1.王女ヘレナディア (前編)
閉鎖的な国の王城。石積みで外壁を作られた、古ぼけたお城。彼女はそこにいた。
彼女の名前はヘレナディア。
申し訳程度の木々に囲まれたそれは、少し小高い丘の上にある城で彼女のそこは王女様だった。
城の周りは森に囲まれ、そこを少し離れると広い町が城下に広がっている。木々はきれいに葉付いているけれど、そこに緑があることが不自然なくらい見下ろす街は鉄で覆われていた。
見える煙突からは絶えず煙が上がっていて、稼働中の工場がいくつもあることがわかる。城下の家々は、切り妻や寄棟といった屋根はなく、ほとんどが片流れや陸屋根だった。
それらの素材はすべて、鉄と、セメントで出来ている。
鉄と機械で覆われた国、それがこのディアマンドという国だった。
この国の王女である彼女は、本日、説教を食らって部屋に閉じ込められていた。
やることがなくてごろごろとベッドに転がっていると、一人のメイドがやってきた。
反省をしたらドレスを着て自分のところに来いという国王の伝言とともに、一着のドレスを置きに来たメイドに罪はない。彼女に文句を言うのは筋違いだということは百も承知だったけど、悪態の一つも付かないと腹の虫が治まらなかった。
どうして、あれしきのことで小一時間も説教されないといけないのか。
ちょっと兵士の服を借りて、ちょっと剣を振り回していただけなのに。…まあ、少し顔を切ってしまって、それを見たメイドは気を失わんばかりに青い顔をしていたけれど。
だが、部屋の前に見張りまで立てて閉じ込めるようなことではない。そんなことに、彼らを使ってはいけない。そう、低賃金で働く彼らの貴重な時間をそんなことで消費するのはよくない! そう彼らに見張りを命じた執事長に抗議したものの、遠慮の欠片もない彼は『馬鹿なことを言っていないで、ちょっとはおとなしくしておけ』と呆れた顔で一蹴されてしまった。
部屋の前から気配が消えたとき、そのまま飛び出そうとした私をひっ捕まえて無理矢理服を剥ごうと構えるメイドたちに、着替えくらい自分で出来ると追い出して渋々ドレスを着た。
もうこうなっては、抵抗するだけ無駄だろう。ドレスは嫌いだけど、ここはおとなしく父様の言うとおりにしておいた方がよさそうだ。
おとなしく言うとおりにし始めたことに納得したのか、メイドたちは失礼しますと言って部屋を出て行った。
気乗りしない呼び出しにたらたらと歩を進めていると、視界の端がきらりと光った気がして、窓の外を見たのだ。
―――――そして、今に至る。
もうすぐ昼が来る時間帯の日差しは、とても暖かく昼寝には最適……ではなかった。
「…………あつい…」
暑さに耐えきれず目を開けると、目の前は緑でいっぱいだった。
生い茂った木々はらんらんと光合成に勤しんでいるようで、葉は絶えず光を反射してきらきらと輝いていた。
「……っ、い、…たい……?」
周りにある鉄の影響なのか、あまりの暑さに気を取られてなんでこうなったのか忘れて体を起こそうとしたら、背中に重い痛みが走った。
………そうだった。手を滑らせて落ちたんだ。
なんて間抜けなんだろうかと羞恥を感じたが、誰も見てないのをいいことにヘレナディアは無かったことにすることを決めた。
「…………」
ゆっくり手足を動かしてみると、多少の痛みは感じるけどちゃんと動く。
真下にあった木々がいい感じに落下速度を緩めてくれたおかげで、あの世にはいかなくて済んだようだ。
トドメと言わんばかりに大きな木のひと際太い枝に打ち付けた背中以外、特に気にするほどの痛みはない。…まあその木がなければ、その背中は激しすぎる勢いで地面とご対面だったことだろう。
そう考えると、この痛みはまあ仕方がないと思えてくる。
何の気なしに視線を動かしてあたりを確認すると、妙に視界が高いことに気が付いた。
