第四十二話:St. Valentine's day
「――ところでさ、岡島さんって河原崎君と付き合ってるの?」
里香がクラスメートにそんな質問をされたのは、食堂に隣接する調理場でのことだった。
寒さが一段と増す二月。それも半ばの十三日ともなれば、毎日のように雪が降る地域もある。訓練校は人の住む街から離れた山間を切り拓いて作られたため、立地的に雪は降りやすい。そのため、ここ最近は雪が降ることもあった。
調理場には訓練を終えた女子生徒の大半が集まっており、不意に放たれた質問に大勢がその視線を里香へと集中させた。
「え……あ……うぅ……」
質問と周囲の視線を受けて、里香は完全に硬直する。首から徐々に赤く染まり、手に持っていたボウルが滑り落ちた。
「し、ししし、質問の意味が、わ、わからにゃいよ?」
「あ、噛んだわ」
「すごい動揺ね……というか、顔色がまずいわっ! 真っ青じゃなくて、今にも爆発しそうなぐらい真っ赤!」
完熟したトマトのように、顔を真っ赤にする里香。その隣では床に落ちたボウルをみらいが拾い上げ、調理台の上にそっと戻している。
そう、今日は二月十三日。明日は訓練校の休日であり、二月十四日――つまり、バレンタインデーと呼ばれる日だった。
訓練校には、娯楽が少ない。遊ぶための施設もなく、世間がクリスマスだなんだと盛り上がっている時も任務に駆り出され、木々が生い茂る山の中で野戦食を齧ることになる程度には娯楽が少ない。
しかし、今回は任務がない上に休日だ。そのため、第七十一期訓練生の女子生徒達は前日に集まり、明日のイベントを楽しむために手作りでチョコレートを作っていた。今夜中に作っておけば、あとは明日にラッピングをして渡すだけである。
自室で行うには設備が心許ないため、食堂を管理する榊原に頼みこみ、調理場を借りたのだ。訓練校で過ごす生徒が娯楽に飢えていることや、榊原自身女性ということで生徒達に深く共感し、快く許可を出している。なお、許可の取りつけについては女子生徒のまとめ役である希美が率先して引き受けて動いていた。
折角のバレンタインデーである。売店には既製品のチョコレートも売ってあったが、この際女子の結束を深めるためにも自分達の手で作ろうという話になったのだ。ただし、沙織などは自主訓練に励んでいるためこの場にはいないのだが。
きゃいきゃいと騒ぎながらチョコレートを作っていた女子達だったが、その話題の矛先を向けられたのが里香である。料理が得意であり、お菓子作りも得意な里香は手際よく調理を進めていたものの、先の発言を受けてその手を完全に止めている。
「ねえねえ、本当のところはどうなの?」
「前に二人でデートに行ってたよね?」
「名前で呼び合ってるし、仲も良いし」
目をキラキラと――ギラギラとさせながら、数人の女子が里香に迫る。『ES能力者』といえど、そこは年頃の女の子だ。恋愛ごとには興味津々であり、訓練校は閉鎖的なためその傾向が非常に強い。生肉を目の前に置かれた餓えたライオンのような形相で里香を取り囲み、真相を聞き出そうとしている。
そんな女子達から離れた場所では、みらいが料理本を片手に首を傾げ、チョコレートを“直で”鍋に投下した。
「えっと……その……」
取り囲まれた里香は、目を血走らせた肉食獣に包囲されたウサギのように震える。顔は依然として真っ赤であり、指で突けばそのまま一気に血が噴出しそうだ。
「どこまでいったの? A? B? それともまさか、C!?」
「嘘っ! 岡島さんって意外と大胆!?」
「まさか……そんな……」
口々に予測や感想を言い募る女子達。それを聞いた里香はますます顔を赤らめ、このままではうっ血しそうだ。
そんな女子達から離れた場所では、みらいが鍋から煙が上がり始めたことに眉を寄せ、チョコレートを投下した鍋に水を注ぎこむ。
「ち、違うよっ。わ、わたしと博孝君は、その、つ、付き合ってなんかいなくて……」
周囲の女子から放たれる圧倒的なプレッシャーを前に、里香は目の端に涙を溜めつつ否定する。
「え? まさか体だけの関係?」
「違うよぉっ!」
「退廃的だわぁ……」
「ち、違うの! そんなことないから!」
「岡島さんってけっこう大人しいかと思ったけど……やるね」
「ちーがーうーのー!」
次々に言葉の爆弾を投げ込まれ、里香は首を振って必死に否定した。三人目の女子などは、何故かサムズアップしている。
そんな女子達から離れた場所では、みらいが香りづけのためにブランデーを少しだけ入れようとして、鍋に『どばっ』と投入していた。
「えー……それじゃあ、本当に付き合ってないの?」
「うっそー! あんなに仲が良いのに?」
「あり得なくない? 河原崎君って、意外とヘタレ? でも、前にデートした時に押し倒したって言ってたような……」
必死で否定する里香に納得したのか、女子達は顔を見合わせてヒソヒソと話し合う。周囲を囲まれた状態で話を聞く里香は、気が気ではない。
「でも、岡島さんって河原崎君のことが好きなんだよね?」
「……え?」
そしてさっそく飛んでくる、追究の矢。里香はその質問に思考を停止させる。博孝のことを好きかと聞かれれば、友人としては間違いなく好きだろう。ただ、それが異性としても好きかと聞かれれば――。
「えっと……うん」
肯定するために、小さく頷いた。
「…………」
「…………」
「…………」
不意に訪れる沈黙。頷いた里香は顔を上げ、思わず悲鳴を上げかけた。
里香を取り囲んでいた女子達は、一様に笑みを浮かべていた。ニヤリと、ニマッと、ニヤァと、様々な種類の笑みを浮かべて、里香を見ている。もしも博孝や恭介がこの場にいれば、『怖気持ち悪い』とでも口走り、ボコボコにされただろう。
そんな女子達から離れた場所では、みらいが『ふるーつちょこれーと……』と言いつつ複数の缶詰をこじ開け、中身を“すべて”鍋に叩き込んだ。
里香は衆人環視の前で自身が持つ感情を暴露してしまったことに顔を真っ青にし、続いて恥ずかしさで顔を真っ赤にし、そのまま顔色を青と赤でいったりきたりさせる。
――爆発的な歓声が、調理場を満たす。
「やっぱり! やっぱりそうなんだ!?」
「へぇー! 岡島さんって河原崎君が好きなんだ!?」
「意外じゃないけどやっぱり意外!」
「うぅ……そ、それ以上、言わないで……」
周囲の剣幕に押され、里香は両耳を押さえて床へ座り込んだ。周囲の女子は火に油を注がれたどころか、トリニトロトルエンに火炎瓶を叩きつけたように爆発的な燃え上がりを見せている。ちなみに、トリニトロトルエンはTNTとも呼ばれる高性能爆薬である。
周囲のプレッシャーに押されて、つい自分が抱える気持ちを暴露してしまった。戻れるのなら、一分前に戻りたい。ES能力にそういったものはないかと、里香は真剣に願う。きっと、『時間操作』と言う名前で独自技能にあるに違いない。むしろあってほしい、と思った。
