3.魔法使いに憧れますか?
「遠いって…、どこまで行くの?」
あまりにも無防備な旅路に、ヘレナディアの頬がひくりと引き攣る。余計なお世話と知りながらも、思わず心配になってしまう。
「えーと、途中いろいろ寄るんですけど、ロンディーヌまで行きます」
「え! ロンディーヌって、魔法の!?」
「そ…うです、けど…?」
「…行く」
「は?」
「私も行く!」
「はあ!?」
ヘレナディアはガタリと椅子を引き倒す勢いで立ち上がると、驚きに困却しているクロノに言い詰める。
「一人じゃ危ないから、一緒に行ってあげる。ね?」
否は無いという意味を込めてにこりと微笑む。
いきなりの事に唖然としているクロノは、ついて行けなくてぽかんとしていた。
押し切るなら今だときらりと瞳を光らせたヘレナディアが、更に口を開こうとするよりも一瞬早く思考が戻ってきたクロノは、はっと我に返る。
「なにいってるんすか、だめに決まってるでしょう!」
「えー、なんでよ」
「なんでじゃないっす。危ないじゃないですか。護衛なんかいないんですよっ」
「だからでしょ? 大丈夫よ、私がいるんだから」
なんだ、危ないという認識はあったのか。
本来の同行者がいないのであれば、代わりがいるだろう。自分なら今は手もあいているし、なにより無償でお供できる。
街道を通るなら、自分程度でも十分護衛は務まるはずだ。
そう思ったヘレナディアが両手を胸の前で組み合わせ、きらきらと輝く瞳に力を込めてそう言うと、なぜかクロノはがくりと項垂れてしまった。
「そ…っ、そーじゃなくて……」
(いったいこの姫はなにを言っているのか)
俺じゃなくてあんたが危ないだろうが、と呆れに手で顔を覆うクロノだったが、そういえば近辺の魔物を退治する兵に混じってよく作業しているんだったと思い出す。
自分の身くらいしか守れないだろうクロノが言っても、説得力が無い。ちょっと情けなくて、その先の言葉は口から出てこなかった。
噛み合わない会話を耳に笑いを堪えているサクラは置いておいて、とにかく付いてこないようにしないととクロノは負けじと言い返す。
「とにかく、だめなものはだめです。城の兵士と一緒に行動するのとは訳が違うんですよ? おまけにご自分の領地でもないところに、ひとりで行くなんて……――」
危険だ。危なすぎる。
自分で言っていてだんだん怖くなってきたクロノの背を、わけの分からない汗がひやりと伝う。
それでなくても、世間知らずなお姫様だ。破天荒な彼女は通常の姫よりは世間一般を知っているのかもしれないが、そんなの理由にならない。
なのに、同伴者は工場のいち作業員だけだなんて……。
何かあったときの映像が脳裏に浮かんだクロノは、まだなにも起きていないのに悲鳴を上げそうになった。
そんな事になったら、どう責任を取ったらいいのか分からない。
極端に、ここの王族は他の国の人間と接触する事を避けていると、クロノは知っている。それだけに、自分の想像に体温が三度ほど下がった気がした。
危険だ。……俺が。
(俺のためを思うならやめて…)
けれど、心の中でさめざめとするクロノの悲鳴など知る由のないヘレナディアは、負けたくなくて口戦する。
「ひとりじゃないよ、クロノ君と一緒だもん。…おとなしくしてるし、ちゃんとバレないようにするから。一緒に連れてってよ。ねえ、おねがいっ」
ちゃんとお手伝いもするからと祈るように視線を向けられると、クロノはついついなにも考えずに頷きそうになってしまう。
……いかん。それだけは絶対にいかん。
譲らないという一心を瞳に込めて、じっと見つめてくるヘレナディアに負けじとクロノも瞳に力を入れる。
「………」
「………」
折れないお互いに自然と睨み気味になってくる目に、最初に根を上げたのはクロノだった。
「…はあ、なんでまた、そんなとこに行きたいんです?」
「! 連れてってくれるの?」
