2.逃げたわけじゃありません
「ルナぁ!」
「あっ、ちょっと…!」
ヘレナディアが制止する声も聞かずに走り出したメメニアは、勢いよくルナに抱きついた。
「っ!? おまえ…」
けれどルナはしがみつくメメニアではなく、違う場所を見て驚いたように目を見張った。
その目の先にいたヘレナディアは、目が合った一瞬だけぽかんと呆けてしまった。
「…?」
けれど、ルナもヘレナディアも疑問に気を取られたのは一瞬で、直ぐにそんな場合じゃなかったとはっとする。
よく見なくても傷だらけだったルナはしがみつくメメニアを抱えると、立ち上がって自分の後ろを追いかけてきていた獣から距離を取った。
ルナが警戒して後ずさったと同じくして、またもや地面が大きく揺れる。そうして木々の間から出てきた獣は、熊のような図体にウサギのように長い耳を持っていた。
けれどその体は、ヘレナディアが想像していた以上に巨大だった。
(あれが亜種、だと…!?)
ヘレナディアには、一体何の亜種なのかも分からなかった。
熊のような魔物なら自分の国にも多く存在していたけれど、こんなに大きいのは見たことがない。
(しかも耳! 熊…? ウサギ…どっち!?)
ほんの少しだけ怯んだヘレナディアを知ってか知らずか、その獣の目がふらふらと何かを見定めるように、目の前にある四人の人間を行き来する。
その獲物を前にぎらりと光る目は、血よりも赤かった。
『グガァア゛ァァア゛ァ――!』
「――!」
咆哮と共にルナとメメニアに向かって、再び振り上げようとしたその腕を目にした瞬間、ほとんど反射で動いていた。
「ッ!」
足下にあった、ルナが取り落として吹き飛んだ剣を拾って、そのまま駆け出す。
魔物と二人の間に立って、振り下ろされる腕とは反対の真横から、握った剣で力一杯なぎ払った。
腕を狙って振るったつもりだったけれど、それは狙いを外して大きな爪に引っかかっただけに終わった。ガキンと鈍い音がして、腕を弾かれた魔物は僅かに怯んで後退する。
『ガ…ッ』
「…失せろ…!」
間髪入れずにそのまま一歩踏み込んで、相手を真っ二つにする勢いで剣を振り下ろす。
実際にはあまりにもその魔物が巨大すぎて到底二つになど割れはしなかったけれど、振り下ろした剣撃はその腹を大きく切り裂いた。
『グ、ガ…、ア゛ァア゛アァ!』
「…っつ」
切られた腹に悲鳴を上げたかと思うと、がむしゃらに振るう腕の爪が僅かに反応が遅れたヘレナディアの腕を引っ掻いた。
抜けるように走った痛みに、思わず舌打ちをする。苛立ちの目で魔物を睨み付けると、自分の中でざわりとなにかがざわめいた気がした。
この感覚は知っている。
ざわざわと足下から何かが這い上がるような感覚は、制御できない力が溢れそうになっている時のものだった。
――いけない。苛ついちゃダメだ。
そう思う反面、目の前の魔物をズタズタに引き裂いてしまいたい衝動に駆られる。
「……」
どくん、と脈打つ心臓の音が大きく耳に届いた気がした。
二度と反抗しようなんて気にならないように、痛めつけて降伏させて。
二度と起き上がれないように切り裂いて。
――また一つ、どくんと心臓がはねる。
「――おい!」
耳の奥で心音が響いているように感じるほど、その音は大きくて呼びかけている声も遠くに聞こえる。なにも頭に入ってこない。
まるで鼓膜に膜が張ったみたいに、周りの音はどこか遠くで響いているようだった。
黒い感情に飲み込まれそうになって、ぎゅっと剣を握る手に力を込める。
見据える視界には、腹を切られて尚もこちらに牙を剥こうとする魔物がいた。それをどこか違う空間から見ているような気分だった。
再び振り上げられる爪を見ながら、溢れそうになる力への抵抗をやめた。
「…二度はない。―――失せろ…!」
内側からはじけた。という表現が一番正しいかもしれない。
その爪が振り下ろされる刹那、苛立ちに任せて放った言葉に目の奥がかっと熱くなった。瞬間、まるで塗りつぶされるかのように色の変わったヘレナディアの瞳に、力が集まる。
魔物は小さな断末魔さえ上げる間もなく、一瞬にして首から上がはじけ飛んだ。
そしてそのまま、その体がぐらりと緩やかに傾いていったかと思うと、ドォンと大きな音を立てて地面に伏した。
その音を聞いて、ふと引き戻されたような感覚に陥ったヘレナディアは、数回瞬く。いつもの時間の流れに戻ったような、戻されたような、よくわからない不思議な感覚だった。
けれど逸れも僅かな間で、ぱちぱちと瞬いている内に瞳の色も元に戻っていった。おかげでその変化に気づく者は一人もおらず、ヘレナディア自身でさえその変化には気づいていなかった。
首が飛んだ魔物は倒れたまま動く気配はなく、辺りはしんとした空気に包まれる。
その静けさに、ヘレナディアが目の前の光景をやっと認識できた時にはすべてが遅かった。
やってしまった。
