじけそうになる。


 それでも覚悟を決めてぐっと腕に力を入れた瞬間、妙にゆっくりと目の前にある口が大きく開かれた。


 ああ、昔見た絵本の中の女の子は、獣に食べられる瞬間こんな気分だったのだろうか。


『グアアアアアッ』


「あああああ、でもでもやっぱりちょっとまって―――っ」


 自分が連れていた獣に牙を剝かれたのだとしてもそれは自分でまいた種だと分かっているし、そこに文句を言うつもりは微塵もないけれど。


(せめて心の準備をおおおっ)


 させてくれと願いながら、ヘレナディアはぎゅっと強く目を瞑るしか出来なかった。


 目を瞑った拍子に目尻に浮かんだ涙が少しだけ頬を伝う。


 せめてなるべく痛くありませんようにと歯を食いしばりながら念じた瞬間、ぎゅうっと上下から潰すように頭頂部と顎を圧迫された。


「―――…? って、いた…いたたたたっ、痛い!」


 がぽりとその大きな口に含まれた首から上を、食い千切るでも牙を立てるでもなくがじがじと柔く食まれる。


 刺さらなくとも、獣が顎に力を入れる度にその牙が皮膚を圧迫して痛い。地味に痛い。


 一体なんのつもりだ。


 未だぐるぐると鳴っている喉からして、これは…。


『おなかすいたぞ、なんか食いたい!』


 なんか食わせろと、その獣はヘレナディアの顔に食み付いたままもごもごと意見を述べた。


 小さな状態の時と同じような感覚でいるのか、それは遠慮の無いじゃれつきだと気付いた瞬間、当然思考が停止した。


「………」


 だから、顎を動かす度に牙が皮膚を圧迫して痛いんだってば。


「………。あほか。馬鹿なこと言ってないで、放しなさいよっ!!」


 ふっと口端をつり上げて、湧き上がる憤慨に渾身の力を込めて両腕を持ち上げる。


 思いの外容易に持ち上がった両の腕を振り上げて、毛皮に覆われているふさふさのその首を、絞めるように握る。


 そこには、遠慮など微塵もなかった。


『ちょ、ちょっとっ…しまってるよぅ』


「当たり前でしょ締めてるんだから! ったく、冗談にしてはセンス無いわよ。どけないならその毛皮っ、まるごと剥いで金貨にするわよ!」


 がしりと首を圧迫されて苦しかったのか、二度目にどけろと口にする前に食み続けていた口をぱかりと開けて、ふらふらとよろめいた。


 そのまま押しのけるように起き上がって、その首から手を放す。押されるまま数歩後退した獣はそのままちょこんとお座りをして、まるで労るように締められていた首を後ろ足で搔いている。


 その姿は、猫というより犬そのものだった。


 唯一犬と違うといえば、額辺りに背に向かって湾曲している二本の角があることだけだ。その片方は、根元近くで折れている。


 あんな角あっただろうかと首を捻りながら、その姿を観察する。


 よく見るとしっぽも二本あるし。


 小さいときは猫っぽかったのに、大きくなると犬や狼といった風体の方がしっくりくる気がする。耳やしっぽはそのままだから猫に見えないこともないが、チビの時より伸びた毛がそう見せるのだろうか。なんとも珍妙な生き物である。


