5.光のお祭り
「――ねえ、伯母様、ちゃんと聞いてくれてるの?」
鏡の前にて両腕を広げて制止した状態で、ヘレナディアは部屋のクローゼットを漁る人に声をかける。
段々と足と腕が怠くなってきたので、鏡の前に用意されている椅子に勝手に座る。
すでに何着着せ替えられたか覚えていないくらい、あれやこれや袖を通された後なのだ。疲れても仕方ないと思う。
「聞いてるわよー、聞いてるからおとなしくしてなさい……あ、あったわ。これこれ」
適当に返事をしたこの部屋の主は、目的の物を見つけてほぼ部屋と言っていい大きさのクローゼットから出てくる。
そろそろ40のこの伯母は、年齢に見付かないほど若々しく活気溢れている。決して童顔ではないが、30と言われても納得してしまいそうなほど美しい彼女は目的の物を持ってヘレナディアの元に足を運ぶ。
「ほら、きれいでしょ? この髪飾り、一目見たときからあなたに似合うと思ったのよ」
見えるように少し持ち上げてくれたその髪留めを、鏡越しに確認する。
髪飾りと一言に言うには大きすぎるそれは、細い鎖とガラス細工が絶妙なバランスで施されていた。
プルメリアの花のような形に細工されているガラスは透き通るほどの白藍で、その花を飾るように丸いセレナイトの宝石が鏤められている。白を基調にしたそれは、自己主張が強すぎるヘレナディアの頭にも違和感なく溶け込めそうだった。
何の知識も無い自分が見ても、確かにそれはとても綺麗だった。
けれど、服にも宝石にもそれほど興味の無いヘレナディアには、正直どうでもよかった。
…やっぱり自分の話はろくに耳に入れていないようだ。
(いいけど、べつに)
「……興味ない…」
「なによ、今日は一日好きにしていいんでしょう?」
文句は言わない約束でしょう、と上機嫌に微笑んで、彼女はすでに一つに結われているヘレナディアの髪にその髪飾りを差し込んだ。
面倒くさい感情を隠しもしない半眼のヘレナディアには構いもせず、自ら飾り立てた鏡に映るその姿に満悦の笑みを浮かべた。
「ふふ、今日はとことん可愛がってあげるわ」
「……その言い方、誤解を生みます」
肩越しから顔を覗き込んで、したり顔で微笑む彼女の目が一瞬きらりと光った気がした。この着せ替え人形状態は一体いつ終わるのかと、ヘレナディアは呆れの果て御座形に相づちを打つ。
すると、何故か一瞬眉を顰めた彼女と鏡越しに目が合う。疑問に首を傾げると、いきなりするりと顎を撫でられた。
「なに……ひぇっ」
なぜか撫で方がいやらしい気がして彼女に顔を向けるも、振り向くよりも早くちゅっと音を立てて耳下腺に口付けられて、ぞわりと全身に鳥肌が立った。
ヘレナディアがびくりと肩を震わせると、彼女はまるで宥めるようにその片肩をひと撫でして、そのままするりと腕を首に巻き付けてきた。
覗き込まれることで出来る影に視線を上げると、そこには艶笑と言う表現がぴったりな顔があった。
「…誤解じゃなくて、本当にしてみる…?」
後ろから緩く抱きつかれて、その濃艶な笑みにヘレナディアは思わずごくりと生唾を飲んだ。
手を動かすことも顔を逸らすことも出来なかったヘレナディアの背中を、一体何から来るのか分からない汗が伝った。
零距離の柔らかな感触にふわりと香る匂いが相まって、頭の中が白くなる。
「え、…え………と」
一瞬白くなったその頭に、次の瞬間処理しきれないほど沢山のとりとめのない情報が脳内を一杯にする。
ぐるぐると目が回る様な感覚にあ、とかう、といった母音しか口から出てこなかった。ひくりと頬が引きつる。
「………やだ、ぐらつかないでよ」
ゆっくりと近づく濃艶な顔が突如胡乱気に目が据わり、ぱっと離れる。
「………へ…」
首に回る腕は外されないまま、近い距離で上から向けられる視線との間に、無言の空気が漂う。なんだか向けられる視線が疑わしげで、はっと我に返ったヘレナディアはとりあえず言い訳をする。
「…ぐ、ぐらついてなんかないよっ」
失礼だなと憤慨するも、なんかよく分からないけれど頬が熱かった。鏡に映る自分の顔をちらりと盗み見ると、案の定見て分かるほど赤くなっていた。
疑心の目で見られて、理不尽な居心地の悪さにそれ以上何も言葉が出てこなかった。
ちょっとだけ刺激された好奇心を見透かされた気がして、羞恥に顔がだんだんと俯いていく。
ほんのちょっとだけ興味が…、いや、ない。ないない。
