1.盗人の定義
ぽかぽかと暖かい日差しを浴びながら寝転がっていると、眠気などなくてもついうっかり眠ってしまいそうなほど心地よかった。
木々の間から差し込む光はきらきらと泉の水面を反射していて、なんてことない森の中なのにそこだけ特別な空間に見える。
「うーん…」
ヘレナディアは今、ロンディーヌ首都の外れにある小さな森の中にいた。
街の外だけどすぐ側に結界があるせいか滅多なことでは魔物も近寄らない場所だと聞いて、これ幸いと足を運んでみたのだ。
そこは森の中心ほどにある開けた場所で、小さな泉と綺麗な花々がたくさん咲いている美しい場所だった。
綺麗な空気に鳥たちは、まるで喜んでいるかのように飛び回り、泉の周りには羽を休めたり何かを啄む鳥たちが沢山いた。
不思議なことにヘレナディアがこうして居座っていても、鳥たちは怯えて逃げるどころか、チチチと鳴きながらちょんちょんと近くに寄ってくる。
そんな、まるで外界から切り離されたような清爽とした空間が心地よくて、いつまでも寝転がっていたい気持ちに逆らえないでいるのだ。
じっとしていると、鳥の鳴き声と時折吹く風に踊る、木々の凪ぐ音しか聞こえない。なにもない静かな空間。
(…落ちつく)
生い茂る木々から覗く青空を感じながら目を瞑り、顔をほころばせる。
ここ数日、動き回っていたばかりだった所為か、こうしてなにもしないでぼうっとしていることに果てしなく癒やされる。
いつまでも寝転がっていてはいけないと分かっていても、この気持ちよさからはなかなか抜け出せなかった。
「―――あー! やっぱりここにいたーっ」
いつの間にか腹や腕に乗っかってくつろいでいる鳥たちが、いきなり聞こえたその声に驚いて一斉に飛び立つ。
その声で、現実に引き戻されたような感覚になったヘレナディアは、密かに眉を寄せる。
「ダイブ!」
「…ぐ…っ」
なんなんだと肘をついて起き上がろうと上体に力を入れた途端に、とうっ、と勢いを付けて小さな何かがのしかかってきた。
「…っ、ダイブじゃないわよ。殺す気なの、ノゥイ…」
「だって、おれも一緒に行くって言ったのにレナ先に行っちゃうんだもん。なんでおいてくんだよっ」
そう言って文句を言いながら足をばたつかせる十歳ほどの子供は、ロンディーヌの街に住んでいる少年、ノゥイだった。
褐色の肌に気の強そうな目の少年は、更に眉をつり上げてヘレナディアの腹の上に寝転がる。
「なんでって…。遊ぶんなら、市街地の公園で十分でしょ」
「あんな子供だましもう飽きた」
「子供だましって、あんた子供でしょうが」
呆れた顔でヘレナディアはノゥイの頭をぐりぐり撫でると、彼はぱしりとその手をはたき落として立ち上がった。
「子供扱いすんなってばっ。なー、こんど剣教えてくれるって言ったろ? ほら、俺持ってきたんだ!」
「話聞けよ…そもそもそんなの承諾してないし……って、それ私の剣じゃない!」
「感謝しろよ? 俺がくすねてきてやったんだ」
ノゥイが持っていたのは、ハイラに預かっておくと言われてなぜか没収されたヘレナディアの剣だった。
ふふん、と得意げに胸を張る少年に、呆れてものも言えなかった。
きらきらとした目で剣を見つめるノゥイは、新しいおもちゃを手にした子供そのものだ。しげしげと持っている剣を眺めたあと、ノゥイは楽しそうな顔のまま言う。
「おまえが持ってるわりに、ずいぶんりっぱな剣だよな。どこから盗ってきたんだ?」
「…なんで盗んだ前提なのよ。そんなことするわけないでしょ」
「? だっておまえ、王さまの大事なもの盗んだから監視されてるんだろ?」
やましいことなどなにもないが、知られていないと思っていた部分を指摘されたのかと思って、ちょっとだけぎくりとしたヘレナディアの内心を知ってか知らずか。ノゥイはきょとんとした顔で、さらりとそんなことを言った。
首を傾げて不思議そうに言う少年に、思わずがくりと項垂れる。
