第八十三話:火花
食事というのは、人間にとっては非常に大事なものである。
食欲は三大欲求の一つにも数えられ、食欲を満たさなければ人間は死んでしまう。水分さえ取れれば、普通の人間でも一週間程度は生きることができる。だが、栄養のある食事というのは重要だ。
『ES能力者』――とりわけ、“成り立て”の『ES能力者』は普通の人間と同じように食事を取る。これは人間だった頃の慣習を引きずっているというのもあるが、体が“まだ”人間に近いからだ。
また、食事はその味を楽しむことで嗜好的な欲求も満たすことができ、精神の安定にも欠かせない。味が良く、栄養にも優れ、見栄えも素晴らしい。そんな食事を取れれば、精神的にも癒されるというものだ。
「はい、博孝君。朝ご飯だよ?」
「ああ……いつも悪いなぁ」
そんなことをつらつらと考えていた博孝は、ここ最近、毎日のように里香から渡される手製の弁当に感謝の声を上げていた。周囲のクラスメート達も慣れたのか、からかいの言葉すらかけてこない。だが、その代わりに博孝達からやけに距離が取られていた。
博孝が申し訳なさそうに言うと、里香は笑顔で首を横に振る。
「ううん。わたしも料理ができて楽しいから」
「そうか? でも、やっぱり食費ぐらいは受け取ってほしいんだけど……」
博孝が申し訳ないと思うのには、理由があった。毎日のように弁当を作ってもらう手間もだが、その材料費も馬鹿にならない。そのためせめて食費は受け取ってほしいと思うのだが、里香は笑顔で謝絶するのだ。
「好きでやってるんだから、気にしないで。それに、訓練校の中だとお金の使い道も少ないし」
里香の言う通り、訓練校の中ではお金の使い道が限られている。食堂や購買で買い物をするぐらいしか使い道がなく、その上、どちらも値段的には相場よりも安い。
生徒の中には通販を利用して趣味関連の商品を買う者もいたが、それでも毎月の給料を使い切ることはなかった。
「聞いた? 好きでやってるんだって……」
「最近の岡島さん、ちょっと大胆になってきたわね……」
「何かあったのかな?」
そんな博孝と里香の会話を聞き、女子達がヒソヒソと話す。“とある理由”から距離を取ってはいるが、会話の内容が気になるのだ。それでも、万が一にも“とばっちり”を受けないようにしているが。
これまでならば一緒に食事を取っていた恭介やみらいも、近くにはいない。恭介もみらいも博孝達から離れた場所に座っており、安穏とした表情で朝食を取っている。
「博孝、里香、おはよう」
そして、女子達が距離を取る“理由”――沙織が姿を見せた。その瞬間、僅かに食堂の空気が緊張する。だが、沙織はそれに気づいていないように微笑みつつ、博孝と里香のもとへと歩を進めた。
その手には布包みがあり、里香の眉が僅かにへの字に近づく。博孝は現実を逃避するように視線を遠くへ向けながらも、沙織の挨拶に対して片手を上げた。
「おっす、おはよう沙織……んで、今日も何か作ってくれたのか?」
下手をすれば自意識過剰に取られそうな言葉だが、博孝としては外れていてほしいと思わないでもない。しかし、沙織は博孝の言葉を聞くと、楽しげに頷いた。
「消化に良さそうな物を榊原さんに注文して、取り寄せてもらったの。今度は里芋の煮付けを作ってみたのよ」
そんなことを言いながら、沙織は博孝が座っている机――里香の弁当箱の隣へと布包みを置く。
「実家で料理をしていた時は面倒だとしか思わなかったけど、誰かに食べてもらうのって嬉しいことよね……最近、料理を作るのが楽しくなってきたわ」
そう言って、仄かに笑う沙織。実家にいた頃は、身の回りの家事は全部自分で行ってきた。家事の中には料理も含まれていたが、料理を作ることはできても、時間がかかる上に面倒である。
