第五十四話:疑惑
夕暮れによって赤く染まった教官室で、砂原は訪れた里香を見ながら疑問の感情を覚えていた。
授業や実技訓練について聞きたいことがあるのかと考えるが、里香は座学においては第七十一期訓練生の中でもトップであり、実技訓練でも疑問に思ったことはすぐに尋ねる性格だ。
本人の気性としては引っ込み思案な部分があるが、必要なことはきちんと聞くことができるのだ。そのため、こうやって個人的に話をしに来るのは非常に珍しいと言える。
里香は思考の回転が速く、注意力や洞察力も高い。もしも里香の性格が少しでも荒事に向いていれば、砂原は里香を第一小隊ではなく他の小隊の小隊長に据えていただろう。
それぐらいには、里香のことを評価していた。
「あの、その……博孝君……いえ、河原崎君のことについて相談をしたくて……」
真剣な表情ながらも、どこか迷うような口振りで里香は言う。砂原は恐縮した様子の里香に椅子を勧めつつ、僅かに苦笑した。
「ああ、いつも通りの話し方で構わん。あまり畏まっていては、話したいことも話せんだろう。しかし、河原崎について相談か……」
自分ではなく、博孝についての相談。それを聞いた砂原は、里香の緊張を解そうと冗談を口にする。
「恋愛相談か? だが、あの手の男は引っ付いていれば勝手に落ちるぞ。胃袋を掴むとより効果的だ」
「ち、ちがっ……えと、あうぅ……ち、違います……」
だが、緊張を解そうと思って放った言葉により、里香は顔を真っ赤にしながら俯いてしまう。
(いかんな……軽い冗談だったのだが。やはり、俺にはこの手の冗談は向いてないのか……)
耳まで赤く染めた里香を見て、砂原は内心で反省した。人には向き不向きがあるが、自分には向いてない類の冗談だったのだろう。
それでも里香の様子を見て、非常に微笑ましく思う。里香が博孝に対して好意を抱いているのは明白であり、逆に博孝も里香に対して悪い感情は持っていないのは明白だ。
若者の恋愛模様を見るとどうにも微笑ましく感じてしまうのは、砂原も年を取ったからか。そんな詮無きことが脳裏に過ぎり、砂原は苦笑を深める。
言葉によって里香の緊張を解すのは難しいと判断し、コーヒーメーカーを操作して紙コップにコーヒーを注ぐ。そしてスティックシュガーや使い捨てのマドラーと共に机の上へ置いた。
「まあ、これでも飲んで落ち着きたまえ。ミルクはないから砂糖だけで我慢してほしい」
「あ……い、いただきます」
スティックシュガーを二本入れ、息で冷ましながらコーヒーを口にする里香。砂原も紙コップにコーヒーを注ぐと、こちらは何も手を加えずに飲む。
「さて、河原崎についての相談だったな。本人に対して直接話すのではなく、俺に相談を持ちかけるあたり複雑な相談だと思うのだが……」
もしも本当に恋愛相談をされても、きちんとしたアドバイスができる自信はなかった。アドバイスできるとすれば、先ほど口にした冗談で全てである。しかし、それ以外の話題で里香が博孝についての相談をしてくる理由がわからない。砂原は思考を巡らせつつ、里香が話すのを待つ。
ES能力の知識や戦闘のイロハなら叩き込めるし、砂原が得意な分野でもある。だが、それ以外での相談となるとどこまで力になれるか。
やはり女性のカウンセラーが訓練校に一人だけでも常駐するべきではないか。そうなると色々と助かる。砂原がそんなことを考えていると、里香は自分を鼓舞するように深呼吸をしてから話し始めた。
三回目の任務が終わって一週間。これまで里香がずっと考え――否、“以前”から考えていたことを話し始める。
「さ、最初に一つお聞きしたいんですが、教官は博孝君をどう思いますか?」
「どう、とは? すまんが、質問の意図がわからない。相談をするのは構わんが、もう少し明瞭に質問をしてくれ」
どう思うかと聞かれても、質問の意味があまりにも曖昧すぎる。そのため砂原はもう少し踏み込んだ説明を求めると、里香は慌てて補足した。
「あ、ご、ごめんなさい……その、博孝君の性格とか、『ES能力者』としての性質……みたいな部分をお聞きしたくて」
里香の質問に、砂原は首を傾げる。その問いに答えることは問題ないが、それを聞いてどうするというのか。
「ふむ……まあ、河原崎の性格を一言で表すなら“気が回るアホ”だな」
「あ、あほ……」
