第五話:入校 その2
クラスメートどころかその倍の人数は入れそうな食堂で昼食を終えた博孝達は、砂原の指示通り午後一時、正確にはその五分前になると校舎前のグラウンドに集合していた。
「しかし、グラウンドで何をするんだろうなぁ……」
「アレっすよきっと、体力測定! 五十メートル走とか幅跳びとか!」
「いやいや、さすがに制服でそれはないでしょ。俺らはまだ良いけど、女子とかスカートだぜ?」
「でも、それが良いんじゃないっすか?」
「ははは、このスケベめ」
「あ、それは心外っすよ!? というか、博孝も絶対同じことを考えたからスカート発言したんじゃないんすか!?」
博孝は自身が予想通り意気投合した恭介と気楽な会話をしつつ、砂原の到着を待つ。
「ところでさー、恭介」
「ん? なんっすか?」
「俺としてはその喋り方が『なんっすか?』って感じなんだけど……なに? 恭介の地元ではそんな喋り方が流行ってたの?」
舎弟口調とでも言うべきか、恭介は妙な話し方をする。もっとも、頭に似非がつきそうな舎弟口調だったが。
恭介は博孝の質問に、困ったように笑う。
「いやー、俺、中学の時はバリバリの体育会系だったんっすよ。その時先輩から厳しくされたんで、常に敬語で話すようにしてるんっす」
「……それ、間違っても敬語じゃないからな?」
「うぇっ!? マジっすか!?」
博孝の突っ込みに、心底驚いたと言わんばかりに目を見開く恭介。体育会系的には敬語なのだろうかと不思議に思うが、博孝がいた中学校では日頃からそんな喋り方をしていた体育会系の知り合いがいないので、確信は持てない。
「時と場合を弁えてれば良いんじゃね?」
「そうっすよね! 今更この口調を変えるのも、それはそれで面倒っす!」
そう言って笑う恭介に対して笑い返しつつ、博孝はそれとなく周囲の様子を窺った。
博孝達の周りでは、昼食の時間に気の合う相手を見つけたのか、博孝と恭介のように談笑に興じている者の姿がちらほら見えた。中でも希美は年齢と人柄からか、三人ほど女子生徒が傍によってあれこれと質問をしている。反対に、沙織や里香などは一人で立っているだけだった。
沙織は周囲との関わりを断つように、腕組みをしながら目を瞑っている。その雰囲気に押されたのか、何人か話しかけようとして失敗していた。
里香は周囲の人間に話しかけようとしているが、生来の性格が原因なのか、それも上手くいっていない。
折角だから話しかけてみようかと博孝は思ったが、それよりも早く、砂原がグラウンドに姿を見せた―――何故か、武装した兵士を三人ほど連れて。
砂原は集まっている博孝達を見ると、僅かに形相を変える。
「整列!」
そして、怒号に近い声が上がった。空気を震わせるようなその声を聞いた博孝達は、喋っていた口を閉ざして慌てて三列横隊で整列する。砂原はそんな博孝達の様子を見て満足そうに頷くと、時間が一時になっていることを確認して口を開く。
「では、これから午後の“授業”を行う。もっとも、授業と言っても新入生向けのオリエンテーションのようなものだ。気楽にしていろ」
ニヤリと笑う砂原。それを見た博孝は、気楽にできる雰囲気ではないのだがと嘆息する。
「まず、諸君らには『ES能力者』がどんな“生き物”なのかを理解するところから始めてもらう……そうだな、河原崎、ちょっと前に出ろ」
「え? 俺ですか?」
嘆息したのを咎められたのかと、少しばかり驚く。そんな博孝に、砂原は僅かに眉を動かした。
「一回目だからうるさくは言わんが、そこは『はい、教官』だ。訓練校ならまだ大目に見てやれるが、任務の際や卒業後に部隊に配属された時に“指導”が入るぞ?」
「う……はい、教官!」
“指導”とやらの内容がどんなものかわからないが、決して楽しいものではないだろう。博孝が出来る限り大声で返事をすると、砂原は満足そうに頷く。