あやしい妄想を追いかける頭を、ぶんっと一降りして正常に戻す。趣味の悪い揶揄いに、ヘレナディアはじろりと背後を睨める。
悪趣味だという意味が正確に伝わったかは不明だが、にやにやと笑む顔には先ほどの濃艶は綺麗に消え去っていた。
…なるほど。なんとなくだけど、男が女に艶姿を求める気持ちがちょっとだけ分かったような気がする。
あんな風に艶と微笑まれたら、湧き上がる愉悦と詬恥心を刺激されても仕方ないと思う。
熱い頬を掻きながら、ヘレナディアはそんなどうでもいいことを考えていた。
見事に父親の呼び出しをすっぽかしたヘレナディアは、本日詫びを入れに自身の伯母である彼女…ロザリアの居る屋敷に足を運んだ。
昨日きちんとドレスを着てこいと言われたため、てっきりまた見合いかなにかだと思っていたヘレナディアは重い気持ちで城に帰った後、父の元へ謝罪に行った。
すると客人であったお方は帰るどころか、何故か夕飯まで食していた。それがこのロザリアだったのだ。
まさか伯母が会いに来てくれているとは知らず、ずいぶんと申し訳ないことをしたと思ったヘレナディアは、改めて詫びを入れることを約束にその場は事なきを得た。
そして本日。
確かに、申し訳ないことをしたとは思っている。詫びの一つも入れるのが常識だ。
だが、なぜこんな理不尽な羞恥に晒されないといけない。
「…そう、残念」
それでも、揶揄っているのかなんなのか分からない顔でまたそんなことを言う伯母に、ヘレナディアは本気で呆れてしまった。
「…………ローザ伯母様、私はおもちゃじゃないのよ?」
おまけに、着せ替え人形になった覚えもない。
そういうと、きょとんと瞬くロザリアは数秒後に言葉の意味を理解したというように、その柳眉を顰めて見せた。
「だって、あなたの服のセンス見てると悲しくなってくるんだもの。せっかく綺麗な顔してるんだから、もう少し身だしなみに気をつけるべきだわ」
そんなんだから恋人の一人も出来ないのよ、と哀憐の目を向けられても大きなお世話だとしか思えない。
(どうせ変なセンスよ。ほっといてくれ)
町娘よろしい服ばかり好んで着るヘレナディアが気に入らないのか、ロザリアはむう…とふて腐れた顔で髪を弄る。
自身が着飾ることの重要性が皆無なヘレナディアは、彼女がなぜここまで自分に豪奢な服ばかり着せたがるのか分からなかった。
昔から貴婦人が好む腰を締める形のドレスは苦しくて苦手だし、ずるずると長い裾も踏んで転けそうになるから嫌いだ。リボンもフリルも大して好きじゃない彼女の服は、誰が見ても素っ気ないほどシンプルな物が多かった。
だからといって髪をきれいにして飾り付けるわけでもなく、いつも肩から流れる緑髪は素の姿のままだ。
だからこういう髪型は……。
(重くて傾く……っ)
右後頭部が重たくて、かくんと髪が一つに結わえられている方向へ頭が傾く。
みんなよくこんなにごてごてな装いで外を歩いているんだと、逆に感心する。
貴婦人が自身の足でそれほどの距離を歩いているかの真偽はさておいて、自分のような無骨な人間には華美な装いは不釣り合いな気がしてならないのだ。
「そうそう、その髪飾りあげるわ。有名な宝石商でね、今度ロンディーヌの水秦祭で店を出すって言っていたわ」
「水秦祭?」
「あら、知らないの?」
有名なのに、と笑むロザリアは部屋にある応接用の長いすに座ると、疑問に首を傾げるヘレナディアに先を紡いだ。
「三年に一回、ロンディーヌであるお祭りのことよ。ほら、あそこ言い伝えにある泉があるでしょう? その日は、その泉から祝福が受けられるって言われているの。どーゆう原理で起きてるのか分からないんだけど、その祝福の瞬間は泉が光り輝くんですって。夜でも昼みたいに明るくなるときもあるそうで、その光景がとってもきれいだといわれているの」
まるで空から星が降ってきたみたいに見えるそうよ。すてきよねと、少女のように頬を紅潮させながら言うロザリアは、自分などよりよっぽど乙女だ。
「晴れた日だと空の星がいつもよりずっと近くに見えるらしくて、すごく幻想的なんですって」
「へぇ、そうなの」
未だ嘗て泉すら見たことのないヘレナディアにはとても想像できないが、星が降ってきたような…というのは何となく分かりそうな気がした。本当にそこまでの煌めきなのだとしたら、とても幻想的な空間に違いない。
そう思うと僅かに心躍ったヘレナディアは、昨日のことを後悔していた。
そのお祭りが一週間後だとロザリアに聞いた瞬間は、本当の本気で後悔した。