そんな風に思っていた沙織だが、ここにきて事情が変わった。博孝が倒れたことで、とても心配な気持ちになったのだ。砂原からは過労と聞いているが、博孝の様子を見ればそれだけとは思えない。そのため、自分でも作れる範囲で胃に負担がかからない料理を作ってみたのだが、これが博孝に大好評だったのである。
大切な“仲間”に、笑顔で美味しいと言ってもらう。これまで鍛錬一辺倒だった沙織にとって、その行為は望外の喜びへとつながった。
「それじゃあ、わたしも朝食を買ってくるわ。先に食べていて」
それだけを言い残して、沙織は朝食を買いに行く。先に食べていて良いと言われたが、時間がかかるわけでもないので博孝は待つことにした。ただし、手持無沙汰になるため、沙織から受け取った布包みの開封は行うが。
「里芋の煮付けって言ってたけど、どんな感じだ?」
そんなことを呟きながら、博孝は布包みを開ける。それとなく確認してみると、里香も興味深そうに布包みを注視していた。里香が弁当を作ってくるので、沙織が作るのは一品ものの料理である。それ故に、里香としても沙織の作った料理が気になるのだろう。
布包みを開け、タッパーの蓋を外す。そして中を確認すると、沙織が言った通り里芋の煮付けが入っていた。一口サイズに切られ、艶やかな黄金色になっている里芋。タッパーを開けた途端に醤油や砂糖、みりんが混ざり合った香りが広がり、食欲をそそる。
「むー……」
沙織が作ってきた里芋の煮付けを見て、里香が小さく唸る。先ほど角度を変えた眉が、さらに角度を変えている。その角度に危険なものを感じる博孝だが、余計な言葉を挟むわけにもいかない。
「あら、まだ食べてなかったの?」
博孝が無言で冷や汗を流していると、朝食を乗せたトレーを持った沙織が近づいてくる。
「いやぁ……せっかく作ってもらったんだし、作った本人がいる前で食べたいな、と」
礼儀というわけではないが、それが筋だと博孝は思う。沙織はそんな博孝の言葉に苦笑すると、博孝の隣の席へと腰を下ろした。
「気にしなくて良いのに……でも、そう言われて悪い気はしないわね」
口元に手を当て、沙織はころころと笑う。そんな沙織の表情を見た博孝は、僅かに見惚れ――周囲の気温が下がったような気がしたため、慌てて視線を切る。
「じゃ、じゃあ、いただきます」
何かを誤魔化すように両手を合わせ、博孝は里香と沙織が作ってくれた朝食に箸を伸ばす。最近は食欲も戻っているため、里香が作ってきた弁当は白米とおかずというオーソドックスなものだ。
里香のおかずを食べ、白米を口に運び、その後に沙織の里芋の煮付けに箸を伸ばす。
「じー……」
里香の視線が、痛い。まるで物理的な圧力があるかのように感じつつ、博孝は里芋の煮付けを食べる。
(……美味ぇ)
心からの感想を声に出さなかったのは、せめてもの悪あがきだった。だが、声には出さずとも表情には出ていたのだろう。ポーカーフェイスには自信があった博孝だが、里香や沙織の眼力には勝てなかったらしい。沙織は満足そうに微笑み、里香はどこか悔しそうに視線を俯かせる。
「い、いやぁ! 二人とも料理が上手だなぁ! 朝からこんな美味しい料理を食べられて、俺は幸せだなぁ!」
遅きに失した気もするが、それでも賛辞を口にする博孝。
里香の料理も沙織の料理も、博孝からすればとても美味い。博孝自身はそれほど料理ができないため、なおさら美味く感じる。
それでも、一つだけ言えないことがあるとすれば――。
(沙織の料理の方が、味付けが好みだとは言えんよなぁ……)
沙織が作る料理は、どちらかと言うと味が濃い。現在は博孝の体調を考慮しているのか、“普段”よりは薄味なのだろう。対する里香は、博孝の体調を考慮して完全に味を抑えている。