 その獣は得心のいくまで首を搔いた後、まるで主の命令を待つ犬よろしくお利口にお座りをしながら、ぐああああと大きく口を開けて欠伸をした。


 それを見た瞬間、なんかもう脱力しか出てこなかった。


 はっはっと舌を出して息をしながら、つぶらな瞳を向けられると怒る気も失せるというものだ。


「……お前、大きくなれるのね…」


 それならそうと早く言ってくれとため息交じりに肩を落としながら、ヘレナディアは眉尻を下げた。


『まあな。…それよりおまえ、なんか血のニオイがするぞ』


「え…? ああ、さっき引っ掛けたからかな」


 ふんふんと匂いを嗅ぎながら、鼻を寄せてくる手を確認しようと持ち上げる。


 するとそこには酸素に触れて黒く変色している血液が、思っていたより沢山こびりついていた。


 よく見ると、一つ大きな斜傷がある。引っ掛けただけかと思っていたけど窓淵がささくれてでもいたのだろうか、それは結構深い傷になっていた。


 動かしたからか、その傷からは再び血が滲みはじめてきて傷の大きさを認識すると、なんとなく痛みも感じる気がする。


『なあなあ。ちょっとでいいからくれよ、なあ』


「はあ? なにを…?」


 匂いを嗅いでいた手から鼻を放して、じっとその手を見つめていた獣がきらきらと期待に満ちた目を向けてくる。


 なんだか嫌な予感がして身を引くと同時に、ざらりとした生暖かいものが手と、手に程近い場所にあった顔を撫でていった。


 それが舌の感触だと瞬時に理解できなくて、僅かの間思考が停止する。


「…っな、にすんだ!」


 身近に感じた獣臭にはっと我に返ったヘレナディアは、何故か羞恥を感じてかあっと頬を染めた。同時に説明できない苛立ちを感じて、ぎゅっと拳を握りしめる。


『きゅっ…』


 そのまま目の前にある鼻を横から鍵殴ると、きゃんっと悲鳴を上げて転がった。


『ひどいよっ、なんで殴るの!?』


「躾です」


『え…』


 仰向けに倒れ込んだまま殴られた場所を押さえながら文句を言う獣に、透かさず立ち上がり静かな声で上から見下ろすと、徒ならない空気を感じたのかそのつぶらな瞳は点になっていた。


「獣は最初が肝心だからな。そこへ直れ」


『え…、え…?』


 さあ覚悟しろとポキリと拳を鳴らして不敵な笑みを浮かべるヘレナディアを前に、はつられた鼻を押さえたままに獣は言葉を失っていた。


『なんで怒るんだよ…。お、おいしかったぞ? 三本のゆびに入るほどのあじだったぞ!』


「だからなんだ。それ、褒めてるつもりなの?」


 困惑しているのか、人間には理解不能なことを言い出した。なにか言わなきゃと焦ったように言葉を紡ぎ、よくわからない称賛を下さる。


 魔物と人間では感性を比較しろというのが無理なのかも知れないが、そこを褒められたところで一体何をどうしろというのか。


「私はあなたのご飯じゃないのよ。そっちがその気なら、今すぐ三枚に卸してあげてもいいけど…?」


『そ、そんなの、おまえがケガしたままほっとくのがいけないんだろ!』


「む、逆ギレか。良い度胸ね」


 ヒュッと風を切る音が聞こえる勢いで腰に差してあった長剣を引き抜くと、起き上がってがうっと吠えていた獣は毛を泡立てながら青ざめた顔をした。


『なんだよ! べつにいいじゃないか、かじったわけじゃあるまいし!』


「いいじゃないかの意味が分からない。いいわけないでしょうが!」


『なんでだよ、へるもんじゃないのに!』


「実際減ってるっつーの。出てるだろ、流れてるだろ。私の身体から出てるってことは私の身体の中からは減ってんのよ! あんたにやろうとやるまいと、同・じ・こ・と・な・の・よっ!」


