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第四十一話:博孝、戸惑う

 『ES能力者』は通常の人間とは異なるが、その治療法は人間だった頃と酷似している。

 血が足りなければ輸血をし、骨が折れれば接ぐ必要があった。それでもある程度は自分でES能力を使って治療することが可能なため、外傷が原因で死亡することは“意外と”少ない。

 ES能力の基礎である汎用技能の一つ、『接合』ならば大抵の『ES能力者』が使えるため、死に難いのだ。もっとも、治療が不可能なほどに強力な攻撃を受ければ普通の人間と同じように死亡し、自身や仲間の支援型の『ES能力者』の手に負えないほどの傷を受ければその限りではない。

 今回、博孝は沙織に肩から脇腹にかけて斬られ、多くの血を流していた。そのため血が足りず、輸血を受ける必要があった。博孝は初任務の時にも輸血を受けたのだが、『ES能力者』が輸血を行う際には注意すべき点がある。

 まず、輸血針が刺さらない。

 これは『ES能力者』の肉体が非常に頑丈なためであるが、普通の人間が使用する輸血針では一ミリも刺さらないのだ。そのため、支援型の『ES能力者』の中でも、軍病院に勤務する者は治癒系のES能力だけでなく『固形化』や『武器化』を習得する。これによって注射針や医療用メスなどを発現し、治療に当たるのだ。手から離れても大丈夫なように『固形化』や『武器化』の習熟も進んでおり、その点では沙織などよりも優れている。

 支援型だからと接近戦を挑んだら、逆にボコボコにされた攻撃型なども存在するほどだ。

 次に、『ES能力者』自体の数の少なさ。

 日本における『ES能力者』の数は少なく、それに伴い輸血用血液などの確保も難しい。AB型などは日本人の中でも割合が少ないため、『ES能力者』ともなると血液の入手自体が難しくなる。(まれ)(けつ)などの場合は、入手の困難さも増す。下手をすると、輸血可能な者が誰もいないということも有り得た。

 若い『ES能力者』の場合は普通の人間の血液も輸血可能ではあるが、年数を重ねた『ES能力者』の場合は普通の人間の血を受け付けない者もいる。これについては、“人”から遠ざかっているため受け入れらないのではないかという仮説が立てられていた。

 そんな話を聞きつつ、源次郎が派遣した『ES能力者』から治療を受けたのが一日前。博孝は保健室のベッドの上に寝転がり、天井のシミの数を数えていた。

 今日までは安静にしているよう言われ、授業に出ることもできずにいるのだ。朝食はいつものように食べることができたのだが、そのあとは暇だった。

 里香や恭介は授業に出ており、みらいは博孝の傍にいようとしたが授業へ送り出した。

 そして、沙織はどこにも顔を出していない。食堂にも顔を見せず、おそらくは自室にいるのだろうと博孝は思っている。本来ならば博孝の看病があるのだが、昨日の早朝に『武神』と話して受けた影響を考え、博孝が沙織を自室で休ませていた。

 一日が経ったが、沙織は顔を見せない。長年に渡って構築していた精神的な柱を圧し折られた影響は、きっと大きいのだろう。


(落ち込んでるのかねぇ……いや、落ち込んでるんだろうな)


 今頃自室の隅で体育座りをしているのだろうか、などと博孝は考える。しかし、すぐにそれはないなと首を振った。似合わないにもほどがある。

 そうやって博孝が天井のシミを数えつつ時間を潰していると、保健室の扉が開いた。その音に博孝は視線を天井から外すと、扉の方へ向ける。

 保健室を管理する担当者も存在するのだが、普通の学校と違って常駐しているわけではない。『ES能力者』は良くも悪くも頑丈なため、必要があれば移動してくる形になっていた。


「……んん?」


 入室してきた人物を見て、博孝は眉を寄せた。

 女子の訓練生用の制服を身に付けているが、見覚えがない。いや、見覚えはある気がするのだが、博孝の記憶に該当する人物の名前が出てこなかった。

 女子にしては若干鋭く感じられる眼差しに、腰まで伸びた真っ直ぐな黒髪。黒髪は歩くたびにさらりと揺れ、どこか清楚な印象を受ける。里香と比べるとだいぶ女性的なプロポーションであり、街を歩けば何人かの男性が振り返りそうな顔だった。それでもやはり、博孝は目の前の相手が誰かわからない。訓練生の制服を着て、なおかつこの校舎にいる以上はクラスメートのはずなのだ。手には“何か”が入ったビニール袋を提げている。