「そんなこと言ってません」
「…ぬ」
クロノがぱっと笑顔を作って早とちりで答えを出すヘレナディアを諫めると、すぐさまその笑顔は不満顔に変わる。
「理由もなくただ行きたいだけなら、絶対だめです。どうしてもっていうなら、俺が納得する理由を持ってきてください」
ぴしゃりと容赦ない言葉に、ぐっと言葉に詰まったヘレナディアは内心で舌打ちした。
正論なだけに、反論できない。
(ちくしょう…)
一歩優位に立ったことに安心感を得たのか、クロノの表情には若干余裕が戻ってきているように見える。
自分一人だと確実に関所で門前払いだと分かっているヘレナディアは、ここで負けるわけにはいかなかった。
…なぜかというと、一ヶ月ほど前から深刻化した悩みが、ヘレナディアにはあったからだ。
それを解決するために、どうしてもクロノがこれから行くという場所、魔法大国と名高いあの国に行きたかった。
それは数年前のある日、いきなり起こった。
はじめは少し疑問に感じる程度だったが、どうやらヘレナディアの中であり得ない力が目を覚ましたらしく、とても困っている。
そして何故か一ヶ月ほど前から悪化の道をたどり始めたそれは、どうにも自分の手に負えるものでは無くなってきているのだ。
ちょっと興奮したり、気が高ぶったりすると本人の意思とは関係なくそれはいきなり現象を引き起こしてまわる。
ほんの少しの微怒や驚愕が引き金になることが多く、持っていたコップが破裂し手が血で真っ赤になったことなんて一回や二回じゃない。それが原因で、今は部屋で一人寂しく飲食をしている。
魔物討伐の際は、斬ってもいないのにベアの首が飛んだとさんざん騒ぎになった。そのときは何とか誤魔化したけれど、それ以来また変なことが起きるかと思うとなかなか顔を出せない。
故に、ストレスが溜まっている。
そんな現象…魔法意外、自分は知らない。
何で自分が使えるのかは知らないが、放っておけばそのうち他人にまで危害を加えそうで怖かった。
はやく、なんとかしなくては。
―――この世には古くから、魔法と呼ばれる力があった。
自身の魔力により、多くの者は目にすることが出来ない精霊の力を借りて、目に見える形であらゆる現象を引き起こす。
遙かな昔は、そういった力を持っている人が世界中に溢れていたという。その頃は精霊たちを目にする者も多く、人と精霊は仲良く暮らしていた。
力の強い人たちもたくさんいたそうだが、ある戦争を境に人々はその目と力を失っていったという。
その戦争は、より強い力を求める余り精霊を奪い合った人間たちが引き起こしたものだった。
そんな愚かな人間に精霊が呆れ果ててしまったため、魔法も目視も叶わなくなったと今に言い伝えられている。
それ以来精霊を支えとしていたこの世界は、疲弊の一途を辿るばかりだった。どんなに手を尽くしても、火は燃えず、風は止み草は枯れ、水は涸れていく。
そんな世界を蘇らせたのが、心優しい一人の神様だと史伝には記されている。
人間の中から魔法を使う力が衰えを見せたのは、その頃からのようだ。ほとんどの者が扱えなくなる中、ごく一部の人間は弱まりつつも力を駆使し続けていたという。
その子孫たちが多く生活しているのが、彼のロンディーヌなのだ。
そこに行けば、きっと自分のこの悩みも解決する。
そう思ったヘレナディアは、なんとしても引き下がるわけにはいかなかった。
このまま放っておけば、きっといつか周りにも被害が出る。今の段階ですでにあちらこちらに破損被害を出してしまっている気がするだけに、尻の据わりが悪い思いをしているのも、焦る原因の一つだった。
それに、きっとこの国のことだ。周りに知れたらよそ者扱いされることは分かっていた。
今までこの国に魔法の類いを扱う者は存在したことがない。当然と言えば当然かも知れないが、史書を漁っても出てこなかったので事実そうなのだろう。