「でも、河原崎君かー。アイツはちょっとねぇ……」
「見ている分には面白いんだけど、彼氏とかにはちょっと……」
「顔も割と良い方だし、勉強も運動も得意なんだけど……」
女子達は口々に博孝の評価を告げる。そして最後には声を揃えて、『普段の“病気”が酷い』と言った。ちなみに、恭介も似たような評価である。
それを聞いた里香は、思わず沈黙した。すると、それを里香が不機嫌になったと勘違いしたのか、女子達は慌ててフォローする。
「いや、河原崎君が悪いわけじゃないのよ? 馬鹿だけど」
「そうそう、お調子者っていうかムードメーカーっていうの? 馬鹿だけど」
「男子の中では一番強いし、有望株でしょ? 馬鹿だけど」
最後に本音を付け足しつつ、女子達は里香の機嫌をなおそうと試みる。
そんな女子達から離れた場所では、みらいが鍋を覗き込んで『……あ、ひとつさばかんだった』と呟きつつ、鍋をかき混ぜていた。
周囲の女子達の話を聞いていると、里香は自分の中にあった博孝の像が正しいものかと疑問に思う。
里香にとっての博孝は、他人の危機には戸惑うことなくその身を盾にし、命がけで庇おうとする人物だ。
他人の機微に目を配り、里香が博孝に負い目を感じていることに気付けば無理矢理にでもデートと称して外に連れ出し、笑顔にさせてくれた人物だ。
性格も悪いものではない。お調子者なところがあるが、弁えるべきところは弁えている。軍人として正しいかは別だが、相手が砂原や源次郎のような“上官”だろうと怯まずに抗弁する胆力もある。
里香にとって初めて名前で呼び合った異性であり――異性として意識した、初めての人でもある。
――ただ、少しばかり“気にかかるところ”があるが。
それでも、意中の男性に対するあまりの評価に、自然と反論を口にする。
「ひ、博孝君はっ……その、たしかにお調子者だけど、優しいし、わたしが落ち込んだ時に慰めてくれたし、小隊長としても優秀だし、わ、わたしは、か、格好良いと思う……」
顔を真っ赤にして、里香はそう言った。それを聞いた女子達は呆気に取られた顔をすると、すぐさま活きの良い獲物を見つけたように口元を三日月の形に吊り上げる。
「惚気? 惚気なのね?」
「あー、暑いわぁ……外は寒いのに、この辺りはすごく“熱い”わぁ……」
「うふふふふ……」
ニマニマと笑いながら、女子達はからかいの言葉を口にした。
そんな女子達から離れた場所では、みらいが“鍋の中”を覗き込んで『……ひがついた』と呟いている。
「でも、そうなると長谷川さんがライバル? 『武神』の孫が対抗馬っていうのはきついわよねー。それに最近、なんていうの? 同性のわたしが言うのもなんだけど、長谷川さんって可愛くなったわよね」
「長谷川さんとも仲が良いし……というか、胸に触ったって言ってなかった? 誤解だって言って逃げてたけど」
「うわ、さいてー。責任取るぐらいはしなさいよね……小隊も一緒だし、放課後とかに一緒に自主訓練するのを見かけるけど」
女子達の中では、里香よりも沙織の方が一歩リードしているように見えるようだ。もっとも、沙織が博孝を異性として見ているかは甚だ謎だが。
周囲から向けられるプレッシャーに、里香は思考が混濁するのを感じる。だが、それでもなんとか抗弁すべく、頭に浮かんだことをそのまま口にした。
「む、胸なら……わ、わたしも触られたことあるからっ!」
口から出たのは、非常に巨大な地雷だった。里香は自分が何を口走ったかを理解しないまま叫び――数秒経ってから、顔色を真っ白にする。血の気が一気に顔から失せたようだ。
博孝の名誉のために言うならば、博孝が里香の胸に触ったのは初任務の時に呆然自失とした里香を正気に戻すためだ。沙織の時にいたっては、胸を触ったというよりは“触らされた”といった方が正しい。だが、それを知らない女子達は、思わず顔を見合わせた。
「最低というか……ゲス?」
「アイツ、死んだ方が良いんじゃない?」
「でも、そんな河原崎君を好きって言うんだから、岡島さんは納得の上でしょ……」
博孝に対する女子の評価が、底を突き破った瞬間である。一部の女子は、某黒い虫を連想したかのように目つきを鋭いものに変えた。
そんな女子達から離れた場所では、みらいが急に鍋から身を引き『……おー、ばくはつ』と呟いている。
女子達はヒソヒソと話し合い、止めるべきか背を押すべきか相談する。だが、最終的には里香の気持ちを尊重するという形で落ち着いた。
「これはアレだね、告白するしかないね」
「そうね、丁度明日はバレンタインだし」
「告白するにはうってつけ……」
女子達が一斉に振り向き、里香に視線を向けながらそう言う。シンクロナイズドスイミングも真っ青な動きに、里香は本能的に恐怖を感じつつも戦慄した。
「こ……こっ!? こ、告白!?」
告げられた言葉に、里香は恐慌状態に陥る。
「じ、自分の罪を明かすとか?」
「それは告解」
「ざ、残酷で薄情なことをするとか?」
「それは酷薄」
徐々に迫りくる女子達を前に、里香はしどろもどろになりつつ逃げようとする。だが、取り囲まれて逃げられそうにない。
「はいはい、みんなそこまでにしなさい。ほら、里香ちゃんだって困ってるでしょう」
さすがに見かねたのか、話に加わっていなかった希美が手を叩きながら仲裁に入った。
「えー……でも、希美さんだって気になるでしょ?」
「気になるけど、周囲からあれこれ言われたら、里香ちゃんだって委縮しちゃうわ。里香ちゃんは恥ずかしがり屋さんだから、逆に河原崎君から逃げるかもしれないわよ?」
「むぅ……たしかに」
希美が取り成すと、女子達は不満そうながらも解散する。それを見た里香は、心の底から安堵の息を吐いた。
そんな女子達から離れた場所では、みらいが謎の物体を完成させていた。里香が女子達に絡まれていたため、みらいは独力でバレンタインのチョコレートを作り上げたのだ。
――作り上げて、しまったのだ。
二月十四日はバレンタインデーである。
女子にとって重要なイベントであり――それは、男子にも当てはまる。
意中の異性からチョコレートをもらえるかどうか。
義理チョコでも良いからもらえるかどうか。
そもそもチョコレート自体をもらえないか。
人によってはもらったチョコレートの数を競い合い、自慢し、悦に浸る。逆に一つももらえない男子からすれば非常に鬱になるイベントであり、周囲との“格差”をまざまざと見せつけられることになるのだ。
その日、男子の多くは普段そこまで利用しない談話室に集まっていた。
部屋にいては、女子が渡しにくいかもしれない。それならば、男子寮の入り口にも近い談話室の方が良いのではないかと考えたのだ。そのため、男子達は談話室で雑談をしつつ、女子が訪れないかと目と耳を凝らしている。
人によっては、意味もなく寮の前でひたすらラジオ体操をしている者もいた。中には、挙動不審な様子で男子寮と女子寮の間をシャトルランのように往復している者もいる。
