6.人生の通りすがり 2
なんだと側へ行くと、もう一度やって見ろと言われた。それも今度は、発動させず手の中に留めろという注文を付きで。
「そんな難しいことできない」
ただでさえ思ったことができないで困っているのに、すんでの所で止めるなんて芸当が出来るわけがない。なにを言っているんだと胡乱な目を向けるも、意に介さない彼はいいから、としか言わなかった。
しぶしぶさっきと同じように手のひらに意識を集中させる。今度は両の手のひらを上に向けて、胸の前で物を支えるようにその手を開く。
そこに自分の中に流れる魔力を集めるように、じっと手のひらを見つめる。次第に電気が走るみたいにパチパチという小さな音が不規則に鳴りはじめた。
「……っ」
まるで小さな嵐のように手の中で舞うそれは、集中して魔力を集めていると大きくなりすぎて支えきれない手が震えそうになる。そのことに気がついて、流れすぎないように支えられる程度の力に留めようと、今度は力を押さえることに集中する。
そう集中するあまり気がつかなかった。
思案げに顎に手を当てて、じっとその様を見ていたアスカのその手が動いたことに。
「――――っきゃ…!」
「…ッ」
いきなり手のひらから腕にかけて走った衝撃に、ヘレナディアは小さく悲鳴を上げた。
手のひらに支えた力に直接アスカの手が触れた瞬間、バチンッと大きな音にしびれたような感覚がした。音と同時に放たれた鋭い光にびっくりして、蹌踉けるように数歩後退する。
「……ふーん、なるほどな…」
少しして、そんな何かに納得したようなつぶやきが聞こえてきた。その声にそろりと目を開ける。
しげしげと、自分の手を眺めるアスカの目に驚きや苦痛の色は見えなかった。
呟かれた声もいつもと変わらない波のない音で、だから大したことなかったんだと思っていたヘレナディアは、そんな勝手な想像とは裏腹な光景に絶句した。
「…っそ、れ……!」
さっきヘレナディアが作った魔力の塊に触れたその手からは、息を飲むほど血が滴っていて、それ以上言葉が出なかった。
けれど驚いたのはその一瞬だけで、次の瞬間にはヘレナディアの心の中は別の感情に染まっていた。
ぽたりと地に落ちるその赤色を見て、自分でも驚くほど大きく心臓が鼓動したのを感じた。
まるで吸い寄せられるようにそこから目が離せなくて、徐々に高鳴る鼓動に瞬きも忘れてその傷を凝視していた。吐く息に熱が籠もる。
どくん、とまた一つ大きく鼓動したそれは、動揺からくるものじゃなかった。
そんな風に思うことが理解できなくて、それでも身体が戦慄くのは決して恐れからではないとはっきり言い切れる。
今自分が感じているのは、その赤色に対する喜悦だった。
「……」
皮膚の下の肉の色が。
血が、流れる体液の匂いが。
人間の持ってるその赤色が。
とても美味そうに見えた。
そう思った途端、急に喉が渇いてきて震える唇をきゅっと引き結ぶ。気がつけば、渇く喉を潤すようにごくりと唾を飲んでいた。
頭の隅ではそんなのおかしいと思っているのに、取り憑かれたみたいにそれしか考えられなくなって、戦慄く唇を僅かに開きかけた時。
「? どうした?」
「…!」
ずっと一点を見つめたまま動かないヘレナディアを不審に思ったのか、首を傾げるアスカの声にはっと引き戻される。ひゅっと、吸い込んだ空気が喉を通るときに音を立てた。
無意識に伸ばしかけていた手のひらを返して、愕然としたままその手を見つめた。
(…いま、なにを…)
考えていたんだろう。自分の思考を思い返して、震える手と頬にひやりとした汗が伝った。
自分はどこかおかしいんだろうか。
だって、人間の血が美味しそうに見えるなんて変だ。絶対おかしい。そう思うのに、その光景が脳裏に貼りついて離れない。
そんな自分が気持ち悪かった。
「なんだ、どっか痛めたのか?」
痛めたのは自分の方だろうに、心配そうにそんなことを言われて心の中は変な罪悪感でいっぱいだった。
肘から下を持ち上げたまま軽く握る手からは未だに血が流れていて、なるべくそこに目を向けないようにしたヘレナディアは、頼むから自分の心配だけをしていてくれと本気で思った。
でないと申し訳なさに胃が潰れそうだった。
冗談じゃなくて胃が痛い気もする。
その間も血の匂いが鼻について、先ほどの思考が脳裏をかすめるのだ。
(私、こんなに嗅覚あったっけ…?)