「元気があって大変よろしい」
そういえば上位者の命令を徹底するんだったか、と博孝は自身の失敗を悟る。一応は訓練“校”のため多少は大目に見てもらえるようだが、注意が必要だろうと心の中でメモを取る。これが通常の軍隊の訓練校だったら更なる徹底が必要なのだろうが、『ES能力者』は訓練校の段階ではまだ一般の高校生と同じ扱いになるのだ。それが理由なのか、砂原の雰囲気にもまだ柔らかさがある。
「では……そうだな、そこでは少し場所が悪い。そこへ立て」
「? はい、教官」
他の生徒から離れた場所を指差され、それを不思議に思いながらも、砂原に背を向ける形で駆け足で移動する。距離は砂原から五メートルも離れていない。そして指定された場所に立ち、砂原へと振り返り。
「―――え?」
何故か、黒い銃口が博孝に向けられていた。
(え? なに? モデルガン? エアーガン? つーか、なんで銃口がこっちを向いて)
パァン、という乾いた音で、博孝の思考が遮られる。そして音が届くのとほぼ同時に、博孝は額に衝撃を感じて真後ろへと倒れた。
「きゃああああああああああっ!?」
成り行きを見守っていた生徒、特に女子生徒から悲鳴が上がる。なにせ、目の前でいきなり発砲されたのだ。それも、今日新しくクラスメートになった男子生徒へ、である。
狙いは正確に、額のど真ん中。片手で拳銃を保持していたにも関わらず、微塵のズレもなく博孝の額を撃ち抜いた。
「ぎゃああああああああああああああああああああああ!」
額を撃たれた博孝は、思わず悲鳴を上げながら地面をのたうち回る。両手で額を押さえながら、陸に打ち上げられた魚のような動きで地面を転げた。それを見て、恭介が慌てたように駆け寄った。
「ひ、博孝! 大丈夫っすか!?」
「き、恭介か……俺の家族に伝えてくれ……幸せな人生でした、と」
「博孝の両親にそんな言葉を伝えにいくとか、荷が重いっすよ!? ってかなんで頭を撃たれて喋れるんっすか!?」
「……え? ホントだ」
「寸劇は良いから立て。服が汚れているぞ? 土を払いたまえ」
額を押さえていた博孝に、砂原からそんな冷たい声がかけられる。
「あ、はい、教官」
言われた通り立ち上がり、服についた土を手で払い―――そこで我に返った博孝は砂原に詰め寄った。
「『立て』じゃないですかよ!? なんでいきなり撃たれにゃいかんのですか!? ビックリしましたよ! あやうくチビるかと思いましたよ! ……やっべ、マジでチビってねえかな……うん、セーフ!」
衝撃的過ぎて漏らしていないかと一瞬だけ心配した博孝だが、問題はなかった。対する砂原は、抗議する博孝を見て僅かに驚いたような顔をする。
「河原崎は本当に元気が良いな。これは新入生の恒例行事なんだが、撃たれた直後でそんなに元気の良い者は初めて見たぞ。武倉も、河原崎が撃たれたのに、よく動けたな」
そう言いつつ、砂原は手に持っていたノートに何事かを書き込む。そして博孝に列に戻るよう言うと、博孝が立っていた付近へとしゃがみ込んだ。
「さて、諸君らも見た通りだ。口で言うより見た方が早い。百聞は一見にしかずというやつだな。我々『ES能力者』はこの通り―――」
喋りながら、博孝の額に命中した弾丸を拾い上げる砂原。そして、先端がひしゃげたその弾丸を生徒たちへと見せる。
「拳銃の弾丸程度では傷一つもつかん。衝撃ぐらいはあるが、それも僅かだ。まあ、それはあくまで諸君らに限った話であって……おい」
「はっ。失礼します」
立ち上がった砂原に向けて、控えていた兵士の一人が拳銃を抜く。そして砂原に向けて発砲した―――が、砂原は微動だにしない。
「このように、ある程度熟練の『ES能力者』ならば衝撃すら感じない。そうだな、さすがに対戦車ライフルなどを持ち出されると、多少の衝撃はあるが……実戦ではそうそう当たらんしな」
