第三十二話:白の少女 その3
砂原が閉めた治療室の扉の音が響き、治療室には沈黙が満ちる。里香や恭介はどことなく不安そうな顔をしており、それを見た博孝は里香がビニール袋を持っているのを見て表情を輝かせた。
「おっと、里香ちゃんよ、その手に持ってるのは俺の晩飯?」
「り、里香ちゃん? うぅ……そ、そうだけど……」
いきなりのちゃん付けに里香は赤面し、おずおずとビニール袋を差し出す。博孝はビニール袋を受け取って中身を確かめると、オーバーに喜んで見せた。
「やったぜ! 鮭おにぎりが入ってらぁ! 俺、鮭が好きなんだよね……」
言うなり、パッケージを破いて鮭おにぎりに噛み付く博孝。味わうように咀嚼すると、一緒に入っていたペットボトルのお茶を飲み、満足そうに頷く。ちなみに、博孝は鮭が特別好きだということはない。
「いやぁ、やっぱりおにぎりにはお茶が一番だぁね。さすが里香、わかってる!」
「う、うん……そ、そうかな?」
「こんな状況で食事を始めるその根性に、俺は驚くばかりっすよ……」
突然食事を始めた博孝に呆れるような目を向ける恭介だが、その言葉と視線を受けた博孝は軽く手を振った。
「何言ってんだよ。食える時に食っておかないと、体がもたないっつーの。っと、お嬢さん? どことなくもの欲しそうな顔をしているけど、まだ食べさせてあげられないんだ。ごめんな?」
博孝がおにぎりを食べているのを見て、白い少女は無表情ながらも博孝を見上げ、腹の虫を可愛らしく鳴らしている。その無表情の中に僅かながらも感情の色を見て取った博孝は、申し訳なさそうに謝って少女の頭を軽く撫でた。少女はそんな博孝に対して少しだけ首を傾げるが、何かを言うこともない。
そんな博孝と少女の姿を見て、里香と恭介は少しだけ肩の力を抜いた。博孝はそれをさり気なく確認すると、沙織の様子も確認する。しかし、沙織はいつもと変わらない様子のため問題ないと判断した。
博孝は他のおにぎりを食べつつも状況を勘案し、目を細める。
当初、白い少女は博孝達が参加した任務にて、制圧対象だった施設を護衛するための人員だと思っていた。しかし、その割には外見から判断しても年若く、あまりにも幼い。
ES能力も『防殻』を除けば五級特殊技能の『固形化』を使っていたぐらいで、他に特筆すべき能力は持っていなかった。体捌き自体も、博孝や沙織のように体術に秀でているわけではない。ありあまる力を、そのまま相手にぶつけるようなスタイルだ。
その割に『構成力』の規模は大きく、第一小隊のメンバーと比較しても少女に軍配が上がるだろう。沙織がただの力押しで勝負を仕掛ける少女に押し負けた点から見ても、その破格さが見て取れる。
博孝は少女の外見年齢や言動、少女の操る『構成力』の不安定さ、それに加えて参加していた任務――正確に言えば、正規部隊が行っていたであろう任務を考慮し、考えをまとめていく。
(まさかとは思うけど、人体実験でも行われていたんじゃないだろうな……さすがに、技術的障害を考慮すると、『ES能力者』のクローンを作ったり、新しく生み出したりしていたわけじゃないだろうけど……)
正鵠を射ているとは思わず、博孝は少女が人体実験に遭っていたのではないのかと考える。外見に見合わぬ幼い言動も、その副次作用に因るものではないのか、と。
(だとすると、ちょっとばかし頭にくるな……)
博孝は正義感や義侠心に溢れているというわけではないが、それでも少女の境遇を想像すると人並みに義憤を感じる。少女の身に付けている服がボロボロというのも、それを助長した。
きっと少女は“施設”から逃げ出したのだと判断し、博孝は少しだけ強く少女の頭を撫でる。頭を撫でられた少女は、そんな博孝のことを実に不思議そうに眺めるのだった。