十分気をつけていたのに、また、やってしまったと青くなる。
もう危険は無いのだと分かっても、周りも呆けたまま動く気配がない。それが余計にヘレナディアの不安を煽っていた。
見なくても一同に凝視されているのが分かる。だって視線を感じるから。
どうしようという内心の焦りを表に出さないようにと思っていても、変な汗が頬を伝った。
(…大丈夫。ここじゃ、べつに不思議なことじゃない)
普通にしてたら、おかしなことなんかひとつも無い。そう心を落ち着かせようと努めることに必死で、みんなが本当に見ていたものに気づかなかった。
振り返ることなくヘレナディアが心の中でそうだそれでいいんだと自己完結をしていると、かさりと草を踏む小さな音がした。
その音にはじめに気づいたのはノゥイだった。
「…ぁ」
へたり込んだまま振り向くノゥイに、静かにという意味を込めてその人――アスカは自身の口に指を当てる。アスカはそのまま歩を進め、無言のままヘレナディアの首根っこを思いっきり引っ張る。
「…っう゛」
いきなり予想しない方向に引っ張られて、踏ん張りがきかなかった。後ろにいた人――おそらく引っ張った人――の胸に、とん、と頭がぶつかる。
一体何だと振り返る間もなく聞こえたその声音に、それが誰なのか理解したヘレナディアはぴたりと停止した。
「――で? これはどういう状況?」
「………えー、と」
一瞬言葉を失った。
誰か助けてくれるかもしれないという淡い期待をして数秒待ってみたけれど、ほんとうに儚い期待だった。だれも、この状況から救ってはくれない。
「ん?」
ちらりと見えた口元は笑みを浮かべていたけれど、その言葉には有無を言わさない雰囲気があった。
そうだ、この人――護衛というか監視というか――を捨て置いて、勝手に一人でふらふらしていたんだったと、その顔を見て思い出す。
咄嗟に、怒られる、と思った。
決して逃げたわけではなくただ息抜きをしたかっただけだったのだが、疑われるようなマネをしたのは事実だし、挙げ句、その結果がこんなことになってしまってヘレナディアも少しばかり動揺していた。
幸いにして怪我人が出ただけでみんな無事だったわけだが、なんだかそれを言ってみてもへんに言い訳じみているし、そもそもそれは自分の所為ではない気がする。だが、それを彼にどう弁解するのが正しいのか分からなくて、どうしようという言葉ばかりが頭をぐるぐる回る。
とりあえず謝っておこうと口を開きかけた時、アスカは何かに気づいたように視線を下げた。
「? なに…?」
そのままのぞき込むように頭を下げたかと思うと、するりと伸びてきた手に下膊を持ち上げられた。
「わ、…けっこう出てる、ね」
剣を握っている方の腕を持ち上げられて、自分の視界にも映る。そこには、三本赤い線が大きく伸びていた。
その線からは予想していたよりずっと多い量の血が滴っていて、真ん中に走る線が一際大きく、見ているとちょっと気持ち悪くなるほど肉が裂けていた。
どうりで、痛いはずだ。
その傷の具合を目にすると、より痛くなった気がしてそれをごまかすようにあっけらかんというと、腕を持ち上げて見せた人はぎゅっと眉間にしわを寄せた。
「けっこう出てるね、じゃねーよ。なにやってんの? おまえ」
呆れたように、いや確実に呆れている大きなため息は、それだけでなにが言いたいのかヘレナディアに伝わるほど感情のこもったものだった。
(いや、もうね、うん…)
言われなくても分かっていた。
あんな大ぶりな、戦略もなにもない振り回すだけの攻撃を避けられないなんて、情けないとしか言えないことを。
剣王が見ていたら、罵声どころの話じゃないということも。
(ていうか、あの人の稽古で振り回されるのより遙かに鈍かったのに避けれないとか…)
ああ情けない、としゅんと落ち込んでそう口にすると、目の前のしかめられた顔がさらにおかしな状態になった。
予想外な返答だったのか、ヘレナディアの言葉に呆れているとも驚いているとも取れる、よく分からない顔だった。
「ルナ…血が…っ。ごめん、ごめんね…、わたしがわがまま言ったから…」
なにをどう言葉にしようか迷ったみたいに、おかしな顔のまま口を開きかけて黙るアスカに首を傾げていると、メメニアの声が聞こえてきた。
その声に振り返ると、自分などよりよっぽど治療が必要な人がいることに気がつく。
「大丈夫…?」
止血が必要かと思って歩み寄ると、なぜか思いっきり睨み付けられた。
「おまえ、なんでこんなところにいるんだよ」
ぎろりと鋭い視線を投げかけられて、この人が一番自分のことを疑っていたことを思い出した。それと同時に、先ほどの視線の意味も理解できた。が。
「なにいってんのよ! こっちの台詞でしょうが」
「!?」
今のルナの一言に、ヘレナディアは若干キレた。
「あんた、なんでこんなとこに子供連れてきてんのよ。あれ、知らなかったわけじゃないでしょ」