もう少し早く知っていたら、クロノのロンディーヌ行きにもっと食いついて同行を要求したのに。
「ふふ、そのお祭りにはもう一つ別の言い伝えがあるのよ。言い伝えというか、まあジンクスみたいなものね。どっちかというと、その噂が元で有名になったって言った方が正しいかもね」
「ジンクス?」
「そう。その光を恋人と一緒に見ると幸せになれるって言われてるの。だから、それを見たさに各地から多くの人たちがこの時期にはロンディーヌに行くのよ」
「………ふーん、そうなんだ」
「……いま、どうでもいいって思ったわね」
「べ、べつにそんなことは…」
胡乱な眼で見られて、ヘレナディアは一瞬ぎくりと笑みが引き攣ってしまった。
別に、どうでもいいなどと思ってはいない。断じて違う。
そこまで人情を捨てているつもりなどないというのに、どいつもこいつも、失礼にもほどがある。
愛を育むのに幻想的な空間をチョイスするのは浪漫があると思うし、それを求めてはるばる三年に一度のお祭りに参加するというのは、とてもセンスがいいと思う。大いに賛成だ。
ただ、一緒に見た恋人とではなく、恋人と一緒に見ると幸せに…というということは、その幻想的な空間に日常のあれやこれやの不満はちっぽけに思えるだけの話なのでは…と思ってしまう自分は、きっと一生乙女にはなれない気がした。なりたいとも思っていないが。
確かに、その光景を見ているときは幸せを感じるだろう。なんたって貴重な光景だそうだからな。ただ、ずっとと謳わないところを見ると、言い伝えといっても案外保身的な表現なんだなと思った。
だが、それを正直に口にしてはいけないと本能が告げている。きっとおそらく、冷めているなんて表現では済まされなさそうだ。
……別に、ちょっと現実的なだけで決して人情まで捨ててはいない。……はずだ。
「そんなことより、伯母様。そのお祭りに行ったことあるの?」
ちょっと都合が悪い方向に進みそうな気がしたヘレナディアは、話を逸らすようにロザリアに問いかけた。
「わたし? 行ったことないわよ。生まれも育ちもここだしねぇ。確かに興味はあるけど…。なに? あなたも興味あるの?」
「うん。すごく」
主に祝福の方に。
そういう浪漫溢れるジンクスも嫌いじゃないけれど、今は他に優先することがある。
どういった形で祝福というものが反映されるのかは知らないが、藁にも縋りたい思いのヘレナディアにはその話は神の救いに聞こえていた。
大凡信仰厚いわけではないが、この際神でも藁でもなんでもいいのだ。
もういい加減、周りに気を遣って生活することに疲れてきてしまった。驚かないように怒こらないようにと気を遣えば使うだけ、ストレスによる破壊発動率が上がってきている気がするのは、気のせいじゃないと思う。まったくもって本末転倒もいいところだ。
「…ふーん、そうなんだ。ふーん…興味ないとか言ってたくせにねぇ…。――よし! 恋に目覚めたヘレナのために、わたし協力するわよ」
「…は…?」
なんのことだと疑問するヘレナディアを完全無視したロザリアは、完全に自分の世界だった。ぐっと拳を作り、一人勢い込んでいる。
そのあまりの勢いに、口を挟むのも忘れて唖然としてしまう。
「いいのよ! そうよね、たとえ服の趣味が明後日に向いてても一応お姫様だものね。思うように恋愛できないのよね。分かるわ!」
「………」
「いいの、いいのよ。皆まで言うな。分かってる…わたし、出来ること協力するわ!」
「………」
「そうだ、明後日ルーシアがその水秦祭のために行商に行くのよ。この際いろいろ取り寄せちゃいましょ」
例の宝石商からもなにか売ってもらおうかしら、とうきうきと思案気に宙を見るロザリアの最後の発言に、げんなりしながら聞き流していたヘレナディアが目を見開く。がばりとロザリアを振り返れば、彼女は完全に自分の世界へ心酔していてこちらへ戻ってくる気配はない。
さっき何気にディスられた気がするが、そんなの吹き飛ぶくらい今彼女はとてつもなくいいことを言わなかっただろうか。
よし。この際、些細なことには目を瞑ろう。
そう心に決めて、ヘレナディアは未だ勘違いに心躍らせている伯母に歩み寄る。にこりと笑顔を向けて、疑問に首を傾げるロザリアの肩に手を置いた。
「―――伯母様、お願いがあるの」
*****
「お気を付けて、行ってらっしゃいませ!」
