2.王女ヘレナディア (後編)
必要以上に遠慮しない彼の物言いはいつもすっきりしていてとても好ましいが、すっきりしすぎてちょっと素っ気なく感じてしまうのが玉に瑕だと思う。
「でも、いい名前ね」
けれど、愛想がいいお陰か取っつきにくい印象はまるで無い。どんな思いで曾祖母がその名を付けたのかは知らないが、温厚な彼にとても合っていると思う。
ヘレナディアが素直にそう思ったことを口にすると、クロノは虚を衝かれたのかぽかりと口を開けて呆然とした。
しかし呆然としながらもふらふらと彷徨う視線が、彼が動揺していることを物語っている。心なしか、さっきより顔の血行も良いような気がする。
なんだろう、何か変なことを言っただろうか。
「そ、そうっすか?」
「? うん。クロノ君にすごいあってると思うよ」
ほにゃっと言笑に崩れた自分の顔に気づいていないヘレナディアは、照れたような困ったような…そんな風に眉尻を下げるクロノに、疑問しか感じなかった。
ことりと首を傾げながら、そうかと思い至る。
面と向かって褒められることに、慣れてないのかもしれない。
それは自分にはどうすることも出来ないことだと納得して、もう一度言葉を重ねた。
別にからかっているわけではなく、本当にそう思ったからだ。
すると、いつもすっきりはっきりしている彼にしては珍しく、とても歯切れ悪く『どうも』と小さく礼を言った。
それを傍観していたサクラは、会話の途切れた隙を狙うかのように呆れを微塵も隠さない深いため息を付いた。
なんだとヘレナディアがサクラを見ると、すでにこちらを見ていたいたのかばちりと視線が噛み合った。
視線が搦んでも発言する雰囲気がないサクラに、疑問して首を傾げるヘレナディアは彼女の出方を待つことにする。
しばらくじーっと見合っていたが、眉間にぎゅっと皺を寄せて困却顔を作るサクラは、一度瞬いた後眉間を開いて再度ため息をついた。
「……アナタが毎度毎度見合いに失敗してる理由が、ワタシにはよく分からんわ…」
「…?」
なんのこっちゃ。
「ていうか、ちょっと待て。なんでそんなこと知ってんのよ!」
見合いの事実もそうだが、失敗したことまで知っているとは何事だ。
どれもこれも、表沙汰になる前に消えた話だ。サクラが知っているとは思えない。
驚きに目を見開くヘレナディアとは対照的に、サクラの顔には何阿呆なことを言っているのかと書いてあるようだった。
「知ってるわよ、一件や二件じゃないこともね。その辺の安い貴族の間では結構な噂になってるわよ」
さすがにイノシシだなんだって言ってるのは知らなかったけど、と肩を竦めるサクラの表情はなぜか得意げだった。
妙にいろんな事を知っていると思っていたけれど、まさかそんなくだらない話まで知っているとは…。
というか、なぜ噂になどなっているんだ。
「なになに? 姫様お見合いすんの?」
「するんじゃなくて、したのよ」
「へー、だれと?」
言葉を失っているヘレナディアとは対照的に目を輝かせてるクロノは、興味津々と身を乗り出している。
人の気も知らないで勝手に話を進めている二人の会話など、ヘレナディアの耳には入ってもこなかった。
ただただ、こんな下町にまで噂が立っているという事実そのものに打ちのめされていた。
誰がそんなこと触れ回っているのかなんて、聞かなくてもだいたい想像が付く。
きっと、元見合い相手を筆頭に安い貴族どもが、おもしろおかしく言い回っているのだ。
どうせ噂話の好きな暇人どもだ。あいつ無いわとみんなして影で笑っているに違いない。
それともなにか? 力弱い女が魔物討伐隊に混じったところで大して役に立たないどころか居ても邪魔なだけなんだから、そんなことする間があったらちょっとは身綺麗にして、自分たちのご機嫌取りでもしたらどうだと影で助言くださっているのか。
全くもって余計なお世話だ。
「一番新しいのだと…、アインヘルのとこのじゃない? ほら、確か領主の次男坊が同い年じゃなかったかしら?」
サクラが記憶を探るように思案した後なんのことはなく紡いだ名前に、興味にわくわくと踊るクロノの表情が瞬間固まった。
「え? それってクロヴィスって奴? え? まさかあんなのと結婚なんかしないですよね? あんなのやめといた方が良いっすよ!」
「え…クロノ君知ってるの? っう゛」
そして一変して顔に驚愕の色を貼り付けたクロノがヘレナディアに向き直ると、勢いもそのままにが
しっと両肩を掴む。
結構な剣幕にぎょっとしていると、そのままがくがくと容赦なく揺さ振られてヘレナディアは頭の中身が揺れる感覚に目が回った。
「ち、ちょっと……っ」