あれ、と言って倒れた魔物を顎で決る。
まさか反撃されると思っていなかったのか、ぎょっとするルナの反応などお構いなしに彼が着ている制服を指して、なおも言いつのる。
「あんた、なんのためにその服着てるんだよ。町の人を危険から守るためでしょう? それともなに? ただの自己満足なの?」
「…んだと…っ」
さすがにかちんときたのか、ぎゅっと眉間を寄せるルナとは対照的に、ヘレナディアはひょいっと眉を持ち上げる。
「あんたの仕事はなんなのかって聞いてるんだよ。…あれ、巣を持たないヤツなんだろ? だったら、ここが安全だなんて、どうして思えるの。結界の外でも、街から離れていないし、この森には魔物は滅多に近寄らないから? 今までだってそうだったから今回も大丈夫だって? そんなわけないでしょ」
「…っ」
反論はさせないと言わんばかりの勢いで言葉を続けるヘレナディアに、ルナはぐっと喉に言葉を詰まらせたように黙ってしまう。
怪我をしてまで子供を守ろうとしたのは立派だが、そうならないように努めるのが本来の行動だろうと説く。
それなのに、子供を危険な目に遭わせたのに、まずすることが自分に文句を言うことだなんて許せない。
「それを考えて行動するのがアンタの仕事でしょうが。…ったく、人に目くじら立ててる暇があったら、その脳みそもっと有効に使ったらどうなの?」
最後の一言は余計なことかと思ったが、いままで浴びせられた罵声にちょっとだけ仕返ししたい気持ちがあったのか、必要以上に棘が貼りついてしまった。
けれど、思うところはあるのか、予想外にもルナは言い返してこなかった。
はらはらと二人を見守っていたメメニアが、おろおろした様子で視線を投げてくる。少しだけ気まずい空気が流れ始めたところで、はあ、とひとつため息が聞こえた。
「結構なご高説だけどな。人のこと巻いてこんなとこまで来てるおまえは、人のこととやかく言えねぇだろーが」
「む…なによ、私は自分のことくらい自分で守れるもん」
また、ぐいっと首根っこを引っ張られる。今度は思いっきりというより、捕まえておくために握るような感じだった。
面倒なのでそれにはもう抵抗せず、でもあえて反抗はしておいた。
見えていないだろうけど、ぷい、と横を向いてふてくされることで。
「うそつくな。怪我してるくせになに言ってんだ。だいたい、そういう問題じゃねーだろ。…ったく、勝手に一人で出歩いたりすんなよな。おまえお―――」
呆れたようにため息交じりで言いかけたその言葉を、アスカはなぜか声に出さずに飲み込んだ。
「お…、なに?」
ちらりと視線だけで後ろを向くも、首を回すことができなくてどんな表情で言いよどんでいるのか、ヘレナディアには見えなかった。
少し気まずい顔で言いよどむアスカなど知らぬヘレナディアは、なんだろうと考えること数秒後、はっと思いつく。
(お尋ね者? もしや、お尋ね者だと…!?)
まるで合致がいったというように思いついた言葉に、ヘレナディアは人知れずショックを受けていた。
まさか本当に疑われていたとは。
お尋ね者なんだから紛らわしいマネをするなと言いたかったんだと思い至って、思わず聞かれてもいないのに弁明する。
「べ、べつに変なこと企んでないからねっ」
「…なんの話だ」
「あ、怪しい人間とか知らないしっ」
「だからなんの話だ」
「え? …私のこと、お尋ね者だってこと自覚しろってことじゃ…? え?」
「なんだ、お尋ね者だったのか? おまえ」
「? 違うの…??」
なんだこのかみ合わない会話は。
そう思ったのはアスカも同じで、ヘレナディアと同じように首を傾げている。
しばらく沈黙したあと、これ幸いと思ったアスカはひとつ咳払いをして話を変えた。
「とにかく、黙っていなくなるな。心配するだろうが」
「えーと、…すみません…」
ここは自分が謝るところなんだろうかと疑問に思いながらも、確かに黙って姿を消したのは悪かったと思ったヘレナディアは、素直に謝罪した。
「とにかく、帰るぞ。おまえらもだ」
悪かったと思ってはいるが、次もやりそうな顔で謝罪をしたヘレナディアにアスカは一瞬胡乱げな視線を向けたが、彼はいつまでもこの話題を引きずらなかった。あとの三人にも声をかけて、返事を待たずに歩き出す。
すっかり頭の切り替わったヘレナディアと違って、まだヘコんでいたルナの頭をアスカは過ぎ様に、ひとつぽんと撫でる。
「…コイツの言ってること、間違ってねぇって分かってんなら俺はなにも言わねーよ」
「…っ」
そう言った後、アスカは引きずられるように歩くヘレナディアに一度視線を落としてから後ろを振り返った。
「………」
引きずられるようにして歩を進めるヘレナディアが立っていた場所は、そこだけ不自然に色が変わっていた。
まるで線を描いて切り離されたように、その草は枯れ果てて茶色に染まっていた。