馬車が動いて止まってを数回繰り返した後、関所の一際大きな扉が開く音がした。
古びた番の擦れる音は、とても耳に優しくない。
「―――案外すんなりいくものね」
大して疑われることもなく、過ぎていく関所が見えなくなった頃ヘレナディアは独りごちた。
大層な王制の割に杜撰な管理に溜息を付きそうになったが、なにもかもを完璧にするのは無理なことも分かっているため、門の番をする彼らを責めることは出来なかった。
そのお陰でこうして国の外に出られていることを考えると、自分はそこに文句を言う立場でも無い気がする。
一昨日ロザリアからロンディーヌに行商へ行くという彼女の夫の話を聞いて、無理矢理話を取り付けたヘレナディアは積み荷の中からひょこりと顔を出して辺りを見回す。
天気は良好で、そよ風が気持ちいい小春日和だった。関所付近に農村の類いは存在していないため、車輪が回る音とそれを引く馬の足音しか聞こえない。
周りは一面草原で、日の光に青々と茂る草花にヘレナディアの顔は自然と綻んでいた。
城の下にある人工林とは全く違うその緑色は、自国にだって多少は存在する。見たことあるはずの景色だが、規模の違うそれに何故か心が躍った。
「顔を出すな。見つかれば、咎めを食うのは貴方だけではないのだぞ」
わあ、と喜悦に綻ぶ顔は、同行者のその一言で不快に顰められた。
「なによ、だからちゃんと護衛で申請したらいいっていったじゃない。なのに、荷物で十分だって言ったのはそっちでしょう? 文句言わないでよ」
「無理についてきたのはどこのどなただ。申請するその身分だって誰が作ると思っている」
「それくらい自分でやるわよ」
迷惑心を隠そうともしないルーシアに、じろりと胡乱な目で睨まれてヘレナディアは負けじと積み荷に埋もれながら反論する。
結局妥協案として架空の人物設計ののち護衛役を務めるのではなく、ヘレナディアは積み荷の一つになることに決まった。馬車の後ろに取り付けられている荷箱の中から這い出ようと、顔を覗かせるために僅かに押し開けていた蓋を全開させる。
荷箱から出たヘレナディアは、ふうとため息を付いて馬車の扉を開けて車内の椅子の背に寄りかかった。
「………あのー…」
箱に入っていろと尚も文句を言うルーシアとそれでも口戦していると、御者台の方から遠慮がちに伺う声が掛かった。
「本当に、自分のことは黙っといてもらえるんですかね…?」
振り返って不安げに窓穴から車内を伺う御者は、ルーシアが行商の際によく利用する運び屋だ。
ルーシアが、余計な詮索するなと言う意味を込めていつもよりも支払いを多めにしたことが、返って彼の不安を煽ったのだろう。不安を隠しもしない顔をしていたけれど、荷箱から出てきたヘレナディアを見るや否や、納得と共に新たな不安が彼を苛めたようだった。
「大丈夫大丈夫。…伯父様が、金に目が眩んでうっかり口を滑らせない限りは」
よく分からないうちに法違反を犯していた事実に青ざめそうな御者に、ひらひらと手を振りながら平気
だとヘレナディアは言う。
関所の杜撰さ以上に、あの父親は自分のすることに大して興味などないことを知っているヘレナディアは、たかが一週間いなくなったところで気にもしないと分かっていた。
昔、癇癪を起こして城を飛び出して廃墟同然の遺跡街に居座っていた時なんて、なにも言わずに出て行ったにも関わらず一ヶ月探しにも来なかった。
おまけに、言いつけで探しに来た執事が言うことが、国王が腰痛で動けないから代わりに申請用紙に判を押せと言うものだった。
娘の失踪より仕事優先か。いや、それ以前に10歳そこらの小娘にそんなことさせるなと言いたい。
けれど、黙って消えることにより被害を被るのは探しに来なくてはいけない彼らの方だとそのとき悟ったため、黙っていなくなることはやめたけれど。
おかげで用がなければ探されないことは立証済みだった。
最近に至っては、言い付けてもきちんとこなさないヘレナディアに言ったところで無駄だと悟ったのだろう。言いつけを受けることなんか皆無だった。
だから、少しくらいいなくたって怪しまれもしない。また勝手なことをしていると、呆れられるだけだから問題ないと思う。
この伯父が、何かの拍子にうっかり喋ったりしなければ。
ちらりと横目にルーシアを窺い見ると、明らかな守銭奴扱いに気分を害したのか顰め面で煙草を吹かしている。
「貴方の無理な要求に応じてやっているというのに、ずいぶんな物言いですな。私がいつ、そのような汚い手段で金を儲けたと?」