ぐらりと視界が揺らいで耐えるように眉間を押さえながら、今はそんなことに気を取られてる場合じゃないとその思考を振り払う。
一つ息を飲んで、意を決して手を伸ばす。
「…私は、平気だけど。あなたの方が平気じゃないでしょ…」
掴んだ手の傷をもう一度遠慮がちに見ても、今度は変な感情は湧いてこなかった。そのことにほっとしながら、持っていた小さな布を取り出してその血を拭った。
けれど、拭き取った血の下にある傷を見てぎくりと肩が揺れる。
傷もそれなりに大きかったけれど、それ以上にその傷を囲むように黒紫に変色した皮膚を見つけて言葉を失った。
「ぁ……」
聞かなくても、確認しなくても分かった。自分のさっきの力のせいだと。
直接触れた彼の手から、力を摂ったんだ。だから自分が集めていた魔力以上の力の衝撃になったんだと思い至って、どう謝ったらいいのか分からなかった。
それは手の中に留めるために抑えようとしていた力が、知らず知らずに高い濃度に圧縮されてしまっていた所為でもあったからだったけれど、そんなことヘレナディアは気付かない。
黙ってされるがままになっていたアスカが、傷を見たまま動かなくなったヘレナディアに首を傾げても、そのことに気づかないほど動揺してしまっていた。
「なんか、へんな感じ、する…?」
ややあって、おそるおそる尋ねるヘレナディアに少しだけ考えたアスカは何でもないことのように言う。
「んー? いや、ちょっとしびれてるくらいか?」
その様があまりにものんびりしたもので、その暢気さにすこしだけ腹が立った。
大したことないというその言葉に、ばかなんじゃないかと言いそうになる。
「た、たいしたこと…あるじゃん。…なんでこんな…」
さっき感じた喜悦など微塵も湧いてこなかった。代わりに感じるのは目の前の痛ましい傷に対する罪悪感だけ。
魔力の大小など、そんなの推し量れるほどの技量はまだ、自分にはない。
甘かったんだと痛感した。まだ、なんにも分かってないんだと。
自分の想像より、ずっと威力がある魔力の力を目の当たりにしてなんて言ったらいいか分からなかった。簡単に人に傷を付けてしまうと思ったら怖くて、知らず知らずのうちに視界が滲んでいく。
「…っ」
この力で、人が傷ついたところを初めて見た。
そのことが想像していた以上にショックだった。何か言わなきゃと思うのに、なにも言葉にならないほど。
自分の意思で剣を振るうのとは違う。一歩間違えば、必要ない人を傷つけるんだと思うとこれ以上何かするのが躊躇われた。
どんどん滲んでいく視界に、きゅっと眉を寄せて目に力を入れる。
「…ちょっと確かめたかっただけだ。大したことねぇって、すぐ治るよ」
涙が流れないよう、じっと下を向いてまるで睨むように一点を見つめていると、宥めるようにぽんぽんと頭を撫でられた。
とてもすぐ治るような傷ではないことは一目瞭然だったのに、そんなことを言うから。
宥めるように動いた手のひらが、その声が、優しかったから。余計に申し訳なかった。
布を巻いて傷を覆っても、じわりと染まっていく布を前にどうしたらいいのか途方に暮れていると、頭に置かれていた手がするりと下りてきていきなりぐいっと顎を掬われた。
「――…ひ、ゃっ」
え、と疑問に思う間もなく上向いた目元に生温い感触がした。
驚いて目を瞑った拍子に目尻に溜まった涙が睫に乗って零れるその瞬間、瞼を覆ったその感触に掬い取られたおかげでそれが頬を伝うことはなかった。
近すぎる距離にあるその顔に、濡れた感触のそれが相手の舌だと一瞬以上も遅れて理解した。
「…な、…な…っ」
目尻の涙どころかほぼ瞼全体を遠慮の欠片もなくべろりと舐められて、さっきとは別の意味で絶句したヘレナディアは羞恥に顔を赤くした。なんだか視界まで赤く染まった気がして、動揺に鼓動が早鐘を打つ。
なにをするのか、と怒りたくても言葉にならなかったヘレナディアは口で抵抗するのを諦めて、距離を取ろうとぐっと力を込めてその肩を押す。
けれど目の前の肩口を手で押してみてもぴくりとも動かないし、掴まれたままの顎に顔さえ逸らせなかった。おまけにいつの間にか、自分が握っていたはずの手に手首を取られてる。