ヘレナディアは自分は拾い子かなにかかと悩んだ時期もあった気がするが、今はそんなことより破損被害の拡大を阻止することが何より重要だった。
だが、いまここでその事実を説明するわけにもいかず、ヘレナディアはどうしたものかと頭を抱えたくなった。
なんとか認めてもらえないかとじっとクロノを見つめてみても、つんと余所を向いたままこちらには見向きもしない。
そうこうしていると、なにやら表でガタガタと音が聞こえてきた。
音の方へ目を向けると、窓越しにサクラの姿が見えた。いつの間にかいなくなって、用事を終えたのか、いつの間にか戻ってきていたのだ。
「あ、時間切れっすね。じゃ、俺準備がありますから、帰るっす」
ヘレナディアが外を眺めている間に、音の原因を確認したクロノは安堵したようにほっと胸をなで下ろした。
口早に席を立ちそそくさと表の入り口まで歩を進めるクロノは、一度立ち止まってそれじゃあと若干引き攣った笑顔で、ひらひらと手を振りながら扉に手をかけた。
ギィ…と古くなった扉の番が音を立てる。
「え、え? 私まだなんにも言ってないのに? ここで行くのっ!?」
椅子から腰を浮かせながら待てと手を伸ばすヘレナディアの願いも虚しく、返ってきたのは開けられた扉が閉まる悲しい音だった。
「…………」
一人残されたヘレナディアは、手を伸ばしたままの中腰姿勢でしばし固まる。
…ええ、分かってましたとも。
何があろうとも、断ろうとしていた気配をビシビシと感じていましたとも。
「…っ」
文句を言いたくても、言う相手がいないとはなんとも歯がゆい。
く…っと歯を食い締め、脱力と共に再び椅子に座る。
「あら、アナタまだいたの。ちゃっちゃと出て行きなさい。そろそろ開店の準備するんだから」
「……はい」
ずーんと落ち込んでいると、外でクロノと一言二言交わしたサクラが表の扉から店に入ってくる。
振り出しに戻った問題解決案に落ち込んでいたのに、そんな時でもサクラは容赦なかった。
仕方ない、今は帰るか。
そう思ったヘレナディアは、素直に返事をした。
外を見れば、日が傾いてきている証拠に空が赤らんできている。どうやら、ずいぶんと長居をしてしまっていたようだ。
椅子から立ち上がり、寝ていたのかなんなのかずっとおとなしくしていた鳥をひと撫でする。
すると鳥は、ぱちりと目を開けて首を擡げた。クル、と鳴いて擡げた首をくりっと捻る
「…?」
それは、なんだと疑問を投げかけているようでおかしくて少し笑ってしまった。
どうも妙な生き物だ。言葉を交わしているわけじゃないのに、会話しているような気分になる。
鳥なのに、鳥じゃないみたいだ。
落ちていたときはその体は虹色に見えたのに、ちゃんとよく見ると普通に白色だった。白に光が反射していただけか、とその白い身体を撫でながら少し残念に思った。
どうやって連れて帰ろうかと思案していると、ひょこりと立ち上がったその鳥はぴょこぴょこ飛び跳ねながらクッションから下りた。
「え、ちょっと…どこいくの…」
むやみに動き回るのはよくないと思いその飛び回る身体を掴もうと手を伸ばしたら、掴む前にその手に跳び乗ってきた。
ぴょこぴょこと跳ねて二の腕まで上がってきた鳥は、どうしたのと言うように首を傾げて見せる。
「そういえば、アナタなんでそんな格好しているの?」
「え?」
珍しいのね、とヘレナディアの頭から足まで一度眺めたサクラは、疑問に眉を寄せた。
サクラの視線に釣られて自分の姿を見下ろすと、若干汚れて破けているがアンクル丈のアフタヌーンドレスが見えた。
自身の格好を見てあることを思い出したヘレナディアは、さっと顔色を変えた。
「あ………」
「………?」
「………忘れてた…」
説教を食らって、おまけに呼び出しも食らっていたことを。
父親に呼び出されていたことを忘れていたと告げると、サクラは一瞬ぽかんとしたけど、すぐさま腹を抱えて笑いだした。