ふん、と鼻で笑う伯父の顔は、無知な王女を嘲笑うかのように歪んでいる。それを視界にとどめた瞬間、ヘレナディアは思わず眉を寄せそうになった。
正直、こんなことがなければこの男に貸しを作るのなんか、頼まれたって御免だった。
金と女に汚いと定評のこの伯父は、叩けば埃ばかりが出てきそうな黒っぽい噂しか耳にしない。
そういえばこの間、彼が治める領地のことで妙な噂を耳にした。
それ以来、石鹸で洗うように彼の身辺を調べてみると埃どころか垢まで出てきてしまったのだ。
「………自分の私腹のために、税と称してお金を巻き上げることは卑怯汚くないんですね」
「…っ」
勉強になりました、と鼻白んだ顔で方眉をひょいと持ち上げる。背もたれに重心を預けて足を組むヘレナディアの言葉に、ルーシアの表情が一瞬凍り付いた。
「…ああ、卑怯とはちょっと違うか。いやしいことには変わらないけど、勇気はあるよな。それだけは感心するよ」
「……、根も葉もない噂ですな。…いったい誰から聞いたのかな」
明らかに気まずい空気に口を挟むことをやめた御者は、触らぬ神に祟りなしと素知らぬ顔で前を見ていた。
いきなりの追求にルーシアは強ばりながらも平静を装おうと、何度も顎にある髭を撫でている。自分より二回り以上も年下の小娘に焦りを見せるのが癪なのか、誤魔化したいのか知らないけれど、その顔はいっそ見物だった。
「聞いた? なにを言うかと思えば…聞かなくたって調べたらわかるじゃん。私を誰だと思ってるわけ? それともなんだ。気付かれないとでも思った?」
調べるのなんか簡単じゃないかと笑罵するヘレナディアが横目で睨みつけると隣からごくりと唾を呑む音がした。
「……伯父さん、金に汚いとは思ってたけど、そーゆー汚い真似する人だとは思ってなかった……っ!?」
ヘレナディアがはあとため息をつくと同時に、胸倉を掴まれて息が詰まった。反射的にその腕を握ると、服を掴んだまま拳の背で喉を押された。
「…っ、手を出すってことは、認めるのっ…?」
胸倉を掴んで、引っ張るのではなく押したところを見て、ヘレナディアは少しだけルーシアを見直していた。
壁があるときは、確かに引っ張るより押した方が効果的だ。意図的かどうかは知らないが、それは十分威力を発揮している。
「…お前に、なにが分かる」
息苦しさに、ぎっと睨み上げると思わぬ苦渋に満ちた声が降ってきた。
そこには、声に違わぬ苦辛に眉を寄せる顔があって、ヘレナディアは思わず睨むのを忘れてぽかりと呆けてしまった。
「…っ?」
「…っ!」
ヘレナディアがどう口を開いていいか分からず唖然としていると、ガンっと大きな音と共に尻が浮くほどの振動を引き起こした馬車の動きが、いきなり止まった。
意表を突かれて胸倉を掴むルーシアの手が緩んだ隙に払い落とすと、落とされた手をそのままに俯いてしまった彼との間に、微妙な沈黙が訪れた。
しばらくじっとルーシアを見るも、さっきみたいな鬼気迫るものがもう一度表に出てくることはなかった。ヘレナディアは解放された喉を撫でながら一つ咳をして、ドアを開けて外へ出ようと敷居に足をかける。
「……どうしたの?」
馬車から身を乗り出して何事か尋ねるヘレナディアに、御者は困った顔で振り返った。
「へ…あお、そ、その……っ」
「……?」
よく見ると、御者は困っていると言うより怯えた顔をしていた。
次から次へと不安がったり怯えたりと忙しい人だと思ったが、原因の半分――いや、八割だろうか――は自分だと思い至って、ヘレナディアは眉尻を下げて諦めからくるため息をついた。
「…ああ」
馬車から降りて自分で原因を探ろうと回り込むと、車輪がぶつかったらしい岩の隅に一匹の小ぶりな獣がいた。
どうやら御者は自分にではなく、この獣に怯えていたらしい。
獣を避けようと馬が曲がるままに避けたら、車輪が岩にぶつかったのだろう。相手も相手で吃驚して逃げたのはいいが、逃げた先で起きたでかい音と衝撃にまたしても驚いたようだった。その岩の影でぷるぷると震えながら威嚇している。
「…おまえ、怪我したの?」
ずいぶんと鈍くさい話だが、震えながらも威嚇に毛を逆立てる山猫のような獣に手を伸ばす。
前足が不自然に赤く染まっているように見えた気がして見てやろうとしただけだったが、ヘレナディアのその動きに今度はびくりと震え、威嚇をやめて小さく丸まった。
(なにこの生き物、かっわー!)