 剣を握ったままびしびしっと指さしながら、言い聞かせるように一言一言を口にする。無くなること自体は同じなのだから採ってもいいという解釈が、個人的に許せなかった。


 一番許せなかったのは、人の顔を無意味に舐めたことだ。血を舐めたいだけなら手だけでいいでしょうが。手だけで。


 あの時の意味不明な羞恥を返せと念を込めて、半眼で睨めつける。


 だが、懇々と言えば言うだけ呆れと情けなさを感じて、ヘレナディアは知らずため息をついた。


「もう…つべこべ文句言ってないで、起きたならとっとと帰りなさいよ」


『いやだ! かえらないんだ!』


「はあ? なにをわがままなことを……っちょ…、いた、いたい! 食うな…っ!」


 ついて行くんだ! ともごもご言いながら飛びかかられて、再び首から上をぱくりと()まれる。口の中で反響する自分と獣の声がそのまま鼓膜に届いて、重たいほど頭に響く。


『ぜったいはなさないからな!』


 ごろごろ鳴る喉から声が直接響いてきて、その音量の大きさに思わず首を竦めてしまった。頭の中で直接声が響いているようで、正直気持ちの良いものではない。


「わか、分かったから! ちょっと放して……っ」


 食み付かれた勢いで取り落とした剣もそのままに抵抗するも、圧迫される首にひやりとした汗が背中を

伝うのが分かった。


 本人にその気は無いのかも知れないが、うっかりなんてことがないなんて言えない。いつ首から上が胴体とさよならするか、分かったもんじゃなかった。


 生きた心地がしないその状況から早く抜け出したくて、ヘレナディアは必死に相手の言葉に頷いた。


『じゃあ、つれてってくれるんだな!?』


「………」


 押し負けた空気が自分の周りにだけ充満しているようで、悔しくてすぐに言葉が出てこなかった。


 だからといって、本気で三枚に卸す気にもなれなくてその悔しさをはき出すようにひとつ息を吐く。


「……わかったよ。その代わり、条件があるわ」


 無事であることを確認するように圧迫から解放された首を撫でながら、じとりと恚恨の目を向けるものの喜び溢れているその目には通用しなかった。


 なんとも言えない敗北感に少しの憂さ晴らしを込めて、ヘレナディアはひとつふたつと数える声と同時に数え指を立てていく。


「ひとつめ、人前で喋らない。ふたつめ、人前で巨大化しない。その姿は無いものだと思うように。みっつめ、私の血肉は私のものです。許可無く手を出さないように。よっつめ――」


『おおいよ!』


「文句あるの?」


『…ないです』


「よろしい。ではよっつめ、ロンディーヌまで私を乗せて走ってくれない? おいて行かれて困ってたの。あ・な・た・の、おかげで」


『なんでおれの…、い、いいがかりでしゅ…』


 物理的な暴力よりも威圧という精神攻撃の方が、この獣相手には威力を発揮するようだ。思った以上の効果に、だらだらと汗を流すだけでなく聞き流せないほど盛大に語尾を噛んでいる。


「…ふむ、今のは単なる八つ当たりよ。気にしないで。悪いのはあの成金で脂ぎった商業馬鹿だからな。…まあ、一番の原因は私なんだろうけど…」


『…?』


 ぽそりと呟いた最後の言葉は聞き取れなかったのか、疑問に首を傾げる獣の前にしゃがみ込み、ぽんぽんと頭を撫でる。


 なにも言わずに、困ったような笑みでふさふさな頭をいつまでも撫で続けるヘレナディアに、納得できないのか獣は尚も疑問の目を向ける。


「なんでもないよ。そんなことより、きみ名前なんていうの?」


『なまえ…? なんだそれ』


「きみをきみ個人だと確立するための固有名詞のことよ。いつも、周りからなんて呼ばれているの?」


 知識があるのか無いのかいまいちつかめない発言の数々に、ヘレナディアは言葉半ばでため息を付いた。


 それでもその辺の魔物よりは知能が高いのか、こちらの言ったことはきちんと理解しているようだ。魔物…だとは思うけど、どことなくそれらしい雰囲気を感じない。


 考えてみても答えは見つからなくて、やっぱりよく分からない奴だなぁという答えにしか行き着けなかった。


 何か都合が悪いことでもあるのか、将又(はたまた)言いたくないのか、黙したままの獣の答えをヘレナディアはしゃがみ込んだまま腕を組んでじっと待ってみる。


『………イニュティル。…みんなはイニルっていってた』


 言いにくそうにぽそりと呟いた言葉は、消え入りそうなほど小さな声だった。


「………イニュティル(無価値)、ね」


 なるほど。誰が付けたのかは知らないが、なんとも皮肉の籠もった名前だなと思う。


 哀しいのか情けないのか、若しくはどちらもか。落ち込み気味に俯いて、それ以降黙ってしまった獣は、姿形は大きいままなのにしゅんとした様が小さく見えてなんだかおかしかった。


「…じゃあ、取り敢えずよろしくね。イニル」


 にこりと微笑んで、目の前にある頭を撫でる。すると、俯いたまま何か言いたげにちらりと視線を投げられて、ヘレナディアは疑問に首を傾げて無言の反問をする。


『なんで……』


 言いたくても、どう言っていいのか分からないのかもしれない。どうしてと口にしたまま、また押し黙ってしまった。


 まるで、その名前で呼ばれたくなどないと顔に書いてあるようだった。


 でも、その憾悔の気持ちを自分でもきちんと理解出来ていないのか、うまい言葉を探せずに難しそうな顔で泣きそうな目をしていた。


「……周りが個々勝手に付ける価値なんか、たいした意味は無いわよ。あなたの価値を決めるのは他人じゃないんだから。…それに、たとえなんて呼ばれていようと、そんなの別に気にする必要はないでしょう? あなたはあなたよ」