木に身体を打ち付けたまま、引っかかっていたらしい。ここは大きな木の枝の上だった。
「……おまえ、無事ね?」
ふと痛みの理由を思い出して、いまだ握りしめていた暖かい物へと視線を落とす。
その鳥はおとなしく、腹の上でお座りをしていた。
目立った傷は無いだろうかと見聞する視線に、不思議そうに首を傾げている。声をかけると、少しだけ苦しそうにクェ…と鳴いた。
落ちるときに咄嗟の勢いで首を掴んでしまっていたようで、その眼は苦しさからかなんとなく潤んで見える。
…どうやら、必要以上に苦しめていたのは自分だったらしい。
慌てて手を離すと安心したようにクル、とひとつ鳴き声を上げた。謝罪の意味を込めてひと撫ですると、心地よさそうに擡げていた頭を下ろしてくる。
飛んで逃げるかと思っていただけに一瞬戸惑ったけれど、嫌われたわけではないようでほっとした。
「さて、…とりあえず、降りようか」
ね、と手の中のものに話しかけて落ちないように支えながら起き上がる。
いったいどのくらい寝ていたのかわからないけれど、日の高さからすると長くても四半刻程度だろうと予測してから、ふと思う。
…何か忘れているような気がする。
……うーん…。
忘れていることは分かるのに、何を忘れているのか分からない。
(…ま、いいか。思い出せないなら、大したことじゃないよな)
どうでもよかったわけではないけれど、それよりも気になることが目の前にあったヘレナディアの頭は次の瞬間、考えることを放棄していた。
*****
「――――はい。これで大丈夫よ」
白いテーピングで巻かれた羽を一撫でして、目の前の人はにこりと微笑む。
「ありがとうサクラさん。……また、飛べるようになる…?」
邪魔だから座っていろと進められた椅子に腰をかけたまま、ヘレナディアはカウンター越しの人へ問いかける。
小さなクッションの上におとなしく収まっている白い鳥は、羽を動かさないように固定された姿で目を瞑っていた。
あのあと、どうにも飛ぼうとしないことを不審に思ってよく見ると、片翼がおかしな方向に曲がっていることに気がついて急いで街に走ったのだ。
「知らないわよ。ワタシ医者じゃないもの」
「………ですよね」
自分が変に手を出したせいで飛べなくなっていたらどうしようとヘコんでいたのに、容赦ない一言をもらってまたヘコみそうになる。
目を瞑ったまま動こうとしない鳥を見ていると、望んだ答えが返ってこないと分かっていてもつい問いたくなってしまっただけだったが、こうもばっさり切られるとは思わなかった。
「まあ、ちゃんと固定してるし、変に動かさなければ大丈夫よ」
しょうがないわねぇ、と苦笑交じりのつぶやきと共に落ち込み項垂れる頭がぽんぽんと撫でられる。
慰めるように、くたっていた鳥にまで一鳴きされては納得するしかなかった。
とりあえず今はそっとしておこうと、無意識のうちに入っていた肩の力を抜いて椅子の背に凭れる。
街角にある一つの飲食店。サクラはそこの店主だ。
広くはないけど狭くもない店内は、カウンターを境にして奥側と入り口側で分かれていた。入り口側には、丸いテーブルと椅子のセットがいくつか置かれている客のスペースと二階に上がる階段がある。カウンターを挟んだ向こうは調理場と裏口があって、今現在カウンターの内側にいるサクラは何事かぶつぶつと呟いている。
そう。動かない鳥を抱えて慌てて飛び込んだこの店の人は、医者じゃない。…というか、この国には動物を診る医者はいない。
そこら辺に飛ぶ鳥さえ、この国では珍しいくらいなのだ。常にいる人以外の生き物と言えば、行商の時に荷車を引くものくらいだった。
それだって、よその国から何頭か買ってきただけでこの国で飼育している訳ではない。