そこまで言うと、砂原は博孝へと視線を向ける。
「で、どうだ河原崎。撃たれた感想は?」
「ビックリしましたよ……でも、衝撃はあったけど痛くはなかったですね」
「そうか」
博孝の言葉を聞いて、砂原は何度も頷く。
「河原崎の言った通り、『ES能力者』ならば弾丸程度は問題ではない。諸君らでも、衝撃は感じても痛みは感じないだろう。そして次に……折角だ、武倉、前に出ろ」
「えっ!? こ、今度は俺っすか!?」
「『はい、教官』だ」
「は、はいっす、教官!」
「……まあ、いい。とりあえず前に出ろ。そして肩幅に足を開いて直立していろ」
砂原にそう言われ、恭介は三歩ほど前に出て足を肩幅に開く。すると、それを見た兵士の一人が前に出てきた。その手には何故か大型の槌を持っており、恭介は顔を引きつらせる。
「あの、教官……なんか、餅つきどころかコンクリートの壁を破壊するのに使えそうなものが出てきたんっすけど……」
「拳銃より、こちらの方が見た目のインパクトがあるだろう? 動くなよ」
「そんな問題じゃないっす!? あ、やめ、ちょ、そんな振りかぶらないで、ぎゃああああああああああああ!」
砂原の言いつけどおり、動かなかった恭介の腹部へ槌が叩きつけられる。それを見た生徒達から再度悲鳴が上がり―――博孝はすぐさま恭介へと駆け寄った。
「恭介! 無事か!?」
「へ、へへ……やられちまったっすよ……こ、こんなことなら、あの子に告白しておけば良かったっす……」
「馬鹿野郎! それは漫画とかでも中盤から終盤ぐらいに言うべき台詞だろうが!? まだ俺達は入学したばっかりなんだぞ!?」
「ぬぅ……台詞のチョイスをミスったっすか……よっこいしょ、と」
博孝と恭介がそんなやり取りを終えると、恭介がゆっくりと立ち上がる。そして槌で殴られた腹部を触り、不思議そうな表情で口を開いた。
「本当に衝撃しか感じないっすね……正直、内臓とかが『ぐちゃっ』といったかと思ったんっすけど……」
そうやって二人が列に戻ると、砂原が呆れたような視線を向ける。
「お前ら、本当に元気が良いな。ちょっと段階を飛ばして、対戦車ライフルの的になってみるか?」
「や、それはちょっと……でも衝撃しか感じないんだったら……」
「『ES能力者』になりたてのやつなら、出血ぐらいはするかもしれんが」
「やっぱり遠慮します!」
「そうか」
断る博孝に、若干残念そうな砂原。『良い実験になるのだが』と呟いているところが、余計に恐ろしかった。
砂原は一度咳払いをすると、生徒達を見回す。
「それでは、諸君らも二人のように実際に体験してもらう。まずは十人ずつに分かれろ」
そう言って砂原は博孝と恭介を除き、生徒を十人ずつに分ける。それを見た博孝は思わず挙手した。
「教官! 俺と恭介はもう良いんですか?」
実際に撃たれ、殴られたのだ。もう終わりかと尋ねると、砂原は鼠を追い詰める猫のように笑う。
「お前らは元気が良すぎるから、俺が直々に“指導”をしてやろう。さあ、喜べ」
その言葉に、博孝と恭介は顔を青ざめさせるのだった。
「痛いっす……マジで痛いっす……」
「なんかこう、頭の中まで響くんだよなこの痛み……」
さすがに目に余ったのか、砂原から拳骨をもらった博孝と恭介は二人仲良く頭を押さえていた。
「お前らのように場を盛り上げるタイプは重要だが、それも度が過ぎれば注意を行う。これからは“ほどほど”にしろ」
「了解です……っと、教官、一つ質問を良いですか?」
兵士に撃たれて上がる女生徒の悲鳴をバックに、博孝は砂原へと質問の許可を求める。
「構わん。なんだ?」
「銃弾が当たった時は衝撃があったぐらいで痛くはなかったんですけど、教官に殴られたら痛いですよね? それってなんでですか?」
『ES能力者』が思いの外頑丈なのはわかったが、と疑問を込めて尋ねると、砂原は顎に手を上げた。