「だってって…、違うから。盗んだのわたしじゃないから。ていうか、そこは別にイコールになんないでしょ。あれもやってるからこれだってやってるんだろう、なんて考え方は良くないわよ」
「ふぅん? じゃあ、なんでアスカは毎日毎日おまえに張りついてんだ?」
「……しりませんそんなの」
少年の純粋な疑問に、ヘレナディアは目を瞑って知らない顔をする。
そう、はじめましてのあの日から、アスカは律儀にも毎日ヘレナディアのところに来ていた。
はじめの印象では全然まじめそうに見えなかったから、きっと適当に理由を付けてなんだかんだと言いつつ放置されるんだろうと思っていたけれど、その予想はたった二日にして大いに覆っていた。
面倒くさそうな顔をしていたし、こんな実になるのかどうか分からない作戦に真剣に取り組む筈はないと高をくくっていた所為もあって、アスカのその行動はヘレナディアにとって多大なる疑問しか運んでこない。
しかもなにがって、ただ居るだけなら特に気にもならないのだが。
「…ねえ、あの人ってヒマなの?」
家屋の修繕をしている最中ならば、気がついたらなぜか手伝いはじめていたり、なんで旅をしているんだとか、このあとはどこに行く予定なのかとか、とにかくあれやこれや聞いてきて早二日にしてあのとき首を縦に振ったことを後悔し始めている。
いったい何がしたいのかわからない。
もうやることがなくてヒマなんだとしか思えないんだが、どうやらそうでもないようなのだ。
彼を訪ねてくる人は日に何人もいて、ころころと違う人と話をしていたりするから、おそらくヒマではない…のだろう。まあ、その中には綺麗に着飾った女の人もいたりするから、すべてがすべて仕事というわけではないのだろうけれど。
毎回毎回違う顔の女性が彼の元に来ては、楽しそうに食事を共にしていく。それも一日三食二人から三人、二日間ほぼそんな状態だった。それに喜悦するでもなく、かといって邪険にするわけでもないその姿に、ヘレナディアは彼の本質を見た気がした。
これは、相当な女たらしだ。
あの気怠げな無愛想さで、よくもまああそこまで引っかけられるものだと目を点にしてびっくりしたのは言うまでもない。そこがいいんだと言っている声を聞いたような聞かなかったような気がするが、その時はそんなのよりその女性たちの容姿に気を取られていた。
確かに、アスカの見た目がかっこいいのは分かる。あそこまで容姿端麗な人を、ヘレナディアも初めて見た。
すっと伸びた鼻梁は横から見るととても綺麗だし、少し獣を思わせるような瞳は怠そうな色を醸しているにも関わらず、鋭さは湛えたままだった。その髪も、見たことがないほど混ざり毛のない鮮やかなプラチナブロンドで、くせっ毛があまりないのかその髪はいつもそれなりに整えられていた。さらりと風に靡く髪の毛を、無意識にじっと見つめてしまったこともあったくらいだ。
それでも毎日毎日飽きもせず訪れては、ほぼ一日中目につく範囲にいるというのは。
(ちょっとうっとうしいんだよなぁ……)
相手の容姿が目立てば目立つほど、その気持ちは大きくなっていっている気がする。
自分で「分かりましたやります」と言っておいてなんだが、こんな事をしているより、周辺に偵察でも放った方が絶対効果的だと思う。
(…なんとなくだけど、そういうの勝手にやりそうなタイプに見えるけど)
彼は言われたことを忠実にこなすタイプというより、多少型を破ってでも強引にゴールまで持っていくタイプに見えるのだ。あくまで見えるだけだが。
だから、護衛というのは建前として、さっさと外へ偵察に行くなりなんなり行動を起こすだろうと勝手に想像していた。そう考えると、“これ”は、それほど重要視されたことではないのかもしれない。
それともあれか。実は自分は全く信用されてなくて、本当に監視されているのか。
(あ、なんかこれが一番しっくりくる)
「んー? まあ、今は祭り前だし。けっこうヒマなんじゃね?」
「逆じゃないの? ふつう」
「んーどうかな。まあ、アスカもいっつもこっつも忙しいってわけじゃねーだろーし。つーか、あの人どっちかっつーと仕事あんまり好きじゃねーと思うよ。よくサボってるもん」