ヘレナディアが実際に鳥を見て触ったのだって、今日が初めてだった。なのに、急に動かなくなって困惑している状態では余計に何を頼ったらいいのかなんて分からなかった。
だから物知りと定評のある彼…じゃなくて、彼女のところにきた。
知識だけでなくなぜかそれに伴う技術も持ち合わせているのが果てしなく謎だが、とりあえず今の問題が解決すればその辺は自分的には特に気にすることではなかった。
そんなサクラは、ちょっと変わっている感じがする。
…べつに、他人の趣味をどうこう言うつもりはないので見るからに“彼”なのに、どうして“彼女”なんだろうとか、初めて会った時からちょっと疑問に思っていたけれど聞いたことはない。
いつも女の人みたいな格好なので好んでそうしているのだということは分かったから、勝手に彼女だと思うことにしたのだ。
どうやらそれは正解だったらしく、好みにうるさい彼女に疎まれることなく戸を叩く度に快く迎えてくれていた。
…今日は、寝てるところをたたき起こした形になったからちょっと機嫌が悪かっただけだ。…たぶん。
先ほどからちらほら聞こえる、独り言のあの人――おそらく恋人だろう――と呼ばれる人と仲違いをしている所為で八つ当たられたわけではない。…決して。
「……ねぇ。なんでサクラさんは、こんなところでお店なんかやってるの?」
カウンターの内側で、飲み物を作ってくれている背中に問いかける。
怒り冷めやらぬのか、ぶつぶつと漏れ聞こえる独り言の内容から、どうやら仲違いの理由は離れすぎているその距離にあるらしい。そこで、ずっと気になっていたことを聞いてみたくなった。
サクラは、元はよその国で暮らしていたそうだけれど父方の故郷であるこの国へ5年前に引っ越してきた。
外から来たのに、今も変わらずここで生活していようと思う気持ちがヘレナディアには分からなかったのだ。
自分は知らないけれど、当初は家すら借りられなくて、町から少し離れた場所にあるぼろぼろになったまま手のつけられていない建物が並ぶ荒れ地で寝起きしていたそうだ。
今でこそこの店を営んでいるけれど、そこに至るまではきっと自分では想像できないほど大変だったのだと思う。
それほどまでに、ここの人間はよそ者が嫌いだ。
この国で生活する人間で、外から来た人などサクラ以外聞いたことがなかった。
古いご先祖様の王制で他国との交流を断ち切ったこの国は、周りから孤立した存在を今でも貫いている。
なんだってそんなことをしようと思ったのか知らないけど、無交を取り決めたというご先祖様は大層な人嫌いだったと聞いたことがある。
自業自得と言えばそうかもしれないが、今では旅人すら訪れないこの国は一体どうやってその壁を砕いたらいいのかすら、分からないのかもしれない。
自分たちが出て行く勇気がないのは仕方がないかもしれないが、外から来る人間くらい快く受け入れたっていいじゃないかと思うのは自分だけだろうか。
そうすれば、彼女のようなつらい思いをする人だっていなくなるはずなのに。
彼女の父親は、この国の住人だ。…30年ほど前までは、だけれど。
仕事でよその国へ行ったときに知り合った女性と恋仲になった彼女の父親は、はじめはその人と一緒にここへ住む予定だったらしい。
けれど、結果としてその相手がこの国へ足を踏み入れることはなかったという。
挙げ句よそ者を選んだという理由だけで、彼も国にいられなくなった。
そのときの彼らのことを思うと、そこまでする国民も、それを放任しているこの空気も、何もかも無駄で意味がわからない。
だから、今こうして彼女がここにいる理由なんてないんじゃないかと思えて仕方ないのだ。
これほどまでにいろいろなことが出来るのであれば、余計にわからん。
恋人と喧嘩をしてまで、ここにとどまる理由は何だろう。
「…やーね。曲がっても自分の国なのに、こんなところ呼ばわりはないんじゃないの? お姫様?」