砂原のバッサリとした評価に、里香は困ったように頬を引きつらせる。砂原はコーヒーを一口飲むと、話を続けた。
「別にけなしているわけではない。もう少し噛み砕いて言うと、性格は明るく、騒ぎには率先して参加するか、自分で騒ぎを起こすタイプだ。それでいて周囲の人間に対する気配りも欠かさないし、目の付け所も悪くない。いわばムードメーカーだな。空気も読める……が、敢えて読まずにアホなことをするのが玉に瑕か」
砂原本人は否定しているが、最後の一言がけなしているようにしか聞こえない。里香が内心で苦笑していると、砂原は言葉を続ける。
「しかし、ああいう手合いは部隊に最低でも一人いると助かるものだ。それだけで部隊の空気が明るくなり、士気も上がりやすい」
里香もコーヒーを両手で持ちつつ、砂原の評価に耳を傾ける。
「『ES能力者』としては……そうだな。“オリジナル”のESに適合したとはいえ、『ES能力者』になって僅か半年で独自技能を発現している。今では不完全とはいえ四級特殊技能まで身に付けているし、その点を見れば才能があると言えるだろう。その上、努力家だ。訓練量では長谷川とツートップだろう。本人の性格も指揮官向きと言える。だが、大部隊の指揮には向かんな」
そんな砂原の言葉を聞き、里香は耳をピクリと動かした。そして、それが聞きたかったと言わんばかりに口を開く。
「大部隊の指揮に向かないというのは……なんでですか?」
力がこもった声で里香が尋ねる。その声色を聞いた砂原は、僅かに眉を寄せた。しかし、里香の質問に答えるべく一つ一つ丁寧に説明する。
「俺から言わせればまだまだ未熟だが、小隊や中隊の指揮官としては適性があると思う。特に、小隊長としてなら将来的に部隊の先陣を切らせるレベルまで成長するだろう。だが、大部隊……大隊規模以上になると、河原崎は向かんだろう。その規模になると、同時に複数の中隊や小隊を動かす必要がある。それができんとは言わんが――あいつは、部下を庇い過ぎる」
言いつつ、砂原は話のつなぎに煙草を吸おうとした。だが、目の前に座っているのは里香である。さすがに自重し、手に取った煙草の箱を懐に戻す。
「部下を庇うことが悪いとは言わん。部下を使い捨てにする上官が存在することを考えれば、それはむしろ美点だろう。まあ、部下を使い捨てるような上官は、戦場で味方に背後から撃たれるのが相場だがな」
そこまで言うと、砂原は視線を鋭いものに変えた。
「だが、指揮官というのは部下を切り捨ててでも任務を遂行することが求められる。『ES能力者』は生存能力が高いため、部下の命を使い潰すような事態は早々起きん。しかし、そんな事態に陥った時、河原崎は部下の命を捨てることができんだろう。自分の力で解決しようと躍起になり……最後には自滅するだろうな」
小隊や中隊なら、それでもまだなんとかなるだろう。博孝の性格とES能力は集団戦、それも指揮官として特化しており、中隊までならなんとか自力でカバーが可能になると思われた。ただし、これは現状の博孝の実力と将来性を照らし合わせた予想である。今の状態では、小隊を指揮するだけで手一杯だろう。
しかし、いくら博孝が成長したとしても、中隊以上の規模になると駄目だ。自分の手が回らず、零れ落ちそうになる命を救おうと躍起になり、周囲を巻き込んで自滅する。
もしも博孝が命を“数”として捉えるようになれば、指揮官として大成するだろう。自身のES能力と相まって、一部隊を率いることができるようになるかもしれない。
(――だが、アレはそこまで非情になれまい)
博孝の性格が簡単に改まるとは思えない。そのため、砂原としては『なれて中隊長、無理なら小隊長』というのが博孝に対する評価だ。部隊を統括して後ろから指揮をするよりも、他の小隊員と共に前線に突っ込む方が博孝の性にも合っていると思われた。
――あるいは、博孝が砂原の予想を超える成長をすればどうなるかはわからないが。
砂原の説明を聞いて、里香は納得したように頷く。砂原が“ある程度”同じことを考えていたのなら、説明も容易くなる。
「わ、わたしが相談したかったのは、そのことなんです」
「そのこととは?」
砂原が片眉を上げると、里香は深呼吸をして呼吸を整えた。これから話すことが、間違っていれば良い。そう思いながら、言葉を紡ぐ。否定を期待して、そんなことはないと笑い飛ばされることを信じて、声を絞る。