 ――どこかで、見覚えがあるのだが。


 博孝が思わず凝視すると、入室してきた女子は博孝のもとへ真っ直ぐに向かってくる。


「体調はどう?」


 そして、見覚えのない女子の口から、聞き覚えのある声が聞こえた。その女子はベッド横にある椅子に座ると、博孝に心配そうな声をかける。


「……ああ、大丈夫です。今日一日休めば、明日からは訓練にも戻れるって言われました」

「そう……良かったわ」


 安堵したように息を吐く、外見和風な黒髪少女。そして、相変わらず聞き覚えのある声だった。少女は目元が赤くなっており、一晩泣き明かせばこうなるのではないかと、と博孝は思う。


「わたし、昨日一日考えて思ったのよ」

「何を……でしょうか?」


 相手の素性がわからず、博孝は敬語で尋ねた。すると、少女は怪訝そうな顔をする。


「どうしたの? 敬語を使うなんて、アンタらしくないわ」

「そう……かな?」

「ええ」


 少女は頷くと、一転して心配そうな表情に変わった。


「もしかして、本当はまだ体調が悪いとか? わたしに心配をかけないようにしているとか……」

「いや、体調は悪くないんだけど……」


 見知らぬ少女の口から、沙織の口調で、沙織の声が聞こえる。もしかすると、知らないうちに視覚や聴覚に異常をきたしているのではあるまいか――そんなことを、博孝は真剣に思った。

 博孝は瞼を閉じ、指で目をマッサージする。続いて耳を軽く叩き、正常に聞こえていることを確認した。そんな博孝を見ると、少女は心配の色を濃くする。


「ねえ、本当に大丈夫なの? 顔色が悪いわよ?」

「いやいや! 本当に大丈夫だから! ……でも、一つだけ確認したいことがあるんだけど」

「なによ?」


 博孝は眉を寄せ、少女の顔を凝視する。そして、指を震わせながら尋ねた。


「もしかして……いや、もしかしなくても……長谷川沙織さんで間違いないでしょうか?」

「え? 他の誰に見えるの?」


 そう言って少女――普段身に付けていた白いリボンを外し、ポニーテールに近かった髪型を解いた沙織は、不思議そうな顔をした。


「待って……ちょっと待ってくれ……」


 顔に手を当て、博孝は混乱する思考を鎮める。そして手を退けて沙織の顔を見て、再度顔に手を当てた。

 普段は女子にしては鋭すぎた目つきがだいぶ柔らかいものになっており、泣いた跡があるためか、どこか儚げな印象すら感じる。髪は真っ直ぐなロングヘアーで、動くたびに揺れていた。

 普段の沙織が剣呑な雰囲気をまとった女武士と例えるなら、今の沙織はやや目つきが鋭い深窓の令嬢だ。それほどまでに異なる印象を受け、博孝は背中に嫌な汗をかく。


「ちょっと……本当に大丈夫?」


 頭を抱えた博孝を見て、沙織が心配そうな顔で覗きこんでくる。博孝は眉間を何度か叩き、夢や幻でないことを確認してから口を開いた。


「沙織っち……リボンは、どうしたんだ?」


 沙織のトレードマークでもあった白いリボンはどこにいったのか。それを尋ねると、沙織は苦笑を浮かべる。


「あれは、お爺様の役に立とうと躍起になっていたわたしの象徴みたいなものだから、外してみたの。どうかしら? 少しは印象が変わる?」

「印象が変わるというか、別人と話している気分だ……」


 苦笑する沙織に対して、博孝は真顔である。それでも相手が沙織なのだと理解すると、博孝は固まった表情筋を無理矢理動かした。


「そ、それで、えーっと……少しは、気が晴れたか?」


 昨日は看病をさせずに、気分転換をするように言っていた。その効果はどれほどかと、博孝も気になっていたのだ。

 見た目から受ける印象が変わり過ぎて、外部に対する効果があり過ぎだと博孝は思ったが。

 沙織は博孝の質問に頷くと、換気のために開けていた窓から吹き込む風で揺れる黒髪を押さえる。


「昨日一日色々と考えて、泣いて、気が晴れたというか……目が覚めたような気分よ。河原崎の言う通り、お爺様はわたしに対して役に立つ存在になることを望んでいなかった。ううん、何も望んでいなかったの。それがわかって……肩から重みが取れたというか」