『え………』


「そんなことより、早く行こうよ。私もおなか空いてきちゃった」


 よいしょと膝を伸ばしながら、ぱんぱんと(はた)いて衣服に付いた汚れを落とす。


 両手を天にひとつ伸びをして、動かないイニルを振り返るとぽかりと呆けたまま言葉を失っているようだった。


 どうしたと疑問に眉を寄せると、イニルの口からは失笑が零れた。


 ぷふ…と笑うイニルを見ながら、動物の失笑というものを初めて見たヘレナディアは、ちょっとだけ驚く。


 動物が笑うところなど初めて見たからだ。もっと正確に言えば、人間が笑っていると認識できる笑みを動物がしたということに、だ。


『そんなこと、か……おまえ、女のくせにばくれつだな……おまけに口悪い』


「ほっとけ。…部分的に意味がよくわからないけど、立派な差別用語が含まれてますね」


 見た目は可愛いのに、喋るととんでもなく可愛くない。


 最初はあんなに鳴いて怯えて振るえていたのに、と思うとちょっとだけ騙された感が否めないがきっとこれが彼の本性なんだろう。


 やっぱり捨てようかな…と僅かに芽生えた心の声を聞かなかったことにして、ヘレナディアはその背に跨がった。





*****





 魔法大国の首都は、入り口から既に沢山の人で賑わっていた。


 荷積みの馬車を引き連れた人、旅人のような人や中には大層豪華な馬車もあった。その誰もが、町の入り口に続く橋の前で入国手続きの順番を待っているようだ。


 ロンディーヌの首都はとてもでかい。大陸一の商業都市としても有名なロンディーヌは、城よりも町の方が豪華とも言える作りをしていた。


 決して豪奢な作りではないが、活気溢れる人の多さとその広さがそう見せる原因の一つかも知れなかった。


 円状の町をぐるりと囲む泉は底に敷かれている川石が見えるほど透き通っていて、根が張っていないの

になぜか水面には花が咲いている。


 魔法のなせる技なのか管理人がいるのかは知らないが、それだけでも思わず歓声してしまう光景だった。


『おお! 見ろよすごい人だぞ!』


 大きな木の上からその様を見下ろしながら、予想に違わずイニルは喜びの声を上げた。


 イニルのお陰で街までの移動時間が大幅に短縮出来たヘレナディアは今、ロンディーヌの街から少し離れた林の中にいた。


 このまま街まで突っ込むわけにも行かず、ここからは徒歩にしようと提案して先ほどその場所へたどり着いたヘレナディアは、何を隠そう限界だった。


 人に見つかるとまずいとか言う以前に、ただただ限界だっただけ。


「……もうちょっと大人しく走れんのか………」


 揺れに揺られた頭の痛みと僅かな吐き気を感じて胸を押さえながら、ヘレナディアは青い顔で見えないイニルを睨み上げる。


 声を聞きつけて木の上から下りてきたイニルは、今はじめてその顔色に気がついたのかきょとんと首を傾げた。


『どうしたあおいぞ』


「おかげさまで…。あんなに乱暴に揺られたらどんな強い三半規管だって悲鳴を上げるわ……うぅ」


『そ、そんなにつらいのか? くるしいのか? はく? 出る? 出るのか?』


「…ちょっと黙って……」


 青い顔で弱り切ったヘレナディアに、さすがにまずいと思ったのかイニルは困ったように顔を寄せて様子を伺ってきた。


 うう…と酔った本人以上に困った顔で、大きな身体でしゅんと項垂れはじめた。


 必要以上に元気な様が一層憎らしく、恨み言を言ってやろうかと思っていたけれどそこまで素直に悄気られるとさすがヘレナディアも文句は言えなかった。


 歩いてくよりずっと早くここまで来られたことを考えると、多少は難あっても目を瞑るべきかと思ったヘレナディアは困ったように微笑んだ。