はあ…と面倒なことになりそうなこの後を思って、ヘレナディアは指先で眉間を押さえた。
「…ま、いっか。どうせまたどっかの人と会食とかだろうし…」
そう、今更どうしようもない。今回は完璧に自分に非があるために、平謝りを貫くしかあるまい。
そう結論づけて、何のツボに嵌まったのか知らないがまだ笑い続けているサクラに苛立ち紛れの挨拶を向けて、さっさと店を出ようと表に向かう。
「あー、そうそう」
笑いすぎに浮かんだ涙を指先で拭いながら、サクラは出て行こうとするヘレナディアを呼び止めた。
「…?」
「アナタに期待してるからよ」
「…は、あ…?」
「ワタシの答え。ワタシは、あんたに期待してるの」
じゃあね、気をつけて帰るのよーと手を振るサクラは、ヘレナディアの返答を待たずに奥へと引っ込んだ。
「……? なに…?」
意味の分からない言葉に首を傾げながら、怪訝な顔で腕の鳥を見る。
一体、何を期待されているのだろうか。
一人残されて疑問に眉を寄せるヘレナディアに、腕から肩まで移動した鳥が返事をするみたいにひとつ鳴き声を上げた。
*****
少し冷たい風が吹く中、ヘレナディアは城下の大通りを歩く。
サクラの店は大通りから少し外れたところにあるが、二つほど角を曲がればすぐに大通りに出る。夕方前の大通りにはまだ沢山の店が並んでいて、活気がみられた。
「あー! ひめさまだー!」
少し肌寒い中、外套がほしいなぁと手のひらを擦りながら吹く風に肩を竦める。女の子の声が聞こえて、ヘレナディアは下げていた顔を上げた。
とことこと可愛らしく走るその子は、ヘレナディアの元まで来るとぎゅっと膝に抱きついた。
「こんばんは、ナナちゃん」
「こんばんは! 今日はどうしたの? また、ナナとあそびにきてくれたのっ?」
飛びついてきた小さな背中を緩く支えながら、ヘレナディアがにこりと微笑むと満面の笑みを返してくれる。
日が陰り風が吹く肌寒い中でも、ナナは上着も着ないで外で遊んでいたのだろう。触れた背中は冷たかった。
「ごめんね、今日はもう帰らなきゃいけないんだ。また今度ね」
その可愛い笑顔に彼女の望んだ答えを返せないことに申し訳なさを感じて、ヘレナディアは困り顔で謝った。すると、案の定ナナは抗議の声を上げながら頬を膨らせた。
むー、とふくれ面で譲らないというように、ナナは膝に抱きつく腕に力を込める。
「こら! なにやってんだい! ヘレナ様が困ってんだろう、おやめ!」
「やーっ! あそぶのーっ」
どうしたものかと思っていると、いきなりにゅっと伸びてきた腕が駄々を捏ねるナナの首根っこを引っ掴む。
通路沿いにある商店の奥から出てきた女性の呵怒に、ヘレナディアが思わずびくりと驚いている間に、女性の力尽くの腕にナナは膝から引っ剥がされていた。
ぽかんとしていると、今度は女性が出てきた店の方から苦笑が聞こえる。
「いやー、すんません。騒がしいやつらで。てゆーか、どうしたんですかその格好」
「いえ…まあ」
気まずい顔を作ったのは店の主で、彼はばつが悪そうに頭を掻きながら謝罪したが、ところどころ破けたヘレナディアの服を目にすると驚きに目を見開いた。
だがそんな彼の気遣いも虚しく、思考を飛ばしていたヘレナディアはうまい言い訳も思いつかず、へらりと笑って言葉を濁した。流石に窓から落ちましたとは言えない。
ナナはこの店を営んでいる彼の娘だった。そして、いま鬼のような形相でナナを呵怒しているのは彼女の母親である。
そんな彼らに対して、気も漫ろなヘレナディアはちらりと周りを確認する。だが、危惧していたような目立った変化はなかった。
そのことにほっと胸をなで下ろす。
吃驚することがすでに心臓に悪いのに、いちいち何か壊していないかとびくびくしないといけないのは、精神的な疲労が大きすぎる。
周りに変化がないことを二度確認して、ヘレナディアは小さく安堵の溜息をついた。