 そう言って、沙織は穏やかに微笑む。それを見た博孝は安堵すると同時に、昨日までの沙織と今日の沙織が紐付かず、精神に軽く異常をきたしそうな気分だった。


「そうか……それは良かった。これからは、沙織っちももう少し落ち着いてくれると嬉しいよ」


 まるで憑き物が落ちたかのような沙織に、博孝はそう言った。すると、その言葉を聞いた沙織は僅かに視線を下げる。


「前から思っていたんだけど、その呼び名……」

「ん? ああ、『沙織っち』って呼び方のことか。もしかして、内心ではすごく嫌だったり?」


 元々は、初任務の際に沙織が命令無視をした罰として呼び始めたあだ名だ。博孝や恭介は、任務等の真剣な場合を除いて頻繁に使用している。


「呼ばれ慣れてみると、嫌ではなくなったわ。でも……」


 沙織は視線を下げたままで、呟くように言う。


「その、わたし達は“仲間”なんでしょう? それなら名字やあだ名ではなく、名前で呼び合うべきだと思うわ」


 どこか落ち着かないように、自身の髪をいじりつつそんなことを言う沙織。そんなことを言い出すのは恥ずかしいのか、若干頬が赤く染まっていた。

 沙織の様子を見た博孝は、真顔で真剣に思う。


 ――誰だ、こいつ。


 もしかすると、ES能力の中には他の人間の姿を真似るものがあるのかもしれない。『変化』もしくは『変身』いう名前で、二級特殊技能あたりに存在するのではないか。その力を使って沙織“らしき”人物に化け、博孝の精神を脅かすべくこの場に訪れたのだ――。


「ねぇよ」


 脳裏に浮かんだ冗談に自分でツッコミを入れ、博孝は頭を振った。昨日しっかりと治療してもらったはずだが、体のどこかがおかしいのかもしれない。具体的に言うと、視神経あたりがイカレてるのでは、と思う。きっと、沙織に頭突きを食らった際に異常をきたしたのだ。


「……やばい、本当に頭がおかしくなった感じが……」


 照れたように俯く沙織という、得体の知れない生き物を前にして博孝は戦慄を覚える。

 街中で肩を叩かれて振り向いたら河童が立っていたとか、みらいと手をつないで歩いていたらグレイタイプの宇宙人に摩り替っていたほうが、まだ精神的には衝撃が少ない。

 博孝の精神は混迷を極める。これが何者かの策略ならば、その効果は抜群だった。少なくとも、博孝は自身の正気を疑う程度には。


「……つまり、沙織っちではなく沙織って呼べば良いのか?」


 それでも、博孝は精神を再起動させて話をつなげた。沙織は容態が悪いのかと心配そうな顔に変わっていたが、博孝の言葉を聞いて頷く。


「ええ、仲間なんでしょう? そういう関係って、初めてだわ。わたしは……その、博孝って呼ぶわね」


 そんなことを言いつつ、沙織の顔に浮かぶのは控えめながらも確かな笑顔。その表情が儚い印象を与え、博孝の視神経と脳神経を蹂躙する。


 ――実は、ここは死後の世界ではあるまいか。


 真剣に、切実に、博孝は悩む。実は自分は沙織に斬られて死んでいて、今は死後の世界なのだ。目の前にいるのは長谷川沙織という名の別世界の人間で、ここはパラレルワールドのようなもの。だから、沙織がこんな態度を取るのだ。


「でも……本当に、ごめんなさい。かわ……博孝には、本当に迷惑をかけたわ」


 名字を呼びかけて、それを訂正して名前で呼ぶ沙織。名前で呼ぶことが恥ずかしいのか、初めて博孝を名前で呼んだ里香と同じように頬を赤く染めている。

 もしかすると、里香あたりが沙織の格好に変装して椅子に座っているのではないかと博孝は疑う。顎に手を当て、真剣に首辺りにフェイスマスクの継ぎ目がないかを探る。声もきっと、ボイスチェンジャーを使っているのだろう。

 そうやって博孝が変装を疑っていると、沙織は真剣な表情に変わった。


「今回の件は、全部わたしが悪いもの。わたしにできることだったら、何でもするわ」

「何でも……だと?」


 沙織のものとは思えない、殊勝な発言。本気なのだろうか。それとも実は保健室の扉の外にクラスメート達が待機しており、博孝がどう答えるかをニヤニヤしながら楽しんでいるのではないか。それを主導しているのが砂原だったら、ここが死後の世界だという確信が持てるほどだ。


(いや待て……落ち着け俺。混乱しすぎだ。沙織っち……おっと、沙織が俺に精神攻撃を仕掛けてるんじゃなければ……って、そんなことをする理由がない……え? じゃあこれ、現実? 嘘だろ?)