「ふむ……あとで話すつもりだったが、まあ、いいだろう。察しはついているだろうが、『ES能力者』同士ならば普通の人間と変わらず、相手にダメージを与えることができる。ただし、今回のように拳銃を使っても効果はない。『ES能力者』が直接攻撃をした場合……これにはES能力を使っての攻撃も含むが、その場合はダメージを負う。下手をすれば死ぬ場合もある」
「へー……だから『ES能力者』が国防の要って言われてるんっすね。あれ? でも、そうなると戦闘機とかって意味ないんじゃないっすか? 『ES能力者』がいればそれで十分な気がするんすけど」
恭介も会話に加わり、質問を行う。それを聞いた砂原は少しばかり苦笑した。
「戦闘機と熟練の『ES能力者』ならば、後者が勝つ。しかし、『ES能力者』だけで戦争もできん。なにしろ数が少ないからな。もっとも、陸戦部隊も合わせれば国が所有する戦闘機などよりは遥かに数が多い。それでも、人間の兵士も必要になるのだがな」
「なるほど」
博孝が頷くと、砂原は目つきを鋭くする。
「だが、気を付けろ。お前らのような“なりたて”の『ES能力者』ならば、戦闘機どころか戦車の相手をするのが精々だ。さすがにミサイルが直撃すれば、死にかねん」
「教官なら大丈夫なんですか?」
「俺か? そうだな、何度かミサイルを食らったことがあるが……熱湯風呂に放り込まれたような感じだった」
「……つまり、大丈夫ってことですね」
砂原の回答に、博孝は呆れたように言う。砂原はそんな博孝に苦笑を向け、次いで、兵士によって撃たれている生徒達へ視線を向ける。
「そろそろ全員終わったな……よし、全員整列!」
その声を聞いて、博孝と恭介は整列するために移動する。その際確認してみると、何人かの生徒は撃たれたショックで呆然としていた。里香などは涙を流し、座り込んでいる。しかし中には平然としている者もおり、沙織などは全く動揺した様子がなかった。希美などは顔色が若干悪いが、それでも、泣いている女生徒に話しかけて慰めている。
「さて、諸君らも体験したように、銃弾で撃たれても怪我一つなかっただろう。しかし、『ES能力者』が相手ならばそうもいかん。自己紹介の時の河原崎と武倉を見ていただろうが、『ES能力者』に殴られれば痛みを感じ、下手をすれば死ぬ。まずはそのことを心に刻んでおけ。いいな?」
砂原がそう言うが、返事はまばらにしか返ってこない。しかし砂原そのことを咎めず、手元の時計に視線を落とした。
「三十分の休憩を取る。次は体力測定……と、それほど大げさなものでもないな。諸君らに、『ES能力者』としての運動能力を把握してもらう。教室の隣に更衣室があるから、休憩時間内にそこで着替えるように。運動用の服や靴については、更衣室に用意してある。ネームプレートをロッカーに付けているので、それをよく確認するように。では、解散!」
そう言って、砂原は兵士を従えて去っていく。博孝達生徒は顔を見合わせるが、砂原の指示通り着替えなくてならない。最初に博孝と恭介が歩き出すと、他の生徒達もノロノロと動き出す。
「……あー、やっぱり、ショックが大きいのかね?」
「そりゃそうっすよ。いきなり銃で撃たれるなんて……って、なんで俺だけ槌で殴られたんっすか!? まさか差別っすか!?」
「違うだろ恭介。あれは差別じゃない、特別扱いなんだ」
「あ、そ、そうなんすか? それなら納得するっす!」
詭弁だったが、恭介は納得したらしい。そうやって博孝と恭介が更衣室に向かおうとすると、沙織が二人を追い越していく―――が、その際に二人へと鋭い視線を向けた。
「あんた達、もっと真面目にやりなさいよ」
「え?」
「は?」
「……まあ、わたしの知ったことではないけど」
それだけを言い残し、沙織は歩き去る。博孝と恭介は顔を見合わせるが、今度は後ろから声がかかった。