自意識過剰と蔑むべきか、それとも憐れむべきか。
そんな夢と希望と願望と切望と、悲喜交々な様子を振り撒く男子達。中には付き合っている女子とこっそりと落ち合う者や、堂々と外出してデートに向かう者もいた。
デートに向かった者については、寮に残る男子から満面の笑顔で怨嗟と怨念がこもった見送りが行われている。地面に唾を吐き、中指を立て、威嚇をしながら戦友たるクラスメートを送り出したのだ。明日の実技訓練では、さぞ熱が入ることだろう。
そうやって朝から談話室に集まり、誰からチョコレートがもらえるかとワクワクしながら待つ。女三人寄れば姦しいと言うが、男子が集まると騒がしい。特に、好きな人がいると予想されている男子は、周囲から冷やかしの言葉が飛ぶほどだ。
「あの子からチョコはもらえるのかねぇ?」
「もらえないだけならまだマシだけど、違う男子にチョコを渡したりして」
「しかも、それが本命だったりしてな」
「やめろぉっ! やめてくれぇっ!」
冷やかしというよりも、女子とくっつくことを必死に阻止していた。醜い足の引っ張り合いである。“口撃”をくらった男子は必死に耳を塞ぎ、外部の音を遮断しようとする。それを見た男子達は調子に乗ると、その男子の周囲を回りながら次々に言葉をぶつけた。
「そういえば最近、俺ってけっこうあの子と話をするんだよな。もしかして、チョコは俺に渡したり?」
「おっと、これは絶望的な情報が出てきたな!」
「あ、本命チョコがお前に渡されたら、今度はお前が袋叩きな」
「う、うるせえっ! お前らあっちに行け! こっちに来るな! 俺を巻き込もうとするな!」
生者に群がる餓鬼のような様相で騒ぐ男子達。そんな男子達を尻目に、恭介は談話室のソファーに腰をかけて優雅に缶コーヒーを飲んでいる。
「騒がしいっすねぇ……まったく、こういう時に取り乱す男はモテないっすよ?」
足を組み、さも自分は焦っていませんよと言わんばかりの態度だ。隣のソファーに座っていた中村は、そんな恭介の左手に視線を向ける。
「おい……そう言いつつ、その手に持った袋はなんだ?」
「え? チョコをもらった時に入れるための袋っすよ?」
何を言っているんだと、当然のように恭介は言った。その目がやや虚ろなのは、本当にその袋にチョコを入れることができるのかと不安に思っているのだろう。
中村は、思わず言葉を飲み込んだ。そんなにもらえるのかとか、そもそももらえるのかとか、ツッコミを入れようと思えばいくらでもできた。だが、共感する部分があったため、何も言えなくなったのだ。
――悲しい男の性だった。
「っつーか、河原崎はどこにいったんだ? こういうイベントの時は、真っ先に騒ぐだろ?」
話題と、ついでに現実から目を逸らすために話題を変える。それを聞いた恭介は、ニヤリと笑った。
「たしかにそうっすね。でも、そういう中村っちは、沙織っちからチョコがもらえるかでソワソワしてるっすね。それが気になって騒げないんすよね?」
「は、はぁっ!? ち、ちっげーし! そんなんじゃねーし!」
図星を突かれたのは、顔を赤くして視線を逸らす中村。恭介はそれをニヤニヤと笑ってからかった後、ポツリと呟く。
「しかし、博孝はどこに行ったんすかねぇ……」
小さな呟きは、談話室の喧騒に紛れて消えるのだった。
ES訓練校には、飛行機の発着場も存在する。“有事”の場合に備え、三キロメートルもの滑走路を備えており、戦闘機だけでなく旅客機などの離着陸も可能としていた。
飛行機を格納するための格納庫も用意されており、訓練校の中では唯一と言って良いほどの高さを持つ建物である。もっとも、普段の利用頻度が少ないため防衛の優先度が低い場所でもあった。外から攻撃を受けても、人的な被害が出ないのである。そのため、建物の高さはあっても危険度は低い。
四十メートル近い高さを持つ格納庫を前に、博孝は口を開けて感嘆の息を吐き出した。
「はー……たっけーなぁ」
普段は利用頻度が高くないため、人の気配はない。博孝は見上げていた視線を戻すと、格納庫の屋根に登るため準備運動を始める。その傍には沙織とみらいの姿もあり、博孝と同じように準備運動をしていた。
「さて……とうとうこの日がきたわね」
嬉しそうに、楽しそうに沙織が呟く。その目に宿るのは、期待と好奇心。これから行う訓練を前にして、遠足前の子供のようにウキウキとしている。
この日、博孝は沙織やみらいと共に『飛行』の訓練をするためにこの場を訪れた。いつものように体育館の屋根に登って訓練をしても良かったのだが、落下距離が短いため練習になっているかわからなかったのである。そのため、砂原に許可を取って飛行機の格納庫に登る許可を得てきた。日が暮れるまでには寮に戻るよう言われてはいるが。
第七十一期訓練生達が生活を送る場所からはだいぶ離れており、ランニングを兼ねて一トン近い鉄塊を詰めたリュックを背負って走ると十分少々かかる。沙織は非常に張り切っていたため、博孝達を置いていきそうな勢いだった。本当は博孝と二人きりで訓練をする予定だったが、興味を惹かれたみらいもついてきたのである。
みらいについては、“将来”のことを考えると『飛行』を習得するのは有益だと博孝は思っていた。
「ようやく錆落としも終わったし……腕が鳴るわね」
そんなことを言いつつ、沙織はここ最近のことを思い出す。
博孝に重傷を負わせた沙織が自室で謹慎していたのは、十日間だった。その間は授業も訓練も受けることができず、自室で過ごしていたのである。里香が食事や授業の内容をまとめたノートを差し入れてくれたが、その間は非常に暇だった。なにせ、室内でできることなど限られている。大太刀を振り回すわけにもいかず、仲間に会うこともできず、時間が経つのが非常に遅く感じられた。
訓練ができなければ、腕も錆び付く。それが十日間も続けば、嫌でも腕が落ちるというものだ。そのため、鈍った腕を取り戻すのに時間がかかった。
それでも、以前の沙織だったらすぐさま『飛行』の練習に博孝を付き合わせていただろう。だが、沙織は焦りの感情すら浮かべずに言ったのだ。
「まずは、錆び付いた腕を元に戻すわ。だって、焦らなくても『飛行』の訓練も博孝も逃げないでしょ?」
微笑んでそう言った沙織を前に、『はたして胃薬は『ES能力者』にも効くのだろうか』と胃を押さえながら真剣に悩んだ博孝は平常運転である。
博孝の願いも虚しく、沙織は沙織のままだった。以前の触れれば斬れるような状態よりはマシなのだろうが、博孝にとっては心臓に悪い。顔を合わせる度に、実は偽者ではないかと疑ってしまう。
そうなると、これが沙織の本当の性格なのだろう。以前よりも性格も表情も柔らかくなり、里香には大好評だが、博孝や恭介はことあるごとにギャップを感じて苦しんでいる。
訓練の時は相変わらず真剣だが、それでもどこか余裕のようなものを感じられた。