「わたしは、その……博孝君が、仲間を“庇い過ぎる”ように思うんです」
小さな、それでいて確信が込められた声。それを聞いた砂原は、何故か衝撃を覚えた。
思わず息を潜める砂原に対して、里香は説明を続ける。
「前々から、ちょっと気になってて……でも、最近はそれが強くなってて……」
初めての任務で、『ES寄生体』の攻撃から身を盾にして里香を庇った時。
里香とデートをした帰りに、命がけで里香を守った時。
みらいが『構成力』の暴走を起こして、その“治療”をした時。
沙織と“喧嘩”をして、無抵抗に斬られた時。
そして里香が確信を持ったのが、三回目の任務の際に敵性『ES能力者』の自爆から里香を守った時と――足止めだったとはいえ、満身創痍でラプターに挑んだ時。
それらの状況を踏まえて、里香は言う。
――博孝は、命を賭けることに戸惑いがなさすぎるのではないか、と。
「もちろん、本人に聞いたら否定すると思います。博孝君は、その、優しいし……わたしもその優しさに救われたので……でも、わたしは“それだけ”じゃない気がして……」
僅かに身を震わせながら、里香は言い募る。それを見ながら、砂原は驚きを覚える反面、冷静に思考した。
博孝は、本当によく仲間を庇う。それは敵からの攻撃であったり、沙織が源次郎に責められた時に起こした対応であったり、様々だ。
砂原はそれを、本人の性格という一言で片づけていた。砂原自身も部下や仲間、そして教え子を命がけで守ろうとする部分があり、問題と思わなかったのだ。自分も同じであるが故に、“異常”には気づけない。
(度が過ぎている……か?)
訓練校に入校してからの博孝の様子を思い返し、砂原は内心で疑義に対する精査を行っていく。
博孝が“オリジナル”のESに適合した際、その身辺調査も十分に行われている。
家族構成やこれまでの学校での考課。博孝本人の気質や周囲の人間関係。それらを全て調べ上げた結果は、どの街にでもいるような中流家庭の普通の子供であるという結論だった。
小学校や中学校で博孝の担任だった者からの評価も、『元気が良いクラスの中心人物』といったものがほとんどである。問題行動もほとんど起こしておらず、騒ぎ過ぎて担任から説教を受けたことがある程度だ。
これは訓練生には教えられないことだが、『ES適性検査』に通った者に対する身辺調査というものは本当に周到に行われる。その理由としては、『天治会』などのようにES能力を使った犯罪者を生み出さないようにするためだ。
手塩にかけて育てた『ES能力者』が犯罪に走れば、『ES能力者』を管理する国としても体裁が悪すぎる。そのため、『ES適性検査』に通った者はその出生から訓練校の入校までの間に記録されているありとあらゆる情報を収集される。
何年何月何日の何時何分何秒にどの病院で生まれたか、出生体重はどれぐらいか、その時出産に立ち会った医師は誰か。
幼少期に問題行動を起こしていないか、“不審”な人物との接触はないか、犯罪歴がないか、思想に問題はないか、過度な攻撃的思考をしていないか、家庭環境に問題はないか。
それらの様々な情報が集められ、『ES能力者』として鍛えて“将来的”に問題がないかを判断されるのだ。
多少の問題ならば、訓練校にいる間に“矯正”できる。三年という期間をかけて、教官が根元から叩き直してやれる。だが、それにも“限度”があった。
その点を踏まえていえば、博孝はまったく問題がない。身辺の状況も学校での考課も本人の性格も、すべて問題はないとされていた。もしも過去に何かしらの事件や事故に巻き込まれていれば、それも全て洗い出される。しかし、博孝は過去にその手の経験を受けていない。なにかしら性格に与えるような事件は、何も起きていなかった。
(たしかに『ES能力者』になったことで多少性格が変わる者もいるが、河原崎の性格に大きな変化は見られん。“普通”に考えるならば、岡島の気のせいだと判断するが……)
『ES能力者』になった者が万能感を覚え、攻撃的な性格になることはよくあることだ。特に訓練生にその傾向が多く、当初ES能力を発現できなかった博孝に攻撃の手が向けられたのはその一つといえる。砂原が早々に伸びた鼻を折ったとしても、その手の感情は中々消えないものだ。
里香が言う『命を賭けることに戸惑いがない』という性質も、ないではない。特に、初陣を経験した者には時折見られる傾向だ。