砂原は治療室の扉を閉め、廊下に出て直立不動の体勢を取る。
博孝同様『探知』を発現して接近してくる『構成力』を感じ取っていたが、相手の目的を考えると砂原としても心穏やかではない。
かつては『零戦』に所属し、本領は空中戦闘にある砂原の『探知』できる距離は、博孝よりも遥かに広い。博孝の『探知』は通常で百メートル、『活性化』を併用しても五百メートルが限度だが、砂原が全力で『探知』すれば十キロメートル先の『構成力』も探知できる。
これは、『飛行』を発現して空中戦を行えば、その速度の観点から極力遠距離の時点で相手の『構成力』を『探知』することが求められるからだ。『零戦』に所属していた頃、『飛行』を発現して空を飛ぶ速度は巡航速度で約マッハ1。『構成力』の消費を度外視すれば、最大でマッハ3程度までは加速できる。
『探知』に向く支援型ではないが、『万能型』の砂原はそれほど集中せずとも一キロメートル程度ならば『探知』が可能だ。そして、集団になって接近してくる『構成力』の規模と動きから判断して、“そこそこ”の陸戦部隊だと判断した。少なくとも、並の訓練生では束になっても敵わないだろう。
砂原が担当する生徒達の中では、戦闘に特化している沙織やサポートに特化している博孝が分隊を組んでようやく一人倒せるか、というレベルだ。第一小隊をぶつければ分隊相手ならば防戦できるかもしれないが、間違っても一対一で敵う相手ではない。
そんな相手が中隊規模で接近してくるというのは、砂原としても緊張が体を支配し、覚悟を決めて相対せざるを得ない――などということはなく、どちらかというと事態の面倒さに内心でため息を吐いていた。
「さて、どこの誰が来るのか……」
砂原が背に庇う治療室は、病院の最も奥にある。到達するためには直線に伸びる廊下を通る必要があり、壁を破壊しない限り砂原を無視してたどり着くことはできない。
砂原はその進路を遮るように立っており、一分もせずに足音高く接近してきた一団は、砂原の姿を見て足を止めた。
中隊規模と判断した通り、『構成力』の反応は十二。ただし、その『ES能力者』達を率いるようにして一人の男が先頭に立っている。砂原は先頭の男の階級章を確認すると、踵を合わせて敬礼をした。それを見た男も答礼を返すが、友好的とは言えない雰囲気を纏っている。
その男の後ろでは赤色の軍靴のバッジをつけた『ES能力者』達が並んでいるが、砂原の顔を見て引きつったような、驚愕したような顔をしていた。
「軍曹、そこをどきたまえ」
背後の『ES能力者』達の様子に気づかず、男が言う。それを聞いた砂原は、真面目な顔で答えた。
「職務につき、お断りいたします」
「ほう……上官の命令に逆らうと言うのかね?」
砂原の言葉を聞いた男は、僅かに表情を変えながら言う。男の階級章が示す階級は、大佐。砂原に比べれば遥かに高位の軍人であり、人間でありながら中隊規模の『ES能力者』を指揮する権限が与えられているほどだ。
いくら『ES能力者』が通常の軍隊とは異なるといえど、それでも上官に対する態度ではない。階級が下の者が上官の命令に反抗していては、軍隊として成り立たないのだ。だが、砂原はそんな男――大佐に対して表情を崩さずに言う。
「お言葉ですが大佐殿。小官も、長谷川中将閣下にこの場を死守せよとの命令を受けております。通行の許可については長谷川中将閣下に御照会の上、許可を得られるようお願いいたします」
この一団が到着する前に砂原が連絡していたのは、源次郎に対してだった。その際、白い少女を絶対に渡すなと厳命されており、最悪の場合は一戦してでも守り抜くよう言われている。だが、馬鹿正直に白い少女を守るため、などと口にするわけにもいかない。そこで砂原は白い少女ではなく、ある意味では同等の機密保持がかかっている人物を使うことにしていた。