「どうしたの? 博孝、ぼーっとしてるわ」
だが、距離が近い。今も、心配そうな顔をして博孝を下から覗き込むようにして見ている。少し腰を曲げれば、そのままキスができそうな距離だ。博孝は思わず上体を反らして沙織の顔から距離を取ると、そのまま数歩後退した。
「近い近い! 近いって!」
「……そうかしら?」
距離を取られたことに、沙織はどこか不満そうだ。博孝はそんな沙織の不満そうな顔を見て、冷や汗を拭う。
最近の沙織との付き合いで学んだことだが、沙織にとって“仲間”というカテゴリーは非常に重大なものらしい。沙織自身無防備なところがあるため、行動の端々に博孝を驚愕させる要素が混じっている。しかし、厄介なことに沙織に他意はない。純粋に、仲間という存在を喜んでいるようだ。
(将来、結婚詐欺とかに引っかからなければ良いけど……)
沙織の将来を心配しつつ、博孝は気を取り直す。咳払いを一つしてから、沙織とみらいに視線を向けた。
「さて、それじゃあ『飛行』と『瞬速』の訓練を始めよう。と言っても、俺も練習中の身なんで教官に教わったことを伝えるな」
「“一緒に”頑張るのね」
「……ああ、うん」
どこか嬉しそうに頷く沙織に、博孝は疲れた顔で答えた。それを見たみらいは、博孝の腰を手で叩く。
「……がんば。ごほうび、あるよ」
「ご褒美? よくわからないけど頑張るぜ」
みらいの励ましに首を傾げた博孝は、砂原に教わったことを沙織とみらいにも伝える。『飛行』の訓練方法や、それに伴い習得できる『瞬速』のこと。『ES能力者』が『飛行』を発現できる理由などを、簡潔にまとめて伝える。
そして、最後に実演として格納庫の屋根から飛び降りてみせた。『防殻』に隠して『活性化』を使い、ほんの僅かに減速しながら着地する。
「こんな感じだ。今は『活性化』を使ったから少しだけ減速できたけど、『活性化』なしだと全然上手くできない。『瞬速』の方は多少形になってるんだけど、瞬間的に加速するだけで着地は無理。『活性化』なしだと制御が難しくて自滅するよ」
博孝が説明と実演を終えると、沙織は興味深そうな顔をしていた。みらいは理解したのか理解してないのか、感情の読めない顔で博孝を見ている。
「なるほど……早速試してみるわ」
言うなり、沙織は格納庫の壁を駆け上がっていく。みらいもそれに続き、博孝は万が一に備えて地面で待機した。
沙織は屋根の頂上に登ると、躊躇なく飛び下りる。博孝が最初に行った訓練の時は崖だったため非常に躊躇したが、沙織にとって四十メートル程度の高さはどうということはないらしい。沙織に続いて、みらいも飛び下りる。
なお、二人は訓練服を身に付けているため、博孝は安心して下から見上げることができた。みらいはスカート姿で来ようとしたため、着替えさせたのだ。羞恥心を持っていないみらいは、例えスカートが捲れようと一切気にしない。男子のクラスメートが傍にいたら、博孝は迷わず目潰しを敢行しただろう。
「そこがお兄ちゃんは非常に心配です。っと、着地は問題ないな」
四十メートルという高所から落下した割には、難なく着地を決める二人。沙織は難しそうな顔で博孝に近づくと、眉を寄せながら口を開く。
「重力に逆らう感覚っていうのが掴めないわね。これはたしかに、習得まで数年かかるかもしれないわ」
「沙織もそう思うか。みらいは?」
「……たのしい」
博孝が尋ねてみると、みらいはどこか楽しげな雰囲気を発していた。『飛行』の訓練というよりも、遊びの延長として捉えたようだ。みらいは乗ったことがないが、遊園地のジェットコースターやフリーフォールと似たような感覚なのだろう。
二人は再度屋根に登り始め、それを見た博孝も自分の訓練を行おうと空中に『盾』を発現して登っていく。それを見た沙織は、感心したように呟いた。
「戦った時にも驚いたけど、博孝って器用よね。さすがは万能型ってところかしら?」
「ん? そうか? 沙織だって、これぐらいはできるだろ?」
「今みたいに足場にするぐらいなら問題ないけど、戦闘中に空中で移動しながら足場にするのは無理よ」
「あー……あの時は『活性化』を使ってたからなぁ」
『活性化』なしで実行するには、少々自信がない。博孝がそう言うと、沙織は思案気な顔で博孝を見た。
「博孝の『活性化』って、対象とした『ES能力者』の肉体や精神を一時的に強化したり、使用するES能力を強力なものにしたりすることができるのよね?」
「そんな感じだなぁ。あと、使用する『構成力』の量によって効果は増減するし、苦手なES能力とかだと効果が薄かったりする。ああ、そういえば使えないES能力の練習にも使えるな。コツを掴む程度だけど」
博孝がそう言うと、沙織は考えをまとめるように視線を宙に向けた。そして何事かの考えをまとめると、博孝に向かって左手を差し出す。
「わたしも『活性化』の効果を試してみたいわ。手をつないで一緒に飛び降りましょう?」
沙織の申し出に、博孝は埴輪のような顔になった。しかし、聞き間違いかと思って首を傾げる。
「……はい?」
「だから、手をつないで一緒に飛び降りましょう。博孝の『活性化』って、相手に触れていた方が効果があるんでしょう?」
笑顔で手を差し出す沙織に、博孝は思わず屋根の上から何も言わずに飛び降りたくなった。落ちるなら、頭からが良い。それならきっと、気を失うことぐらいは可能なはずだ。
「……嫌、かしら?」
投身自殺ならぬ、投身気絶を試みようとする博孝を見て、沙織は不安そうに尋ねた。まるで親からはぐれた子供のような眼差しに、博孝は機械的に首を横に振る。
「イエ、マサカ」
片言だった。『活性化』は多少距離が離れた相手にも行うことが可能だが、接触している方が効果が高い。そう自分に言い聞かせ、博孝は沙織の手を握る。
博孝が手をつなぐと、沙織は僅かに頬を染めて顔を俯かせた。それを見た博孝は、背筋に冷たいものを感じながら思ってしまう。
――やべぇ、怖い。
非常に失礼だった。しかし、三週間近い時間が経っても、一向に慣れないのだ。博孝の胃が、恐怖を訴えるように痙攣している。
沙織は博孝の手の感触を確かめるように、指を握っては開くという動作を繰り返す。それが若干くすぐったく、博孝は自分から手に力を込めた。
「ほら、飛び降りようぜ。周囲から見てバレないよう、『防殻』を張ってくれ」
「あ……うん」
博孝の言葉に面映ゆそうに頷く沙織。そんな二人の近くでは、みらいが無言で屋根から飛び降りては再び登るという行動を繰り返している。二人のやり取りよりも、飛び降りる方に興味が惹かれているらしい。
博孝は自分と沙織に対して全力で『活性化』を行うと、沙織の手を引いて屋根から飛び降りる。そして空中で僅かに減速すると、一緒に飛び降りた沙織よりも若干遅れる形で着地した。
「どうだ? 何かつかめたか?」
着地した博孝が尋ねると、沙織は握ったままになっている博孝の手に視線を向ける。