「別にそこまでじゃ…。ちょっと休んでたら治ると思うし…まあ、次からはちょっと気をつけてくれると嬉しいかな」


 項垂れた頭をぽんぽんと撫でてやると、ちらりと上目に窺い見てくる。


 おそらく今までの経緯も踏まえると、結構人の顔色を気にするタイプなのかもしれない。


 根が素直なのか人の言うことをよく聞くが、どうも目の前しか見えない性格のようで何かあったとき盲進しないかちょっと心配になってしまった。


 このまま町に連れて入っていいのだろうか。


『よし! じゃあきちんと人をのせれるようにれんしゅうするぞ。さあどうぞ』


「……今は遠慮しときます」


 乗れと座ったまま屈んで背を低くするその申し出を丁重に断って、適当な木を背に地面に座り込む。


 地に足を付いているはずなのにまだ揺れるような頭を持て余しながら、次があったときはもう少し上手に乗ろうと心に誓ったヘレナディアだった。


「――それにしても、まさかここまでとはね…」


『なにがだ?』


「人よ。さすがにあの数じゃ、すぐには入れそうにないからちょっと落ち着くまでここにいようかと思ったんだけど、次から次へと…」


 ちらりと街道を見やると、初めから多くの人が入国の順番を待っていたがそれから後も絶えることなく人はロンディーヌに向かって歩いている。


 今行っても立ち往生だと様子を見ようと思っていたのだが、この人の波は様子を見たところでどうにもなりそうになかった。


 これは見ているだけ無駄かも知れないと思ったヘレナディアは、揺れる頭が落ち着いてきたころ凭れていた木から背を浮かせた。


「よし、ここからは歩いて行くよ。ほら、縮んで縮んで」


『な、なんだ? もう休まなくていいのか?』


「ええ、もう十分。早く行かないと日が暮れる前に入れそうにないし…着いたら取り敢えず、伯父さん探さなきゃ。私帰るに帰れなくなっちゃう」


 今思い出しても忌々しいあの伯父の力を借りないと、帰る際に果てしなく困ってしまう。一応国内でヘレナディアは今、伯母の屋敷にいるということになっているのだ。ひょっこり関所の外から顔を出すわけにも行かない。


 どうあっても彼が街にいる間に捕まえておかなくてはと思ったヘレナディアは、まずはじめに彼を探すことを決めた。


 祭りまではまだ時間があるとは言え、そういえば彼の予定を全く聞いていなかったと今思い出した。いつ帰路に付くか分からない以上、一番にしないといけないのはあの伯父にきちんと帰るときのことを伝えておくことだ。


 …応じてくれるかどうかの問題は、取り敢えず今は捨て置くことにする。


 まだ彼の力を借りないといけないというのは、屈辱と言ってもいいほど煮えかえるものがあるけれど。


『…そういえば、おまえどこからきたんだ?』


「あれ言ってなかったっけ?」


『きいたおぼえもない…。ついでに“なまえ”もきいてないぞ』


「あ、そっか。ごめんごめん、私は―――」


 そこまで口にして、はたと思い至る。


 この場合、本名を名乗らない方がいいのだろうかと。


 別に彼が魔物だからとかではなく、ただ単に紛らわしいかも知れないと思ったからだ。


 いろいろと面倒なことが多いから出来ることならここから先、素性は明かしたくない。だから、本名を呼んで欲しくないと思ったのだ。


 今まで引き籠もっていた自分の名前を知っているような人はこの先行く場所ではおそらく存在しないだろうが、それでも仮にも王族が名乗りもせずに他国へお邪魔する場合変な場所で素性が明らかになると、ちょっとどころか結構面倒だ。失礼なことだと重々承知の上だが、この際仕方が無い。