「この治療室では、小官が担当している訓練生が治療を受けております。その訓練生を守るためにも、教官としてはここを通すわけにはいきませんな」
その物言いに首を傾げたのは、大佐の方だ。
大佐は“上”からの命令を受け、この病院の一室にいる人物を連行するよう命令を受けている。それが訓練生であるとは聞いていないが、上官の命令に逆らってまで庇い立てするのは何故なのかと不思議に思ったのだ。
そんな大佐の疑問に畳み掛けるように、砂原は口を開いた。
「その者については、情報規制が課せられております。大佐殿が情報の開示対象になっていないのならば、なおさら通すわけにはいきません」
これは嘘ではない。訓練生の段階で独自技能を発現している博孝は、情報規制の対象になっている。博孝を守るためであり、不穏分子に情報を渡さないための措置だ。今のところ博孝が独自技能を持つことを知るのは、源次郎率いる日本ES戦闘部隊監督部の上層部や、砂原や大場等の訓練校の面子に限られている。
つまり、砂原がここに立つのは情報規制がかかっている生徒の情報を漏らさないため。大佐の“上”が求める白い少女などこの場におらず、教官として教え子を守るためだと対外的にアピールしているのだ。
だが、それを聞いて引き下がれる大佐ではない。相手に無理だと言われたから引き下がったのでは、ただの子供のお使いにしかならない。故に、大佐は表情を厳しいものにする。
「もう一度だけ言おう。そこをどけ軍曹。どかないと言うのなら、無理にでも押し通るぞ」
“上”からも武力行使は極力避けるように言われているが、こうなっては仕方ない。砂原を無力化して、自身が与えられた任務をこなすだけだ。そう判断した大佐は脅迫を兼ねてそう言い――砂原は、それを聞いて苦笑した。
「押し通る、ですか……それは困りましたな。小官はこの場を死守せよと命令を受けておりますし、なによりも――」
武力行使の宣言。それに対して、砂原は口の端を吊り上げて困ったように――子供に駄々をこねられた父親のような表情を浮かべた。そして、その表情を見た大佐が怪訝そうに眉を寄せた瞬間、砂原の気配が一変する。
「――その程度の中隊で押し通ると言われても、片腹痛いと答えざるを得ません。いやはや、実に困りました」
砂原が持つ『構成力』が本人の感情に反応して、大きく揺れる。まるで相手を威嚇するように、『構成力』が砂原の周囲の空間を揺らがせ、陽炎のように白い光を瞬かせた。
それを見た大佐は砂原の放つ威圧感に押され、一歩後ろに下がる。
「しょ、正気か軍曹! こちらは一個中隊を連れてきているのだぞ!」
大佐が連れてきたのは、陸戦部隊の中でも四級特殊技能を操る精鋭達。『飛行』が使えないため空戦部隊には所属していないが、それでも敵性の『ES能力者』との実戦経験を持つ猛者ばかりだ。
砂原と対峙する大佐も、無能ではない。『ES能力者』という存在がどれほどの戦力を持つかは理解しており、一人で陸戦の一個中隊を相手に戦える者が存在するのは知っている。世界的にも有名な『武神』ならば片手間に相手をできるだろうし、空戦部隊でも腕の立つ者ならば、十分に渡り合えるだけの実力を持つことも知っている。
砂原が空戦軍曹である以上、教官になる前は空戦部隊にいたことは察せられた。バッジを見る限り、二級特殊技能が扱えることも。
そこでふと、大佐は記憶の隅に何かが掠めるのを感じた。空戦部隊出身で、二級特殊技能を操り、それでいて教官職を希望したという一人の男の話を、大佐は聞いたことがあった。