両者を比較した場合、沙織は現状の博孝が食べられる上限ギリギリの味の濃さだったのだ。そのため、里香の料理よりも沙織の料理の方が強く味を感じてしまった。
無論、里香の料理が不味いということではない。料理関係の学科を目指していたというだけあって、よく考えられた味付けだった。食材や栄養のバランスも良く、非常に健康的と言えるだろう。料理のレパートリーも、沙織よりも数倍は多い。
――だが、味付けの好みで沙織に軍配が上がっていた。
里香も、それを察している。例え博孝が口に出さずとも、里香の料理も美味しいと思っていたとしても、味の点で優劣がついているのだ。
「……もっと、頑張る」
博孝や沙織に聞こえない声量で呟き、里香は頭の中で次の弁当の内容を組み立て始める。栄養価が高く、味も良く、見栄えも良い。その中でも、博孝が好みの味付けを見つけるのだ。里香は、静かに決意した。
「なんだろう……羨ましいシチュエーションのはずなのに、羨ましくない……」
「見ろよ、河原崎の顔……教官に鳩尾を殴られたのを必死に堪えているような顔をしてるぜ……」
「なんだアレ……背中が冷や汗で濡れてる?」
男子達が密かに話し合うが、その声にはどこか憐憫の情が含まれていた。親しい女子に手料理を振る舞ってもらうという、一種の羨望的な出来事。しかし、それも相手の数が増えれば純粋には喜べないらしい。
クラスメート達は博孝を同情半分、羨望半分に見ながらそんな言葉を交わすのだった。
夜になり、博孝は自室でベッドに寝転がっていた。時刻は既に深夜と言って良い時間であり、日付も変わっている。普段ならば砂原による稽古があるのだが、まずは体調を戻すように言われているのだ。そのため、日中の授業や実技訓練は許可が下りても、自主訓練については禁止を言い渡されている。
「まあ、それでしっかり休めれば苦労はしないんだけどなぁ……」
呟きつつ、ベッドから身を起こす。みらいは既に眠りについており、熟睡しているのか多少の物音では目を覚ますこともない。博孝は半ズボンにTシャツという身軽な服装に着替えると、静かに部屋から抜け出した。
こっそりと自主訓練を行うため――などではない。もしも自主訓練を行っていることが発覚すれば、砂原によって笑顔で締め落とされるだろう。そのため、純粋に夜の散歩に洒落込むことにした。
「……で、ここにきたと?」
「そうなんですよ。いや、部屋にいても眠れなくてですねー」
そんなことを言いながら、博孝は体育館の管理室で野口と顔を合わせる。最近はあまり顔を出すことがなかったのだが、相変わらず不良兵士をやっているらしい。野口は訪れた博孝を邪険に扱うこともなく、紙コップにコーヒーを入れて差し出してくる。
里香と沙織のおかげで、博孝の体はだいぶ正常に戻りつつある。あとは“以前”のように眠れるようになれば、完治したと言えるだろう。だが、自主訓練に明け暮れていた時とは異なり、疲労を感じても寝付けなかった。
「お前も大変だなぁ……つか、PTSDになったんだっけか?」
「ですねぇ。不眠っていうのはモロに当てはまってますし……」
明け透けに言うのは、野口の性格か。それとも、下手に気遣って博孝に負担をかけることを避けたのか。博孝としては、腫物に触るように扱われるよりは余程良い。
「そういえば、野口さんって“この道”に入って長いんですよね? 俺みたいな症状になった人も見たことあります?」
コーヒーを飲みながら尋ねる博孝。それを聞いた野口は、煙草を咥えながら肩を竦める。
「長いっつっても、十年いってねぇぞ。それにホレ、俺は態度が“コレ”だからな。今では訓練校で施設の管理任務だ」