「……その呼び方はやめてって、いつも言ってる」
二人分の飲み物を持ってカウンター越しに座ったサクラに、挑戦的な目を向けられてヘレナディアはむっと眉を顰める。
彼女がこういう顔をするときは、決まってからかわれていると知っているからだ。
「なんで、ホントのことじゃない」
にやにやという表現がぴったりなしたり顔で言われても、ヘレナディアに返す言葉などないというのに。
言うまでもない。そんなの、嫌いだからだ。
姫という呼称も、国に縛られるその立場も。
だいたい、サクラの親が国を出ないといけなくなった理由が王制の所為なのに、なんで自分に構ってくれているのかヘレナディアには分からなかった。
こうして突然押しかけても、いやな顔一つしないで笑ってる。
(面倒くさそうな顔はしたけど)
…恨まれたって、仕方のない立場なのに。
まあ、それを分かっていて足を運ぶ自分も大概だとヘレナディアは心の中で苦笑った。
でも、きっとはじめから自分の立場を知っていたら、サクラだってこんな風に接してくれるはずがない。
彼女だけじゃない。他の人だって、こんな何もない国に居たくているわけないじゃないか。
そーゆうの、本当に…
「…嫌いなんだよ」
心底うんざりだという身の内が、ぎゅっと寄せた眉と吐き捨てた言葉に籠もった所為で妙に深刻な雰囲気が出てしまった。
ちょっと言い過ぎたかもしれない。が、出た言葉は消えるわけでもなく、ただ気まずい空気が漂っただけだった。
現に、目の前の人は驚いた顔をしている。
「べ、別にそんなの、知ってるくせに。何で今更…」
驚いた顔をするのか。
「だ、だいたい? こんなひらひらした服着ないといけないのも面倒だし、ちょっとディーたちの魔物退治にくっついて行っただけなのにめちゃくちゃ怒られるし!」
「………あなたまだそんなことやってるの…」
カウンターに肘をついてカップを啜るサクラの呆れた顔に諸戸もせず、ぐっと両の拳を握りしめる。
「辺りの治安を守るのも国の仕事じゃない。国の外に出る人がいないに等しくても、ほっといたら魔物なんて増える一方なんだからっ」
「そりゃ大いに結構なことね。…あなたがそれをする意味が分からないけど」
気まずかった空気を壊す勢いで捲し立てると、肘ついている手に顎を乗せて尚も呆れられてしまった。
魔物退治をする意味? …そんなの。
「ないわよ。意味なんて」
「………」
「強いて言うなら、そうだな…。…それしか出来ないからよ!」
ふんっ、と胸を張って威張ると呆れを通り越したのか何を言っても無駄だと思ったのか、結構な勢いで鼻白まれてしまった。
「…だって、きれいに着飾っておとなしくしてるのなんか、性に合わないよ」
ちょっと茶化すつもりだっただけなのに、あまりの呆れ顔にちょっと傷ついてしゅんとする。
誤魔化し紛れに用意してくれた自分の分の飲み物を啜ると、暖かな温度で少し喉が潤った。
そう、ヘレナディアには自分が国のために出来ることが、ほかに思いつかなかった。
確かに、自分は本を読むのが趣味と言っていいだろう。知らないことを学ぶのも楽しいと思う。けれど格段頭がいいわけでも、政治に精通しているわけでもない。残念なことに、新しい物を考えたり、作ったりする芸当もない。
お淑やかに着飾って座っているより、体を動かしている方が好きだし性に合っている。
その中で国の兵士たちが所属する騎士団の鍛錬は、素直に楽しかったし勉強にもなった。
女のくせに慎みがないと城の人間は文句を言っているけれど、ヘレナディアから言わせれば慎みを尊重したところで得になることなど一つもない。せいぜい見合い話が増えるだけ。
そんなものが増えたって、面倒なだけだ。見合い相手はみんな、ヘレナディアが兵士の服を借りて剣を振り回していると知った途端に、丁重にお断りを入れてくる。