冷静さを失ったヘレナディアはそのことには気づかなかったけれど。
「ちょっ…と、っ……?」
いい加減離れろと赤い顔のまま睨み上げると、その目はどこか明後日の方を見たまま動かない。
が、近い。近すぎる。
自分の鼻先がその喉元に付きそうなほどの位置で考え耽られて、どうしていいか分からないヘレナディアは硬直して動けなかった。考え込むならもう少し離れてほしいと切に思う。
「………おまえ、ほんとに女神に愛されてるんだな」
そうして感心したように呟いた言葉は、どうしたらこの状態から逃れられるかばかりぐるぐる考えていたヘレナディアには、なんのことやら分からなかった。
それでも聞き慣れない言葉に一瞬止まったヘレナディアに気づいたのか、アスカはふ、と少しだけ口元を綻ばせる。
「え、っと…?」
「昔話にあるだろ? 大地を作った神様の話。その跡を取って地上を守ってる女神様が、この色と同じ色をしてる」
疑問に視線を上げたヘレナディアにそう言って、アスカは自分の目の前にある灰緑色の髪を手で梳いた。
髪を引かれるその感覚で、この色というのが自分の灰緑の髪を指しているのだと分かった。
「女神様が祝福した人間には、彼女が自分と同じ色をくれるんだそうだ」
言いながらアスカは少しだけ身を離すと、指に絡めた灰緑色の髪を見つめる。
懐かしそうに細められた目は優しげだったけれど、どこか遠くを見ているように感じたヘレナディアには、彼のその目がなにを見ているのか分からなかった。
ここには居ない、女神様でも思い浮かべているんだろうか。
「女神様に似せたこの色が精霊達は大好きらしい。時にはいきすぎた施しを与えるって聞くが、…強ち嘘じゃないみたいだ」
「…っ」
にやりと笑って自分の唇を舐めたそれが艶笑すぎて、思わず息が詰まる。
ちらりと覗くその舌を見た瞬間、先ほど舐められた感触がまざまざと蘇ってきて引いたと思った熱が再び上ってきた。
何か少しでも文句を言いたかったけれど、ちょうどいい言葉が出てこなかったヘレナディアの頭からは、すでに申し訳ない気持ちなんかどこかに吹き飛んでいた。
距離を取ることも忘れて唇を戦慄かせていると、アスカはごくごく自然に手に掴んだ髪を引き寄せてその先に口付ける。
なにも考えずにただただその様を目で追っていたヘレナディアは、視線が行き着いた先のその目が、人をからかうように細められていることに気がついた。
「…っもう! 趣味の悪いからかい方しないでっ」
その目を見た瞬間、からかわれていたのだと気がついたヘレナディアは情けなさに恥ずかしくなった。さっきとは別の意味で顔が熱い。
ばっと腕を上げて、調子に乗っている人のその顎に裏拳の一つでもかまそうと試みたけれど、ひょいっと軽くかわされてしまって思わず舌打ちをしそうになる。
相手が身を離したことで、するりとその手を離れた自分の髪が、自分の上げた腕に引っかかって肩の後ろへふわりと流れた。
それを名残惜しそうに目で追っていたアスカは、口端を持ち上げて笑みを作ると楽しそうに喉で笑った。
「…残念」
「…!」
けれどすっと細められた目は、その口元とは違って全然笑ってなかった。
なにを考えているのか全然分からなかったヘレナディアはその目を見て、なぜか昨日の兎熊の目を思い出して無意識に少しだけ距離を取っていた。
そうして引かない熱が頬を染める中、ふらふらと揺れる視線をごまかすように呟く。
「し、知り合いなの? その女神様と」
「え?」
なんとか話題を逸らしたくて選んだ言葉は、そこだけ聞けば冗談か何かだとしか思えないものだった。現にアスカはきょとんとした顔をした。
彼の言うおとぎ話に出てくる女神の話はヘレナディアも知っているけれど、彼がいうとなんだか不思議な感じがしたのだ。
とてもそんなおとぎ話を信じるタイプには思えなかったし、彼はまるでその女神を自分の目で見たかのように話をする。
おとぎ話という割には、なんだか現実的に話すアスカの言葉は違和感が大きすぎた。
けれどすぐになんのことか分かったアスカは、ためらうように小さく唸ったあと気まずそうに項を掻いた。