大佐の顔に理解の色が及ぶのを見て、砂原は申し訳なさそうに頭を下げる。
「自己紹介が遅れてしまい、申し訳ございません。訓練校教官、砂原浩二空戦軍曹であります。非才の身には過分な評価ではありますが、『穿孔』とも呼ばれております」
『穿孔』という言葉を聞き、大佐の背後の『ES能力者』達から大きな動揺の声が漏れる。中には砂原を見知っている者もいるのだろう、大佐が『押し通る』と言った時点で絶望的な表情をしている者もいた。
そんな『ES能力者』達の動揺の声を背に受けつつ、大佐も大きな衝撃を受けている。
『穿孔』の砂原と言えば、『零戦』に所属していた頃に空戦一個中隊を単独で撃墜したこともあるのだ。『武神』の後継として将来を嘱望され、『零戦』の隊長職を譲られそうになったものの、それを謝辞して訓練校の教官を希望した変わり種。
一年ほど前にその去就が軍関係者の間で騒がれ、多くの敵性『ES能力者』が密かに胸をなでおろしたとまで言われる『ES能力者』だ。
「……非才の身などと、謙遜も度が過ぎれば嫌味に聞こえるぞ軍曹。それとも、君の中では独自技能を“開発”することなど、凡人でも可能だとでも言いたいのかね?」
そして、砂原が恐れられたのは高い戦闘能力だけが原因ではない。
二十年ほど前に、砂原は当時存在しなかった“とある独自技能”を編み出したのだ。『ES能力者』として生来発現できる独自技能ではなく、努力と修練の末に編み出した独自技能。砂原はその技を以って、『ES世界大戦』で猛威を振るった。その時についたあだ名が『穿孔』であり、その技能を使うことで一個中隊の空戦部隊を単独で屠ることができたのである。
「さて……かつての部下の中には、小官の技を扱える者もおりますからな。独自技能などには程遠く、今では二級特殊技能になっております。そういう意味では、凡人でも可能なのでしょうな」
大佐の声に対して、砂原はどうでも良さそうに答えた。当時は独自技能と分類されたその技能も、時が経てば扱える者が僅かとはいえ増え、二級特殊技能に分類されている。
もっとも、形式上は二級特殊技能に分類されただけで、その技能の威力や冴えは衰えることもないのだが。
砂原と対峙する大佐は、歯噛みをしながら思考を回転させる。建物の中である以上、『飛行』を扱う者が得意な空中戦にはならない。そうなると数が多い方が有利に思えるが、大佐が対峙している相手はその常識が当てはまらない人物だ。
砂原からすれば、狭い場所というのは決して不利にはならない。砂原は一対一だろうと一対多だろうと苦に思わず、むしろ対峙している中隊を殺さずに無力化するのが面倒だと思っている程度だった。
「――あまり苛めてやるな、軍曹」
場が膠着して時間だけが流れていた時、不意に声が響く。その声を聞いた砂原は大佐達の背後へ視線を向けると、すぐさま敬礼をした。
「お早い到着でありますな、閣下」
「なに、“偶然”近くにいたものでね」
足音も立てずに歩み寄ってくるのは、軍服姿の源次郎。その姿を見た大佐とその中隊は心の底から驚愕すると、弾かれたように道を開ける。特に、中隊の『ES能力者』達は尊敬と畏怖、そして僅かな恐怖を浮かべて最敬礼をした。
源次郎はそんな周囲の様子を気にすることもなく砂原の傍まで歩み寄ると、治療室に視線を向ける。
「ここか?」
「はっ」
短いやり取り。源次郎はそれに頷くと、今度は大佐に視線を向けて小さく笑う。
「無理に突破しようと思わなかったのは正解だ。私とて、この距離で接敵すれば彼と戦いたいとは思わんよ」
「は……その……」
笑いかけられ、大佐は言葉が出ない。任務を遂行したいが、砂原だけでなく源次郎まで一緒にまとめて突破できるとは、さすがに思えなかった。