 博孝はこっそりと自分の太ももをつねり、痛みがあることを確認した。一応は痛みがあるため、夢ではないらしい。そうなると、今度は沙織の発言に立ち向かう必要が出てきた。

 真面目に答えるべきか、それともふざけるべきか博孝は悩む。沙織の表情は真剣だが、だからこそ冗談を言って場の空気を変えたい。今の沙織に下手な願いを言えば、逡巡すらせずに実行しそうだ。

 僅かに悩み、博孝が選択したのは沙織を諌めることだった。


「おいおい、年頃の女の子がそんなことを言うもんじゃないって。ここで俺がオヤジっぽく、『へへへ、だったら胸に触らせてくれやお嬢ちゃん』とか言い出したらどうするんだ?」

「胸? こう?」


 何の躊躇もなく、沙織は博孝の手を取って自身の胸に当てる。まったく警戒していなかった博孝は、自分の手を勝手に取られ、それが沙織の胸に導かれるという事態を前にして動くことができなかった。

 手の平に、布越しながらも温かいやら柔らかいやら、言葉に尽くしがたい感触が伝わる。一部が多少硬く感じるのは、下着をつけているからか。

 ぱちぱちと目を瞬かせ、博孝は目の前の光景を現実のものとして受け入れることができずに思考を停止させる。

 自分は今ここで、一体何をしているのだろう。自分はなんで存在しているのだろう。そもそもここはどこだろう。

 停止した思考が現実を逃避することにリソースを裂き、現状を把握することを放棄。感情すら凍結した博孝を前に、沙織は視線を彷徨わせた。


「なんだか……少し、恥ずかしいわね。訓練の時は気にならなかったのに……」


 以前組手で胸に触れてしまった時のことを言っているのか。僅かに頬を染め、沙織が照れたように言う。つい最近殺し合った間柄だというのに、いつもの凛とした様子を崩して頬を染めた沙織は、どこか可愛らしい雰囲気があった。


「――ぬわあああああああああぁぁぁっ!」


 我に返った博孝は、悲鳴のような叫び声を上げつつ沙織の胸から手を離して窓から脱出。地面に着地すると、勢いを殺すために数回前転する。そして裸足のまま走り出し、教室の窓から室内へとダイブした。


「すいません教官俺ってやっぱり夢を見ているみたいなんで一発殴って現実に引き戻してぶへぇっ!?」


 治療用のシンプルな服装で教室に飛び込み、意味が分からないことを言い出した博孝を砂原が無言で殴り倒した。そして首を掴んで猫のように持ち上げると、未知の生き物を発見した学者のように目を細める。


「授業中に突然飛び込んできたと思ったら、何を言っているんだ? そもそも、お前には療養をしていろと言ったはずだが?」


 窓から突然飛び込んできた博孝に、クラスメート達は声を失っていた。特に、事情を知る恭介や里香などは、何が起きれば博孝がこんな行動を取るのかわからず、混乱を深める。さすがの砂原も、博孝の奇行に怒ることを忘れたらしい。


「す、すいません……有り得ない現実を前にして、思いっきり逃げたくなりました。実は俺は沙織に斬られて死んでいて、今見ているのは死後の夢じゃないかと!」

「意味がわからんが……仕方ない。岡島、このアホを保健室に放り込んで、ベッドに縛り付けてこい」

「は、はいっ」


 里香が指名されたのは、博孝との力関係を考慮してだろう。たしかに、博孝は里香が相手ならば大人しくならざるを得ない。

 教室を出る際に、背後から『頭を打ったという報告はなかったはずだが』という心配そうな呟きが聞こえた。それを聞いた博孝は、とても、心が痛かった。

 博孝は里香に連行されて保健室まで戻る。別れる際に、里香が痛ましげな目で『お大事に……』と言っていたあたりが、博孝の心を抉った。

 深呼吸をしてから、博孝は保健室の扉を開けて中に入る。そして、先ほどと変わらず黒髪を無造作に流した髪型の沙織に迎えられ、博孝は死地に踏み込んだように強張った表情へ変わった。


