第七十四話:和解と謝罪
“事件”の翌日、博孝は砂原に連れられて訓練校へと戻ってきた。本当は里香が退院するまで病院にいたかったのだが、砂原が報告のために外出する必要があり、訓練校にいた方が安全と判断されたのである。
共に訓練校に戻ってきたのは、博孝だけではない。二宮と紫藤、そして、市原の姿もそこにはあった。
「しかし、初めて重傷を負いましたが、一晩で回復するとは思いませんでしたよ」
ハリドに刺された脇腹を軽く叩き、苦笑しながら市原が言う。それを見た二宮が『傷口を叩くな』と腕を掴んでいるが、博孝は二宮に生暖かい視線を向けてから市原の言葉に答えた。
「まあ、横腹を刺されただけだからなぁ。傷口塞いで一晩寝れば、そのぐらいすぐに治るさ。骨が折れてたり、内臓が破れてたりすれば、もう少し完治まで時間がかかるけどな」
「……先輩が言うと、妙な説得力がありますね」
「全部体験済みだから、説得力も出るってもんだろ。一番辛かったのは、右腕が千切れかけた時かねぇ……」
視線を細めて遠くを見る博孝だが、それを聞いた市原としては笑うしかない。“普通”の人間の感覚で言えば、脇腹をナイフで刺されれば死ぬ可能性がある。それが一晩で治ったのも驚きならば、人間としてどうかと思うレベルで負傷している博孝にも驚きだった。
市原はそんな博孝の横顔を見ていたが、不意に表情を曇らせる。そして足を止めると、博孝に向けて頭を下げた。
「先輩……その、俺、岡島先輩を守れなくて……本当に、すいませんでした」
里香がハリドに攫われ、それを博孝が追いかけて取り返したというのは市原も聞いている。しかも、自分が負傷したために治療と護衛に二宮と紫藤を残し、博孝が単身で向かったというのだ。
自分が街中だからと油断しなければ――そんな自責の念に囚われる市原。それを見た博孝は、苦笑しながら市原の肩を叩く。
「気にするな……といっても、納得しないよな? それでも、俺は無事だったし、里香も明後日には退院する。今回の件を教訓にして、今後の自分の糧にしろ」
「……はい」
落ち込んだ様子で頷く市原。二宮がその体を支え、博孝は苦笑を深める。
「それより、その手に持っている袋はなんだ?」
少しでも市原の気分を変えてやろうと、博孝は話を変えることにした。市原が病院に運び込まれた時も、手放さずにいたらしい。その時使用していた袋には血がついていたため、病院の売店でもらったビニール袋に中身を入れ替えていた。
市原は博孝の質問を聞くと、動揺したように視線を彷徨わせる。それでも大きく息を吐くと、観念したように口を開いた。
「実は、今回岡島先輩に付き合っていただいたのは、みらい先輩へのプレゼントを買うためだったんです。これは、書店で購入した海に住む生き物の図鑑なんですが……」
そう言いつつ、市原は博孝へ窺うような目を向ける。市原としては、みらいへのプレゼントと聞いた博孝が取る行動は一つしか予想できない。
『みらいへのプレゼント? それはアレか? お前まさか、みらいを狙っているのか? みらいの外見と年齢を考慮した上で言ってるのか? 覚悟はできてるか?』
そんなことを言いつつ、『射撃』で発現した光弾を笑顔で叩き込んできそうだ。博孝のみらいに対する溺愛ぶりを知る市原としては、ボロ雑巾のようになる自分の姿を鮮明に想像できる。
傷が治ったばかりだから手加減してほしいなぁ、と思った市原だが、博孝からの口撃も攻撃も飛んでこない。
「みらいへのプレゼント? あー……そうか、気を遣ってくれたんだな。最初の印象が悪かったのか、どうにもみらいはお前のことが苦手っぽくてな……」
しかし、博孝が返した反応は、市原としては驚愕するしかない。市原が何故プレゼントを購入したかを正確に悟り、申し訳なさそうにしている。
「お、怒らないんですか?」
「怒る? おいおい、なんでだよ。わざわざ休日に、みらいのために外出して選んでくれたプレゼントだろ? それに、みらいは海が気に入ったみたいでなぁ。海の生き物についてまとめた図鑑っていうのは良い選択だと思うぞ」