それでも軍人として任務を遂行するべきだと一歩前に踏み出し――体が動かないことに、そこで気付いた。
「っ!?」
源次郎に対峙しようとしたが、体が動くことを拒否している。腕が、足が、体が、その場から動くことを拒否していた。いや、源次郎の前に立つことを拒否していた、とでも言うべきだろう。針金で縛りつけられたように体が動かず、大佐は困惑する。
そんな大佐に対して、源次郎は笑みを浮かべたままでゆっくりと歩み寄っていく。
「大佐、君にも任務があるのだろう。君も軍人だ。それがどんなに困難でも、軍人として遂行するという意思は称賛に値する。だが、君にできることは一つだけだ」
あと一歩、というところで足を止め、源次郎は顔から表情を消す。
「上官の元へと戻り、『失敗しました』と伝える――これだけだ」
脅すでもなく、声を強めるでもなく、淡々と源次郎は言った。それを聞いた大佐は、『武神』と呼ばれる『ES能力者』がどれほどの規格外さを持つのかを僅かながらも理解し、ゆっくりと頷く。それを見た源次郎は口元を笑みの形に変えると、大佐の肩を気軽に叩いた。
「そうか、“協力”に感謝する」
その言葉を切っ掛けとして、大佐の体が自由を取り戻す。大佐はそれに困惑しつつも、中隊を率いて病院を後にするのだった。
「……なんだ、これ……」
『探知』を使って廊下の様子を窺っていた博孝は、額から大量の汗が流れるのにも構わず、小さく呟いた。ないとは思ったが、もしも砂原が危機に陥れば何かしらの行動を取る必要があると警戒していたのである。しかし、その危惧も突然現れた新しい『構成力』の存在によって霧散した。
砂原の『構成力』が大きく膨れ上がって臨戦態勢を取ったのにも驚いたが、新しく登場した『構成力』はその驚きを上回る。
その規模と質――砂原と比較しても数段上の『構成力』を前にして、博孝は冷や汗が出るのを止められなかった。
もしも敵として出会えば、抵抗する暇すらなく殺される。迷いなくそう判断できるほどに、圧倒的な『構成力』だった。
(でも、この『構成力』はどこかで……)
同時に、どこかで感じたことがある『構成力』だと困惑もする。博孝以外の小隊員も廊下から伝わる『構成力』を感じ取っているのだが、『探知』を使えないため、博孝ほどの衝撃は受けていなかった。
里香などは博孝の様子を見て顔色を変えて話しかけるが、博孝には応える余裕がない。もしもこの『構成力』が敵だった場合を考えて、逃げる手段を模索しているからだ。
(出会い頭に一撃入れて……駄目だ、『防殻』を抜けるイメージが湧かない……そもそも『飛行』を使われたら逃げることすら困難だぞ……なら、倒す? それこそ無理だ……)
真剣な顔で大量の汗を流し、その上いつの間にか臨戦態勢を取っている博孝を見て、恭介は表情を歪めた。
「博孝? 博孝!? しっかりするっすよ! いきなりどうしたっすか!?」
大声で話しかけつつ、肩を叩く。すると、博孝はようやく我に返り、汗を拭った。
「あ、ああ……ゴメン。ちょっと、な……」
先程まで飲んでいたペットボトルのお茶を一気に飲み干し、ついでとばかりにペットボトルを叩き潰して圧縮する博孝。その一連の動作で多少の冷静さを取り戻し、『構成力』が砂原と争っていないことから味方だと判断した。
そうやって博孝が冷静さを取り戻すと同時、治療室の扉が開く。治療室には砂原を背後に従えた源次郎が入室し――それを見た沙織が、歓喜の声を上げた。
「お爺様っ!」
普段の様子からは考えられないほどに、表情を輝かせた沙織が源次郎へと駆け寄る。しかし、それを見た源次郎は眉を寄せて表情を厳しいものにした。
「今は職務中だぞ、長谷川訓練生。時と場合を弁えたまえ」
「あっ……も、申し訳……ございません……」