「そこの二人……えっと、河原崎君と武倉君? ちょっと、こっちにきてくれないかな」
名前を呼ばれ、博孝と恭介は振り返る。すると、困ったような顔の希美が立っていた。
「あれ、松下さん?」
「な、なんっすか希美さん!? あと、自分のことは気軽に恭介って呼んでほしいっす!」
何か用かと首を傾げる博孝に、勢い込んで希美へと声をかける恭介。希美は少しばかり身を引いたが、それでも踏みとどまった。
「ちょ、ちょっとお願いがあるんだけど、良いかな?」
「の、希美さんのお願い!? なんっすか!? 舐めろと言われれば靴でもぎゃっ!?」
暴走している恭介を殴って黙らせ、博孝はため息を吐く。
「恭介ー、さすがにはしゃぎ過ぎだろー」
「い、痛いっすよ博孝!? あと、ちょっと羽目を外しただけっす!」
「はぁ……あ、ごめん、松下さん。それで、用って?」
希美は博孝と恭介の顔を見比べると、少しだけ誤魔化すように微笑む。
「あ、じゃあ、河原崎君に手伝ってもらいたいんだけど……」
「えっ!? お、俺は!?」
「武倉君はちょっと……」
申し訳なさそうに希美が言うと、恭介はショックを受けたように硬直する。しかしすぐさま博孝達に背を向けると、校舎に向かって走り出した。
「ひ、博孝の裏切り者おおおおぉぉぉ!」
砂埃を上げて走り去る恭介。博孝と希美はそれを無言で見送ると、互いに見なかったことにした。
「それで、用って?」
恭介をいなかったことにして、博孝が尋ねる。すると希美は、移動を開始していた生徒達―――正確には、その最後尾を見た。
「まだ何人か、ひどく気が動転している子がいてね……手を貸してほしいのよ。他の人にも声をかけたかったけど、みんな少なからずショックを受けているみたいで……」
「ああ、なるほど。俺で良ければ喜んで」
「そう? 助かるわ」
博孝の回答にほっとした表情を見せつつ、希美は歩き出す。博孝もそれに続くと、何人かの女子が希美へと視線を向けた。
「みんな大丈夫? とりあえずここから移動しましょう。動ける?」
希美が問うと、女生徒はゆっくりとした足取りで歩き出す。しかし、その中に一人、座ったまま動かない者が一人いた。
「岡島さん、大丈夫? 動ける?」
座り込み、泣いたままの里香へと希美が声をかける。しかし、里香は小さく首を振るだけだ。それを見た希美は、困ったように博孝へと視線を向ける。
「河原崎君……」
「あー……了解です」
さすがに空気を読み、博孝は真面目な表情を作った。恭介がこの場にいたら、空気を読まずに能天気なことをやらかしていたかもしれない。
「岡島さん、大丈夫? 立てる?」
博孝はなるべく相手を刺激しないよう、優しく尋ねる。里香は希美ではなく博孝に話しかけられたことで身を震わせたが、それでも小さく首を横に振った。
「う、動けない……」
「もしかして、腰が抜けてるとか?」
「ぐすっ……わ、わからない」
「そっか……よし、じゃあ、ちょっとだけ待っててくれ」
それだけを言うと、博孝は校舎に向かって走り出す。その際体に違和感を覚えたが、今はそれどころではないと走り、食堂へと飛び込んだ。そして自販機でペットボトルのスポーツドリンクを購入すると、すぐさま走って戻る。里香はまだ座り込んでおり、動けないようだった。
「お待たせ」
「え……う、うん……」
突然走り去って突然戻ってきた博孝に、里香は泣くのを止めて博孝を見上げた。泣くのに邪魔だったのか、眼鏡を取り払ったその目は若干赤い。博孝は手に持っていたペットボトルのふたを開けると、里香の手を取って持たせた。
「ほら、これでも飲んで落ち着いて」
「あ……ありがとう……」
博孝に言われるまま、里香はペットボトルに口をつける。そして一口、二口とスポーツドリンクを飲むと、少しばかり落ち着いたようだった。
「んじゃ、次は深呼吸でもしようか。ほら、吸って、吐いて」
「……すー……はー……」