市原が選んだプレゼントを聞き、博孝は後輩に気を遣わせたことを申し訳なく思う。博孝が注意しても、市原に対するみらいの印象を変えることはできていない。顔を会わせる度に怯えた顔を向けられる市原には、兄として謝罪をしたいと思っていた。
「すまないな。お前に対するみらいの態度は、俺としても気になっていたんだ。でも、そこまで気を遣ってくれるなんてな……」
心底感心したように、妹のためにそこまで骨を折ってくれたことに感動したように、博孝は頭を下げる。頭を下げられた市原は、慌てたように手を振った。
「あ、頭を上げてくださいよ!」
予想外すぎる博孝の態度に、市原は心底慌てた。最悪の場合、退院してすぐさま病院へ送り返されることすら覚悟していたのだ。みらいが市原に対しての第一印象を引きずっているように、市原も博孝に対する第一印象を引きずっているらしい。
「なんなら、今から渡しに行くか? 俺も立ち会うから」
頭を上げた博孝は、自分達が住む寮を指差して問う。事件に巻き込まれた市原達は休暇を言い渡されており、今日は授業や訓練に出なくて良いのだ。
博孝達第七十一期訓練生も、博孝や里香が事件に巻き込まれた上に砂原がいない。そのため臨時休講となっており、自主訓練を行うよう通達されていた。座学だけならばまだしも、実技訓練は砂原がいないと話にならないのである。
「え……あ、じゃ、じゃあ、お願いできますか?」
博孝からの思わぬ提案に、市原は頷いた。街へ行く時に着ていた服は血まみれだったため、病院でシンプルな衣服に着替えている。しかし、自分の服装に気が回らないほどの好機が降って湧いたことに喜び、博孝への仲介を頼むことにした。
仲介を頼んだ博孝が、市原と同様にシンプルな衣服を着ていたことも服装を気にしなかった一因だろう。博孝は着ていた服がナイフで切られてパンクな感じになっていた上、右半身は血まみれだった。そのため病院で購入した衣服に着替えている。
二宮は服装に気が回らず、市原の体を支えることにのみ集中していた。紫藤はそもそも服装を注意しようとすら思わない。
真っ白なTシャツにズボンという服装で、博孝達は男子寮に向かう。談話室に顔を出してみると、中にいた和田達が驚いたような顔で振り返った。
「河原崎!? お前もう退院したのかよ!?」
「重傷を負ったんだろ!? なんで翌日に平気な顔で帰ってきてるんだよ!? プラナリアか!?」
だが、どうにも様子がおかしい。今しがた訓練校に戻ってきたばかりだというのに、博孝の身に何があったかを知っているようだ。
「誰がプラナリアだ! 分割したら、その分俺が増えそうじゃねえか!」
「え、そこですか!?」
とりあえずツッコミを入れる博孝に対し、さらにツッコミを入れる市原。みらいがいないかと覗いた談話室だが、他にいたクラスメートの様子もおかしい。そのため怪訝そうに周囲を見回す。
「というか、なんで知ってるんだよ? あと、怪我したのは俺じゃないからな?」
「なんでって……テレビで放送されてるぞ?」
「……は?」
言われたことが理解できず、博孝は談話室に設置されているテレビへ目を向けた。
『今回の事件についてですが、我が国の訓練生が敵性の『ES能力者』を倒すという快挙を――』
『しかし、重傷を負った訓練生もいるとのことで――』
『軍部からはその訓練生と、教導を担当する教官に対する賛辞が――』
幾人かのコメンテーターが並び、口々にそんなことを言っている。それを聞いた博孝は、思わず額に手を当ててしまった。名前などは出ていないが、明らかに自分のことである。
「……どうなってるんだ? しかも、軍部から称賛?」
通常ならば、敵性の『ES能力者』との交戦記録などは報道規制される。名前が出ていないとはいえ、ここまで大々的に報道されていることに博孝は疑問を覚えた。
「重傷を負ったって聞いて、てっきりまたお前かと……」
「先輩の評価ってどうなっているんですか?」
険しい顔でテレビを睨み付ける博孝を見て、和田は控えめに言う。それを聞いた市原が再度のツッコミを入れているが、博孝の耳には届かない。
(俺と教官を称賛? 報道にそんなことを言わせるってことは、“上”は今回の件を問題視していない? それとも、何か別の狙いが?)