安堵に心が落ち着くと、ヘレナディアはやかましい自身の妻を諫める店主にくすりと笑みを零した。
「賑やかで楽しいじゃない。いいと思うけど」
「いや、あーいうのは賑やかとは言わねぇですって。それよりお姫さん、これ新しく仕入れたやつなんですが、おひとついかがです?」
放せと暴れるナナを摑まえたまま、出てきたときと同じ勢いで叱りつけている自分の妻に溜息を付いて、店主はヘレナディアに一つの果物を差し出した。
「なにそれ、見たことない。果物? なんていう名前なの?」
ありがとうと礼を言ってそれを受け取ったヘレナディアは、見たことない形のそれを珍しそうに見聞する。
手のひら大のその果物は、すこし歪な丸い形をしていた。木に生るのだろうか、花梗がありそこには一枚の葉が付いている。真っ赤な色に、匂いを嗅いでみようと鼻先に持って行くと、ふわりと甘い匂いがした。
「モコシロって名前の果物で、ダイダイの変種らしいです。温暖気候の場所でよく取れるらしいですよ」
「ダイダイ…甘い匂いがするのに。それに、色も違う」
「ね、変わってるでしょう?」
焼いて食べるのが一番おいしかったですといって、店主はにこりと愛想のいい笑顔を作った。
無精髭で頭にバンダナを巻いている店主の姿は、見るからに商業者の装いだ。食品の仕入れを中心としているこの店の労働は体力仕事が多いのか、なかなか大柄な彼は見上げないと視線が合わない。
中年という年に負けない健康さが唯一の取り柄だと言っていたけど、そういう彼の妻も身体の大きさは負けず劣らないものだった。だが、あっちはきっと生まれつきの体質だ。
「…でも、ずいぶん高いのね」
軒下に並べられている商品たちをちらりと見たヘレナディアは、素直な感想を述べた。
基本的に城下は仕入れがほとんどのため、地方より高額になりがちだが、今手にしている果物は並ぶ品のどれよりも高かった。
ただ単に感想を述べただけだったのだが、店主はヘレナディアのその言葉に、済まなそう眉を寄せて俯いてしまった。
「…うちの商品のほとんどはガーナの町から仕入れてるんだけどね、最近あそこのものはなにもかも以前より値上がりしてるのさ」
俯いて黙り込んでしまった店主の代わりに、娘との問答を終えた彼の妻が代わりに答えをくれた。
声をする方に顔を向けると、彼女も眉間を寄せた過酷とした顔をしていた。
「…そうなの? ちょっと前はそんなことなかったと思うけど……」
「ここ一ヶ月の話だったと思うよ。聞いても原価が上がったからとしか言わないのさ…どこまでほんとうかねぇ」
「それって、これだけです?」
ヘレナディアは、一瞬考えて手に持っていた果物を持ち上げて見せた。すると彼女は、だったらいいけどねぇと、ゆるゆると首を振って見せた。
「それは今回試しに入れてみただけで、以前のことまではよくわかなんないね。でもそれだけじゃないよ。どれとっても一個あたりの額は高くなってるよ…発注の量の変更をかけた途端これだ。ぼったくりもいいとこだよ、まったく」
こっちはぎりぎりで生活してるのにねぇ、と溜息を零す彼女は未だふてくされている娘に家に入るように言った。
「…またね、ひめさま」
「うん。今度はちゃんと、遊ぶために来るね」
残念そうに頬を膨らますナナに、彼女と同じ目線まで腰を下げたヘレナディアはその手を取って約束を口にする。
その言葉に納得したのか、一つ大きく頷いて彼女は家に入っていった。
「…って、こんなことヘレナ様に言うことじゃないね。ごめんよ」
ヘレナディアがナナと会話を交わしている間に、夫に咎められたらしい彼女は申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にした。
「ううん。話してくれてありがとう。今度、ガーナに行って確認してくるよ」
「え、お姫さんが行くんですか?」
「…? うん」