こちらから断る手間が省けて結構なことだが、『あの姫は頭がイカれている』などと噂されるのはちょっと心外だったりする。
あの父親も失敗するのは目に見えているのに…一体どこから拾ってくるのか、そんな風に噂されているにも関わらず定期的に見合い話を持ってくるのだからご苦労なことだ。
…国のことを考えるならば、その意を汲んであげるのが一番いいのだと分かってはいる。だが…。
(断る以前に、断られてるんだからどーもこーもないっつーの…)
「おしとやかにーなんて…そーゆーのは、私みたいな頭がイカれたイノシシがやったって無駄だよ」
「? なによ、それ」
「……みなさんそう噂されておりますが、ご存じないのデスカ」
どうせ噂するんなら、せめて本人の耳に届かないところでやってほしいと心底思う。
むう…と拗ねた顔で、ずるずると脱力してカウンターに顎を乗せる。ちらりと下から窺い見たサクラは、ほけっとした顔でしっかり三回瞬いた後…そう。
「………っふは」
笑った。
「…笑うなよ」
「笑うわよっ……っくく。誰がそんなこと言ってるのか知らないけど、大丈夫よ」
「…?」
「あなた、そんなに鼻高くないでしょ?」
「…………」
問題はそこか。そこなのか。
うるせーよ、と文句を言う気力も失せてヘレナディアはカウンターに突っ伏する。
別にイノシシと言われようがイカれていると言われようが、そこまで気にしているわけではないから問
題ないが、ここまで笑われるとは思わなかった。
だいたい、イノシシは鼻が高いわけではない。伸びているだけだ。
「だから、私は――――」
「あれー? ヘレナディア様じゃないっすか」
そんな噂に浸っている奴らのために、ストレス溜めて淑やかなになんてしない。そんなヘレナディアの細やかな反抗心は、第三者の声によって喉の奥に引っ込んだ。
「どうしたんですか? こんな時間にこんなところで」
ずかずかと遠慮のない足取りで隣に腰掛けた彼は、黒い作業着姿で頬には煤がついていた。
「こんにちは、クロノ君」
「こんにちわっす」
のろりと突っ伏していた頭を捻って相手を確認すると、にっと歯を見せて上機嫌に笑顔を向けてくれた。
ヘレナディアが釣られてにこりとほほえむと、クロノと呼ばれた青年は更にその笑顔をへにゃっと崩した。その頭上には、まるでかわいらしいお花がいくつか飛んでいるかのように見える。
空気が和むとは、まさにこのことか。
笑顔一つで作り出された空間に、ヘレナディアはちっちゃいことで拗ねていた自分が情けなく思えた。
「はー、こんなぼろぼろのむっさい店で女の子の笑顔…、癒やされるー。……あ、そーだ。シンジ! モデラを二頭貸してよ。定期検査の時期なんだ」
足についた煤を払いながら、クロノはいつの間にかカウンターの内側に引っ込んだサクラに向けて声を上げた。
モデラとは、荷車を引くのに適した獣だ。四つ足で歩行し、人よりも大きな体をして、時には人を乗せて走る。人懐こくて滅多なことで人間は襲わない、大きいけれどなんとなくかわいい生き物だ。
だが、どこに行くんだろうとか、そんなことより別のことが気になったヘレナディアはカウンターに頭を乗っけたまま疑問を口にした。
「…シンジ?」
誰だ、それは。
名前だろうか、聞き慣れないその音にヘレナディアはカウンターの内側を見るが、答えは隣から返ってきた。
「あれ、知らないんです? 店主の名前っすよ。サクラバシンジって言うんです。字は、えーと…こう書きます」
クロノは作業着のポケットからペンを取り出して、近くにあった紙切れにきれいな字で“桜庭慎司”と書いた。
「サクラ、なんて名前、かわいすぎておっさんにはちょっと似合わな――いだッ」
ぷふっと口に手を当てて含み笑うその顔は、数秒後にはサクラの手によって苦痛に変わる。
「いてーな! なにすんだよ、シンジ!」