報道を見た博孝は、即座にそんなことを思った。それと同時に、胡散臭さを感じてしまう。砂原の口振りから、今回の件は砂原にとって致命的な案件に成り得ると思ったのだ。
問題にならないのは素直に喜ばしい。だが、喜ぶだけではすまない。
(といっても、教官が戻らないことには話も見えないか……)
訓練生である博孝には、“上”の思惑など調べようもなかった。そのため砂原が戻ってくるまではどうにもできないと判断し、ため息を吐く。今は、予定通りみらいに会うべきだろう。
「和田、みらいを知らないか?」
「みらいちゃん? みらいちゃんなら女子寮にいるぞ。昨晩から、向こうでの歓声がすごいのなんのって……」
呆れたように、疲れたように話す和田。それを聞いた博孝は、一体何があったんだと頬を引きつらせる。それでも女子寮に向かうと、みらいはすぐに見つかった。
「それじゃあみらいちゃん、次はコレを着てね!」
「ちょっと、次はこっちの服よ!」
「ここで敢えて水着を投入してみたり!」
見つかったというよりも、談話室で着せ替え人形にされていた。みらいは周囲を女子に囲まれ、どこか疲れたような目をしている。それでも博孝の姿に気付くと、顔を輝かせて女子の包囲網を飛び越えた。そして一直線に突き進み、博孝へと抱き着く。
「……おにぃちゃん!」
「おっとっと……心配をかけてゴメンな。お土産も買って来れなかったよ」
「……ん。おにぃちゃんがぶじなのが、おみやげ」
どうやらとても心配していたらしく、みらいは博孝に抱き着いたままで離れない。それを見ていた女子達は安堵したように息を吐き、博孝に不安げな視線を向けた。
「おかえり、河原崎君。テレビで、敵性の『ES能力者』に訓練生が襲われて怪我をしたって放送されてたけど……河原崎君が無事ってことは、怪我したのは……」
「ああ、里香だよ。ちょっと、重傷を負ってな。明後日には退院して戻ってくるんだけど……」
そう言いながら、博孝はみらいを抱き上げてあやすように撫でる。女子達が騒いでいたのは、みらいの不安を少しでも軽減しようとしたからなのだろう。その配慮に感謝すると、女子達の中から希美が顔を見せる。
「突然みらいちゃんがこっちの寮に来たから、何があったのかと思ったわ。河原崎君が無事で良かった。でも、岡島さんのことは心配ね……」
「命に別状はないんですけどね……今は集中治療室から出て、病室で休んでいます。俺が病院から出てくるときはまだ目が覚めていませんでしたけど、今日中には起きるらしいです」
博孝がそう言うと、女子達の間にあった沈痛な空気が僅かに緩んだ。そして、意外なことに女子の壁の中から沙織が姿を見せる。
「博孝、ニュースの内容は本当なの? 訓練生が敵性の『ES能力者』を倒したって報道されているわ」
「……俺以外の訓練生かもよ?」
とぼけるように博孝は言うが、それを聞いた沙織は鼻で笑い飛ばした。
「実戦経験や実力を考えたら、博孝しか実現できる人がいないわよ。それに……」
そこまで言って、沙織が表情を崩す。どこか不思議そうに、博孝の顔を見つめた。
「なんというか、雰囲気が変わっているわ。少しだけど、殺気が混じっている感じがする」
「怖いこというなよ……」
殺気が混じっていると言われても、自分ではわからない。博孝はなんとなく自分の体を見下ろすが、みらいが拒否していない以上沙織の言葉も本当か怪しい。