そう言いつつ、野口は煙草に火を点けた。紫煙を味わうと大きく吐き出し、遠くを見るように目を細める。
「まあ、確かに昔は対『ES寄生体』向けの実戦部隊にいたがね。損耗率が高すぎるんで、出世を諦める代わりに異動してきたんだわ。その時なら、確かに色んな奴を見てきたなぁ」
「……と、言いますと?」
野口が『ES寄生体』に対応する実戦部隊にいたと聞いて、博孝は興味を惹かれる。
『ES寄生体』に対抗するには、『ES能力者』が戦うのが一番だ。しかし、『ES能力者』も数が限られている。
『ES寄生体』が出現したが、近隣の『ES能力者』の到着が間に合わない、あるいは手が回らずに民間人に被害が出る。そんな場合には、『ES寄生体』を撃破もしくは足止めをする必要がある。そのため通常の兵士も『ES寄生体』に対する訓練を重ねているのだが、野口はその実戦部隊にいたと言う。
対『ES能力者』用の武装を用いて戦う部隊だが、その損耗率は非常に高い。敵性の『ES能力者』を相手にするよりは楽だが、それでも“普通”の人間には手に余るのだ。
そんな部隊に野口がいたことに驚きつつも、博孝は話を促す。
「お前らみたいな『ES能力者』なら、『ES寄生体』から殴られても怪我で済む。だが、俺らみたいな人間だと、それが致命傷になるんだよ。いくら兵士だっつっても、限界があるからな。そんな『ES寄生体』を相手にするんだから、当然精神的に壊れる奴もいた」
“普通”の人間にとっては、『ES寄生体』は大きな脅威だ。もちろん、『ES能力者』が戦おうと油断をすれば死ぬこともある。博孝も『ES寄生体』と戦って一度死に掛けており、その恐怖は共感できた。
「……そういう場合は、どうやって乗り越えるんでしょう?」
こういった話題は教官である砂原に聞くべきだと思う博孝だが、砂原ならば『気合いだ』の一言で片づけると思った。博孝からすれば、砂原がこの手の恐怖感を抱くとは思えないのである。
野口は博孝の質問を聞くと、顎に手を当てながら天井を見上げた。
「そうだなぁ……そういう時は、酒か女に溺れて忘れる奴が多かった。『ES能力者』でも、そういう解決法もアリじゃねえか?」
博孝からすると少々俗な解決法に思えたが、それも一つの手段なのだろうと頷く。だが、訓練生ではそのどちらも手が出しにくい。
「酒か女っすか……どっちも訓練校じゃ手が出ないと思うんですけどね」
「女なら周囲にいるだろ。お前も若いんだし、彼女の一人や二人……」
「一人はともかく二人いたら問題ですよね!?」
真顔で話す野口に、博孝はすかさずツッコミを入れる。そんな博孝を見て、野口は楽しげに笑った。
「はは、若いねぇ。それが無理なら、“その手”の商売をしている女か。デリバリーで頼めよ」
「デリバリーって……訓練校には入れないんじゃないですか?」
話が下世話な方向に転がり始めたが、博孝も年頃の少年である。興味があるため、それを前面に出して首を捻った。
「正門の近くに専用の部屋があってだな……」
「嘘でしょう?」
「マジだ。まあ、そっちが嫌なら酒だな。酒なら……」
そう言いつつ、野口は管理室に備え付けられた棚を漁る。まるで隠すように、並んだ本の後ろから一本の瓶を取り出した。
「ほれ、酒だ」
「……なんで、当たり前のように酒が隠してあるんですかね?」
まさか、職務中に飲んでいたのではあるまいか。そんな疑問を視線に乗せて、博孝はジト目で野口を見る。
「あん? 訓練校の防衛や管理に当たっている奴はいくらでもいるからな。カードで巻き上げたに決まってるだろ。ちなみにコイツは『ES能力者』から巻き上げた。たしか、伍長だったか?」