どうやら魔物のようだが、そのらしからぬ反応に思わずぴたりと伸ばした手をそのままに、沈んでいた気分が一転して高調した。
子供なのか、行動がいちいち小動物染みていて可愛い。
「手当てしたげる。ほーらほら怖くないよー、おいでおいで」
さっきまでの苛々なんか吹き飛んで、にこにこと手招きすると邪気がないことが分かったのかおそるおそる近づいてきたその魔物を撫でる。撫でまくる。
その勢いに怯えたのか後ずさる魔物をがしりと捕まえて、撫でる。まだ撫でる。
「はぁぁ、耳が。耳がふかふか…癒やされるーっ」
抱きしめという名の拘束を施して撫で回すヘレナディアに、完全に怯えた魔物は涙目できゅーんと力なく鳴いた後、ぷるぷると震えるだけで噛みついたりはして来なかった。
それがヘレナディアを調子付かせた原因の一つであることは事実だけど、きっとこの時魔物の方も必死だったに違いない。
得心がいくまで耳やら背中やらを撫でたヘレナディアは、やっと前足を見聞し始める。
「んー…、切れてる…けど、これさっき付いたのじゃないな。どっちかって言うと背中の方が――」
撫で回された後に身体を持ち上げられてくるくると見聞される落ちつかなさより、なにされるか分からない恐怖の方が勝ったのか、その魔物はされるがままだった。
猫のような外見に背中には小さな羽が四枚生えていて、その羽は羽毛に覆われるのではなく飛膜によって構成されていた。飛ぶことを目標にしたものでないことは見るからにだが退化したにしては妙だなと思いながら、座り込んだ自身の膝に寝かせて背中を撫でる。
さっき背中を撫でたときにも小さな切り傷を数個見つけていたヘレナディアは、その傷の付き方に違和感を覚えていた。
「…もしかして、私の所為かな……?」
先ほどの毟るような撫で方ではなくなったことに違和感を覚えたのか、眉根を寄せて申し訳なさそうに問いかけるヘレナディアに、戸惑いを見せたのは魔物の方だった。
さっきは、無意識じゃなかった。
背中を撫でながらきゅっと目を瞑るヘレナディアの脳裏に、先ほどのことが蘇った。
さっきは明らかに、退けようと意識して彼の腕を掴んだ記憶があるだけに、なんとも言えない思いが胸の内に蟠った。
明確に何をどうしようと思ったわけではないが、今までにない感覚を覚えたのは本当だった。息苦しさのあまりに放せと念じた瞬間、腕を握った掌が熱を持ったみたいに熱くなるのを感じた。
ぎゅっと瞳に力を込めた途端に起きた振動で意を削がれたため、目の前で何かが起こることはなかったけれど、あのまま苛立ちに任せて力を使っていたらどうなっていたんだろうか。
「…っ」
おそらくこの力が、刃となってものを切り裂いた瞬間を見たことがあるだけに、自分の想像にぞっとした。
(…だめだ。操れないのに、使おうとしちゃいけない)
ひやりとした感覚を振り払いたくて、手の甲で鼻根をこする。
自己防衛のためとはいえ、最初に喧嘩を売ったのは自分だ。保身に走るあまりに、深く物事を考えずに行動してしまった。
問題ないと言いながら、確かな保証が欲しかったために彼に口止めをしておきたかった。ただそれだけだったのだ。
自分の浅はかな行動のせいで、関係ない存在を傷つけたと思うと自省の念に駆られたけれど、今の自分にはその傷を癒やしてあげることさえ出来ない。
それが何より悔しかった。
「ごめんね。私じゃ、治してあげることは出来ないんだ…」
どんなに歯痒くても、今の自分にはどうすることも出来ない。
しゅんと落ち込みそうになったけれど、それより先にすることがあると気を持ち直す。せめて応急処置くらいならと魔物を抱えて馬車の戸口まで戻ると、馬を宥めている御者と目が合った。
「ひっ! あ…赤目…っま、魔物…っ!」
御者台から下りて馬の顔を撫でていた彼は、ヘレナディアが抱えている獣を見て瞬時に魔物だと悟った。
古くからの言い伝えに“紅き血潮の眼見えし世界、異界よりの呼び声なり”というものがあって、魔物だと判別する術はその目の色にあった。
いまいち意味の分からない内容だが、どうやら今のところどの魔物も違わず赤い目をしているところから、人々の中で瞳の色は一つの判断材料となっていた。
「こんなちっちゃいのに怯えないでよ。こいつ何もしてないでしょ。ほーら、おとなしくてかわいいぞ?」
ほらほらと両手で魔物を抱えて御者の前に差し出すと、撫でていた馬の顔に力一杯抱きついて悲鳴を上げた。
「いやああぁぁ! こっちこないでくださいぃぃ!!」
驚きに離れろと頭を振る馬を諸戸もせず叫ぶ御者に、馬も馬で抱きつかれたとき以上の勢いでふん縛る御者に怯えて動けなくなっていた。
そのあまりの剣幕に、そんなのでよく今まで運び屋などやっていたんだと驚き呆れたヘレナディアは、数歩下がって間を取りながら魔物を抱え直す。
「わ、わかった。わかったから! それより、薬と包帯ちょうだい。あるでしょ?」
「へ…? も、もしかしてさっきので怪我しちゃったんですか?」
「…っ、え、と…そういうわけじゃ……」
自分の力で他者を傷つけたことを指摘されたと思ったヘレナディアは、ぎくりと肩を強ばらせた。