「ごめんなさい。ちょっと、他のことに気を取られていたわ……」
「え? 他のこと?」
沙織の視線を追って、博孝は自分の手を見る。そして、沙織が“気を取られたこと”を悟り――思わず、全身を掻きむしりたくなった。
この、筆舌に尽くし難い違和感。博孝は、やはり何者かから精神攻撃を受けているのではないかと周囲を窺う。しかし、当然ながら誰もいなかった。
「『構成力』に余裕はある? あるなら、もう一回お願いしたいわ」
「……了解」
はにかみながらの言葉に、博孝は逆らう術を持たなかった。
夕暮れが近づき、博孝は男子寮に戻ってきた。そして、やけに談話室が騒がしいことに気付いて顔を覗かせる。
「なんだこの騒ぎ? 何かあったのか?」
包装紙やビニールに包まれた物体を頭上に掲げ、大喜びで騒ぐ男子達。それを見た博孝は、不思議そうな顔をした。すると、博孝に気付いた恭介が歩み寄ってくる。
「博孝! 今までどこにいたっすか?」
「どこって……外で自主訓練をしてたんだけど? それより、この騒ぎはなんだよ? 季節外れのサンタクロースが来たのか?」
男子の中には涙を流している者もおり、博孝は何があったのかと恭介に尋ねた。恭介はその質問を聞くと、何を言っているんだと言わんばかりに眉を寄せる。
「何言ってるんすか。今日はバレンタインデーっすよ? さっき、女子が寮まで来てくれて、チョコを渡してたっす」
恭介の言葉を聞き、博孝はきょとんとした顔つきになる。目を瞬かせ、恭介の言葉が理解できないように首を傾げ――理解して絶叫した。
「あ……ああああああああああぁぁっ!? 自主訓練に没頭して忘れてた! くそっ! それがわかっていれば、虚無僧の格好をして朝から女子寮の前で托鉢してチョコを恵んでもらったのに! 托鉢免許証は持ってないけどな!」
今日が二月十四日であり、バレンタインデーだと気付いた博孝は床に崩れ落ちた。
『ES能力者』の訓練生として、半ば社会人のような生活を送っていた博孝は日時や曜日、それにまつわるイベントを完全に見逃していたのである。ただでさえ、最近は沙織の対応で精神的に疲れていた部分もあった。
「おやぁ? そこにいるのは河原崎君じゃないですか。君はいくつチョコをもらったんだい? んん?」
床に崩れ落ちた博孝を見て、勝ち誇った顔のクラスメートが近づいてくる。それぞれ手にはチョコが入っていると思わしき箱や袋を持っており、敗者を嘲笑うように取り囲んだ。
「一つ? 二つ? ああ、三つぐらいはもらったのか? ほら、教えてくれよ」
手に四つの箱を持った和田が、嫌らしい笑みを浮かべながらそう言った。他にも、チョコを片手に男子達が口を開く。
「なあ、いくつ? いくつもらったんだ? ほらほら、言えよ」
「ゼロ? まさかゼロじゃないよな? 河原崎博孝ともあろう者が、ゼロじゃないよな?」
「う、うるせぇっ! どうせお前らがもらったのは義理チョコだろ!?」
周囲からの言葉に、博孝はなんとか反論しようと試みる。だが、周囲の男子達は戦利品を片手に勝ち誇った顔をした。
「例え義理チョコでも、チョコをもらったことに変わりはないだろ。で、君はいくつなのかな?」
博孝を取り囲み、楽しそうに言うクラスメート達。それを聞いた博孝は、剣呑な雰囲気を纏う。
「うぜぇ……本気でうぜぇ。こうなったら、テメーらがもらったチョコを全部奪って焼却炉に叩き込んでやらあっ!」
心の底から叫び、博孝は近くにいた和田に跳びかかる。しかし、今回は多勢に無勢だ。女子からもらったチョコレートを守るべく、その場にいた男子全員が博孝の敵に回る。いくら博孝が体術に優れていても、数の暴力には勝てない。
結局、博孝は一つもチョコレートを奪取することができず、逃げ出すしかなかった。
「べ、別にチョコをもらえなかったからって悔しくなんてないんだからな!」
そんな捨て台詞を残し、博孝は自室に逃げ込む。そして靴を脱ぎ、部屋に上がり、そのまま崩れ落ちた。
「ちくしょう……流行の波に乗り遅れた……」
聞けば、クラスメートの中にはデートのために外出した者もいたようだ。博孝は敗北感を抱えつつ、床の冷たさで頭を冷やそうとする。
「……おにぃちゃん」
そんな博孝に、先に部屋に戻って私服に着替えたみらいが声をかけた。博孝の母親である博子が選んだ薄桃色のワンピースを身に付けており、その手には凸凹が目立つ箱を持っている。
「……ごほうび」
そう言って、みらいは手に持った箱を差し出した。
「ご褒美……ああ、さっきそんなことを言ってたな」
みらいから箱を受け取った博孝は、なんだろうと首を傾げた。しかし、不器用ながらもラッピングされた箱を見て、博孝の脳裏に稲妻が駆け巡る。
「もしかして、バレンタインのチョコか?」
「……ん」
みらいは小さく頷く。チョコレートを渡したみらいは、どこか誇らしげだ。そんなみらいの様子に、博孝は喜びの感情を覚えてみらいを抱き上げた。
「ありがとうみらい! 滅茶苦茶嬉しい!」
「……ん。それなら、わたしもうれしい」
みらいを抱き上げ、博孝はその場でくるくると回転する。みらいはどことなく嬉しそうな顔をしており、博孝はみらいを床に下ろすと、もらったチョコレートを食べてみることにした。
「よし! 早速食べさせてもらうな!」
不器用ながらもラッピングされた箱を丁寧に開け、博孝は誕生日プレゼントをもらった子供のような心境になる。もらった箱とラッピングは、大事に取っておこうと思った。
昨晩みらいは里香と共にいたが、このためだったのかと博孝は納得する。しかし、みらいはこれまで料理もしたことがなかったはずだ。里香が手ほどきをしたとしても、最初から上手くいくとは思えない。
だが、どんな物が出てこようと、例え真っ黒に焦げたチョコレートが出てこようと、笑顔で喜んでみらいを褒めようと思う。なにせ、可愛い妹が初めて作ってくれたお菓子だ。博孝は暖かい気持ちになりながら包みを開け――。
「なにこれダークマター?」
その“物体”を見て、真顔で呟いてしまった。
箱の中に入っていたのは、直視しがたい物体だった。視覚が見るのを拒んでいるのか、箱の中身がぼやけて見える。
「……ふるーつちょこれーと」
博孝の言葉が理解できなかったのか、みらいは自分が作ったものについて説明した。その目は期待に輝いており、博孝が喜んでくれたことを嬉しく思っているようだ。
「お、おう……フルーツチョコレートか」
みらいの言葉に頷きつつ、チョコレートを観察する博孝。たしかに果物らしき物体が混じっているが、チョコレートというには色が薄く、ところどころ魚の骨や背びれや尻尾が突き出ているように見えたのは目の錯覚だろうか。そして、酸っぱいような甘いような酒臭いような、嗅覚に甚大なダメージを与える悪臭を感じるのは気のせいだろうか。