それは一度とはいえ死線を潜り抜けたことに対する自信だったり、逆に死線に“潜りっぱなし”になった者が陥る事象だったりと、砂原も何度も見てきている。
しかし、博孝がそれらに該当するかと問われれば、砂原としては首を横に振らざるを得ない。砂原の見る限り、博孝はその手の――ある種の自暴自棄のような感情は持っていないはずだ。
空を飛びたいと願い、それに向かって精進を重ね、仲間達との何気ない生活を楽しんでいる。最近では三ヶ月ほど前にできた“妹”が可愛くて仕方ないようだが、その妹のためにも簡単に死のうとはしないだろう。
たしかに里香の言う通り、ラプターから里香や恭介、みらいを逃がすために命を賭けたことは危惧すべき点かもしれない。勝てないと思った敵から退くのがセオリーだ。だが、報告にある限り砂原も博孝と同じ判断をしただろう。
みらいは気絶し、里香は呆然自失、恭介は震えて動けない。その状況では、満身創痍とはいえ“動ける”博孝と沙織が足止めをするしかない。
それでも、真剣な瞳で見つめてくる里香に砂原も引っかかるものを感じた。里香は洞察力が高く、本人の思慕の念もあって博孝のことをよく見ていた。そのため、博孝に対して“何か”を感じ取ったのだろう。
里香は、最初に“それ”を博孝の優しさだと思った。
里香が初めて博孝と話をしたのは、訓練校に入校した日のことだ。初めての実技訓練で『ES能力者』が“どんな生き物か”を生徒達に教えるために、拳銃で撃たれた時のことである。
その時の里香は、とても動揺していた。拳銃で撃たれたこともそうだが、それで傷一つ負わない自分の体に動揺していた。その結果立つこともできなくなり――博孝によって、横抱きで持ち上げられて更衣室まで連れて行かれたのだ。
里香が博孝を意識したのは、その時からだった。訓練校に入るまでは家族以外の異性と話す機会もほとんどなく、博孝のようにぐいぐいと押してくるタイプの異性と出会ったことがなかった。里香を運ぶためとはいえ、親族以外の男性に抱きかかえられたのも初めてのことである。
訓練校での席が隣だったこともあり、里香は博孝に緩やかに惹かれ――初任務で体を張って庇われたことで、その想いは強くなった。そのあと里香を元気づけるために向かったデートで名前を呼ばれたことで、その想いはさらに強くなった。
博孝が訓練校に入校する前のことは、あまり知らない。精々、お互いに『ES能力者』になっていなければ同じ高校に通っていたということぐらいしか知らなかった。それでも、訓練校に入校してから博孝のことを見ていたのだ。
一年程度の付き合いだが、里香は博孝が持つ“異常”を感じ取っていた。
だからこそ、里香は砂原に相談をした。砂原ならば何か知っているのではないかと、大きな期待を込めて。
――その期待に、砂原は応えられなかった。
砂原は里香から視線を外すと、何かを考えるように目を細める。そして一分ほど思考を巡らせると、里香を真っ直ぐに見た。
「河原崎が……いや、そうか。俺の方でも注意して見ておく。岡島も気になることがあったら、また教えてほしい」
その答えは、里香にとって望んだものではない。しかし、砂原の意識を改めるという点では、最低限の目標を達せられただろう。それに加えて、全て里香の勘違いということもある。
「はい……それでは、その、突然お時間を取らせてしまって、申し訳ありませんでした。あと、このことは博孝君には……」
「ああ、わかっている」
故に、里香はこの場は引くことにした。砂原が頷いたのを見て、頭を下げ、砂原に断ってから退室する。
砂原は里香の背中を見送ると、煙草を取り出して咥え、火を点けて大きく息を吐いた。
「俺は河原崎の“成長”として捉えていたが……違うのか?」
疑問を含んだ声を、紫煙と共に吐き出す。
砂原は教官として、博孝を教え子として見てきた。その点でいえば、ES能力が使えずに腐っていた博孝が成長し、周囲の人間を守ろうとしていたように見える。体を張ってでも、命を張ってでも、守ろうとしてきたのだ。
それは博孝自身の性格であり、矜持だと思っていた。里香を命がけで守ったことも、博孝ならば『女の子を守るのは男として当然』と言ってのけるだろう。
だが、里香の目から見るとだいぶ違うらしい。