源次郎の言葉に、沙織は飼い主に叱られた子犬のように表情を暗くする。源次郎は無感情にそんな沙織を見ていたが、視線を外して白い少女を視界に収める。
「ふむ……軍曹、任務ご苦労だったな」
砂原に労いの言葉をかけ、源次郎は白い少女へと歩み寄っていく。それを見た博孝は、咄嗟に白い少女を庇うように前に出た。
沙織が『お爺様』と呼んだことから、眼前の人物が『武神』長谷川源次郎だということはわかる。感じ取れた『構成力』は、どこか沙織に似ていた。その点からも間違いはない。
世界で最古の『ES能力者』にして、その実力が世界を見渡しても最強と呼ばれるほどだということも、直接相対した今では肌で感じ取れた。博孝が白い少女を庇うように立ったことで視線を向けられるが、目を合わせるだけで一苦労なほどだ。
(“人間”だった頃に、飢えたライオンが大量にいる檻の中に生肉を大量にぶら下げて入ればこれぐらい怖いのかねぇ……)
他人事のように心中で呟く博孝。敵意を向けられているわけでもないが、『構成力』の規模が違い過ぎて恐ろしい。
――それでも、博孝は精神力を振り絞り、口の端を吊り上げて笑ってみせる。
「職務中だと仰いましたが、俺達は一応“学生”です。学生の長谷川が、あなたを『お爺様』と呼ぶことは問題ないんじゃないですか――中将閣下?」
挨拶代わりにと、軽いジャブ。それを聞いた源次郎は片眉を上げると、砂原に問いかける。
「この子は?」
「はっ……小官が教導を担当している生徒で、河原崎博孝です。第一小隊の小隊長を任せています」
砂原がそう言うと、源次郎は『ほう』と興味の込められた呟きを漏らす。里香や恭介などは、博孝が源次郎の前に立ったことで顔を青くしている。
「なるほど、この子が例の独自技能保有者か」
何かに納得したように源次郎が頷く。そして、どこか楽しそうに口を開いた。
「それで河原崎訓練生……いや、君の言葉を借りれば、河原崎君と呼ぶべきか。何故私の前に立った?」
「何故、と聞かれましても。むしろ、何故あなたがここにいるのかが疑問なんですが……まあ、見ての通り、この子を庇うためですが?」
それ以外に何かありますか、と肩を竦める。その様子を見た源次郎は、口元に笑みを浮かべた。
「なるほど、その少女を庇うため、か」
「ええ。俺は『ES能力者』の訓練生ですが、身分的には学生ですからね。“迷子”の女の子を庇っても、不思議じゃないでしょう?」
「ということは、私が少女を害すると思っているのかね?」
「いえいえまさか。友達のお爺さんがそんなことをするなんて、思っていませんよ。でも、俺はあなたのことを教科書やテレビ、伝聞でしか知りませんからね。万が一を考えると、庇いたくもなります」
そう言っている間にも、白い少女は庇った博孝の背後で不思議そうな顔をしている。推察した白い少女の立場を考えてみれば、源次郎が何故この場に訪れたのかが不透明過ぎた。
白い少女を実験材料や観察動物扱いにでもするのではないか、と博孝は思っていたのである。
そして源次郎もまた、博孝がそういった考えを持っていることに気付いていた。同時に、そういった事情を推察した上で源次郎の前に立ち、白い少女を庇えるだけの胆力を持つことに感心する。実力の方は白い少女を庇うに足るものを持っていないが、それでもその姿勢は好ましかった。
「軍曹、君のところには面白い生徒がいるようだな。いや、さすがは君の生徒だと言うべきかな?」
砂原へと振り返り、源次郎は言葉通り面白そうに言う。
「恐縮であります」
源次郎と長い付き合いである砂原は、源次郎が抱いている感情を読んだ上で頭を下げた。