「突然飛び出して、どこに行ってたのよ?」

「現実かどうかを確かめに行ってきた」


 そう言って、足についた砂を水につけたタオルで落とす博孝。沙織は首を傾げるが、気にしないことにしたのか足元からビニール袋を取り出す。


「ここに来る前に、売店で果物の缶詰を買ってきたのよ」


 そう言いつつ、沙織はビニール袋から缶詰を取り出す。沙織が手に持つのは、白桃やパイナップルなどの果物としては定番の缶詰だ。


「生の果物があれば買ってきたんだけど……食べるかしら?」

「え……あ、うん。食べるけど……」


 博孝が頷くと、沙織は小さく微笑む。そして缶詰に目を向けるが、缶切りで開けるタイプだったためすぐには開きそうになかった。

 ベッドに戻り、自宅に缶切りはあっただろうかと現実を逃避するために思考を飛ばす博孝だが、そんな博孝を余所に、沙織は『構成力』を手に集めて小刀サイズの刃物を発現し――何の躊躇もなく缶詰に突き刺して、蓋をこじ開けた。


「おおぅ……」


 なんともワイルドな開け方だ。博孝が感嘆ともつかぬ声を漏らすと、沙織はこじ開けた蓋をもぎ取る。そして、小さく眉を寄せた。


「しまったわね……フォークか何か、果物を刺すものを持ってくれば良かったわ」

「あ、それじゃあ指でつまんで食べるよ」


 蓋さえ開けば、あとは食べるだけだ。行儀は悪いが、手で食べようと博孝は思う。しかし、沙織は首を横に振った。


「それは行儀が悪いわ」


 言うなり、沙織は手に持った小刀をさらに細くする。そして、缶に入った白桃を突き刺した。


「ほら、これなら食べられるでしょ?」


 持ち上げた白桃を見せて、博孝の口元に運ぶ。構図だけを見れば、『あーん』と言われたようなものだ。沙織の握るものが、フォークなどではなく先端が鋭利に尖った刃物でなければ、博孝も素直に口を開けられたかもしれない。白桃から僅かに突き出した刃先が、非常に恐ろしかった。


「……その小刀を貸してくれれば、自分で食べるけど」

「『武器化』で作ったから、わたしの手から離れると消えてしまうのよ。もっと習熟すれば、手から離れてもある程度の時間は消えないようにできるみたいだけど……」


 沙織の回答に、博孝はアルカイックスマイルを浮かべる。


 ――なんだこれ。


 それが、博孝の心境だった。それでも、沙織は博孝を傷つけた負い目から申し出ているのだろう。それを無碍にすることはできず、博孝は口を開いて白桃を食べる。


「美味しい?」

「オイシイデス」

「もっと食べる?」

「ウン、タベルタベル」


 献身的な沙織を見て、博孝は片言で答えた。思考が現状を理解することを放棄し、博孝は無心に白桃を食べていく。そして缶詰一つを丸々食べると、ベッドに背を預けた。


(こうなったらもう、寝てしまった方が良いのではなかろうか……)


 思考が混乱から回復せず、博孝はそんなことを思った。寝て起きたら、沙織はいつもの沙織に戻っているのではないか。そんな一縷の望みを抱くが、ベッド傍の椅子に座った沙織から向けられる視線が気になって眠れそうにない。


「博孝は……汗をかいてない?」


 博孝がこれからどうするべきかと悩んでいると、沙織がそんなことを言い出した。


「え? いや、シャワーはいつでも浴びれるし、それほど汗はかいてないけど……」


 何故そんなことを聞くのかわからず、博孝は特に何も考えずに答える。すると、沙織は少しばかり残念そうな顔をした。


「そう……汗をかいていたら、拭こうかと思ったんだけど」


 そして、さらっと聞き逃せない発言を炸裂させる。


「拭く? えっと……俺を?」

「他に誰がいるの?」

「俺が服を脱いで?」

「服を脱がないと拭けないでしょう?」

「俺は男なんだけど?」

「女だったら驚くわね」


 不思議そうに首を傾げる沙織。二人の間に沈黙が下り、博孝と沙織は見つめ合い――博孝は、ベッドの上で思わず土下座をした。


「ごめん! 何かわからないけど、本当にごめん! 一晩寝ている間に何が起きたの!? 沙織っていう人間が一気にわからなくなったんだけど!? お願いだからいつもの沙織に戻ってください!」