そう言ってテーブルの上に酒瓶を置き、ついでにグラスも取り出す。野口は当直の兵士向けに備えられた冷蔵庫を開けると、手際良く氷を取り出してグラスに入れた。
「この不良兵士」
「馬鹿野郎。こういうのも付き合いのうちだ。というか、いくらなんでも職務中に飲んだりしねえよ」
博孝の言葉を笑い飛ばし、野口は酒瓶の口を開ける。そしてある程度まで注ぐと、博孝へと渡した。
「つまみはいるか? スルメや豆類ならあるぞ」
「至れり尽くせりですね……」
軽い相談にきたはずなのに、何故か酒を勧められている。それでも野口の厚意に甘えると、博孝はグラスを傾けた。ツンとしたアルコールの香りに混じって、僅かに甘そうな匂いを感じる。
「日本酒ですかね……ぶはっ!?」
酒などほとんど飲んだことがなかった博孝だが、一口飲み干すなり思わず噴き出してしまった。味云々ではなく、酒が喉を通る瞬間に焼けつくような熱さを感じたのである。
一体何を飲ませたのかと野口から酒瓶を奪い取ってみると、ラベルには恐ろしい数字が記載されていた。
「なんですかこれ!? アルコールの度数が六十度ってなに!?」
酒を噴き出し、焦ったような声を上げる博孝。それを見た野口は楽しげに笑う。
「『ES能力者』向けの酒だ。ほれ、『ES能力者』って“頑丈”だろ? 熟練の『ES能力者』にはアルコールもほとんど効かないからな。こうやって度数が高い酒が造られてるんだよ。味の方は……まあ、アルコールの味だな」
「ロクに酒を飲んだことがない奴に勧める度数じゃないですよ!」
アルコールの度数が六十度もあれば、容易に火がつく。いくら『ES能力者』といえど、間違っても未成年に勧めるものではない。
「無理だったか……いや、酒や女に溺れるのはまずいから、これはこれで良かったのかもな。お前さんの悩みの解決にはならないけど」
「……気が晴れただけ、助かりましたよ。それじゃあ、お邪魔しました」
野口と騒いだおかげで、博孝も多少なり気が晴れた。そのため、再び部屋に戻って休もうと思う。眠れはしないが、横になって目を瞑っているだけでも少なからず疲労が抜けるのだ。
「おう、また暇になったら顔を見せに来い」
ひらひらと手を振る野口に苦笑し、博孝は体育館を後にする。体育館から外に出ると、夏特有の暑さに混じって人の声が聞こえた。夜中だろうと自主訓練をしている者がいるため、クラスメートの声だろうと博孝は判断する。
「俺も自主訓練したいなぁ……ん?」
不意に、頭上から影が差した。それと同時に『構成力』を感じ、博孝は頭上を見上げる。
「あっ、博孝?」
博孝の頭上――正確に言うならば、体育館の屋根と同じ高さに“浮いている”沙織が声を上げた。ふわふわと、羽のような軽さで博孝のもとへと落下してくる。
「……だいぶ『飛行』が形になってるんだな」
最近は自主訓練ができないため、沙織が『飛行』の訓練をしているところを見ることができなかった。そのため、『飛行』が形になりつつある沙織に驚きの感情を覚える。実技訓練では『飛行』の訓練をする暇がないため、沙織の技量がどこまで伸びているかわからないのだ。
沙織は博孝の言葉を聞くと、楽しげに笑う。
「すぐに追いつくって言ったでしょう? この調子なら、あと一週間もすれば完全に浮遊することができそうだわ」
「うへぇ……そんな話を聞いたら、俺も休んでる場合じゃない気がしてきた」
追いつかれたからといって、何かがあるわけでもない。それでも負けず嫌いの虫が騒ぎ、博孝は早く自主訓練の許可が下りれば良いのに、と思う。
「それは駄目よ。今はしっかり休まないと……ん?」
嗜めるように言うが、その途中で沙織は眉を寄せた。沙織の反応に博孝は首を傾げるが、沙織は何も言わずに博孝へと身を寄せた。