一体どんな材料を使って、どんな調理法で作ればこんな物が出来上がるのか。魔女が秘薬作りに使用する鍋から生まれたのではないか。どんな合体事故が起きたのか。そんなことを、博孝は考えた。
博孝の直感が、目の前の物体が危険であることを告げる。だが、可愛い妹が作ってくれたのだ。それを食べないなどあり得ない。
冷や汗を流しながら、みらいを見る。みらいは、とても期待していた。普段の無表情とは異なり、はっきりと期待していることがわかるような、キラキラとした目をしていた。
――そんな目をされれば、博孝に取れる手段は一つだけである。
「い……いただきまーす!」
覚悟を決め、みらいのいうところの『ふるーつちょこれーと』を口に放り込む。『ES能力者』は、良くも悪くも頑丈だ。余程の毒でもない限り、問題はない。
口の中で、『ゴリッ』という音と『グチャッ』という音が同時にした。
噛んだ瞬間味噌で漬けられた鯖の味が広がり、同時にシロップとミカンと黄桃が肩を組んでダンスをしながら味覚の蹂躙に取り掛かる。その上、焦げた味がするのに水の味と酒の味もするという謎の現象が舌の上で具現化し、博孝の口内で地獄絵図が発生した。
博孝は咄嗟に思考を停止させ、口の中の物体の味を感じ取らないようにする。噛み砕き、無理矢理飲み込み、大きく息を吐く。
――瞬間、胃の中が爆発したような衝撃に襲われた。
博孝の全身から力が抜け、床に倒れ込む。沙織と接して弱っていた胃が、強烈な違和感を訴えてくる。
「かひゅっ……けへっ……ば、馬鹿なっ! 『ES能力者』であるこの俺に、これほどのダメージを与えるだと!?」
床の上でのたうち回り、博孝は飲み込んだ物体が喉の奥から這いずり出てきそうな錯覚に囚われた。みらいはそんな博孝を見下ろすと、おずおずと尋ねる。
「……おいしい?」
その質問に、博孝は苦痛を耐えながら必死に考えた。みらいのことを思えば、ここははっきり不味いと言うべきだ。もしもクラスメートからもらったものがこの味だったのならば、博孝は躊躇なく不味いと言っただろう。しかし、みらいが初めて作ったものなのだ。ここで不味いと言えば、一生モノのトラウマになるのではないか。
兄としてそう思考した博孝は、全身から嫌な汗を噴き出しながら立ち上がる。そして、震える体で親指を立ててみせた。
「う……美味い!」
意地だった。兄馬鹿としての、大いなる意地だった。そして、自分の首を自らギロチン台にセットするような、馬鹿な意地だった。
博孝の言葉を聞いたみらいは、はっきりとわかるほどに表情を綻ばせる。
「……そ。だったら、またつくる」
そして、博孝にとっての死亡宣告を行うのだった。
「あー……胃の中で謎の物体が蠢いてる……」
日が暮れ、明かりが点いた部屋の中で、博孝は胃を押さえながら蹲っていた。みらいはそんな博孝を見て、非常にご機嫌な様子である。博孝が不味いと思っているなど、微塵も疑っていないのだろう。
「で、でも、これでチョコ一個……」
なんとかゼロは回避した。その事実を前に、博孝は密かにガッツポーズをする。だが、被ったダメージは甚大だ。これでは、夕飯は食べられないかもしれない。
そうやって博孝が胃の中の物体と格闘していると、部屋のチャイムが鳴った。博孝はのろのろと顔を上げると、死人のような足取りで玄関に向かう。
「……新聞は間に合ってます」
「え? 訓練校って、新聞を届けてもらえるの?」
扉越しに聞こえてきたのは、希美の声だった。博孝は珍しい人物が来たなと思いつつ、扉を開ける。
「松下さん? どうしたんすか?」
希美はクラスメートだが、博孝はそこまで親しくない。同期の中では唯一の年上で、なおかつ“女性的”な魅力が溢れる女性だが、中々話す機会がないのだ。
「はい、これ」
希美は、小袋に入ったチョコレートを差し出す。博孝は突然の事態に驚きつつも、チョコレートを受け取った。
「さっき、談話室でクラスの男の子に配ってたの。義理チョコだけどね。でも、河原崎君はいなかったでしょ?」
「ああ……それでわざわざ届けてくれたんですか。や、ありがとうございます! 味わって食べます!」
“まとも”なチョコレートを受け取り、博孝は頭を下げる。希美はそんな博孝に対して微笑むと、通路の奥に視線を向けた。
「ほら、恥ずかしがってないでこっちにおいでよ」
希美がそう言うと、廊下の曲がり角から沙織が顔を見せる。そして周囲を警戒しながら近づくと、紙袋を博孝に差し出した。
「ちょ、チョコレートよ! その、今日がバレンタインデーってことを忘れてたから、売店で買ったやつだけど!」
「沙織、お前もか……」
博孝と同様に、沙織も今日がバレンタインデーだということを忘れていたらしい。
「長谷川さんが売店でウロウロしているのを見かけてね。それで話を聞いたら、チョコを渡したい人がいるって言うから一緒に来たの」
希美がフォローをするように言った。それを聞いた博孝は、沙織と希美という珍しい組み合わせに納得する。
「ほ、他の女の子みたいに手作りじゃないけど……その、受け取ってくれるかしら?」
言葉の後半で不安になったのか、沙織は視線を逸らす。博孝は、思わず頬を掻いた。
「当たり前だろ。市販品だろうと、もらえるだけで滅茶苦茶嬉しいっつーの」
「そ、そう? それなら良かったわ……」
胸に手を当て、安堵の息を吐く沙織。希美は博孝と沙織の様子を楽しそうに笑顔で見ており、恥ずかしさを感じた博孝は話題を逸らす。
「ところで、そっちの袋は?」
沙織は大小二つの紙袋を持っており、博孝の質問に対して頷きを返す。
「これ? 小さい方は恭介に。大きい方は里香に渡すのよ。なんでも、友チョコ? っていうのが流行っているって聞いて……」
そう言って、沙織は頬を赤く染めた。里香の分のチョコレートが一番大きく見えるのは、何か意味があるのだろうか。博孝は深く考えないようにして、二人に対してもう一度礼を言う。
沙織は恭介にも渡すため、博孝に背を向けて歩き出した。希美はそんな沙織の様子に苦笑すると、最後に博孝の耳元に口を寄せる。
「ちょっと前に、二人って喧嘩してたでしょう? 仲直りしたみたいで良かったわ」
「……もしかして、見てました?」
希美の言葉に、博孝は真剣な顔になった。沙織の謹慎と博孝の負傷については、自主訓練時の事故ということで説明をしている。事故とはいえ、責任を取って沙織は謹慎しているという流れで生徒達には説明してあった。博孝の顔を見た希美は、首を縦に振る。
「少しだけ、ね。あとは教官の口振りと長谷川さんの謹慎の件を照らし合わせて、そうなのかなって」
「そっすか……あー、できれば他の人には言わないでくれると助かります」
『活性化』を使った際の薄緑色の『構成力』に触れない以上、希美が見たのはそれ以外の部分だろう。それでも、クラスメート同士で殺し合い染みた喧嘩をしたというのは体裁が悪い。
希美は博孝の危惧に対して苦笑すると、当然と言わんばかりに頷く。
「もちろん。でも……」