 一体どんな心境の変化が起こればこうなるのか。博孝は沙織の精神状態を心配しつつ、元の沙織に戻ってくれと懇願する。沙織はそんな博孝を見て、実に不思議そうな顔をした。


「いつものわたしって……いつもこうよ?」

「嘘だっ! 俺は騙されないぞ! はっ! さては部屋に一人でいた時に、失意のあまり壁に頭を打ちつけるような自傷行為を!? それで性格が変わったとか!?」


 それほどまでに、源次郎から言われた言葉が辛かったのか。博孝がそんなことを考えると、沙織は痛ましそうに眉を寄せる。


「博孝……アンタ、疲れてるのよ」

「ちっげーよ! 昨日から今日にかけてぐっすり休んで元気いっぱいだよ! むしろ沙織の方が何かに憑かれてるんだって!」


 かわいそうな生き物を見るような目を向けられ、博孝は全力で否定した。眼前の現実を打ち破ろうと、必死に否定した。

 博孝は肩で息をしつつ、思考を巡らせる。

 昨日別れるまでは、沙織は普通だった。源次郎の言葉にショックを受けていたものの、まだ“いつもの”沙織だった。それが、一晩経ったらまるで別人のように感じられる。


 ――もしや宇宙人にアブダクションされて、人格に影響を与えるチップでも埋め込まれたのではあるまいか。


 非常に失礼なことを考え、博孝は思考を落ち着かせるべく努める。

 沙織は先ほど、“仲間”という関係は初めてだと言っていた。もしかすると、どうやって接すれば良いのかわかっていないのかもしれない。さすがに、友人がゼロだったということはないはずだ。

 やたらと無防備なのも、これまで見えていなかった沙織の一面なのかもしれない。


「はぁ……ちょっと、トイレに行ってくる」


 場の空気を変えようと、博孝はトイレに行く旨を告げてからベッドから降りようとする。それを聞いた沙織は、小さく首を傾げた。


「え? 手伝うわよ?」

「は? 手伝うって……」


 沙織の言葉に疑問を覚え、視線を向ける。

 首を傾げた沙織は、どこから取り出したのか尿瓶を持っていた。

 博孝は逃げ出した。








「それで疲れてるんすか?」

「おお……なんというか、敵性の『ES寄生体』や『ES能力者』と対峙した時の方が精神的に楽だわ」


 時刻は正午を過ぎ、食堂に足を運んだ博孝は恭介と共にそんなことを話していた。体調は完調に近いため、食事も問題なく取れる。そのため、恭介に愚痴を兼ねて話を振ったのだ。


「沙織っちがねぇ……なんつーか、想像できないっすよ」

「顔を合わせればわかる……あと、仲間には名字やあだ名じゃなくて、名前で呼んでほしいってよ」

「え……いや、嘘っすよね? さすがにそんな嘘には騙されないっすよ」


 博孝の話を聞き、鼻で笑い飛ばす恭介。それを見た博孝は、乾いた笑いを零す。


「ハハハ……まあ、すぐにわかるよ」


 虚ろな瞳でそんなことを言う博孝に、恭介は気圧されたように身を引いた。それでも昼食を取るべく空いた六人掛けのテーブルにつき、食事を始めようとする。すると、そこにトレーを持った里香が合流してきた。


「ひ、博孝君……もう体調は大丈夫なの?」

「体調は大丈夫だけど、精神がもたないかも……」


 頭を抱えてそう言うと、里香は意味がわからなかったのか首を傾げ、テーブル席に座った。同じようにトレーを持ったみらいは博孝の隣に座ったが、お子様ランチに突き立てられた旗に興味を惹かれており、会話には参加しようとしない。


「ああ、ここにいたのね」


 そして、トレーを持った沙織の声が聞こえ、博孝は体を震わせる。顔を青ざめさせた博孝を胡乱げに恭介が見たが、沙織はそれに気づかず里香の隣の席へと移動した。


「隣に座って良いかしら――里香」

「う、うん。もちろんだよ沙織ちゃん……え?」


 “名前”を呼ばれて返事をした里香だが、違和感を覚えて動きを止めた。今しがた沙織に言われた言葉を反芻し、音を立てて沙織を見る。


「さ、沙織ちゃん……今、わたしのことを名前で呼んでくれた?」


 聞き間違いではないかと疑う里香。これまで、沙織が里香を名前で呼んだことは一度もない。里香は『沙織ちゃん』と呼んでいたが、沙織は『岡島さん』と他人行儀な呼び方だったのだ。