どうしようと言い訳を考えていると、さっさと荷に積んであった救急箱を取ってきた御者が若干距離を置きながらも手当てしようと手を差し出してきた。
「見せてください。どこですか?」
「へ…あ、うん。はい」
あんなに怯えていたのに、魔物でもなんでも怪我をしたものに対して優しい対応にヘレナディアは少し嬉しくなった。
だが、どうやらそれは意思の疎通が図れていなかっただけだったらしい。はい、と抱えていた魔物を差し出すと、座ってこっちを見上げていた彼の顔が凍り付いた。
「なんでそれ出すんですか! あ、あっち持ってってくださいよ!」
「手当てしてくれるんでしょ? ほらここよここ」
両手で前に差し出したまま、前足をちょいっと持ち上げてここだと促す。すると御者は、一瞬何のことか分からないという顔でぽかんとした。
「怪我って…これのこと…ですか……?」
「他になにがあるの」
「なにって…さっきの振動で怪我しちゃったのかと思って…。あなたが」
「私平気よ? 尻がちょっと痛かっただけで、なんともない。…たぶん」
「し……そうですか」
それはなによりです、と言って肩すかしを食らった御者は大きなため息をついた。
「と、とにかく。魔物なんか、手当てする必要なんかないでしょう。逆に…っ、お、襲われたらどうするんですか! 早く捨てるか退治してくださいよ…っ」
救急箱の蓋をパタンと閉めて、箱を抱えて怯えながら後ずさる御者の目は魔物に釘付けだった。
いきなり飛びかかってこないかと、じっと視線を外さない御者に魔物がきゅーんとひと鳴きする。
その鳴き声にすらひいっと悲鳴を上げる彼に、これ以上を求めるのは酷だと思ったヘレナディアは箱をよこせと手を差し出した。
「襲ってきてないのに退治する必要なんかないでしょ。自分でやるから、それちょうだい」
はじめからよこせと言ったのに…、とじとりと御者を睨めたヘレナディアは少し乱暴に御者から救急箱を奪い取り座り込む。
背中には薬を塗るだけにして、前足の傷はよく分からなかったけれど薬を塗って包帯で巻くだけにしておく。
さっき威嚇していたときはきちんと足を踏ん張っていたように見えたので、折れてはいないだろうと思ったヘレナディアは、人間の療法が効くかは不明だが取り敢えず処置をした。
「ちょっ、ちょっと……」
「よし。取り敢えずこれで大丈夫。驚かせてごめんね。さ、仲間のところにお帰り」
最後に頭をひと撫ですると、気持ちよさそうに目を細める魔物を撫で回したくなる衝動を抑えて、ヘレナディアはにこりと微笑んだ。
「え!? 帰すんですか!?」
「いや、………帰したくない。飼いたい……かわいい…」
「はあ? かう? え、それって愛玩の飼う? え? なに考えてるんですか、魔物ですよ! …て、そうじゃなくて!! そいつが―――」
仲間を呼んで襲ってくるとも限らないのだとちょっと驚くほどの剣幕で叫ぶ御者に、頬を紅潮させながらも困り顔で魔物の頭を撫でていたヘレナディアは少し気圧されてしまった。
そうなったらそうなったとき考えたらいいというヘレナディアは、彼がそこまで拒む理由がよく分からなかった。
別にいいじゃないかと言おうとしたとき、ぼそぼそと聞き取れないほど小さな、子供のような声が聞こえてきた。
「なに…?」
なんだろうと首を傾げるヘレナディアの膝に前足を乗せてきた魔物に気がついて、顔を向けると今度ははっきりと聞こえてきた。
『あ、ありがと…う』
「…!」
「!? しゃ、ぁっ……――!!!」
伏せ耳気味で恐る恐るといった様子で発せられた声の持ち主は、目の前にいる魔物だった。
人語を解す魔物を初めて見たヘレナディアはもちろん、御者に至っては声もなく驚いておりその顔は驚きのあまり蒼白だった。今にも倒れるのではないかと言うほど動揺した御者は、予想に反せずそのままぺたりと座り込んでしまった。
「……おまえ、人間の言葉が分かるの…?」
『う、うん。…すこしだけど』
「そうか。…ところで、おまえはどこから来たの?」
初めこそ驚いたものの、意思の疎通が可能なのが便利なことには変わりない。そう思い至ったヘレナディアは、若干警戒しながらも膝に半身を乗せたままのその頭を撫でながら質問をした。
平然と魔物と会話をするヘレナディアを見た御者は異質なものを見る目をしていたけれど、視界にいない彼のその表情にヘレナディアが気付くことはなかった。
『あっちからきた』
あっちと言いながら顔を向ける方向にヘレナディアが視線を向けるも、そこには平原があるだけで穴ぐらや山は見当たらなかった。
「…あっち、ね…。でも、ここは危ないよ。一人で戻れるなら早く戻ったほうがいい。もし人間に見つかったりしたら、殺されちゃうわ」
『そ、そうなのか…?』
適当な答えに半眼で呆れたヘレナディアが頬を掻いて事実を指摘すると、未だ怯えが最前線を行く魔物が膝に乗せた前足に力を込めて、身を乗り出してきた。
だがすぐに、しゅんと落ち込んだ様に俯く。その仕草からはまるで、きゅーんという落ち込んだ声が聞こえてくるようだった。
『おれ…やだ。かえらない』
そのままぽろぽろと涙を流し始めた魔物を見て、俺ってことは雄なのかーとヘレナディアは何故かどうでもいいことを思っていた。