言われるがままに深呼吸をする里香。その瞳には理性の色が戻ってきており、それを見た博孝は頷いて見せた。
「よし、少しは落ち着いた?」
「う、うん……ありがとう」
「さて、それじゃあ立てる?」
博孝が尋ねると、里香はようやく自分が座り込んでいることに気付いたのか、慌てて立ち上がろうとする。しかしいくら力を入れても立ち上がれず、再度目に涙を溜めた。
「……た、立てないです……」
「ありゃ……本当に腰が抜けたのか。んー……」
携帯電話を取り出してみると、すでに十五分が経過している。早く更衣室に向かって着替える必要があるだろう。他の女子を支えながら更衣室に向かった希美もまだ戻ってきておらず、博孝は困ったように頭を掻いた。だが、すぐに決断すると里香の傍にしゃがみ込む。
「時間も押してるし、動けないなら俺が運ぶけど」
「……え?」
「いや、だから俺が運ぶけど。おんぶか、お姫様抱っこか」
「……えぇっ!?」
驚いたように目を見開く里香。
「松下さんが戻るのを待つのが一番だろうけど、もう少し時間がかかりそうだし……着替える時間も必要だろ?」
「う、うん、そう、だけど……でも……うぅっ」
顔を赤らめて、里香が俯く。名前と顔ぐらいしか知らない異性に抱きかかえられるのが恥ずかしいのだろう。しかし、博孝としては時間をオーバーして砂原にありがたい“ご指導”をいただく危険性の方が重要だった。
「ええい! ちょっとごめんよ!」
「あっ!」
一言声をかけ、博孝は里香の背中と膝裏に腕を通す。そして、無理矢理持ち上げた。
「時間があまりないから文句は聞きません! ……まあ、いきなりですいませんね!」
とりあえず謝りつつ、博孝は校舎へと向かう。里香は最初は暴れようとしていたが、博孝に他意がないことを悟ったのか、やがて力を抜いた。
「そ、その……お、重くない、ですか?」
「いんや、全然軽いわ。というか、ちゃんとメシ食ってるか?」
実際にはそれなりの重さがあるが、そこは博孝も男の子である。余裕を装いながら答えた。里香は恐縮しながら博孝を見上げるが、見上げられたことに気付いた博孝は里香と視線を合わせ、口を開いた。
「んー……」
「な、なに?」
怯える小動物のような仕草の里香を見て、博孝はつい口を滑らせた。
「やー、泣いて濡れた目元がちょっとセクシー……なんつって」
「っ!」
ぺちり、と赤くなった里香に頬を叩かれる。しかしまったく痛くなかった博孝は、苦笑した。
「ごめんごめん。冗談……ってわけでもないけど、申し訳ない。なんなら後で土下座するんで、許して」
博孝はそう言うが、里香は顔を赤くしたまま顔を逸らしてしまう。
(やっべえええええ! やっぱ相手を選んで冗談を飛ばすべきだった!?)
表面上は普通に、内心では慌てる博孝だった。それでもなんとか気を取り直すと、校舎に入って更衣室へと向かう。すると、丁度更衣室から出てきた希美と目が合った。
「あ、あれ? 河原崎君……その」
「ええ、はい、言いたいことはわかります。ただ、時間が危なそうだったんで、無理やりにでも連れてきました。あ、ここからは任せても良いですかね?」
博孝も着替える必要があるのだ。希美は困ったように微笑む。
「さすがに、わたし一人だと抱えられないかも……岡島さん、立てる?」
「……えっと、た、多分……」
里香がそう言うので、博孝は里香を地面に下してみる。すると、里香はフラフラとしながらも立ち上がった。足がプルプルと震えており、博孝は思わず生まれたての小鹿を連想する。それでも問題がなさそうだと判断し、博孝も更衣室に向かおうと思った。
「ありがとう、河原崎君。助かったわ」
「……そ、その、ありがと」
しかし、その前に希美と里香から声をかけられる。
博孝はそれに手を振って答えると、時間が迫っていることを思い出して慌てて更衣室に飛び込むのだった。