そして最後に、希美は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「河原崎君って、真剣な顔をするとけっこう格好良いのね。お姉さん、ちょっと好みかも」
「勘弁してください……」
明らかに冗談とわかる言葉を聞いて、博孝は白旗を揚げる。そんな博孝の様子に小さく笑うと、希美は沙織の後を追うようにして歩き出した。
時刻は午後九時を回り、博孝は自主訓練を行うべきか悩んでいた。日中に『活性化』を何度も使用したため、『構成力』が心許ない。さすがに今夜は休養に充てるべきかと判断すると、テーブルの上に置いた二つのチョコレートを見る。沙織にしろ希美にしろ、チョコレートをくれるとは思わなかった。希美についてはクラスメート全員に配っていると言っていたので、博孝だけもらえなかったら落ち込むが。
博孝がそんなことを考えていると、携帯電話が震える。博孝は日頃の訓練の賜物か、コール二回で通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『あ……あの、博孝君?』
「ああ、里香か。どうしたんだ?」
電話の相手は里香だった。携帯が震えたのを感じ取ってすぐさま電話に出たため、相手を確認していなかったのである。
里香は緊張が伝わってくる声色で何度か言いよどみ、最後には小声で囁くように言う。
『その……今から、寮の外に出てこられる?』
「寮の外に? はっはっは、師匠のお言葉とあれば、例え火の中水の中。一分待ってくれ」
『し、師匠はやめてっ』
博孝は立ち上がると、シャワーを浴びているみらいに一声かけてから部屋を出る。そしてきっちり一分で寮の外に出ると、周囲を見回した。そして、女子寮の前に立つ里香を発見し、そちらへ足を向ける。
「ほ、本当に一分で来てくれたんだ」
「もちろんでございます。私めが師匠に嘘をつくとお思いか?」
「もう……嘘はつかなくても、そうやっていつもからかうんだから」
私服姿で、里香は拗ねたように頬を膨らませた。博孝はそんな里香に苦笑を返す。
「で、何か用? もしかして、里香も俺にチョコをくれたり?」
「う、うん。そうなんだけど……わたし、も?」
「ああ。みらいと沙織と松下さんがくれた。みらいがくれたのは……チョコレートって言ったらチョコレートに対する冒涜的なナニカだったけど」
博孝は思わず煤けた顔をする。それを見た里香は、控えめに笑った。
「そ、そうなの?」
「いやぁ、あれは一瞬死を覚悟したね……でも、里香が監督してくれたんじゃないの?」
優しい里香のことだから、みらいが作った物体についてダメ出しができなかったのかもしれない。そう思った博孝だったが、里香は頬を赤らめつつ視線を逸らす。
「さ、昨晩はちょっと、色々とあって……みらいちゃんのことをしっかりと見れなかったの。ごめんなさい」
「色々……」
何があったのだろうかと博孝は首を捻る。里香がみらいを放置するなど、余程重大なことではないか。そんな風に悩む博孝を見て、里香は首を横に振る。
「き、気にしないで……こっちのことだから。それで、その、ちょっと歩かない?」
「ん? 別に良いけど」
里香が先導するように歩き出し、博孝はそれに続く。里香は両手で紙袋を抱きかかえており、その中にチョコレートが入っているのだろう。それでも博孝は『雰囲気って大事だよね』と気軽に考えて里香と共に歩く。
対する里香は、一見普通を装っていても内実は限界が近かった。昼の内に博孝にチョコレートを渡そうとしたのだが、何故か博孝がいない。自主訓練に励んでいるのだろうと周囲を確認してみても、どこにも見当たらない。他の女子達と一緒に男子寮でチョコレートを渡すつもりだったが、渡す相手がいなかったのだ。
電話で呼び出そうともしたのだが、周囲の女子から期待の眼差しを向けられて尻込みした。一度部屋に戻り、周囲の目がなくなってから電話しようとしたのだが、今度は緊張から電話ができなくなってしまう。
心臓が激しく脈打ち、恥ずかしくもないのに顔が真っ赤になる。ただひたすらに緊張し、結局博孝に対して電話をかけたのは今日という日が残り三時間を切ってからだった。
呼び出した博孝は、のほほんとした顔で里香の隣を歩いている。時折胃を押さえているのは、体調が悪いのだろうか。
俯き、目線を前髪で隠した里香は横目で博孝の様子を確認する。チョコレートを渡すのが目的とは伝えているが、博孝は必要以上に催促するわけではない。
里香は胸元を手で押さえ、心臓の鼓動が早まっていくのを感じ取る。大丈夫だ、チョコレートを渡すだけなのだ、決して告白をするわけではないのだ、と自分に言い聞かせるが、上手くいかない。
クラスメート達に唆されたが、里香に告白する勇気はなかった。それでも、今まで以上に博孝を意識してしまう。
適当に歩き、博孝達は体育館の裏に到着する。外灯が少なくて薄暗いが、月が出ているため視界には困らない。
「あ……そ、その……」
里香は博孝に対して声をかけようとしたが、何故か声が出ない。博孝は里香の様子を察すると、足を止めて里香の言葉を静かに待った。普段のようにふざけることもなく、適度に力が抜けた表情で里香を見ている。
真剣な表情というわけではない。だが、里香としては安心できる表情だった。
――里香が好きになった、博孝の表情だった。
「……これ」
里香は、顔を赤くしたままでチョコレートが入った紙袋を差し出す。博孝は表情を輝かせると、笑顔で紙袋を受け取った。
「サンキュー! いやぁ、やっと里香の手料理が食べられるな! ん? お菓子も手料理って言っていいのか?」
そして、里香も半ば忘れかけていたことを口にする。以前、博孝は言ったのだ。いつか、里香の手料理を食べてみたいと。
(わたしはあの時、なんて答えたっけ……)
たしか――そう、自信がついたら食べさせると言ったのだ。その第一号がチョコレートになったのは、里香としてもどうかと思う。それでも、確かな第一歩だ。
里香は口元を綻ばせ、静かに笑みを浮かべる。半年以上昔のことを、当然のように博孝は覚えていてくれたのだ。
それが里香に暖かな喜びを与え、感情が声に乗る。
「ねえ、博孝君」
「うん?」
「今度……わたしが作った料理を食べてくれる?」
告白ではない。だが、それでも博孝との仲を深めるための一言。それを聞いた博孝は、数度目を瞬かせ――当然とばかりに頷いた。
「こっちからお願いしたいぐらいだって! うわぁ、今から楽しみだ!」
博孝はガッツポーズを取ると、今から楽しみだとその場で小躍りを始める。それを見た里香は、花のように微笑んだ。
「ふふふ……ありがとう」
「っ!」
里香の表情を見た博孝は、心臓が高鳴るのを感じた。急に心臓が跳ね、博孝は大きく動揺する。
(ま、まさか、さっき食べたみらいの謎物質が悪影響をっ!? くっ、静まれ俺の心臓!)