女子達からも質問を受けるが、博孝は適当なところで切り上げてから女子寮を出た。二宮や紫藤はともかく、市原が非常に居心地が悪そうにしていたのである。それでも外に出ると、博孝はみらいを下ろして自分の足で立たせた。
「みらい、市原がみらいに用があるんだ」
優しい声色でそう言うと、みらいは顔を上げる。そして市原を見ると、不安そうな顔で博孝の腰にしがみ付いた。
「……なに?」
警戒心を表に出すみらい。それを見た博孝は苦笑し、みらいの頭を撫でる。市原は緊張しているのか、しきりに瞬きをしていた。
「その、ですね……これをみらい先輩に受け取っていただきたく思いまして……」
そう言いつつ、市原はプレゼントをビニール袋から取り出す。綺麗にラッピングされたプレゼントを見て、みらいは僅かに首を傾げた。
「……なんで?」
何故そんな物を渡すのか。そう言わんばかりの様子に、市原は怯んだように博孝へ視線を向ける。
「良いか、みらい。市原はみらいと仲直りをしたいんだ。あのプレゼントは、仲直りの印だよ」
物で解決するのは良くないと思うが、博孝としては市原の厚意を汲んでやりたい。博孝が促すと、みらいは渋々といった様子で市原のプレゼントを受け取る。
「……ありがと」
プレゼントということで、礼の言葉を口にするみらい。それだけでも十分な進歩だが、博孝としてもう少し市原の援護をしてやりたかった。
「せっかくだし、開けてみようか」
小さく笑いながらそう言うと、みらいは一つ頷いてからラッピングを開け始める。そして、中から出てきた物を見て目を輝かせた。
「……うみ」
「そうだぞー。海の生き物についてまとめた図鑑だ。みらいが海を好きって聞いて、市原がわざわざ買いに行ってくれたんだ」
博孝がそんな説明をすると、みらいは再度市原に視線を向ける。しかし、そこには先ほどまであった恐怖や不安の色がだいぶ薄くなっているように感じられた。
「……おにぃちゃんのいったこと、ほんと?」
「ほ、本当です!」
確認を取るみらいに、勢いよく頷く市原。みらいはしばらく市原の目を覗き込んでいたが、嘘ではないと判断したのだろう。図鑑を両手で抱き締め、仄かな笑顔を浮かべた。
「……ありがと」
先程の礼よりも、心がこもった言葉だった。まさか笑顔で礼を言われるとは思わず、市原は動揺したように視線を逸らす。
「いえ……喜んでいただけたのなら幸いです」
それだけしか言えず、市原は視線を逸らし続ける。みらいはそんな市原をしばらく見つめていたが、もらった図鑑が気になるのか、博孝の手を引っ張った。早く部屋に帰って読みたいのだろう。
博孝は先に部屋に戻るようみらいに促すと、みらいは二つ返事で駆けていく。余程図鑑の内容が気になるらしい。
「予想よりも喜んでたな。あんな風な笑い方をするのは珍しいんだぞ?」
苦笑しながら博孝が言うと、市原は逸らしていた視線を元に戻した。だが、市原はどこか様子がおかしい。駆けていくみらいに視線を向けて、何故か困ったように頬を掻いている。
「先輩……」
「ん? なんだ?」
「今まで怯えた顔でしか見られたことがなかったので気付かなかったんですが……みらい先輩って、笑うと可愛らしいですね」
その発言を聞き、それまで市原の体を支えていた二宮がそっと体を離す。紫藤もさり気なく距離を取り、形容しがたい生き物を見るような目で市原を見た。