博孝がその性格から周囲の人間を庇うのは、ある程度納得できる。しかし、度が過ぎているのだと言われても、素直には頷けなかった。
「それでも、もう少し目を配る必要があるか……」
紫煙を吐きつつ、砂原はそう呟く。里香の言葉に完全に納得したわけではないが、砂原も何か引っかかるものを感じたのだった。
教官室から廊下に出た里香は、廊下を歩きながら思考を巡らせていた。
自分が砂原に相談したことは本当に合っているのか、気のせいではないかと思う気持ちはある。
そもそも、博孝が命を賭けることになった理由の半分近くは里香が関係していた。里香は博孝に何度も庇われている。博孝はその度に身を傷つけ、血を流し、時には死に瀕した。
そのことに対する罪悪感は――実のところ、博孝が想像するよりも遥かに大きい。
自分のせいで人ひとりが死に掛けたのだ。博孝ならば気にするなと笑うだろうが、里香はそれで気にしなくなるような性格をしていなかった。
里香にとって、博孝は思慕の念を抱く異性だ。その切っ掛けや想いを育む理由は様々あるが、命がけで守られたことに対する負い目も大きい。
(博孝君なら、それこそ『俺がしたいことだからやった』とかって言うんだろうな……博孝君、優しいから)
照れ臭そうに言い放つ博孝の顔が思い浮かんで、里香は暖かいものを感じた。それと同時に、申し訳なくも思う。
里香がもっと強ければ――最低でも身を守る術を持っていれば、博孝が傷つくことはなかっただろう。あるいは、傷ついた博孝を癒せるだけの力があれば、これほど辛くは思わなかったかもしれない。
支援型の『ES能力者』である里香は、沙織のような攻撃力も恭介のような防御力もない。得意なのは支援系のES能力だ。しかし、その点では博孝の方が余程多くの支援系のES能力を持っている。
本来、博孝が発現している『探知』や『通話』は支援系のES能力だ。博孝は万能型の『ES能力者』であり、小隊長として必要だから覚えたが、それも里香の力量がもっと高ければ代行できるはずである。そうすれば、博孝は索敵等に気を割かずに小隊の指揮だけに専念できる。
今までの里香は、その立場に甘えていた。だが、今では強く思うことがある。
「わたしも……強くならないと……」
もっと強くなりたいと、里香は願う。
それは現状に対する不満であり、自身に対する不満だ。自分が『ES能力者』としての力量を高めれば、博孝だけでなく小隊員――仲間にかかる負担も減らすことができる。
今のところ、第一小隊は沙織の攻撃力の高さと博孝の多彩さで構成されている部分が大きい。里香や恭介ができることは、博孝や沙織にもできる。だが、博孝と沙織ができることが、里香と恭介にはできない。
体術然り、ES能力然り。里香は思考力という一点では第一小隊の中でも群を抜いているが、本人はそれほど優れたものだと思っていなかった。その一点でも、博孝が上をいっていると思っている。
だからこそ、里香は強くなることを望んだ。
博孝に守られずに済むように。
博孝が自分を守って傷つかないように。
もし博孝が傷ついても、その傷を癒せるように。
そして――博孝に置いていかれないように。
(そういえば、博孝君や沙織ちゃんは毎日自主訓練を行ってるんだよね……)
少しでも“上”を目指すのならば、日頃の訓練だけでは足りないだろう。博孝も沙織も、まったく同じ条件で今の実力を身に付けたわけではないのだ。
与えられただけの訓練と、自分から身に付けようと努力する訓練。前者だけでなく、後者も行う博孝と沙織の間に大きな差がついたのも当然と言える。
(それに、その……博孝君と沙織ちゃんが二人きりで訓練をしているというのも……)
博孝と沙織が二人きりで訓練を行っているというのも、里香の心にチクリとした痛みを与えた。それは意中の男性が他の女性と自分が知らない場所で一緒にいることに対する、些細な嫉妬――とも言えない、可愛らしい感情。
「うん……わたしも頑張ろう」
胸の前で両手で拳を作り、里香は自分に気合を入れた。
この日を境に、博孝と沙織が毎日のように行っていた自主訓練に恭介と里香が姿を見せるようになった。
恭介は、二度と自身の無力を嘆かないために。
里香は、二度と自身の無力が原因で博孝が傷つかなくてすむように。
それぞれ思うところは異なるものの、目指すものは同じだった。決意を固め、前へと進み出す。
その決意が実るかどうかは――まだまだ先の話である。