「沙織?」
「んー……」
沙織は犬のように鼻を鳴らすと、僅かに視線を鋭くする。
「お酒の匂いがするわ。それも、かなりキツいやつ」
「うっ……な、なんのことかね?」
匂いを確認するためか、沙織は博孝の胸元に顔を寄せた。傍目から見れば、まるで博孝の胸元に抱き着いたような形に見える。しかし、沙織は衆目など気にする性質ではなかった。沙織はしばらく鼻を鳴らしていたが、確信したように顔を上げる。
「お酒、飲んだでしょう?」
「の、飲んでないですよ? ええ、決して飲んでませんとも」
飲もうとしたが、飲めずに噴き出したのだ。そのため、嘘は言っていないと博孝は自分に言い聞かせる。もっとも、それが詭弁だということは自分が一番わかっていたが。
「でも、アルコールの匂いがするわよ?」
問い詰めるようにして、沙織がさらに顔を寄せる。僅かに腰を折り、下から見上げるようにして覗き込んでくる沙織。その近さに気恥ずかしさを感じた博孝は、僅かに顔を赤くした。
現在は夏も盛りであり、夜でも暑い。『ES能力者』は気温の変化にも強いが、夏場に運動をすれば汗もかく。そして、沙織は自主訓練ということで動きやすく、その上で薄手の服装だった。
半袖の白シャツに、太もも程度までしか丈がない茶色のハーフズボン。出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいる沙織のスタイルとも相まって、これまでにない色気のようなものを感じてしまう博孝だった。
『そうだなぁ……そういう時は、酒か女に溺れて忘れる奴が多かった。『ES能力者』でも、そういう解決法もアリじゃねえか?』
博孝の脳裏に、野口が話していた言葉が過ぎる。しかし、博孝はすぐに内心で否定の声を上げた。
(いやいや! 沙織は仲間だから! そりゃあたしかに、外見は好みなんだけど!?)
責めるような、それでいて心配を含んだ瞳で沙織は見つめてくる。博孝は沙織と視線を合わせたまま、僅かに身を引いた。
「さ、沙織さんの気のせいじゃないですかね?」
「博孝……」
なんとか言い逃れをしようとする博孝だが、沙織の声のトーンが僅かに下がる。そのことに視線を彷徨わせる博孝だが、沙織は静かにため息を吐いた。
「知ってる? あなたって、切羽詰まった時や嘘を吐く時に敬語になるのよ」
「マジで!?」
沙織に指摘をされて慌てる博孝だが、その態度が答えのようなものなのだ。沙織はもう一度だけため息を吐くと、右手を伸ばして博孝の腕に触れた。同時に、左手を自身の胸に当てる。
「どうしてかしらね……博孝に嘘を吐かれると、とても悲しくなるわ」
「……沙織?」
沙織の声のトーンが、さらに下がる。悲しみが込められたその声は、博孝もほとんど聞き覚えがない。あるとすれば、源次郎から沙織自身の“夢”を否定された時ぐらいだろうか。
「心配と言えば良いのかしら。それとも、別の感情なのかしら……博孝の不調に気付けなかったことが悔しくて、博孝がそれを隠していたことも悔しくて……」
どうしてかしら、と沙織は問う。博孝は応える言葉が出ず、俯いた沙織を静かに見つめた。
「初めてできた、大切な“仲間”だから……なのかしら?」
そう言って、沙織は顔を上げる。どこか迷うような、どこか縋るような、揺れた瞳で沙織は博孝を見た。博孝は沙織の表情を見て、降参したようにため息を吐く。
「嘘を吐いてすまん。まだ眠れなくてな……知り合いに相談して、酒でも飲んでみたらどうかって言われたんだ。まあ、一口飲んで噴き出したんだけどな」
僅かに冗談を交えて言うと、沙織も口元を綻ばせる。
「もう……まだ体調が万全じゃないんだから、そんなものを飲んだら駄目じゃない。せっかく治ってきているんだから……」