「その名前で呼ぶなっつってんだろーが! だいたいおっさんとはなんだ! ワタシはまだ30代よっ!」
「30後半は十分おっさんだっつーの…っ」
ばしっと小気味がいい音が響いた後、痛みに頭を押さえたクロノが抗議するも言い方を改めない彼に、訂正しろ、とサクラの二撃目がお見舞いされた。
その大きな手で顔面を握られて呻き声を上げるクロノを余所に、のそりと頭を起こしたヘレナディアは渡された紙切れを眺め続けた。
…読めない。
記憶に薄い字で綴られた文字は、自分のよく知っているものではなかった。
これは南の大陸で使われているという、凜と呼ばれる言語だろうか。
「……サクラさんって、南の方の人だったの?」
もちゃもちゃとやり合っている二人とは全く別の次元へ意識を持っていっていたヘレナディアは、場にそぐわない呆けた声で問いかけた。
釣られて動きを止める二人との間に、僅かな沈黙が流れる。
「そーよ。言ってなかった?」
「うん。聞いてもないけど…なんで変えたの? 名前」
「…それは…」
不意に真剣な顔を作るサクラに、二人してどうしたことかと身構える。
「そっちのほうが、かわいいじゃない」
「………」
「………」
にこりと笑顔を添えられたその言葉は、この上ない脱力を運んでくださった。
妙に真剣な顔に、ごくりとつばを飲んで真剣に次の言葉を待っていた自分が果てしなく馬鹿に思えた二人は、ため息と共に肩から力を抜く。
「それに、シンジなんて明らかに凜の名前だってわかるじゃない。避けられる争いは出来るだけ避けたかったのよねぇ。だから端折っただけよ」
変えてなんかないわ、と屁理屈を言った。
それに、慣れてくるとこの響きも結構いいわよ。と、笑みを作る。端折っただけのサクラという名前も、思いのほか気に入っているようだ。
サクラという響きも十分、ここいらでは聞かない珍しい物だと思ったけれど、あえて突っ込むまいとヘレナディアは口を噤んだ。
いい年をしたおっさんが、一体なにを言っているのか。
見た目だけでは年齢不詳だが、実際の数字を聞くとずいぶんと小父に見えてきた。
倍近く違えばそれも当然か、とヘレナディアは納得することにした。
もう少し若いのかと思っていただけにちょっと意外だったが、そう思って見ると納得の年齢かも知れないとサクラを見ながら思う。
けれど、結果としてサクラの取った行動は間違っていないだろう。
いつの世も、人というものは他人の醜聞には頗る感興だ。
それが、他人の出生に敏感なこの国であればなおの事。
「んー…? そうなると、クロノ君もそうなの?」
ふと、彼の名前もどことなくこの辺のものとは違う感じがして、いつの間にかサクラの暴挙から解放されていたクロノに問いかける。
他大陸の言語とされる文字が書けるということは、そうなのだろうか。
カタカタとはまりのいい場所を探して椅子を動かしているクロノは、疑問の声にヘレナディアに向き直った。
「あー…、俺はここの生まれっす。一応。俺の名前は曾ばっちゃんがつけてくれたんだそうで、よくわかんないんですけど、なんでも俺ん家で昔から信仰してる神様の名前が由来らしいっす」
「へー、そうなの」
なかなか洒落たおばあさまだ。
「どんな神様なの?」
「…さあ? 知りません」
そんな家族たちに愛されて育ったのだと、彼を見ているとよく分かるだけにどんな神様なのか気になったヘレナディアの興味は、そっちに移った。
だが、少し考えるように首を捻ったクロノに、その僅かな好奇心は粉砕された。
「曾ばっちゃんはもう死んでるし、俺そういうの興味ないですから。聞いたことないっす」
「……そ、そうか」
サクラの手により、彼の物もいつの間にやら用意されていたようだ。飲み物に口を付けながら、クロノは悪びれ無く答えた。
興味無くとも、自分の家のことだろうに。