「どういう……意味だ?」
激情を抑えたような声で博孝が問うが、市原はみらいの姿を目で追っているのか、博孝の様子に気づかなかった。
「変な意味じゃないですよ? でも、プレゼントをもらったらきちんとお礼を言いましたし、これまでの苦労が報われた気分です」
ようやく視線を戻した市原は、笑顔でそんなことを言う。それを聞いた博孝は、“良からぬ”意味ではないと判断した。市原を、信じてみようと思った――今回だけは。
二日後の昼休み。授業が再開した第七十一期訓練生達は、食堂で昼食を取っていた。そこに里香の姿はないが、今日中に訓練校に戻ってくると砂原にも言われている。
「どうしたっすか? あまり箸が進んでないっすよ?」
そんな疑問と共に、恭介は博孝へと話を振った。その視線の先では、共に食事を取っている博孝がいる。しかし、言葉の通り食事の進みが遅かった。
「んー……里香が戻ってくるって聞いて、落ち着かなくてな。早く元気になった姿が見たいもんだなー、と」
「そうね。わたしも早く里香に会いたいわ」
「……ん。おねぇちゃん、あいたい」
博孝の言葉を聞き、沙織とみらいも頷く。“事件”もなんとか乗り切ったが、里香が戻らないことには落ち着かない。無事だとはわかっていても、実際に顔を見ないと安心できないのだ。
博孝達が顔を合わせてそんな話をしていると、食堂に続く廊下の方から大きな声が上がった。それを不思議に思って食堂の入り口に視線を向けると、クラスメートの女子が飛び込んでくる。
「みんな! 岡島さんが帰ってきたよ!」
そう叫び、里香の帰還を知らせた。それを聞き、沙織が真っ先に駆けていく。博孝も椅子から立ち上がると、すぐさま沙織の後を追った。
「里香! 良かった! 元気になったのね?」
沙織に追いついてみると、里香を抱き締めて大喜びしていた。沙織に抱き着かれた里香は目を白黒させていたが、状況を理解してすぐに苦笑する。
「し、心配をかけてゴメンね?」
「良いのよ! 里香が元気になったのなら、何も問題はないわ」
抱き締められたままで謝罪すると、沙織は笑顔で首を横に振った。それを見ていた博孝は、苦笑しながら声をかける。
「それくらいにしといた方が良いぞ、沙織。沙織の力で抱き締めたら、せっかく治った里香の傷がまた開いちまうよ」
「あ、それもそうね」
「納得したっすよ……」
冗談混じりに声をかけると、沙織はそれに納得して里香を解放した。恭介が少しばかり引きながら言うが、沙織が力を込めていたのは本当だったらしい。里香は困ったように微笑んでいる。
しかし、その視線が博孝に向いた瞬間、表情が暗い物へと変わった。
「あ、そ、その、ひ、博孝君……」
「お、おう。なんでしょうか?」
里香の態度に動揺し、博孝は敬語で返事をする。里香は博孝の顔をしばらく見ていたが、何かを思い切るように頭を下げた。
「その、足手まといになっちゃって、ごめんなさい」
その言葉を聞いて、博孝の表情が凍る。里香の言葉が理解できなかったように、予想外のことを言われたように、目を瞬かせた。
「……里香?」
「わ、わたしが攫われちゃったから、博孝君も追いかける羽目になって……戦ってる時も、わたしを庇ってばっかりで……」
今回の事件については、テレビでも報道されている。そのため情報を規制する必要もないが、博孝は大いに焦っていた。
――何故、里香が謝っているのか?