本来ならば博孝を止めるべきだが、源次郎は後進の者が“この手”の行動を取ったことで怒りを覚える性質ではない。恐怖を押し隠し、訓練生でありながらも源次郎相手に対等に話そうとする博孝は、源次郎にとっては大変好ましい性格だった。
もちろん、これが正規の任務中などの場合だったらこうはいかない。即座に“矯正”の対象になっただろう。それでも博孝は“学生”という身分を盾にして、白い少女の身を慮ってその背に庇っている。
砂原からは簡単な報告を受けたため、博孝が気を失うまで『構成力』を使い、『活性化』を発現させて白い少女を助けたことも知っていた。訓練生に関する報告は全て目を通しているため、博孝が訓練校に入校してからの話も知っている。
『活性化』が発現するまでは落ちこぼれのようだったが、今となっては訓練生としては優秀な部類だ。『ES能力者』として肉体的にも技術的にもまだまだ未熟だが、見も知らぬ白い少女を庇って自身の前に立つその精神力だけは評価できる、と源次郎は思った。
源次郎は博孝の傍まで歩み寄ると、笑みを浮かべながらその両肩に手を置く。
「安心したまえ。私の立場はむしろ逆のものだ。私は、その子を保護することが目的だからな」
「……保護? それは、研究所に隔離して実験動物にするって意味じゃないですよね?」
間違いなく失礼な発言だが、相手の言葉を鵜呑みにしないという意識の表れである。源次郎は笑みを苦笑に変えると、肩を竦めた。
「言葉通りの意味だ。この子が一人の“人間”として生活できるよう、手配もしている。無論、人間として生活できるかどうかの検査は必要だろうがね」
その言葉と源次郎の目を見て、博孝は嘘ではないと判断する。体から力を抜くと、大きく息を吐いた。
「なんだ……てか、俺がしたことって、ただの邪魔じゃないですか? うっわ! はずかしっ!?」
これでは、白い少女を救いに来た源次郎に対して無駄に突っかかっただけである。そう思った博孝は、場の空気を変えるように頭を抱えた。それを見た白い少女は不思議そうな顔で博孝の頭に手を伸ばす。
「……いたい、の?」
「痛いっていうか恥ずかしいっていうか……ああうん、“イタい”だから合ってるか」
ぬおおおお、と博孝が呻き声をあげると、それを聞いた源次郎は大きく笑った。
「はっはっは、軍曹、なんとも元気が良い子じゃないか。独自技能を持つことといい、私を相手に文句を言える胆力といい、実に鍛えがいがありそうだ」
発言の最後の部分を聞き、博孝は顔を引きつらせる。『あ、この人が教官の上官だったことに納得』などと思いつつ、一歩後ろに下がった。しかし、源次郎は一歩後ろに下がった博孝を見て、追撃に入る。
「どうだね、河原崎君。もしも『飛行』を発現することができたら、『零戦』に来てみないか? あそこには私の直轄部隊だ。腕の立つ者ばかりだし、独自技能保持者を保護するという点でも有効だ。君自身の成長にもつながるだろう」
独自技能を保持している博孝を保護するならば、日本の『ES能力者』の中でも最精鋭である『零戦』に放り込むのも手だ。最初のうちは苦労するだろうが、慣れた頃には自力で様々な困難を跳ね除けるだけの実力を得ているだろう。
「あ、いやぁ……お誘いは大変ありがたいですし、『飛行』を使って空を飛びたいのは山々なんですが、そんなバイオレンスそうな日々はちょっと……」
源次郎の言葉を聞いた博孝は、愛想笑いを浮かべつつ逃げの一手を打つ。
かつて源次郎が隊長を務め、砂原も中隊長を務めた『零戦』である。沙織を上回るバトルマニアが跋扈し、常日頃から肉体言語で語り合う空恐ろしい部隊像が博孝の脳内で描かれていた。
「そうか……まあ、私の一存で配属を決定することもできるんだがね」
「俺の意思はどこにいったんですか!?」