年若い少年が罹患する病のようなことを考えつつ、博孝は自身の胸を数度叩いた。しかし、何故か心臓の高鳴りは静まらない。微笑んだ里香の瞳をまともに見ることができず、視線を巡らせる。
(こ、これはまさか……)
徐々に顔の温度が上がってくるのを感じ、博孝は戸惑いの感情を覚えた。それでも、何かを言って場をもたせなければならない。
「い、いやぁ……それにしても、今夜は月が綺麗ですね!」
照れ隠しのように頬を掻き、博孝は頭上の月を見て敬語でそう言った。切羽詰まった時、博孝は敬語を使うことがある。この時も、それが表に出た――“出てしまった”。
冬空の澄んだ大気の下、真円を描いた月がよく見える。たしかに、博孝の言う通り月が綺麗だった。月明かりによって仄かに照らされ、ある種の幻想的な雰囲気すらある。博孝が話題を変えるために選んでしまうほどには、見事な月夜だった。
「え……うぅ……」
だが、その言葉を聞いた里香は顔を真っ赤にしていた。顔の表面から湯気が出そうなほどに、顔が真っ赤だった。水をかければ、そのまま水が蒸発しそうである。
「里香?」
里香の変調に気付いた博孝は、心配そうに表情を歪めた。里香は顔を俯かせ、耳まで真っ赤にしながらその身を震わせている。
「わ、わ……わた……」
「綿?」
意味がわからず、博孝は表情を怪訝なものに変えた。もしかすると、顔に綿がついているのかと思い、手で確認する。しかし、顔に何かがついている感触はなかった。
プルプルと震える里香を見て、博孝は本当に体調が悪いのかと心配する。里香はそんな博孝の様子に気づかず、震える声で呟く。
「わ……わたし、死んでもいいわ」
その言葉に、博孝はぎょっとした。何故そんな物騒な言葉が出てくるのかと、里香のことが本気で心配になった。
「里香、さすがに死ぬには若すぎると思うんだけど……何か悩みがあるんだったら、相談に乗るよ」
「え?」
「え?」
博孝と里香は顔を見合わせ、沈黙する。寒風が二人の間を吹き抜け、瞬きすらせずに見つめ合う。
「あ……ご、ごめんなさいっ」
先に我に返った里香が、顔を真っ赤にしたままで駆け出した。博孝は突然駆け出した里香についていけず、その場で呆気に取られたまま里香を見送る。
「……なんだったんだ?」
走り去った里香を見て、博孝は首を傾げた。
――無知というのは、時として罪なことである。
自室に戻った里香は、着替えることもせずにそのままベッドに飛び込んだ。
「うぅ……うぅ……」
そして小さな声で唸りつつ、両足をばたつかせる。自室のため他人の目がないことすら思い浮かばず、眼鏡を外して顔を枕に押し付け、必死に顔を隠す。
「博孝君の……ばか」
続いて、博孝に対する不満が口から零れた。里香が必死に返しの文句を口にした時の、博孝の顔。あれは、完全に何もわかっていなかった。
「うぅー……」
それでも、チョコレートを渡せたことに一定の満足。同時に、博孝に対して大きな不満。
不満を紛らわせるように足をばたつかせ、里香はそのまましばらく過ごす。
やがて不満も治まったのか、里香は枕から顔を上げた。
「でも……これで良かったかも……」
いきなり博孝との関係が変わっても、里香は戸惑うだけだろう。そもそも、“変われる”かすらわからない。それを思えば、まだしばらくは“今の関係”のままで良いと思えた。
そうなると、里香にできることはただ一つ。
「博孝君が、さっきの言葉の意味を調べませんように……」
料理などではなく、まずはそれを切に願う。博孝に知られてしまえば、里香はその場で卒倒する自信があった。
「うー……」
再度恥ずかしさがこみ上げてきて、里香は枕に顔を押し付ける。
明日からいつも通り顔を合わせることができるか――それが不安だった。
こうして、それぞれに様々な出来事を巻き起こしながら、二月十四日の夜は更けていく。
今日という日がどんな影響を与えるのかは、誰にもわからない。ただ、この日を境に少しずつ関係が変わる者もいたりするのだが――それは、まだ誰にもわからないことだった。
余談ではあるが、バレンタインのチョコレートを一番多くもらったのは、教官として世話になっている砂原だったそうな。
ギャグ回の継続&里香のターンなど。
本当は二月十四日にこの話を投稿したかったですが、二日遅れならセーフ……ですかね?
前話更新時にあとがきでご感想や評価をいただければと書き、朝起きたら感想数が一気に増えているのを見て眠気が吹き飛びました。またうっかり「完結済み」にして更新したのかと思いました。
ご感想および評価をいただき、ありがとうございました。なお、作者はご感想や評価はいつ何時でも大歓迎です。
沙織に対するコメントが大半で、作者としては大変ビックリしました……