今回の件で、里香は巻き込まれただけだ。博孝をおびき寄せるために攫われ、傷つけられただけだ。博孝はそう思うのだが、里香は静かに首を横に振る。
「本当は、その、逃げられれば良かったんだけど、動けなくて……博孝君には、わたしを見捨ててでも助かってほしかったんだけど、それも言えなくて……」
心底申し訳なさそうに、自分の無力を悔やみながら里香は言う。
これまで体験したことがないような苦痛の中でも、博孝が『活性化』を使って治療を行っていたことはわかった。そして、それが原因で博孝が劣勢に追い込まれたことも、理解できた。
辛うじて絞り出した集中力を使って、里香は『通話』で博孝に言おうとしたのだ。自分のことは良いから、戦いに集中してほしいと。敵に勝てないなら、自分を見捨てて逃げてほしいと。
無論、博孝がその願いに頷かないことは里香も知っている。どんなに言葉を尽くしても、博孝が頷かないことは里香が一番知っている。
博孝には、これまで何度も守られてきた。命を救われたこともある。そんな博孝が、仲間を置いて逃げ出すことなどできるはずもないと、わかっている。
――それでも、里香にはその言葉を口にするしかなかった。
「ごめんなさい……博孝君、ごめんなさい……」
涙すら浮かべて、里香は悔しげに言う。
何度も庇われているから、少しでも強くなりたかった。博孝や沙織が行っている自主訓練にも、毎回参加してきた。沙織に体術を学び、博孝には『射撃』や支援系ES能力を学んだ。少しでも博孝に追いつこうと、里香も必死だったのだ。
それだというのに、ハリドを相手にしてロクな抵抗もできなかった。その上で救出に来た博孝の『構成力』を削り、自分の治療に回してしまった。あまりの苦痛に『構成力』を扱うこともできず、自分の治療も行えず、博孝の援護を行うこともできず、ただ苦痛に呻いていただけだった。
その上、里香は酷く後悔している。目が覚めた時は病室だったが、事件の関係者ということで簡単な聴取も受けた。その際に、博孝が何を行ったかも知ったのだ。
自分を守るために、博孝が手を血に染めたという事実。そのことを知った時の心境を、どう形容すれば良いか里香にはわからない。
追いかけたはずの博孝との距離は、いつの間にか大きく開いていた。それどころか足を引っ張り、博孝を危機に陥らせ、その手まで汚させた。
――自分がしてきたことは、一体何だったのか。
そう思い、しかし、その心情を吐露することはしない。間違っても、できはしない。
もしもそれを口にすれば、博孝が苦しむのは目に見えている。博孝は里香のことを責めず、負の感情に蓋をして、自分で選んだことだからと笑うだろう。
それ故に、里香にできたのは博孝への謝罪だけだった。周囲には他にもクラスメートがいたが、衆目も気にならない。博孝の顔を見たら、自然と謝罪の言葉が口から出てきた。
博孝の力になれず、謝ることしかできない自分。それがとても――どうしようもなく、里香には辛かった。
「ごめんなさい……ごめん、なさい……」
涙ながらに謝罪を繰り返す里香に、博孝は言葉が出ない。何と声をかければ良いかわからず、口を開いては閉じ、閉じては開く。それを何度も繰り返していると、恭介が心配そうに声をかけた。
「博孝、大丈夫っすか? 顔色が滅茶苦茶悪いっすよ」
「あ、ああ……」
恭介の声を聞いて、博孝は我に返る。知らず浮かんでいた冷や汗を拭い、里香にどんな言葉をかければ良いか迷う。だが、博孝が迷っている間に沙織が動いた。里香の肩に手を置き、体を支えるように腕を回す。
「博孝、わたしは里香を保健室に連れていくわ。まずは落ち着かせないと」
「……ああ。悪いけど、頼むよ」
それだけを答えて、沙織に付き添われて保健室へと連れて行かれる里香を見送る。里香が立ち去ったことでクラスメート達も落ち着いたが、里香を心配する者、博孝に気遣わしげな視線を向ける者もいた。恭介は博孝を気遣う一人であり、心配そうに博孝の顔を覗き込む。
「本当に大丈夫っすか? 顔色が悪いというか、真っ白っすよ?」
恭介が見た博孝の顔は、血の気が失せたように真っ白になっている。博孝はそんな恭介の声に頷くと、引きつらせるようにして頬を吊り上げた。
「……大丈夫だ」
それだけを答え、博孝は歩き出す。昼食が途中だったが、そこまで食欲があったわけでもない。
「少し、顔を洗って気分を変えてくるよ」
感情が見えない声でそう言って、博孝は廊下を進んでいく。そんな博孝の背中を見て、恭介は心配そうにため息を吐くのだった。
どうも、作者の池崎数也です。
毎度ご感想やご指摘、評価等をいただきありがとうございます。
その上レビューまでいただき、ありがとうございました。
一日の間に二件のレビューがついたことに、大変驚いています。
ただ、二件のレビューについてどうしても疑問があったため、あとがきの場をお借りしました。
この疑問はレビューを読み、十分ほど思考を停止した後に絞り出した疑問です。
二度見どころか三度見ほどしてから思い浮かんだ、心の底からの疑問です。
どうして、二件のレビューの両方で砂原がヒロイン枠に含まれているのでしょうか……。