収まらない揺れにヘレナディアが抗議の声を上げると、はっと我に返ったのかクロノは済まなさそうに肩を落とした。
「すみません、つい…」
「な、なんなの……」
「で、どうなんですか」
ふらふら揺れるような名残に身を任せていると、クロノが申し訳なさそうに肩を落としたのは一瞬で、掴んだ肩はそのままにきゅっと力を込められた。
「いくら御父上に言われたからって、まさかあんな人形にしか興味無いような気味の悪い変態と結婚なんかしないですよね!?」
「……へ…」
ぐっと言い詰められて、その鬼気迫る勢いに頬が引き攣った。
「あいつ、生きた女の人に欲情できないからって部屋に人形並べて人形相手に愛してるとか言ってる変態ですよ! キモすぎる」
「………」
なぜ、そんなことを知っている。
「外出も滅多にしないらしいし…。それになにより、我が儘すぎる。屋敷の庭に花を植えるとかって自分であれだこれだと要望付けた癖に、ちょっと虫が寄ってきたくらいでなんでこんなの植えてるんだと片っ端から刈り取らせたらしいしっ」
「……はあ」
「おまけにっ超可愛いって噂のフロンディアの令嬢つかまえて、気持ち悪いから触るなって言ったんですよ! あの子、ただ挨拶しようとしてただけだったのに」
誰がおまえなんか好き好んで触るかよと、まるで自分に受けた恥辱かというほど憤慨している。
彼とは普段からよく顔を合わせているけれど、こんな風に声を荒げているところは見た事がなかった。よほど反りが合わないのか。
「あんなのと一緒になってもいい事無いっす。やめてください」
そしてクロノがヘレナディアに下した結論は、やめた方が良いではなくやめてくださいだった。
キッと真剣な顔で視線を向けられて、そこではじめて答えを求められているのだと気がつく。
「う…? …え、と……、……変態は言い過ぎなんじゃないかな…?」
あまりにも勢いよくいろんな情報が入ってきたせいで、正直それしか出てこなかった。
向けられる視線の真剣さに何か言わなきゃと思ったヘレナディアは、そんな事しか言えず、他に言いたかったことがあった気がするが思い出せない。
一度だけ会った事のあるアインヘルの子息が変態宛らな趣味があるとは驚きだが、趣味は人それぞれだ。別に自分がとやかく言う事ではないだろう。というか、自分には関係ないと思う。
そう納得したヘレナディアは、当人の顔を思い出しながら思う。
(…そんな風には見えなかったけどなぁ)
どちらかというとインテリジェンスな印象を感じた記憶があるだけに、ちょっと意外だった。
(あ…、もしかして、だからあの焦りようだったのか……?)
先月、用があってアインヘルに行ったときだ。
見合いの件があったと思い出して、ついでに顔を見ておこうとクロヴィスを訪ねたとき、彼の父親にも会った。そのとき、どうも彼は焦っているように見えたのだ。
息子を、どうか息子をよろしくお願いいたしますと藁にも縋る面持ちに併せ、地にめり込む勢いで頭を下げられた事は記憶に新しかった。
きっと、彼は息子の性癖を知っていたのだ。いい年をして女性に全く興味を示さない――女だけかどうかは知らないが――息子に一体どうしたものかと頭を抱えていたに違いない。
大方、国の王女が相手とあらば流石の息子も無碍な事はしないと思ったのだろう。たとえそれが、妙な噂のある姫であれなんであろうとも。
しかし、彼の縋った藁は息子を改心させる力は持ち合わせていなかったらしい。
どこからともなく流れてくる噂の所為か、将又クロヴィスには元からそんな気は無かったのか。どちらにせよ、御父上の願いも虚しく縁談は早い段階で破談に終わった。
今までと違って早くケリが付いたので、せいせいしていたヘレナディアだったがその裏にはそんな理由があったとは思いもしなかった。
まあ、クロヴィスもたとえ王の娘であっても、二十という今のご時世若干行き遅れた…おまけに変な噂のある女などと共に、生活していかなくて済んでよかったと思う。
それよりも…。
「…クロノ君がそんなに、この人嫌いって言ってるの、初めて聞いたね」
正直、どうでもよかったと言った方が正しい。
へにゃっと表情を崩して的外れな事をいうヘレナディアに、脱力したのはクロノだけではなかった。
まるで人事なヘレナディアに、言葉を失ったクロノは『…もういいです』と全然納得していない顔でしぶしぶ引き下がる。
どことなく落ち込んでいるように見えるのは、さっきの自身の気迫を悔いているんだろうか。定かではないが、それほどまでに心配してくれたのかと思うと、少し嬉しかった。
「ありがとね、クロノ君。大丈夫よ、ばっちり断られたから」