そんなことを言いつつ、沙織は嗜めるように博孝の腕を軽く叩く。博孝も表情を綻ばせると、小さく頭を下げた。
「悪い。そうだよな、せっかく沙織も体に良い料理を作ってくれてるんだし、早く良くならないとな」
そこまで口にして、ふと、博孝の心に悪戯心が湧く。そしてその悪戯心に導かれるまま、博孝は言葉をつなげた。
「でも、体が良くなったら手料理を作ってもらえなくなっちまうなぁ……沙織の手料理って味付けが好みだし、体調が良くなってからも食べてみたいな」
特に何も考えず、そんな言葉を口にする。後になって博孝が思ったのは、自分では気づかないほどに切羽詰まっていたのだろうということだ。普段とは違う沙織の様子に、博孝も平常ではいられなかった――ただ、それだけのことだった。
「え……」
「え?」
博孝の言葉を聞いた沙織が、動きを止める。動きを止めた沙織に、博孝も思わず動きを止めた。
「そ、そうなの? あんな料理で良いのなら、わたしは別に……」
沙織としては、里香のように率先して料理を学んだわけではない。必要に迫られて覚えた技能であり、その腕は大したことはないと思っていた。里香のように“弁当”としてバランス良く作り上げることは難しく、作れても一品ものの料理が精々だ。そのため、博孝の言葉は予想外に尽きる。
――端的に言えば、とても嬉しかった。
沙織の頬が、桜色に染まっていく。それを見た博孝は、顔色を群青へと変えていく。普段は極力頭を働かせるようにしているが、突発的に湧いた好奇心に突き動かされるとロクなことにはならない。博孝は学習しない自分自身に絶望するが、沙織はそんな博孝の様子を気にせずに微笑んだ。
「あんな料理で良かったら、いつでも作るわ。だから、食べたくなったらいつでも言ってよね?」
「……ありがとうございます」
博孝にできたのは、そう言って頭を下げることだけだった。
八月も終わりに近づいたその日。砂原は“上”からの命令で都内に足を伸ばしていた。電話や文書で済ませる用件ではなく、“上”直々の呼び出しである。訓練校は“上”――防衛省の管轄にあるため、その訓練校の教官である砂原は従わざるを得ない。
『ES能力者』自体は日本ES戦闘部隊監督部が取りまとめを行っているが、陸軍や海軍、空軍とも連携する必要があるため、防衛省の意向を完全に無視するわけにもいかなかった。
「砂原空戦軍曹、入室いたします」
そんな声をかけてから、砂原は呼び出しを行った陸軍大将――室町正弦と相対する。室町は砂原の顔を見ると、柔和な笑みを浮かべて出迎えた。しかし、数度の社交的挨拶を交わすと、真剣な表情に変わる。
「さて、それでは本日呼び出した理由についてだが……実は、早急に対応すべき問題が浮上した」
「と、言いますと?」
砂原としては、室町と長い雑談を交わす気はない。そのため話を促すと、室町は一枚の地図を取り出して机に広げる。その地図を覗き込んだ砂原は、思わず眉を寄せた。
「これは……」
「そう、ES訓練校周辺の地図だ。問題というのは、三週間ほど前に発生した『ES寄生体』についてだ」
そう言いつつ、室町は地図の一点を指す。それは、博孝がハリドと戦う前に『ES寄生体』が発見された場所だった。
「訓練校からも近いということで、この街の周辺は念入りに“ゴミ掃除”がされていた。しかし、突如発生した『ES寄生体』が街の近辺まで接近している。それによって、市民から不安の声が上がっていてな」
「それは仕方がないでしょう。訓練校の近くにあるということで、防衛の人員も多く割かれていたのです。その警戒網を超えた上で『ES寄生体』が接近したのですから、ある程度の不安を覚えるのは当然かと」