 …なので、変ないざこざが起きるかも知れない可能性は、極限まで減らしたかった。


 要は、最後までばれなければ問題ないのだ。


 そう安く高をくくったヘレナディアは、しばし考えた。思案気に視線を上へ投げて、支え肘に顎に手を当てる。


「…えっと、私はディアマンドって国に住んでます。ここからずっと南にある国よ。んで、あっちに見えるのはロンディーヌって国よ。…知ってる?」


 取り敢えず自分の目的を話しておいた方がいいかと思い、いきさつを話そうとイニルに向き直って説明をする。


 だが少し話してから、獣の彼にあの国がこうでその国がどうですと言ったところでわかるのだろうかと不安になって、一端言葉を切った。


 お座りをしたままふんふんと頷くそぶりをしているが、本当に分かっているのだろうか。


『ばかにすんな、そのぐらいしってるぞ。ロンディーヌってところはマホウってのがさかんなんだろ?』


「…へー、そーゆーのは知ってるんだ」


 名前という単語すら知らなかったくせに。


 ヘレナディアが感心していると、イニルは何かを追い払うようにぷるぷると左右に首を振った。


『おれらにとって、マホウがいちばんこわいんだ。よくわからないとこからとんでくるからな。おまけにあれ。あれがあるとなんかへんなかんじするし』


「あれ?」


『あれあれ。あの上の』


 上の、と言いながらふっと顔を上げて上を向けと促される。後を追うように視線を上げると、ロンディーヌの街の上空に何か白いものが浮かんでいるのが見えた。


「なにあれ?」


『ケッカイだ。しらないのか?』


「へぇ、あれがそうなの。聞いたことはあるけど初めて見たなあ。あ、もしかしてだから城壁とかなかったりするのかな?」


 さすが魔法都市なんだな、と感心する。


 まぶしさに目を眇めながら街の上に見える白いものに目を凝らす。よく見ると何かの文字にも見えるが、手で遮っても日の光が強すぎてここからではよく分からなかった。


『よくわかんないけど、この辺にはたくさんあるぞ。あれのあるところにちかづくとみんなきもちわるいっていってたし、かこってあるなかにははいれねぇ。おれもあんまりすきじゃないし』


「あぁ~。まあ、そういうものだろうし……ん? そうなると君も入れないの?」


 なるほどと納得した後で、そういえばイニルも魔物だということを思い出した。だったら、どんなに思案したところで街には入れないのでは…と問い返す。


 先ほどはちょっと不安に思ったりもしたが、杞憂に終わったなぁと安堵していると思わぬ答えが返ってきた。


『いやへいきだ。ただ、あのなかにいるとずーっとだるいかんじはするけど』


「え…そう、なの…?」


 だからあんまりすきじゃないけど、と言いながら前足で耳を掻く仕草をなんとなしに見ながら、疑問に首を傾げる。


 どういうことなんだろうかと考え込んだけど、自分の知識不足のせいかいまいち理解できなかった。なんでもないことのように話しているが、そんなことあっていいのだろうか。


 基本的に街に張られる結界の類いは、魔物の侵入を防ぐものだ。


 どんなに小さな魔物だろうと例外はなく、結界の張られた場所には立ち入れないと聞いている。


 それとも、例外的なものが存在するのだろうか。


 ヘレナディアにとってはじめて結界というものを目にしたと同時に、イニルという例外を目の前にしたわけだが、それがそこまで驚くことなのかそうじゃないのか当然分からない。


 だが、それって結構重大なことなのでは。


 本人はあまり気にしている風ではないけれど、どうやらいつどこに行ってもそうであるらしく、彼にとって例外というのはないらしい。ということは、別に結界に不備があるわけではないのかもしれない。


 彼の体質なのかなんなのか、気になるけれど今考えたところで永遠に答えにはたどり着けない気がして、取り敢えず横に置いておくことにした。


「えっと、じゃあまあ、取り敢えず君が街に入るのは問題ないわけね? …まあ外で待っててもいいけど」


『いやだいっしょにいく。おいていく気かっ』


「…付いてきたって面白いことなんかないと思うぞ。私、べつにお祭り見に来たわけじゃないし。そもそもあんたなんでついて来たのよ」


 町に連れて入ることに僅かながらに不安を感じていたヘレナディアは、流れに流されて忘れていた疑問を思い出した。


 あの時は取り敢えず首を死守することしか考えていなかったが、よくよく思い返すとなにも聞いていないことに気がついた。


 あの時点ではヘレナディアがどこに向かっているかすら知らなかったはずだし、一体あそこまで必死に踏ん張る何がイニルの中にあったというのか。


『……はあ!? おまえがのせてはしれっていったくせにっ!』


 眉を寄せて腕を組んでいると、ヘレナディアの言葉にイニルは信じられないと反論した。


「いやいや、それはここまでの話でしょう。それだってあんたが勝手に人の血舐めるのがいけないんでしょうが。そうじゃなくて、あんたがあの街になんの用事があるのかって聞いたの。用が無いんだったらここから先、私について来る必要なんかないじゃない。…ていうかそもそも私がどこに何しに行くか知らなかったくせに、なぜ街の中まで付いてこようとするんだ。外で待てよ」


『なにしにいくかはいまもしらないぞ!』


「威張るな」


 ふんっと自信に満ちた答えを、ぴしゃりと切って捨てる。


 だからそれを今説明してたんでしょうが。


『でもついていくりゆうなら、ある!』


 ぴしゃりと切って捨てられたことなど諸戸もせず声を張るイニルに、僅かに目を見開いたヘレナディアはちょっと驚きながらも黙ってその先を待った。

 

 

 

 



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