用事もあるし、ついでにちょっとガーナの様子とやらを覗いてこようと思ったヘレナディアが立ち上がりながらそう言うと、店主は驚きに目を見開いた。
どうかしたのかと首を傾げていると、口を開く前にバシンっと小気味のいい音がヘレナディアの背中で響いた。
「…っ」
隣で話をしていた彼女に、力一杯背中を叩かれて音を裏切らない痛みが一拍遅れてヘレナディアの痛覚を襲った。
衝撃のあまり、手にしていた果実がぽてんと並べられている商品の上に落ちる。
…痛い。
「あっはっは! そんなつもりで言ったんじゃないよ、気にしないどくれ」
「…う」
尚も続けてばしばし叩かれると、流石にちょっと痛みに頬が引き攣る。
痛みから逃れようとさりげなく身体を逃がすと、まるでそれを咎めるかのタイミングで、がしっとそのたくましい腕に首を攫われた。
痛みに若干目が回っているヘレナディアをそのまま片腕で抱き寄せて、彼女は豪快に笑った。
「その気持ちだけで十分さ。ありがとう、ヘレナ様」
「………」
その豪快さに似合わないほど優しい笑みを向けられて、ヘレナディアは一瞬言葉を失った。
まるで娘を見るかのような目で微笑まれて、何故か照れを感じてかあっと頬が熱くなった。少し居心地が悪くて、ヘレナディアはふいと余所を向く。
「そうやって、あたしらのことを気にかけてくれるだけですごく嬉しいのさ。…この国のこと、ちゃんと考えてくれてるってことだろう?」
ちゃんと考えてくれる人がいいからね、と不意に沈黙したヘレナディアを腕から解放しながら頭を撫でて、彼女は言った。
変わらず優しい顔つきに、ヘレナディアはどう言葉を返していいか分からなかった。
自分が描く国の未来。だがそれが、果たして彼女たちが思うような未来なのだろうか。
「私は……」
「―――ほら、見てよあの色」
否定的な心境をどう表現してたらいいのか迷った、ヘレナディアの耳に不意に聞こえたのは小さな声。
「まったく、汚い色…。あれでよく外歩けるわね。てゆーか、あの服…どこをどうしたらあんなになるのかしら」
「ほんとよね。うちの子でももう少しましな格好だわ。そういえば前にうちの人から聞いたんだけど、最近変なことがよく起こるんですって。それも、あの人がいるときばかり…―――」
不気味だわ…と、道向かいから女性たちの会話が僅かに耳に届いた。
明らかな侮蔑を含んだ声でちらちらとこちらを伺ってくる視線から、どうせ自分のことを言っているのだろうと鼻白むヘレナディアは、横目に彼女たちを窺い見た。
服についてはちょっと心に刺さったが、自分で見ても若干――かなり――見窄らしいと思うので聞かなかったことにする。
「どうせ不義の子なのよ。どこの血が入ってるかなんてわかったもんじゃないわ」
はやく出て行けばいいのに、と見なくても下卑た視線を向けられていると分かる口調で、彼女たちは話を続けている。
自分たちの言葉が人を貶めているとは微塵も感じていないのだろう。ちらりと視線を向けられていることに気付いているのかいないのか、変わらず話をしている。
言っていることは最低だが、本人を前に尚も言い募るその神経はなかなか称賛に値すると思う。それとも態となのだろうか。それならそれでも、いい神経をしているとは思うが。
真向かいにある店にいる彼女らのそんな会話を小耳に挟んだ通行人たちは、なんだなんだとこちらを窺い見ている。
ヘレナディアは、ふう…と一つ溜息を零した。今は早々に立ち去るのがいいだろうと思い、肩から下りて地面に落ちている何かを啄んでいる鳥を抱えた。
「おばちゃん、ありがとね。今日はもう帰るよ」
「あ…」
「大丈夫よ。それより例の件、ちょっと時間をちょうだいね」
気遣わしげな視線で何か言いかけた彼女を制して、にこりと笑みを向ける。
必要以上に向けられる蔑ろな視線よりも、服の凄惨さを咎められることに臆して、人通りの少ない道を行こうと角を曲がった。