指をVの字にして、ヘレナディアは得意げな顔で下からのぞき込むようにクロノを見た。
「……それはそれで、腹立たしいっすね」
「…一体どうしろと」
「いや、姫様から断るならまだしも何様なのかと……」
困ったように頭を掻くクロノは、苦笑いながらも表情を和らげた。
どうやら、飽くまでも彼の中でクロヴィスという人間は底辺の人物らしい。
「…それにしても、国王様もよくやるわよねぇ。ここまで失敗してるあなたに持ってくるより、ティアナ様に宛がう方が良さそうな気がするけど」
カウンターの中で椅子に座り直しながら、サクラが何の気なしに紡いだ言葉はヘレナディアが常々思ってる事だった。
国内以外からは絶対に縁談など持ってこないと知っているため、いい加減底が突きそうにも思うのだが、どういうわけか未だにその底は見えていない。
ということは、自分とは正反対をいくあの姉には縁談など持ち込まれていないという事か。
それが事実なら、なんとも不公平な話ではなかろうか。
サクラにそんなつもりはないのかもしれないが、暗におまえではもう無理だろうと言っているように聞こえて、なんとなく癪に障った。だからむっと座った目で、皮肉る。
「そーねぇ。イかれたイノシシよりきちんとした人間のほうが、まだマシだもんねー。それが美人なら言うこと無いもんねー」
「………根にもってるのね」
「もってません」
なんのことかと疑問に首を傾げているクロノを無視して、ヘレナディアはカウンターに頭を転がす。
別に結婚する気が無いから無理だとしてもなんら問題は無いが、他人に肯定されるとなんかムカつく。
誰が言ったか知らないが、すでに騎士団内でも別の妙な呼び名で呼ばれているのを知っている。
知っているから、もうほっといてほしかった。
「だいたい、私が結婚しようがなにしてようが別に関係ないじゃん。もー、ほっといてよー…」
「関係ないことないでしょうが。アナタたち女兄弟なんだから、婿が要るじゃない婿が。国王様もそろそろいいお年なんだから…みんなが注目してても仕方ないわよ」
「そりゃ私じゃなくて、お姉ちゃんの話でしょう。…きっと、なんだかんだ理由付けてさっさと追い払いたいだけよ。あの人、私のこと煩わしく思ってるだろうからな」
きゅっと眉を寄せたヘレナディアは、吐き捨てるように言った。
最近に至っては、父親からの縁談の提供率が定期的という範疇を超えているように思う。
最早どこでもいいから、この煩わしい末娘を押しつけてしまいたいと思っているのだろう。
「だいたい、あの父様が持ってくるのよ? 絶対外から持ってくるなんてあり得ないんだから、そんなに…、期待したっ、て……」
きっと、今となにも変わらない。
そこまで思って、ふと考える。
(…みんな)
何の気なしにサクラが言った言葉に、衝撃を受けた。
変わる事を、望んでるのか。それとも今のままがいいのか。
誰が。
不意に胸中に沸き起こった疑問に、ヘレナディアは哀愁にぎゅっと目を瞑る。
…本当は、知っている。
みんなに出て行く勇気が無いわけじゃない。出て行きたくても、行けないのだ。
ここでは、自由に国の出入りが出来るのは機械の整備士と商いを営む者だけだ。それも、規定に沿って許可申請をした限られた商人でなければ認められていないし、整備士は国が決めている場所に所属している人間だけ。
王族に至っては、外交など無いに等しいこの国では引きこもりも同然だ。
自分から出て行くときは、戻らないと決めたとき。若しくは、追放されたときだけ。
出て行けば、二度とこの国の門は潜れない。
だから、外のことを知っている人も少なかった。行商人が仕入れた本などがほとんどだから、偏った知識にもなりがちだった。
おまけに加えると、この国は賃金の水準がそれほど高くない。自主的に知ろうとするにも一般の人間には限界があった。そこまでして、知る必要が無いことだと皆思っても仕方ないだろう。
それでも、一つだけいいところをあげるなら、平和なところだろうか。
戦争だって自分が知る限りでは起きていないし、治安だって悪くない。
そんな中で、声を荒げたいほどの不満は人々の中には無いのかも知れないと思った。
確かに小さな不満は誰しも抱えているだろう。けれど、外のありのままを受け入れることに関しては不安の度合いが大きすぎるのだ。
小さな不満の思いより、知らない恐怖が不安を呼ぶ方が大きいのだ。
変わらない中にある不満に目を瞑れば、不安なことはなにもない。今のまま平和でいられるなら、それに越したことはない。
(…だからみんなは、今のままがいいと思っている……?)