室町の言葉に砂原が答えるが、話が見えずに困惑もする。わざわざ呼び出したと思えば、訓練校から最も近い街についての話だ。しかし、砂原は当たり障りのない回答をした裏で、練達の『ES能力者』として思考を進める。
(わざわざ俺を呼んだからには、第七十一期訓練生に関係することだろう。訓練校から最も近い街に、発生した『ES寄生体』。そうくれば、あとは……)
そこまで思考した砂原に、室町は柔和な笑みを向けた。ただし、その瞳はまったく笑っていない。
「現在も警戒を密にしているが、一週間後に五十キロ四方の範囲で“ゴミ掃除”を行う予定だ。だが、投入する『ES能力者』の数が足りん」
「その任務に、訓練生を投入すると?」
やはりか、と砂原は思った。同時に、何故訓練生なのかと疑問に思う。
「そうだ。もっとも、投入するのは訓練生を二期分程度だがな。貴官を呼んだからにはわかっているだろうが、第七十一期訓練生もその対象だ」
「お言葉ですが閣下。小官が教導している第七十一期訓練生は、つい最近海上護衛任務を終えたばかりです。任務を行うにしては、期間が短すぎるかと」
通常ならば、訓練生は三ヶ月周期で任務を行っていく。“ゴミ掃除”と言うからには、これまでに行ったことがある警邏任務だろう。可能かと聞かれれば可能と答えるしかないが、教官としては承諾できるものではない。
しかし、砂原の反対を聞いた室町は静かに口の端を吊り上げた。
「そうは言うがな……第七十一期訓練生は、ただでさえ他の期の訓練生に比べて任務の回数が少なくなっている。今回の任務は、その“補習”だと思ってくれたまえ」
「ですが、行った任務の“密度”は濃いです。訓練生を二期分と仰るのなら、第七十一期訓練生ではなくその上……最上級生の第六十八期や第六十九期でも良いのでは?」
訓練生をと言うのならば、現状では最上級生に当たる第六十八期訓練生やその一期下である第六十九期訓練生が適任だろう。特に、第六十八期訓練生はあと一ヶ月もすれば訓練校を卒業する。その技量は、新兵レベルとはいえ正規部隊員に比肩するのだ。
「可能な限り高い技量を持つ訓練生を投入したいのだ。訓練生に関する報告書は読んでいるが、貴官が鍛えている第七十一期訓練生は平均的に技量が高い。それこそ、現状では一番上の期である第六十八期訓練生と比べても、だ」
なおも言い募ろうとする砂原だが、室町は笑っていない笑みを浮かべつつ“とどめ”の一言を口にした。
「この件については、長谷川中将からも承諾を得ている。私としても、市民の不安の声を無視できないからな。無理をさせる代わりに、以前の“貸し”は帳消しだ」
“貸し”と聞いて、砂原は口をつぐんだ。三回目の任務で第七十一期訓練生や護衛の『ES能力者』に死傷者が出たことで、砂原は査問を受けている。その際に源次郎が“借り”を一つ作る形で収めたのだ。
室町は、その時の“借り”を返せと言う。
「……了解いたしました」
そこまで言われてしまえば、砂原としても拒否はできない。室町と最低限のやり取りを終えると、敬礼をしてから退室する。
(ここで“貸し”を使ってまで、訓練生を……第七十一期訓練生を任務に投入するだと? 何を考えている?)
訓練校に戻るために『飛行』を発現して空を飛びながらも、砂原の心中は疑念で溢れていた。
たまにはほのぼの回など。
前回砂原の絵を描いたと言いましたが、アクセス数が多くてビックリしました。
なお、過去に作者が描いた絵について、初日のアクセス数は以下のような形に。
恭介:350
里香:400
沙織:650
砂原:600
沙織が一番多かったことに安堵しました。
それでは、こんな拙作ではありますが今後ともお付き合いいただければ幸いに思います。