『みんな、おれのこといじめるんだ。おれがなんにもできないから…。おれが、ことばをしゃべるから』
おれのことがきらいなんだぁー、とぽろぽろ涙を流しながら子供のように泣く魔物を、流石のヘレナディアもどうしたらいいのか分からなくて困却する。
子供のように…というか、実際には本当に子供なのかも知れないその魔物は、さんざん泣いた後寝息を立て始めた。
「……………どうする…?」
「し…知りませんよ……」
ちらりと御者を振り返ると、これまたヘレナディアと同じく呆然とした答えが返ってきた。
何気に最後の言葉が気になったけれど、当の本人――本魔?――は泣き疲れたのか安らかに眠っている。ヘ
レナディアは埒が明かない現状に、片掌で目を覆うとため息をついた。
何をどうするのが正しいのかは分からないが、一つだけ言えることがあった。
今ここでこの魔物を捨て置くことは、まるで親が子供を砂漠に捨てるのと同意だと思い至ってしまったが故に、意味のない罪悪感が生まれてしまったことだ。
確かに見てくれは小動物のようで可愛らしいが、事実先ほどの話によるとこの魔物にはおそらく群れがある。御者の言うとおり、群れを成して襲ってくる可能性だってあるのだ。
自身がその被害者になるなら仕方ないだろうが、関係ない人間が被害に遭うことを思うとヘレナディアも容易な答えが出せなかった。
うーん、と考え倦ねいたヘレナディアがそれでも絞り出した答えは、御者が予想していながらも選ばないで欲しいと祈っていたものだった。
「しかたない…連れて行くか」
信じていないわけではないが、信じたわけでもない。だが、その辺にいる魔物とはどこか違う気がしたヘレナディアは、自分の勘を信じることにした。
「で、でも―――」
「だから貴方は、疫病神だと言われるんだ」
「……あ?」
寝覚めが悪いからと言う理由で導き出した答えに、御者が困惑しながらも異議を唱えようとしたとき、今更なタイミングで馬車の中から文句が聞こえた。
「悪いが、そのような得体の知れないものを連れて行くつもりなら、ここで下りていただこう」
「はぁ?」
悠々と腕と足を組んで今更意見を述べるルーシアに、ヘレナディアがむっと眉を寄せて文句を言おうと口を開くも、その声が口から出る前に遮られた。
「そんなもの…、触るのすら汚らしい。…ああ、似たもの同士で気が合うのか」
どちらも野蛮そうだからなと鼻で笑うその顔は、悪いなど微塵も思っていないことが手に取るように分かった。
一体自分がどれだけ小綺麗だと思っているのかしらないが、なんとも失礼な物言いだ。
どこまでも人を食った顔に、その鼻っ柱をへし折ってやりたい衝動に駆られたが今そんなことをするわけにはいかないと、ぎゅっと拳を握ってやり過ごす。
せめてもの仕返しにぎろりと睨みつけると同時に、馬車の中から何かが投げ放られた。
どさりと音を立てて目の前に落ちてきたそれは、ヘレナディアが持ってきていた剣と一つの鞄だった。
何故、とぽかんとしていると、ルーシアは北西に伸びる街道を指さして言った。
「ここから街道沿いに進めばすぐに着く。門を叩くときは、その獣臭い手を洗ってからにするんだな。最低限の礼儀だぞ?」
「…っ、あのなぁ…!」
「――では、時間が惜しいのでな。先に失礼するよ。…早く出せ」
「え…でも……」
「ちょっと、…おい」
話を聞けと膝に乗る魔物を支えながら腰を浮かすも、彼は端からこちらの言い分に耳を貸すつもりがないのか、未だへたり込んでいる御者に早く綱を引けと急き立てた。
「人の話きけよ! 歩いて行けとかマジで言ってんじゃないでしょうね!」
ルーシアの中では既に決められた事柄に納得がいかず、震怒のあまり膝で眠る魔物がずり落ちるのもそのままに立ち上がったヘレナディアは、がしりと馬車の硝子の無い窓枠を掴んだ。
一方的且つ利己的な理由に腹が立って詰め寄るが、最早そんなヘレナディアの剣幕も意に介さないルーシアは、御者台に座る御者に顎で決って出発を促した
声にすら出さなかったがヘレナディアを見やった御者の顔には、板挟みに苦しむ困却した表情が張り付いていた。
視線を感じて目をやると、ばちりと目が合った。その瞬間まるで怯えたように勢いよく視線を外されてしまった。
あからさまなその態度にうっと怯んだ僅かな間に、縄を取った御者は勢いよく馬を走らせる。
「…っ!」
がりっという音と共に窓枠を掴んでいた手に痛みが走って、ヘレナディアはその痛みに瞳を眇めた。
手を放すタイミングを逃して、唖然としているところに引っ掛けてしまったらしい。疼痛に掌を返してみると、小指側の側面が擦り切れて血が滲んでいた。
「ふ…っ、ふざけんなああぁ!!!」
だがそんな痛みより腹に据えかねた事態に、無情にもあっという間に見えなくなった馬車に向かって、怒りのあまり叫ぶことしか出来ない。
ぐっと拳を握りしめたときに爪で傷を抉ったのか一際痛みを感じたけれど、そんなこと今は気にもならなかった。
どうして自分の周りには、人の話を聞かない奴らばかりなのか。
こんなことなら躊躇などせず、折るまで行かなくともその顔を殴っておくんだったと激しく後悔したヘレナディアが出来ることは、何も無かった。