きっと誰もが、変わることに付きまとう不安が怖いのだ。
国内でのみ血を繋いでいくこの国の人々を見ると、答えは出ているような気がした。
自分がその不自由に声を荒げてみても、みんながそう思っているとは限らない。
(もしもみんながこのままが良いと思っているのなら、私のしたいことは……)
余計な事なのだ。きっと。
当たり前の事なのに、ちっとも分かってなかった。
別に、この国が今まで築いてきた物を否定したいわけじゃない。だけど、こんな狭い世界に満足するんじゃなくて、ほんの少しでいいからみんなに外の世界を知ってほしかった。
機械に埋もれるだけじゃなくて、もっと、外にあるものだって当たり前だと受け止めてほしかった。
目線を変えれば、視界が広がれば、もっとたくさんのことが出来ると思ったから。
でもそれは、同時に今までの自分の常識を覆す事になる。変わる事への不安と恐怖が、多くの人に二の足を踏ませているだけだと、…そう思っていた。
みんなが“仕方が無い”と思っていると、思い込んでいた。
そんなわけあるか。
文句も言わず、笑顔で今を生活できるのは満足しているからだ。
(ああ、そうか。…だからか)
だからみんなは、ここにいるんだな。
別に、自分の考えを押しつける気なんてこれっぽっちもない。けれど、今が平和で事なきを得たらそれでいいのだろうか。
そんな上っ面な生活、きっといつまでも続かない。そんな気がするのだ。
そこまで考えて、ヘレナディアはふ、と苦笑した。
ようやく分かった気がした。どうして、父親が持ってくる縁談が気に入らないのか。
自分がそのサイクルの一端を担うのが気に食わないんだ。
それだけが全てではないが、そう思い至った瞬間明らかに胸のつかえがスッと取れたような感覚があった。
いい年をして、結婚が嫌だと駄々を捏ねているのが親に対する反発心だなんて…情けない。恥ずかしい。
思わず羞恥を感じて、若干頬が熱を持つ。
「――…ちょっと! 聞いてるの?」
「っわ、はい!?」
机に突っ伏したままちょっと火照った頬を摩るヘレナディアの耳に、若干苛立ちを含んだサクラの声が届くと驚きにびくりと肩が揺れた。
ガタリと音を立てて顔を上げると、サクラは怪訝な顔を向けていた。
「なによ。どうかしたの?」
「…いえ、別に。ちょっと…えー、眠かっただけ……?」
いけない。今は感傷に浸ってる場合ではない。
言い訳にもならない言い訳を並べるヘレナディアに怪訝な顔をするも、特に気にもならないのか、ふーんと相づちを打つとサクラは自分の話を続けた。
「ワタシちょっとモデラを連れてくるから、アナタもう帰りなさい」
「…? あ、クロノ君どっか行くんだっけ」
いきなりのことに一瞬思考がついて行かなかった。そういえば、クロノが定期検査がどうのと言っていたと思い至るのに数秒を要してしまった。
話を振られたクロノは、しばらく突っ伏していたヘレナディアなど気にもしていない顔で、先ほど飲み物と一緒に差し出されていた木の実が盛りつけられた皿に黙々と手を伸ばしている。
「え? あ、はい。明日から一週間ほど行ってきます」
「そういえばアナタ、クラリスはどうしたの? 荷車の用意は彼の仕事でしょうが」
「あー…なんか、体調不良で休暇中っす」
「あらそうなの。珍しいこともあるものね」
「…え、じゃあ、もしかしてクロノ君一人でいくの? 大丈夫?」
「今回はそうっすね。まあ、ちょっと遠いですけど問題ないです。…というか、仕事してんのはほぼ俺っすからね」
なんで付いてきてんのかなぁ、と疑問に首を傾げるクロノに、本気で言っているのだろうかとこっちが首を傾げたくなった。
いくら他の国と比べて治安がいいからと言っても、一人では城壁の外へ出るのだって危ない。その壁の外側にある町や村も存在するが、そういう場所は常に衛兵がいる。たった一人で大荷物を抱えて集落の外へ出る人はまずいない。
魔物はもちろんだが、そのほかにもいろいろなものが出るのだ。
ちょっと、危機管理能力が乏しすぎやしませんか…。