サラリと恐ろしいことを口走る源次郎に、博孝は抗議の声を上げる。源次郎はそんな博孝の様子を楽しそうに眺めていたが、すぐに表情を引き締めた。
「この子の『構成力』が安定せず、暴走する可能性を考えると、“治療”に当たることができる者を傍に置くしかない。そこでだ、河原崎訓練生。君に特別任務を与える」
博孝が学生だと抗議したにも関わらず、訓練生と呼ぶ源次郎。そのことに重大さを感じた博孝は、さすがに表情を引き締めた。
「この子が安定して『構成力』を扱えるようになるまで、傍で支えたまえ。これは今のところ、君にしかできない」
『活性化』を使える博孝しか、白い少女が『構成力』の暴走を起こした際に対処できない。その点では、人材の選択の余地がなかったのだろう。源次郎は真摯な瞳で博孝を見る。
「できるかね?」
ここで『できない』と言えばどうなるか。それを考えた博孝は、またもや問題ごとに巻き込まれたことを実感しつつも、しっかりと頷く。
「できるかと聞かれれば――“やります”。残念ながら、ここで見捨てられるような性根はしてないもので」
その答えを聞いた源次郎は、満足そうに笑った。
「この病院でその少女の検査が完了した後は、訓練校でも検査が行えるよう手配をしておく。体調の変化などがあれば、検査を受けさせるよう注意してほしい」
「了解です。俺はこの子が『構成力』の暴走を起こさないよう注意しつつ、体調にも気を遣えば良いんですね?」
「その通りだ。だが、それほど難しく考えずとも良い。そうだな、娘……いや、君ぐらいの歳ならば、“妹”に接するように思ってくれれば問題ない。“妹”の体調や動向に注意する、とでも思ってくれたまえ」
「妹って……俺、一人っ子なんですが……」
気軽に捉えすぎだろうと思った博孝だが、そんな博孝に対して源次郎は笑ってみせる。
「それなら、妹ができたと思って喜ぶと良い。なんなら、この子の戸籍は君の妹にしておくぞ?」
ニヤリと、博孝にとっては冗談だと思いたい冗談を飛ばす源次郎。そして、源次郎の言葉から白い少女の立場を理解して、博孝は顔面を青ざめさせる。
(おいおい……戸籍ってことは、この子ってまさか……)
顔を青くしたままで砂原を見てみれば、小さく頷くだけだ。そして、口元に指を当てる。
『他言無用ってことですか……でも、一介の訓練生に知らせる情報じゃないですよ!?』
その動作を見た博孝は、思わず『通話』で抗議していた。
『どの道、この子を救うにはお前の協力が必要だ。そうなれば、自ずと気付く機会もあるだろう。あとで騒がれるよりも、先に伝えておいた方が面倒も少ない。それと、この情報については他言無用だ。良いな?』
下手をせずとも、博孝が独自技能に目覚めたことよりも重大な機密事項である。博孝同様、いずれは周囲に漏れる情報だろう。しかし、事態の重大さを深く理解した博孝は、思わず額に手を当てて天井を仰ぎ見てしまった。
日本の『ES能力者』のトップである源次郎に言われたのならば、やるしかない。博孝が頷かなければ、白い少女は『構成力』を暴走させて自滅する可能性が高いのだ。そして、白い少女を見捨てようと思えない博孝には答えが一つしかなかった。
『……頑張ります』
ひどく疲れたような声。その声に対して、砂原は苦笑の混じった声を発する。
『まあ、訓練校の防衛能力は並の軍事施設よりも高い。俺も有事の際の護衛を務めることになる。危険はほとんどないと言っても良いだろう。特別任務ということで手当てもつくぞ?』
『苦労に見合うだけの手当てがつけば良いんですがねぇ……』
今度は肩を落とし、今後の生活に対して憂いの感情を覚える博孝。
そんな博孝を沙織が険しい目つきで睨んでいたことには、博孝自身、気付くことができなかった。