 そんな里香に対して、沙織ははにかみながら頷く。


「ええ……その、“仲間”だから。名字じゃなくて、名前で呼びたいと思ったのよ。友達っていうのも初めてで。駄目……かしら?」


 不安そうに、それでいてどこか照れたように沙織が尋ねる。それを聞いた里香は、満面の笑顔を浮かべて隣の椅子に座る沙織へ抱き着いた。


「ううんっ。駄目じゃない、嬉しいよ沙織ちゃん!」


 抱き着いてきた里香を抱き留め、里香と同じように嬉しそうな笑顔を浮かべる沙織。その頬は赤く染まっており、名前で呼ぶことを里香が認めてくれたことに対して喜んでいるようだ。

 そんな二人の様子を見ていた恭介の口から、食べていたうどんがずるりと零れ落ちる。目と口を丸の形に開けて、呆然としていた。だが、すぐに我に返ると隣の博孝に小声で話しかける。


「ひ、博孝! 沙織っちがおかしくなってるぞ!? 何したんだテメェ!」

「落ち着けよ。お前は口調がおかしいよ。うどんが落ちたよ。拾えよ」

「……きょーすけ、うどん落ちた」


 襟首を掴んで沙織の異常を訴えかける恭介。博孝は無我の境地でそれを窘める。みらいは床に落ちたうどんが気になったのか、テーブルの下に潜り込もうとしていた。


「こら、みらい。はしたないから、先に食事を済ませなさい」

「……ん」


 テーブルの下に潜り込もうとしたみらいを捕まえて椅子に座らせると、みらいは素直に頷き、お子様ランチの丸く盛られたご飯を崩しにかかる。


「なんでそんなに落ち着いてるっすか!?」

「ハハハ、その驚愕は二時間前に俺が通った道だ」


 鯖の味噌煮定食に箸を伸ばしつつ、博孝は投げやりに答えた。


「さ、沙織ちゃんって、髪を解いても美人なんだね……黒くて真っ直ぐな髪で、羨ましいな。リボンがないから、普段と印象が全然違うよ」

「里香の栗毛だって、綺麗だと思うわよ。里香の可愛らしい雰囲気に合っているもの」

「うぅ……ちょ、ちょっと恥ずかしい……」


 対面で行われる、世にも奇妙な会話。一聴すると普通の会話なのだが、話しているのが沙織というのが恭介に恐怖を与えた。

 沙織は食事そっちのけで、抱き着いていた里香を抱き締め返し、何故か里香の頬に手を添えながら会話している。沙織の頬は赤く染まっており、対する里香も頬が赤い。互いに目が潤んでいるように見えるのは、目の錯覚か。博孝や恭介からすれば、どこか異次元的な空間が展開されていた。

 名前で呼び合う友人同士という関係に、感じ入るものがあるのだろう。鯖の身を箸で解しつつ、博孝は自分を無理矢理納得させた。


「あ、そういえば恭介」


 だが、不意に沙織が恭介に視線を向ける。その視線を受けた恭介は、思わず椅子から転がり落ちた。その際、先ほど口から零れたうどんの上に落下し、ズボンが汚れてしまう。


「ひいぃっ!? こっちに話が飛んできたっす!」

「なにやってるのよ……アンタのことはこれから恭介って呼ぶから。わたしのことは好きに呼んで良いわ」

「あ、あれ? 俺は名前で呼ぶ必要はないっすか?」


 椅子に座り直しながら恭介が尋ねると、沙織は首を傾げる。


「アンタに沙織って呼ばれるのは、なんか落ち着かないのよ……なんでかしら? 沙織っちって呼ばれる方が、よっぽど落ち着くわ」

「恭介のキャラが問題なのかねぇ……」


 目を白黒させる恭介の隣で、博孝が呟く。沙織はそれで恭介に対する話を終えたのか、里香との会話を再開した。同性であるからか、その距離がやけに近く感じられるのはどうしたものかと思うが。

 里香との話を聞く限り、沙織には仲間と呼べる存在どころか友人もいなかったのか、と博孝は考える。先ほどは友人の一人や二人はいるだろうと思った博孝だったが、それは沙織自身が否定している。

 源次郎の役に立つ人間になるよう努力し、周囲との壁を作っていた沙織だ。本人の性格や『武神』の孫という立場もあって、親しくなろうとする人間がいなかったのだろう。


(その反動だとしたら、納得できるような気が……する、か?)