「………」
なるほど。実はサボる口実になっているということか。
まあ、それならそれでも別に良いけれど、今のところ特に進展もなくただただ日々時間が過ぎていくだけなのは事実だ。
ただ待っているだけでは問題の解決には繋がらないと思うのは変わらないが、詳しい事情をなにも知らない自分がそれを言えたことじゃないと、疑問にそっと蓋をする。
当の本人がそれで良いなら、世話になっているヘレディアがとやかく言えることではない。
できることを協力する。それだけだ。
だから、監視でもなんでも好きにしたら良いと思う。だが。
「……」
他意はないと分かっていても、ずっと張りついていられるのはやっぱり疲れるのだ。
だからいま、誰かに声をかけられて彼が席を外した隙を見て、勝手に抜け出してきてここにいる。
「ま、考えても仕方ないか…。それより、ノゥイ。一人で来たの?」
飽きもせず剣を眺めているノゥイに、起き上がったヘレナディアが問いかけるとノゥイは首を横に振った。
「いや、途中までルナとメメニアが一緒だった」
「…なんで途中?」
「そんなん、巻いてきたにきまってんじゃん」
「………」
満面の笑みで得意げに言うことじゃない。
悪党じゃあるまいし、同行者を巻いてきてどうする。
ノゥイの行動に呆れてものも言えないヘレナディアは、額を押さえながらため息を吐く。
「いくらなんでもそれはダメでしょ」
「大丈夫だって、この辺ならよく来るし、危ない目に遭ったことなんか一度も…――」
はあー、と大きなため息を吐いたヘレナディアは、言葉半ばにはっと顔を上げる。
「し、ちょっと黙って」
不自然に空気が揺れた気がして、ヘレナディアはしゃべっている途中のノゥイを手で制する。
注意深く見渡してしばらく待ってみたが、特に何か音が聞こえるわけでもなく気のせいかと肩の力を抜いた途端、ガサガサッと草木が揺れた。
「…!?」
ぎょっとして思わず身構えるも、揺れた草木の奥から姿を見せたのは、ノゥイがさっきまで一緒だったと言った少女だった。
「メメニア?」
「あ…、あ……お、おねえちゃん…!」
けれどその顔は、ヘレナディアが見て知っていた、楽しそうに笑うものとは大きく違っていた。
顔も服も泥だらけで、その瞳には今にも溢れそうなほど涙が滲んでいる。恐怖と困惑に満ちたその顔は、ヘレナディアの姿を見た途端にくしゃりと歪む。
縺れそうな足で、それでも前に進む少女に駆け寄ると、メメニアは今度こそ耐えかねて声を上げて泣き出した。
「ふえぇ…、ぇ…。おねえちゃん…」
「どうしたの。なにがあった?」
「うぅ…ルナが…。ルナを助けてっ」
しゃがんでメメニアの両腕をそっと握ったヘレナディアに、彼女は泣きながらもそれしか言わなかった。
泣きながら目をこする少女の手には小さな花が数本握られていて、力一杯握りしめていたのか茎の部分はくったりと力をなくしてしまっている。
泥に汚れた手も気にせずに顔をこすって涙を拭くメメニアに、もう一度なにがあったのか聞こうとした瞬間、少女ははっとしたように顔を上げた。
「…っや、やっぱりだめ! にげてにげて! あいつが来ちゃうっ」
「あ、あいつ?」
ってだれだ。
『ガアアァァアァ――!!』
「――っ!?」
「きゃあああぁぁ―――!」
ヘレナディアが口を開こうとした瞬間、ビリビリと地面が揺れるほど大きな獣の声が聞こえてきた。
その声の近さに、ヘレナディアがぎくりと肩を揺らしたのと同時に、メメニアが悲鳴を上げる。
異常を察知したのか、瞬間バサバサっと音を立てて鳥たちが逃げるように飛び立った。おそらく鳥だけではなく、多くの動物が獣の咆哮に恐怖して逃げるようにその場を去っただろうと容易に想像できるほど、その咆哮は大きく響き渡る。
恐怖に耳をふさいで蹲るメメニアを、ヘレナディアはほとんど条件反射で隠すように腕の中に抱き締めた。
人間よりもずっと優秀な危機管理能力を持っているだろう動物たちが、おびえ逃げ出す状況に緊張が走る。