「あー…、別に知り合いってわけじゃねぇけど…」
「……?」
呆れるように半眼で見るのは、ここには居ない女神様か。
それでも、言いにくそうなその態度に既視感を覚えたヘレナディアは、あ、と思いつく。
どうやら、余計なことを聞いてしまったようだ。
「それよりさ、気づいたんだけど。レナ、おまえ才能はあるけど素質はないかもな」
「は?」
上手く話の方向性を変えてくれて気まずさは感じずに済んだけれど、突きつけられた率直な言葉に、主語が抜けていたこともあって理解に時間が掛かった。
けれどなんのことなのか理解したらしたで、その事実にちょっとだけ頬が引きつった。
しかも、この短時間でそんな事実をさらっと伝えられてどうしたらいいのか。
「多分だけど、おまえのそれは魔術じゃない。ちゃんと術式を組んでるつもりだろうが、どうも違うっぽいんだよ…。そもそも精霊を喰ってる時点で魔法でもないしな。…じゃあなんだ、って聞かれると答えらんねぇけど」
本当に夕飯のメニューを提案するようなテンションで言われて、あっけらかんとしてしまった。
「え…、と…? どういうことか、ちょっとよく…」
分からなかった。ちょっとどころか、全部。
何でもないことのようにさらりと言われても、その流れについて行けない。
「おまけに、この先も魔術に関しての上達は見込めないだろうな。相性が悪すぎだ。あんだけの魔力に、ちょっと別の術重ねただけであんなになんねぇよ、普通。…まあすべてのってわけじゃないだろうけど」
と、理解の追いつかない頭にどんどんショックを与えていく。本人はそんなつもりはないのだろうが、その勢いには遠慮がなかった。
どうやら、さっき確認したかったことと言うのはそのことらしかった。集めた魔力が変に暴発したのは、彼が試みたことも加味されていると知って開いた口がふさがらなかった。
なんて危ないことを。
「じゃあ、私の悩みは解決しない、…ってこと?」
追いつかない頭でも、それだけは分かった。というか、そこが一番重要で大事なのに、こんなに早々にその事実を突きつけられると、さっきとは別の意味で涙が出てきそうなのだが。
「いや、自分の意思で出す出さないがちゃんと出来てきてるみたいだから、今のやり方で上達はしてる。そこは問題ないだろ。…ってことは、使ってんのは魔力だけどそれで操ってるのは魔術じゃないってこと」
「?? 分からない。難しいよ」
「要するに、おまえの…レナの魔力は魔術を使うのに適した魔力じゃないってだけだ」
「……だけって」
全然だけ、じゃないだろ。
その感情が顔に出ていたのか、アスカはしょうがないというように肩をすくめて見せた。
「よくある話だ。魔力は十分にあっても、魔術を使うのに適した要素の魔力じゃない人間なんて五万といる。そうじゃなくても、ある一定の術しか使えないとか、その力が別の能力に開化してるヤツとかいたりするけど。まあ、そういうのは希な例だな」
まあ気にするな、と軽く言われても、気にしないでいられるほど単純になれなかった。
別に魔法使いになりたいわけじゃないから、魔法や魔術が使えなくてもそのこと自体にショックはあまりない。だが、力はあるのに使えないならまだしも、他者の命を奪うなどという変な力に移り変わっていることは気にしないでいられなかった。
「どうしてそんな力なんかに…」
「さあ? そりゃ知らん」
「……ですよね」
「…よく聞く話じゃ、血筋によることが多いらしいけど。一概には言えないんじゃねぇのかな」
「そっか…」
なんとなくしょんぼりした空気で肩を落とすヘレナディアに、アスカは戯けたように励ましの言葉を述べた。
「まあそう落ち込むな。言ったろ? 才能はあるって。上手に使えば、その力だって使い道があるだろ」
何かの命を吸い取って更に何かを壊す力なんて、持っていたってどうしようもない。そんな力、ヘレナディアは使いたいとは思えない。
力はあるのに使えないなんて…。宝の持ち腐れならぬ力の持ち腐れだ。
落ち込むヘレナディアにアスカはそう言ったけど、破壊以外の言葉が見えないこの力に一体どうやって使い道を見いだせばいいのだろうか。おまけにその破壊には必ず犠牲が伴うのだ。