 源次郎の口振りから、両親と不仲だということも博孝は察していた。しかし、不仲といってもその程度まではわからず、沙織の反応は少しばかり激しいように感じてしまう。

 まるで、源次郎以外に初めて親しい人間ができたかのようだ。


「まさか、ね……」


 さすがにそれはないだろうと判断し、博孝は昼食に箸を伸ばす。博孝は今日中に回復するため、明日から沙織は当面自室で謹慎だ。その間に元の沙織に戻るだろう。これが本来の、肩肘を張らない沙織本来の性格である可能性もあるが――。


「それはない。むしろ、違ってくれ」


 もしも沙織がこのままだったら、博孝としても色々とやりにくい。里香などは大喜びしているが、恭介も博孝と同意見だろう。

 それでも、今までのように終始厳しい顔つきをしているよりはマシだと博孝は思う。今は年齢相応に笑みを浮かべており、本当に憑き物が落ちたようだった。


「そういえば、今回の件については里香にも迷惑をかけたわね。わたしにできることがあったら、何でもするから言って」

「え……そ、そんなの気にしなくていいよ。と、友達なんだし……」


 対面の席でそんな会話が行われるのを聞きつつ、博孝は定食についていた味噌汁を飲む。合わせ味噌に白ネギとワカメと油揚げが入っており、出汁と相まってほっとする味わいだ。


「そう? 遠慮しないで良いのよ?」

「えっと……わたしよりも、博孝君に言った方が良いんじゃ……」

「ああ、博孝には言ったわ。そうしたら、わたしの胸に触りたいって言われて」

「――え?」


 現実から逃げるために味噌汁を味わっていると、沙織がメガトン級の爆弾発言を行う。


「ぶほっ!? げほっ! ぇへっ! ふっ、かっ、き、気管に味噌汁がっ!?」


 事実が曲解されたその発言を聞いた博孝は、思わずむせた。危うく、油揚げが気管に入り込むところだった。鼻からワカメが飛び出るかと思った。


「ごほっ、ご、誤解だ! 俺はそんなこと言ってねぇ! 俺が言ったのは、『女の子がそんなこと言って、胸を触らせてくれとか言われたらどうするんだ』ってことで!」

「博孝君……」


 必死で弁解する博孝だが、里香はどこか絶望したような目で博孝を見る。右手が自分の胸に当てられているのは、何か意味があるのだろうか。そんなことを考えつつ、博孝は退路を探す。


「河原崎ぃ……ちょっと、表に出ろ」


 背後から肩を掴まれ、博孝は錆び付いたロボットのような動きで振り返った。そこには怒りの形相を浮かべた中村と、軽蔑の眼差しで見る女子達の姿がある。


「さいてー」

「何があったかは知らないけど、長谷川さんが可哀想……」

「ちがっ……誤解! 誤解なんだ!」


 博孝自身、自分の正気を疑うような出来事だったのだ。だが、周囲のクラスメート達はそれを知らない。


「……おにぃちゃん、おっぱい、さわるの?」


 隣からそんなみらいの声が聞こえ、博孝は後先考えずに逃げ出した。

 背後で、里香がみらいに対して『女の子がそんなことを言ったらだめっ』という言葉が聞こえた。博孝は全力でその意見に同意しつつ、少しでも良いから、みらいではなく沙織に一般常識を教え込んでほしいと思う。そういったものは、みらいだけで手一杯なのだ。


 食堂から全力で逃げ出しながら、博孝は今後の学校生活に大きな不安を抱えるのだった。


シリアスが続いたので、ギャグ回など。


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― 新着の感想 ―
[良い点] なるほど、こういう風にオチがつくのか 物語として破綻しない程度に軸の一貫性もあり、否定による変化をネガティブさや悲惨さを伴わない表現に落とし込む 参考になります [一言] 前話で読むのをや…
[一言] 読み返してたらすっごい伏線見つけた……その予想、そっちじゃないんだよ博孝……
[良い点] 色々と気になるところはありますが序盤なので後々わかると考えた上でとても面白くて話も読みやすいので好きです。 [一言] 世知辛異世界転生記を見つけた時になんで私はこれを読んでなかったのか………
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