「…っなんだ?」
「あ…あいつだ」
震える少女の身体を抱き締めたまま、周囲を警戒するヘレナディアの背後から、ノゥイの震えた声が聞こえた。
「だから、あいつってだれよ」
ノゥイの声に視線だけで振り返ると、腰を抜かしたように尻餅をつく姿があった。
「あ…あいつは、最近見つかった大型の亜種だって…。巣を持たない、変わったヤツで…、でもこの森には近寄らないって聞いてたのに…」
「はぁ? あんたそういうの、分かってて一人でうろちょろしてんじゃないわよ…っ、ていうか、そういうことはわたしにもちゃんと言っといてくれないと危ないじゃんかっ。――ああもうっ…今はそこはいいわ。それより、早く逃げるのよ! ほら、急いで!」
震えるメメニアの腕を強引に引っ張って、ノゥイの元まで連れて行く。
近くにいるのは分かるのに姿が見えないというのは、何ともいえない不安がある。ましてやそれが、自分に襲いかかってくるかもしれない魔物だとくれば、恐怖は計り知れない。
それでも逃げ惑うではない子供達にほっとしながら、ヘレナディアはどうするのが良いか考えた。
(とにかく、二人を逃がさなきゃ)
何よりもそれを優先させなくてはと、気持ちを引き締めると辺りの気配を注意深く探る。しかし、さっきとは打って変わって、しんと静まりかえった空間が漂うだけで逆に不気味だった。
何かが動く気配も感じなければ足音も聞こえない。
「……」
強い視線で森の奥を凝視していたヘレナディアは、意を決したようにしゃがみ込んで二人の子供に向き直る。
なにをどうするのが正しいのか分からないけれど、子供達だけは絶対に守らなくてはと、二人に向かって静かに口を開く。
「立って。このままここにいたら危ない。今のうちにここを離れろ」
へたり込んでいるノゥイの腕を引き上げながら、腕の中のメメニアを引き渡す。彼女が走ってきた方向とは反対側を示しながらノゥイの背を押す。
早く行けとノゥイの背中を押して口早に言うヘレナディアを、ノゥイは不安な顔で見上げながら、その手から逃げるようにくるりとヘレナディアに向き直る。
「お、おまえはどうするんだ」
「ルナを探す。途中まで一緒だったんでしょう?」
「! だ、だめ!」
怯えたように俯くメメニアが、ヘレナディアの言葉に弾かれたように顔を上げた。
「だめだめ、絶対だめ! 見つかったら殺されちゃうっ。…お、お姉ちゃんは逃げなきゃ…っ」
大きな目にいっぱいの涙を浮かべて言う少女は、ぎゅっとヘレナディアの服を掴んで放さなかった。
「…メメニア」
じっと見つめてくる瞳を見て、ヘレナディアはふわりと少女に向かってやさしく微笑む。
「大丈夫。ちょっと見てくるだけだから、なんの心配もいらないよ」
そっと彼女の頭を撫でながら、にこりと微笑むヘレナディアにそれでもメメニアは不安げな顔を隠さなかった。
その顔を見て、そんなにまで怖い思いをしたのかと思うとかわいそうだった。そんな不安を払拭してあげたくて取った行動だったけど、返って不安を煽ってしまったようだった。メメニアは、なにも言わずにぎゅっと抱きついてきた。
「うー…」
「街の東端の門に通じてる道があるでしょ? あの道ならきっと大丈夫だから、とりあえず急いで…――っ!」
行って、と最後まで言い終わらないタイミングで地面が大きく揺れた。
何かが歩くように、ズシンズシンと大きな音が聞こえたかと思うと、次第にその間隔が短くなってくる。
すると程なくしてメメニアが来た方角と同じ方から、草木をかき分けて人が飛び出してきた。
そしてそれを追いかけるように、すぐに大きな爪が空を切る。
「……ッ!」
草木をかき分けて出てきた人は、転げるようにすんでの所でその爪を避けると、その衝撃で持っていた剣を取り落とした。
空振った爪はそのまま側にあった木を引き裂き、その大きな木がメキメキと音を立てて倒れていく。
茂みから飛び出してきた人が誰なのか認識した途端に、メメニアがその人に向かって駆けだした。